過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)

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 ┃ 浜田省吾 #23 河口湖レコーディング 1984 ┃
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 2016(平成28)年06月10日(金)
 1984(昭和59)年の初夏、浜田省吾のニューアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』のレコーディングが始まりました。今回はその話を。
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 1984(昭和59)年6月23日(土)、ぼく達は河口湖でのレコーディングに向けて、それぞれ車で東京を出発した。その頃ぼくは環七沿いのマンションを出て世田谷区経堂に引っ越していた。ルームシェアをしていたビビノ音響のMくんが、次の浜田省吾さんのツアーのPAを担当することになって、西本明くんの時と同じくまたもぼくは、旅に出ても家に帰っても同居人と一緒の生活が始まろうとしていた。しかしもう同じ轍は踏みたくなかったので、ぼくはMくんが浜田さんのツアーに出ることが決まった時から密かに部屋を物色していた(笑)そして横浜スタジアムでのコンサートが終了してしばらくたったある日、ぼくは一人で経堂に引っ越した。河口湖に出発する日、ぼくの車に同乗したのはベースの江澤くんと、浜田省吾のマネージャー。ぼく達三人は経堂を出発するとすぐに甲州街道に出て、そこから中央高速で河口湖に向かった。小雨が降りしきる中、約二時間程で一口坂・河口湖スタジオに到着した。この日は梅雨の真っ最中で河口湖周辺もどんよりとした雲に覆われていた。スタジオに着くと間もなく、機材のセッティングに取りかかった。今日から二日間で四曲のリズムセクションのレコーディングを行う予定になっていた。この日河口湖スタジオに集結したメンバーは以下の通り。
 ドラムス:滝本季延 (としのぶ)
 ベース:江澤宏明
 ギター:町支寛二
 キーボード:板倉雅一
 サックス:古村敏比古
 The Fuseからの残留組+ドラムの滝本くんという編成だった。滝本くんは以前、浜田さんのバンドメンバーだったドラマーで、当時のバンドは滝本くんと鈴木俊二くんとのツインドラム編成だった。滝本くんは、ぼくやベースの江澤くんとも旧知の間柄で、ぼくは彼の素晴らしさを知っていたので、滝本くんと一緒にレコーディング出来ることがとても楽しみだった。各楽器のサウンドチェックを終えると、早速レコーディングが始まった。広いスタジオ内は音のかぶりを防ぐために、各楽器ごとにパーテーションで仕切られていた。ドラムとアコースティックピアノは、ちょっとした個室のようなスペースにセットされていた。最初に録音したのは
「Money」。アレンジはギターの町支さん。この時レコーディングしたアレンジは、後に正式バージョンとして発表されたものとは全く別のバージョンで、後にアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』に収録されたバージョンよりもかなりテンポも速くて、もっとパンクっぽい軽めのサウンドだった。あまりの曲のテンポの速さに、演奏しながらみんな手がつったほどだった。次に録音したのは
「The Pain」という仮タイトルの付いたバラード。アレンジはぼく。この曲も当初はレコードになったものとはかなり違うアレンジだった。もう少しブラコン(ブラック・コンテンポラリー)っぽいアレンジで、ちょっと洋楽っぽいと言うか完成版よりはあっさりとした感じのサウンドだった。二曲のリズムを録り終える頃、ちょうど夕食の時間になった。河口湖スタジオは賄い付きで、朝夕と美味しい食事が用意されていた。ぼく達はレコーディング作業が一段落すると、スタジオに併設された建物の二階にある広いリビングに集まって食事をした。夜はここでお酒を飲みながらその日に録った音を聴いた。スタジオの二階にあるルーフバルコニーからは、雲の隙間から時折顔をのぞかせる美しい富士山を眺める事が出来た。食事を終えるとまだダビング作業が残っていた。ダビング作業は主にぼくと町支さんの担当で、リズムを録り終えた滝本くんと江澤くんはすでにこの日の仕事を終えて寛いでいた。ベーシックなキーボードとギターのダビングが終わるとすでに深夜だった。スタジオには宿泊施設も付いていて、さながらシンプルなリゾートホテルと言った趣だった。明けて
‡1984(昭和59)年6月24日(日)は残りの二曲のリズム録りから始まった。一曲目は
「DANCE」。12インチシングルバージョンとは違うアレンジで、中心になってアレンジを担当したのは浜田さん。こちらのバージョンはスティーリー・ダンのような、ちょっとアーバンな雰囲気の漂うアレンジだった。ぼくはスタジオに常備されていたフェンダー・ローズ・スーツケースピアノを弾いた。河口湖スタジオのローズはとても良い音がして、ぼくは弾いていてとても気持ちが良かった。ローズピアノは個体差が激しくて、モノによっては全く良い音がしない場合もある。ここのスタジオのローズは当たりだった。もう一曲録音したのは後に
「Silence」と題されるナンバー。この曲は古村くんアレンジ。先日のぼくの家でのプリプロで骨格が出来上がっていた曲。独特のベースラインに特徴のある、古村くんのアイデアが光るカッコいいアレンジだった。このベースラインを演奏した江澤くんは大変そうだったが、二つの異なるフレーズをダビングして重ねることで、あのカッコいいベースラインが完成した。「Silence」のドラムにはリズムマシンを使用した。ドラムの滝本くんが持って来たアメリカのメーカー、シーケンシャル・サーキット社の「ドラムトラックス」という、まだ発売されたばかりのリズムマシンを使用した。このドラムマシンは当時としては結構ハイスペックで、8ビットPCM音源 6パラアウトという仕様だった。今では笑ってしまうぐらい貧弱なスペックだが当時はこれが先端だった。この日も夕食後に少しダビング作業を行ってから、ぼく達は河口湖スタジオを後にした。河口湖から戻って何日から経ったある日、浜田さんから電話がかかって来た。
「この間、河口湖でレコーディングしたオケだけど一旦ボツにするから。」
「えぇ??!?ボツですか?」「そう、あれから何度も聴いたんだけど何か物足んないんだよね。特にMoneyとThe Painの二曲。」どうも浜田さんは町支さんがアレンジした曲と、ぼくがアレンジしたバラードのオケが今一つしっくり来ないらしい。「せっかくレコーディングしたのに悪いんだけど、もう一度アレンジを練り直してくれないかなぁ。」「そうですか、分かりました。もう一度考えてみます。」そうしてぼくと町支さんは再びアレンジをし直すこととなったのである。以下続く。
 写真◆ボツになった♪Money♪と♪Pain♪が収録されたテープ。
 ㊤↑写真◆『浜田省吾 84.6.23.24. 河口湖スタジオ ベーシックトラック 4曲』
 写真◆スタジオに併設されたレジデンスエリア。二階部分がリビングで一階が宿泊施設。    
 写真◆♪Silence♪で使用したドラムトラックス(Wikipediaより) 
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/06/23-1984.html
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 ┃ 浜田省吾 #24『DOWN BY THE MAINSTREET』 ┃
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‡2016(平成28)年06月24日(金)
『DOWN BY THE MAINSTREET』レコーディング話の続きです。
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 浜田省吾のアルバム『DOWN BY THE MAINSTREET』のレコーディングは、
 1984(昭和59)年8月17日(金)からのツアーが始まってもまだ続いていた。バックバンドは新たなメンバーが加入して、雰囲気がガラッと変わった。それまでのバンドっぽさは無くなり、セッションミュージシャンの集合体のような雰囲気になった。ぼく達はツアーのリハーサルと並行しながらレコーディングを行っていた。レコーディングスタジオのロビーのテレビでは、連日ロサンゼルスオリンピックの模様が映し出されていた。河口湖でボツとなったテイクは、リアレンジされて信濃町のソニースタジオで新たに録音し直した。町支さんアレンジの
「Money」はギターのカッコいいリフから始まる、重心の低いハードなサウンドに変貌した。ぼくアレンジの
「The Pain」も、ほぼ全面リニューアルされた。イントロは「F#m add9(エフシャープ・マイナー・アド・ナインス)」と言う、物悲しい響きのするコードから始まるアレンジにした。ぼくはこの一小節目のコードを決めた時点で、遥か彼方にではあったがアレンジの全体像が見えた。楽曲のアレンジをする際、毎回そうなのだがぼくはイントロが完成すると、八割方アレンジが出来た気分になる。間奏はクロマティック・ハープ(ハーモニカ)を八木のぶおさんに吹いてもらった。 八木さんは日本で数少ないハープ奏者で、勿論その腕前は超一流。素晴らしいクロマティック・ハープの演奏にぼくは感激していた。美しいアコースティック・ギターを弾いているのは笛吹利明さん。数々のレコーディングに参加している、日本を代表するアコースティック・ギター奏者の一人である。曲のタイトルは「The Pain」から最終的に「Pain」に変更になった。夏から始まったコンサートツアーが始まっても、まだレコーディングは続いていた。 旅から帰って家には帰らずに、そのままレコーディングスタジオへ直行することも珍しくはなかった。ぼくはツアーにポータブルキーボードを持参して、移動の電車やバスの中でもキーボードを出してアレンジを考えた。
『Daddy'sTown』のアレンジはぼく主導でアレンジして、ベースの江澤くんにアシストしてもらった。東北を廻るツアーで山形県酒田から弘前への移動日に、弘前のホテルに籠りきりになって『Daddy'sTown』のスコアを書いた。アイデアに詰まると江澤くんからアドバイスを受けた。個人的には間奏で転調する部分が気に入っている。この曲で素晴らしく正確でタイトなドラムを叩いているのは島村英二さん。元ラストショウのメンバーで、吉田拓郎や松任谷由実、井上陽水等々数えきれないほどのレコーディングやライブに参加している名ドラマー。島村さんのドラムはリズムがクリック(レコーディングの際にテンポが変わらないようにガイドとして鳴らす音。)のタイミングと合いすぎていて、クリックが聴こえなくなるほど正確で、レコーディング中にとても驚いた記憶がある。イントロのドラムのフィルインのフレーズが恐ろしいほどカッコいい。
『Daddy'sTown』は曲の冒頭にピアノとサックスのインストゥルメンタルが入っているが、あれは浜田さんからのリスエストで、イントロの前に導入部分的なものが欲しいとの要望に応えたもの。レコーディングスタジオであまり考えずにほぼ即興で弾いた。ピアノのテイクがOKになると、今度は古村くんがやはり即興でサックスを吹いた。
『Dance』と『Silence』は河口湖でレコーディングしたオケのベーシックな部分は採用になって、ダビングものをやり直すことで決着した。残りの曲はすべて都内のスタジオでレコーディングした。
『EDGE OF THE KNIFE』は江澤くんのアレンジ。新加入のドラマー野口さんが味わい深いドラムを叩いている。野口さんは元シュガー・ベイブで、元センチメンタル・シティ・ロマンスのドラマーだった方。ぼくはシュガー・ベイブもセンチメンタル・シティ・ロマンスも大好きで、レコードもよく聴いていたので、野口さんと一緒にやれることはとても光栄なことだった。
『MIRROR』は町支さんアレンジ。町支さんによる一人多重録音のコーラスが格好良い。
『A THOUSAND NIGHTS』はぼくと江澤くんの共同アレンジ。この曲も最初のバージョンは一度レコーディングしたのだがボツになった。ボツになったバージョンはオールディーズっぽいサウンドで、もっとシンプルなビートのアレンジだった。浜田さんからの要望もあって、リアレンジ後はモータウンビートのリズムに落ち着いた。
『HELLO ROCK&ROLL CITY』は古村くんアレンジ。ホーンセクションが活躍するご機嫌なR&Bナンバーになった。ぼくはピアノとハモンドB3オルガンを弾いた。ハモンドB3はいつ弾いてもゴキゲンな音がするが、とにかくバカでかくて凄く重いのと、必ずレスリースピーカーとのセットで鳴らすので、個人で所有するのは保管場所、重さ、価格(超高い)の問題があってとても難しい。なので、レコーディングの時はレンタルしていた(レンタル代もバカ高い)
『MAINSTREET』は浜田さんアレンジ。スタジオで浜田さんと「イントロにこんな音はどう?とか、サビのバックにカウンターメロディを入れよう!」とか言いながらキーボードのダビングを行った。なんだかワクワクしながら演奏した記憶がある。レコーディングは河口湖スタジオ、信濃町ソニースタジオ、六本木ソニースタジオ、セディックスタジオで行われた。この四つのスタジオは残念ながら今はすべて無い。セディックスタジオは六本木の「WAVE」という商業施設のビルの6階か7階にあったスタジオで、レコーディングがあるたびに下の階のレコードショップ「WAVE」でよく輸入盤のLPを買った。何年か後にWAVEも取り壊しになって、今は跡地に六本木ヒルズが建っている。『DOWN BY THE MAINSTREET』のジャケット撮影は世田谷で行われた。バンドメンバーで撮影の日に来れる人は、ジーンズにスニーカーかブーツを履いて集合とのことだったが、残念ながらぼくはスケジュールが合わずに行けなかった。ジャケットに描かれている足は浜田さんと、もう一人は江澤くんか町支さんのどちらかではないかと思う。このレコーディングが行われたあたりから、レコーディングがアナログ録音からデジタル録音に変わった。初めてスタジオで見るソニーのデジタルテープレコーダーPCM-3324は結構大きくて、その存在感も含めて初めて見るデジタルレコーダーにみんな興味津々だった。PCM-3324は24チャンネル録音が可能だった。それまでのアナログレコーダーも24チャンネルでの録音が可能だったが、デジタルレコーダーになってテープの巻き戻しや早送りが飛躍的に早くなった。当初はPCM-3324のノイズの無いクリアな音質にみんな驚いた。しかしまだこの頃のデジタル録音技術はスタートしたばかりだった。確かに音質は素晴らしくクリアになったが、音の奥行き感や厚み等がアナログ録音に比べるとどこか違って聴こえた。そのあたりの問題は後継機であるPCM-3348(48チャンネルレコーダ)の登場で徐々に改良されては行くが、デジタル録音された音質の特徴なのではないかと個人的には思う。現在はデジタル録音技術も飛躍的に向上して、超ハイクオリティなレコーディングが可能になったが、ぼくは今でもアナログ録音された時代の音にも魅力を感じている。それでもぼくにとって初のデジタルレコーディングは、とてもエキサイティングな出来事だった。最終ミックスを手がけたのは日本を代表するトップエンジニアの吉田保さん。大滝詠一や山下達郎の多くの作品のミックスを手がけたことでも有名。『DOWN BY THE MAINSTREET』は、
1984(昭和59)年10月21日(日)に発売されるとチャートの二位を記録した。まるでハリウッドの良質な青春映画を観ているかのような、ストーリー性溢れるこのアルバムは、ぼくにとっても大切な作品である。足の人物は右が浜田さん、左はおそらく江澤くんor町支さん? 
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 ┃ 浜田省吾 #16 怪奇現象? ┃
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 2016(平成28)年04月24日(日)
 浜田省吾1982年の春のツアーで起きたちょっとコワい話です。
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 1982(昭和57)年6月15日(火) 松山市民会館を皮切りに、浜田省吾の四国?中国?山陰?大阪と廻る長い旅がスタートした。この時点で82年春のツアーは約50本のコンサートを消化して、残りはあと3分の1ぐらいの本数になっていた。松山から始まったツアーのスケジュールは以下の通り。
 6/15(火) 松山市民会館
 6/16(水) 高知県民文化会館
 6/17(木) 徳島文化センター
 6/19(土) 倉敷市民会館
 6/20(日) 広島郵便貯金会館
 6/22(火) 三原市文化会館
 6/23(水) 山口市民会館
‡6/24(木) 岩国市民会館
 6/26(土) 島根県民会館
 6/27(日) 鳥取市民会館
 6/29(火) 島根県民会館
 7/01(木) 大阪フェスティバルホール  17泊18日の長い旅だった。
 1982(昭和57)年6月15日(火) 初日の松山公演を終え、この日は疲れていたこともあって、ホテルのレストランで食事を済ませたぼく達は早々に各自の部屋に戻った。ぼくも部屋に戻って、シャワーを浴びるために着替えをバッグから取り出そうと思って腰を屈めた時、どこからかヘンな音がすることに気がついた。何かパチン!という手を叩いたときのような音がどこからか聞こえてくる。部屋のドアを閉め忘れたため、廊下から聞こえてくる音なのかな?と思ってドアを確認すると、部屋のドアは確かに閉まっている。気のせいかと思い、再び鞄から着替えを出そうとすると、またパチン!という音が。あれっ?ヘンだな?と思い、今度はバスルームの中を確認してみる。当然のごとくそこには誰もいない。部屋の窓が開いているのかと思って窓も確認してみる。キッチリ閉まっている。うーん、何だろ?疲れているせいで幻聴が聞こえたのかと思い、あまり気にしないことにした。ひとまずシャワーを浴びるのは後回しにして、テレビをつけようと壁に近づいた時にまたもパチン!という音が今度はハッキリと聞こえた。
「ん??何か壁のあたりから聞こえたぞ。」ぼくは独り言を言いながら、壁に耳をあててみた。
「パチンっ!!」壁の中からすごく大きな音が聞こえた。実際は耳を壁にあてていたため、すごく大きく聞こえたような気がしただけだった。音は聞こえたり止んだり、不規則に繰り返されていた。ぼくは何だか気味が悪くなって、町支さんと江澤くんに部屋に来てもらった。
「ねぇ、さっきかヘンな音が聞こえて気味が悪いんだけど、聞いてくんない?」ぼくは町支さんに言った。
「またぁ、そんなこと言って脅かそうとしてるんでしょ。」町支さんは半分以上信じていない様子だった。
「イタさぁ、疲れてて耳鳴りでもしてるんじゃないの?」江澤くんも信じていない様子。
「とにかく音がするんだ。聞いてみてよ」ぼくは二人に言った。しばらくするとまた例の「パチン!」が聞こえて来た。
「ん?何か音がした。」江澤くんが不審そうな顔をした。再び「パチン!」「えっ?何か聞こえたねぇ」町支さんも不思議そうな顔をしている。
「でしょでしょ!確かに聞こえたよね!なんか壁の中から聞こえて来るんだけど。」すると今度は連続で「パチン!」が聞こえて来た。さすがにみんなこれはヘンだ、と思い始めていた。すると町支さんが一言
「これって、ひょっとしたらラップ現象かも。」
「エェ~~!!ラップ現象ぉ??マジですか、マヂですかぁぁぁ!!」ぼくは急に言い知れぬ恐怖を感じて叫んだ。
「うん、そうかもしれない。オレもなんかの本で読んだことあるわ。」追い打ちを掛けるように江澤くんが言った。
「やめてよー!オレ怖くて眠れないよー!」ぼくはホントに怖くてたまらなくなって来た。臆病なことにかけては世界でも屈指の存在だと自負しているぼくは、もう一刻も早くこの部屋から逃げ出したい衝動にかられていた。そんなことを言ってる間にも例の音は続いている。町支さんと江澤くんは「フロントに電話して確認してもらったほうが良いかもよ。オレ風呂入るから。じゃあねー。」とかなんとか言って、さっさと自分の部屋に帰ってしまった。再び誰もいなくなった部屋で例の音は続いている。ぼくは速攻でフロントに電話した。
「あのぅ、部屋からヘンな音がですね、聞こえてですねぇ、聞こえるとですたい。」ぼくはコワさのあまり、何故かおかしな九州弁になってしまった。フロントの人に確認してもらうと、確かに音は聞こえるけれど別に不審な音ではないのでは?とのなんだかやる気の無さ全開の返事。でももうこの部屋に居るのは絶対にイヤだったぼくは、部屋を変えてもらうことにした。ところが生憎この日はシングルの部屋が満室で、空いている部屋は四人部屋のファミリータイプの部屋しか用意出来ないとのことだった。ファミリータイプだろうがファミリーレストランだろうが、パートリッジ・ファミリーだろうが、もう何でもいいから部屋変えて!無理矢理お願いして、どうにかぼくは四人部屋に移った。やっとこさ恐怖から解放されたぼくは、ファミリータイプの部屋に入ると改めて部屋の中を見渡した。うなぎの寝床のような横長の部屋にベッドが四つ置かれていた。
「ひ、広い…。」ここで一人で寝るの?寝るの??寝るのぉぉぉ???…絶対に無理!臆病なぼくは今度は別の恐怖に襲われた。四つ並んだベッドが棺桶のように見えて来て、もう居ても経ってもいられなくなったぼくは、江澤くんの部屋に電話をかけた。
「オメツ(江澤くんのあだ名)さぁ、悪いんだけど今夜オレの部屋に泊まってくれないかなぁ?」おそるおそるぼくは江澤くんに言った。
「え~~!なんで?イヤだよオレ。だいいち面倒くさいし。」江澤くんは本当に嫌そうに言った。
「部屋変えてもらったのは良いんだけど、広すぎてコワくて眠れそうもないのよ。お願い!今夜だけオレの部屋に泊まって!」まるで女の子を口説くかのような口調で、ぼくは江澤くんに懇願した。こうなったら何か何でも口説き落としてみせるぞー!…相手は男であった(笑)渋る江澤くんをどうにか説得して、この夜は四人部屋に泊まってもらうことにした。急に安心したぼくはコンサートの疲れもあって、あっという間に深い眠りに落ちて行った。次の朝、爽快な気分で目覚めると、眠そうな目をした江澤くんがすでに起きていた。
「あれっ?オメツもう起きたの?早いねー。」昨夜の騒動のことなど、どこ吹く風でぼくは言った。
「あのなぁ、オマエ~殺すぞ。さっさと一人だけ先に寝やがって、オマエのいびきがうるさくて全然眠れなかったじゃねーかよ!」これ以上無いというくらい、超不機嫌そうな顔で江澤くんは言った。
 写真◆これがその四人部屋。起きてから江澤くんの機嫌が直ったところで記念に一枚(笑) 
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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浜田省吾の自己証明
めまぐるしい変化・アマチュアからプロへ
2014/10/27(月) 午前 6:21
青山徹の自宅の屋根裏での練習が始まった。昼間はピザハウスでウェイターの仕事をし、夜は屋根裏に通う毎日だった。ドラマーとしてしっかりしたリズムを叩くようになる迄、少し時間が必要だったが東京での下宿生活の頃から書きためていた彼の曲がグループ内で数多く認められ、作家として頭角をあらわしはじめた。
74年の1月の末に、広島NHK支局の津尾氏の持ち番組での録音テープがフォーク村の先輩であるCBSソニーのディレクターに渡り、オーディションを受けるため、再び上京した。
このオーディションには吉田拓郎も立ち会っていた。「二人の夏」「あの娘は僕の大事なべぇいびぃ」「初夏の頃」などの彼の作品が演奏された。ドラムを叩いて三ヶ月目ではあったが、評判は上々だった。ただし、ロックバンドを抱えるプロダクションはなかなか見つからず、広島に帰っていった。少したってから74年の吉田拓郎全国ツアーのバックバンドに起用され、再び上京。吉田拓郎との接触は彼にとって新鮮な刺激になったようだ。吉田拓郎とは6歳も年齢差があるため、兄貴といった感じでつきあっている。音楽面だけではなく、人間的な面でも学ぶところがあったという。そしてツアーの終り頃、74年の末から「愛奴」のデビューアルバム制作にはいっている。75年の4月から本格的なステージ活動を開始した。然し、グループを続けていくうちにバンドのポリシー・方向性の点で他のメンバーとの意見の食い違いが徐々に明確化してきた。
それまでのバンドを意識したメロディー中心の曲作りから、次第に自分自身や情況をテーマにした歌詞を大切にした曲作りに変わっていった。
そしてこの頃、今回のアルバムのタイトル・ソング「生まれたところを遠く離れて」や「壁にむかって」「HIGH SCHOOL ROCK&ROLL」といった曲が出来ている。
75年の9月5日、愛奴のファースト・リサイタル「やがて訪れる愛の世代の前に」を最後に彼はグループを脱退した 

神奈川大の学生生活
2014/10/22(水) 午前 6:21
夢描いた東京での学生生活は、上京学生の誰もが感じるようにむなしいものだった。環境のせいで大学には求めていたものなど何もなく、無為な日々の繰り返しだった。たまにダンスパーティで雇われ演奏をした位で、殆ど毎日狭い下宿部屋でサリンジャーなどを読んでいた。
大学一年の終り頃、上京中の「グルックス」のメンバーとフォークロック・グループを結成した。これがオリジナルの「愛奴」である。彼はドラムをやるようになった。他のメンバーの曲に彼が詞をつけ、オリジナル作品が次々と生まれた。スタジオ練習所や楽器運搬、楽器アンプ類などにかかる経費を捻出するため、大学を退めて皆が仕事に就いた。
彼は横浜の○○工場、自動車の○○工場や、◯◯の◯◯引きなどをやった。さまざまな仕事をしながら、多くの労働者の生活ぶりを知った。今でもタコ部屋があり、そこと工場との往復の毎日を過ごす出稼ぎ労働者達の印象は特に強かった。
きつい仕事と練習で体をこわし、バンドを続けてゆくことが不可能になってきた。その頃フォーク村の後輩で、ヤマハのネム音楽院を退校し、上京してきた青山徹が「愛奴」に参加したいという話になり、全員で改めてロックバンドをやろうという事になった。
こうして彼はアパートやその他全てをひきはらい、皆と広島に帰った。 

家出と初恋の浪人時代
2014/10/10(金) 午前 6:21
予備校で知り合った女の子と恋におちた。うららかな春の陽射しを浴びながら、東京に出て一緒に生活することなんかを夢描いていた。そしてこの年の夏、アメリカから留学してきた青い眼の少女に恋している。春に知りあった初恋の女の子とも別れ、青い眼の少女は9月にアメリカに帰ってしまった。試験はだんだん近づいてくるし、公害で犯された◯◯市の家に帰っても落ち着かず、イライラのしっぱなしだった。
秋に◯◯の◯◯キャンプ附近の 「ほびっと」
http://www.jca.apc.org/beheiren/saikin174RoppeiHobitto-Shohyougun.htm
という反戦喫茶で知り合った女の子が唯一のなぐさめであった。然し彼女もアメリカ人と結婚し、日本を離れてしまった。
Judy Collins - Someday Soon
彼のすさみきった心は爆発し、京都へ家出をしてしまう。母親は駅まで彼を見送りに行き、4万円を渡した。この頃、広島フォーク村の先輩で広大生だった白髭氏から、ボブ・ディランを聞かされている。「へんな歌い方をする奴がいるな」と感じたらしい。然し妙に彼の心にひっかかるものがあったという。「なんとかなる」と思っての家出だったが、現実はきびしく風来坊の彼には定職は勿論の事、住む家さえも手に入れることが出来ず、やがて体をこわし、京都の寒空の中 広島行きの汽車に乗っていた。

高校時代
2014/10/2(木) 午前 6:21
当時のM高校の校風 ○○のたまり場、野球部、そして執行部出版部長...姉の友達が、彼の中学時代に彼の家によく遊びに来ていた。バンカラ風のその男性の話は、自由な雰囲気にあふれていた。未知の世界に対する憧れを彼に抱かせた。彼は姉や、姉の友達の高校であったM高校に入学した。然しながら、M高校はK市の名門校であり、当時は既に受験予備的な学校であった。彼の校風に対する憧れはすぐに砕けてしまい、授業はサボリ、図書室でヘッセや太宰治を読んでいた。
そしていつしか、○ル・○み○し者のたまり場である野球部に入り、サードのポジションを守っていた。
先輩の番長に可愛がられ、スパイクとグラブまでもらって、坊主頭の彼は練習に励んだが、当時のM高校の野球部の戦績は、殆ど緒戦で完敗していたらしい。
社会的状況は東大安田講堂事件などがあり、左翼的運動の波が彼の高校にまで押し寄せていた。突然彼が、執行部の出版部長に立候補する動機になった社会意識の目覚めがこの時期にあったようだ。
仲間と政治や社会について語る一方、歌をうたう事をこの頃始めている。高校2年の文化祭でリトル・スティービーのヒット曲「太陽のあたる場所」を歌った。隣町の広島市で「フォーク村」が隆盛していた。広島フォーク村出身の吉田拓郎がプロとして人気を獲得しつつあった頃である。そうした動きに対応して、彼が中心となって呉フォーク村を結成し、彼自身広島フォーク村のコンサートに弾き語りで出演するようになった。
広島フォーク村の中に彼が心魅かれるバンドがあった。「グルックス」という名のグループでフォークロックバンドだった。後に彼と一緒に「愛奴」を結成することになる、町支・山崎・高橋の3人が組んでいた。彼等と交流を持った。多感な高校生時代の終りに、一つの悲しい出来事が待ち受けていた。 彼の仲間のうち、数人が不自然な形で離ればなれになっていった。。。* 一部 割愛してます。「ロンリ―ハーツ」の由来は、「ロンリ―・ハーツ・クラブ・バンド」の事で、ビートルズの曲です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89
浜田省吾さんの出身地は「竹原市」二歳前後まで竹原市に住んでました。メインで活動されてたのは「呉市」「広島市」では’73年に天満屋の屋上、サテスタがアマチュアでのデビュー よく「浜田省吾さんは広島出身ですよね」と言ったら、「浜田省吾は呉じゃけぇ」と言われます その後、’74年から、拓郎さんのバンドでツアーに入ります。え~~っと、間違ってる所ございましたら、バンバンご指摘お願いします。老々記憶の寄せ集めの情報ですので、新鮮な情報、随時受け付けております

中学校に入って
2014/9/26(金) 午前 6:21
瀬戸の海と夏の夕暮れとロック・ミュージック
KN中学校に入学した初めの年は江田島から通っていたが、すぐまた転勤で呉市郊外の小さな町に引っ越した。
その家の隣家に○大に入学したばかりの青年がいた。そのお蔭で彼は青年の持っていた素晴らしいコンポーネント・システムで、ビートルズのLPを何度も聞くことができた。
夏の夕暮れ、瀬戸の海を縁側から眺めながらビーチ・ボーイズを聴いていた彼が、愛奴時代のシングル「二人の夏」を書いたということにも、充分うなづける。
そしてまた、ラスカルズ、ラビンスプーンフル、ミラクルズといった、アメリカのロック・ソウルグループを聴きはじめたのもこの頃であった。
姉が就職記念に買った3千円のガットギターを持って、コードも知らないまま、かっこうだけジョン・レノンの真似をしながらビートルズナンバーを歌っていたのもこの頃である。
中3の時 呉市内に移り、FENを聴きはじめた。 
 http://blogs.yahoo.co.jp/u_t_r_s_m/folder/634945.html

小学校時代~まだ続く引越と江田島とビートルズ
2014/9/24(水) 午前 6:21
友達をつくるのは上手だったが、いつもどこかうちとけることが出来なかった。彼はいつしか転校を一つの楽しみとする、おかしな小学生になっていた。小学4年生の時、海軍兵学校のあった江田島の江田島小学校分校に転校した。江田島には海も山もあった。瀬戸内の穏やかな自然があった。家から数十歩のところに当時は美しく透き通った海があり、家の裏手には山に続く道があった。家は相変わらず貧しかったが、小遣いなど全く不必要だった。ジーンズをはいて彼は島中を駆け巡っていた。彼の父も山登りやスポーツ好きで、休日毎に父と二人で尾根伝いに瀬戸の海を見わたして歩いたと言う。
彼は父や家族をこよなく愛していた。この頃が彼の生涯に於いては最良の日々になるかもしれない。その頃、高校生になってまもなくの姉が町からポップミュージックを仕入れてきた。彼も次第にラジオを聴くようになり、プラターズの「オンリー・ユー」やプレスリーの初期のヒット・シングルになじんでいった。
音楽好きの少年であった彼が小学校4年の終り頃、友達のステレオで、ある日突然聴いて虜になったのがビートルズだった。

年末毎に引越をしていた幼年時代
2014/9/20(土) 午前 6:21
前にちょっとUP??したけど、だいじょーぶとの事で、フル公開にしました
彼は1952年12月29日、広島県竹原市に生まれた。三人兄弟の末っ子、長男であった。現在23才。当時、彼の父は警察官であった。父は山口県◯◯郡○○町○○出身で、◯人兄弟の◯男であった。○○は代々貧しい漁村であり、彼の祖父は船員で、月に一度しか家に戻らなかったという。父は尋常小学校を卒業後、呉工廠に就職した。18才の頃、学歴がなければ昇進出来ない工廠を辞め警察官になり、尾道市に赴任した。母は尾道市○○町で○○屋の○女として生まれた。市内の学校を卒業後、○○に勤めていた。彼の父と母はこの尾道市で結婚した。戦時中彼の父は特高警察官であったが、片田舎の尾道市内管轄だったため、政治犯との関係はなかったという。
ただ広島市に原爆が投下された翌日、医師や部下を連れて救出に行ったため、原爆症に犯されている。
戦時中の特高追放の後、彼の父は行商のほか何十種類もの職を転々とし、どん底の生活を続けた。そして彼が生まれた頃、警察に復帰したようだ。こうした家庭的背景は必然的に彼に大きな影響を与えている。小学校に入学するまで父の職業上転勤が多く、5回以上の引っ越しをしている。
友達も出来ず、独り遊ぶ子供であった。 
 http://blogs.yahoo.co.jp/u_t_r_s_m/folder/634945.html?m=lc&p=2

 

ほびっと 戦争をとめた喫茶店-ベ平連1970-1975 in イワクニ 単行本 
2009/10/16 中川 六平   (著) 
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%BB%E3%81%B3%E3%81%A3%E3%81%A8-%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E3%81%A8%E3%82%81%E3%81%9F%E5%96%AB%E8%8C%B6%E5%BA%97-%E3%83%99%E5%B9%B3%E9%80%A31970-1975-%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%82%AF%E3%83%8B-%E4%B8%AD%E5%B7%9D-%E5%85%AD%E5%B9%B3/dp/4062158345/ref=la_B004L4M4BO_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1462171360&sr=1-1

ほびっと 戦争をとめた喫茶店(中川六平)
2009.11.27 Fri
図書館の新着棚でしばらく前にみかけて読みたいなと思ってた本。やっと借りるスキマができたので借りてきた。
中川六平といえば、『「歩く学問」の達人』(これは好きな本のひとつ)の人であり、坪内祐三の『ストリートワイズ』(これも好きな本のひとつ、単行本を持ってるが、なんと文庫になっていた)や、石田千の『月と菓子パン』(これも知らんうちに文庫になっていた)の編集者でもある。
この本を読むまで知らなかったが、中川六平は大学生のころに、基地のある岩国で喫茶店ほびっとのマスターをやっていたことがあるのだった。ほびっとは、「ヴェトナムに対する米国の侵略と日本の加担をやめさせる目的で72年2月に開店したコーヒーハウス」(p.264)である。
69年の春、六平は大学に入って、べ平連、つまりベトナムに平和を!市民連合に入った(私がうまれた年である)。『1968』にしつこいくらい書かれていたように、大学にはセクトと呼ばれる人がいたという。ゲバ棒をもって機動隊にぶつかっていく学生を応援したい気持ちはあったが、自分にそんなことができると思えなかった六平は、殴りあいから遠くにいるベ平連に入ったのだった。
この本は、六平の若いころの日記を参照しつつ「あのころの」話が書かれたものである。岩国からベトナムへファントムが飛んでいたころ。岩国基地近くの川の堤防で、ファントムを止めようという凧あげもした。瞬間の出来事かもしれないが、上空で風に揺られている凧が、戦闘機を止めた。71年の春の、こどもの日のことだ。
ほびっとは、岩国で米兵に反戦を呼びかける「GIコーヒーハウス」運動として、三沢の「OWL」に次いでつくられた喫茶店。前から話は出ていたが、具体的にやる人がいない、その会議のときに「オレでよければやります」と決心したのが六平だった。
「GIコーヒーハウス」運動、それは「兵士たちに軍隊生活とは反対の生活の場を提供すること」「兵士の側に立った反戦運動」「GIたちのうさ晴らしのための溜まり場ではなく、…新しい世界観…現体制のもっとも直接的な被害者であるGIたちに、覚悟と認識と希望を与えるための機能」(p.79)と考えられていた。つまり、兵士が個人に立ち帰るために、彼らが集い語りあう場なのだった。
「ほびっと」という店名は、トールキンの『ホビットの冒険』から採られた。その名はまた、日本に来て、反戦米兵にはたらきかけるアメリカの活動家が使っていたコード・ネーム「ロジャー・ホビット」でもある。
喫茶店をひらくための場所探し、内装、メニューなど、開店の準備段階から、開店してからの客数、売り上げ、店の雰囲気、警察からの不当な監視や干渉のことなどが、年を追って書かれている。
その間に、デモがあり、座り込みがあり、別件逮捕があり、デッチあげによる家宅捜索があり、それに対しておこした裁判もあった。「好き勝手なことをするな」「この町に住めないようにしてやる」という警官の脅し、ほびっとに来る客が尾行されたり、あんな店へ行くなと言われたりもあった。基地では、ほびっとに立ち入り禁止令(オフ・リミット)が出された。ほびっとの大きな目的でもある米兵たちの交流の場として、輪を広げていくことが不可能になる。
そして、ほびっとの赤字が続く。最初こそ何度か黒字の月もあったが、途中からはほぼずっと赤字である。客の公聴会をひらいて、価格値上げもした。それでも値上げの効果はなく、赤字。アルバイトでもって赤字を埋めていくしかないという話になる。
大学を休んだような状態になっていた六平は「ほびっとと大学」という関係の前をうろうろしはじめる。このまま続けていていいのか。「大学卒業を選ぶということは、ほびっとから逃げ出すことになるのだろうか。」(p.245) ほびっと開店1周年がすぎ、ベトナム戦争は停戦を迎え、しかし岩国には変わらず米軍基地がある。73年4月、京都ではベ平連の解散式があった。福岡ベ平連は運動を続けていくという。ほびっとと大学と、どうするのか。
▼…ぼくは、ほびっとでやれるだけやった。大学に戻ることにしようと思った。疲れた。ぼくはそうつぶやいていた。限界だな。
「おまえは何がしたいんだ」ケイコさんに批判されたぼくの口調だ。客を挑発していく、この言葉にも疲れた。このことは、ほびっとから逃げていく口実になるのだろうか。言い訳だろうか、居直りかな。でも、「おまえは何がしたいんだ」と話しかけなくてもいいと思うと、楽になるなあ。(p.255)
そのころメキシコにいた鶴見俊輔から来た手紙が引かれている。
▼…私の考えは、出発前に申しあげたことと同じで、もちこたえることができなかったら、無理をせずに、手をはなすことをしてほしいと思います。仕事の主なにない手となっていない私としては、それ以外のことは言えません。
同時に、もし、このコーヒー店を守りきれたら、そのことの意味は、リンチ事件を終点としたさまざまな運動にたいして、別の道をつくり得たということになり、その意味は大きいと思います。谷中村も最後は十四戸の結束となったので、十四戸が最後の時に残ったということの意味が今日よみがえってきたのだと思います。…(p.258)
六平が岩国をはなれる前に焼き鳥をごちそうしてくれた田口さん。ほびっとは『不思議の国のアリス』で、ほびっとに行くと、岩国という町が変わって見えてくるんだと田口さんは話しつづける。
▼「…ベトナム戦争反対、アメリカの基地はなくなれ、と平気で堂々というだろう。普通は、思っていても、そう簡単に表現なんてできないものなんだ。ところが、ほびっとは、なかでも六平なんか、ちっとも物おじしないだろう。そんな人が岩国の町にやってきて、目の前の大きな問題に石を投げては、のびのびしている。大きな状況の問題は、誰かがいっていかないと見えてこないんだよね。それを引き受けたのが、ほびっとだよ。だからこそ、あそこは危ない、あの連中はヒッピーだ、という声が上がるんだ」(p.261)
六平は岩国をはなれ、ほびっとはトミさんに引き継がれ、そして2年後に店を閉じた。店を閉じるにあたってのトミさんの挨拶。
▼…ほびっと存続の可能性について話し合いを続けてきた。近い将来、赤字経営を克服するメドが立たない。これ以上、一定の個人に負担をかけ続けていくことは、運動のありかたとしてよくない。喫茶店と運動の両立という最初の設定が崩れ、再建の見通しが立たない一方、まがりなりにも4年間の活動のなかで、店はなくても別なかたちで運動を作っていけるという主体的な条件ができたと思う。店を閉めることにした。…(p.268)
『We』を出していく赤字を埋めるための"デカセギ"をやって、読者からのカンパをいただいたりもして、どうにかギリギリでしのいでいるフェミックス。話は全然ちがうのだけれど、ほびっとの話を読みながら「存続の可能性」とか「無理をせずに、手をはなす」とか「別なかたちで」ということを考えたりもした。
それと、喫茶店と運動の両立ということでは、京都のくびくびカフェのことをふと思った。こないだの「すわりこみ映画祭」のトークの時に、くびくびのお二人は「おっくうになることがある」と言っていた。
変化と持続とをどうなりたたせていけるのだろうなあとも考えた。時にはおっくうになっても、時には疲れても。
http://we23randoku.blog.fc2.com/blog-entry-1181.html

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