過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)





 広島・江田島市議が証言「紹介したカラオケ大会で…」 参院選めぐる買収事件の裁判
‡2020(令和二)年10月05日(月) 17:33配信 RCC中国放送 RCC BROADCASTING CO.,LTD.
 去年の参院選をめぐる河井案里被告の裁判です。5日、出廷した地方議員は、「紹介したカラオケ大会の際、封筒を受け取った」と証言しました。
 ― 進退は?
 2020(令和二)年08月07日(金)「・・・」(江田島市議会 胡子雅信市議 8月7日)
 証言したのは、辞職勧告決議案が可決された際も取材に応じなかった、江田島市議会の胡子雅信市議です。「胡子市議は、受け取った10万円を入金後、政治活動・後援会活動に使ったと説明。克行被告のパーティー会費2万円にも使ったと話しました。」(大平洋記者) 証言によりますと、胡子市議は、去年6月、番号登録していない克行被告からの電話がかかってきて、後日、会うことに。その際、江田島市の地域の行事を問われたため、150人規模のカラオケ大会を紹介しました。 当日、胡子市議が会場に行くと、すでに案里被告はステージに上がり、自己紹介していたといいます。去年9月、克行被告のパーティーで歌声を披露していた案里被告…。江田島市のカラオケ大会でも、石川さゆりさんの歌を歌っていたということです。 胡子市議が会場を出る準備をしていると、秘書が近づいてきて、「先生からです」と言って、封筒を差し出されました。胡子市議は、「克行被告と案里被告のどちらからか、あるいは両方からかと思った」と証言。数日後に確認すると、現金10万円が入っていたということです。「カラオケ参加のお礼かと思いましたが、あまりに額が大きいので、わたしへの投票のとりまとめ、知り合いなどへの投票の依頼の趣旨もあるのかなと思いました。」(江田島市議会 胡子雅信市議)「表に出せないお金と思い、政治資金収支報告書にも記載していない。本来、返すべきお金だと思っていた」と述べた胡子市議。返さなかった理由を検察官に問われると、克行被告が安倍首相の側近と言われていたことなどを挙げ、「返すと角が立つ。恨まれるのではないかと思ったわけです」と答えました。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/f26d5765602a042648ad6679a5373342e5df9114 
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【速報】案里被告秘書から「先生からです」 広島県江田島市議が現金受け取り認める 河井夫妻買収事件公判
‡2020(令和二)年10月05日(月) 12:31配信 中国新聞デジタル
 写真◆胡子雅信・江田島市議
 昨年7月の参院選広島選挙区の大規模買収事件で、公選法違反罪に問われた河井案里被告(47)=参院広島=の第16回公判が5日、東京地裁であった。胡子雅信江田島市議(50)が検察側の証人として出廷し、案里被告の公設秘書から、昨年
 2019(令和元)年06月16日(日)に10万円を受け取ったと述べた。胡子市議は公設秘書から「先生からです」と言われて現金入りの封筒を受け取ったとし「表に出せないお金。返金するのは角が立つと思った」と説明。自身の政治活動や後援会活動に使ったと証言した。同事件ではこれまで、広島県議や廿日市市議ら同県内の地方政治家計9人が東京地裁の法廷で現金の受け取りについて証言しているが、秘書から受領したとの証言は初めて。検察側によると、同罪に問われている元法相で案里被告の夫の克行被告(57)=衆院広島3区=が胡子市議への現金提供を指示し、案里被告が了承したとされる。
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 二階幹事長、林氏くら替え報道「反党行為どうなるか」 衆院山口3区、党公認は現職優先で
 https://news.yahoo.co.jp/articles/8ab4baf5d172b917ea1f7703ad15144e93fbbc52


 嵐のように生き、刃物のように闘う。ダイナマイト・キッドよ、永遠に!
 2018(平成30)年12月07日 17:00 posted, Text by 堀江ガンツ
◇2016(平成28)年につきとめられた居場所。 ⇒ その後、'93年にイギリスで現役復帰。身体はボロボロでまともな試合ができる状態ではなかったが、全財産を失ったキッドが金を稼ぐ手段はプロレスしかなかったのだ。'96年10月には日本のみちのくプロレスにも参戦。そこで、同じくプロレス活動を再開していた初代タイガーマスクとの再会をはたすが、キッドの身体は痩せこけており、もはやかつての爆弾小僧の姿はどこにもなかった。このタイガーとの再会マッチを最後にキッドは完全に引退。プロレス関係者との連絡を一切断ち、マット界から姿を消した。そのため引退後のキッドの近況は断片的にしか知ることはできなかったが、
‡2016(平成28)年10月05日(火)にNHKの『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』でタイガーマスクを取り上げられた際、番組はキッドの居場所を突き止めることに成功。現在の様子を多くの人が知ることとなる。キッドは'13年に重い脳卒中にかかり、晩年は介護施設で暮らしていた。傍らには現在の妻ドットの姿があった。キッドが引退した翌年、ふたりは出会い結婚。妻はキッドが有名なプロレスラーだとは知らなかったという。だからこそ、リングを降りたキッドが心を許せる人だったのだろう。ダイナマイト・キッドは、妻ドットと出会うことで、ようやくトーマス・ビリントンに戻ることができ、故郷で静かな余生を過ごしたのだ。
◇たった10年の太く短い現役。 ⇒ キッドが表舞台で活躍したのは、せいぜい10年強とあまりにも短いが、その後のプロレス界に与えた影響はあまりにも大きい。日本の獣神サンダー・ライガーをはじめ、'80年代後半以降の世界のジュニアヘビー級レスラーは、ほぼ全員、キッドの影響を少なからず受けている。そして、小さな身体であってもヘビー級の世界トップで闘うというキッドが作った道筋は、その後、弟子でもあるクリス・ベノワに受け継がれ、現在のトップ、AJスタイルズやケニー・オメガにまで続いている。ダイナマイト・キッドは嵐のように激しく生きて、あっという間に我々の前から去ってしまった。しかし、キッドが残した遺伝子は、いま世界中に広まり、これからもずっとプロレス界に生き続けることだろう。ダイナマイト・キッドよ、永遠に!
 https://number.bunshun.jp/articles/-/832779?page=4




 映像◆1985年10月5日放送【電リクだよ全員集合】(Prt-1)https://youtu.be/AHvVn7EH_Bk
 
 映像◆1985年10月5日放送【電リクだよ全員集合】(Prt-2)https://youtu.be/G13PyPbYTu8
 
‡1985(昭和60)年10月05日(土)には、一般視聴者が見たい名場面を電話リクエストで受け付けるという2時間の特別番組『電リクだよ全員集合』(司会:生島ヒロシ)が生放送された。
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 意外と知らない!?「最初はグー」の起源
 Wikipediaにも、じゃんけんのルールとして記載されている掛け声「最初はグー」。そもそも誰が考え出したのか?
 2014(平成26)年01月10日(金) 更新日
 https://matome.naver.jp/odai/2138935353372293701
 13:55映像◆1985年10月5日放送【電リクだよ全員集合】(Prt-2)https://youtu.be/G13PyPbYTu8
 
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 ┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1962(昭和37)年10月05日(金) 映画『007』シリーズの第1作が封切り ⇒ 人気スパイ映画『007』シリーズの第1作『007 ドクター・ノオ』がロンドンで封切りされた。主人公のジェームズ・ボンドをショーン・コネリーさんが演じて大ヒットとなり、これまでに24作品が製作された。写真は、日本ロケ撮影で来日し、記者会見するコネリーさん(中央)=1966年7月【時事通信社】
 1980(昭和55)年10月05日(日) 山口百恵さん、引退コンサート ⇒ 国民的なアイドル歌手、山口百恵さんの引退コンサートが日本武道館で行われた。1973年にデビューし、数々のヒット曲に加え、ドラマ、映画でも活躍したが、21歳で引退、結婚。その後は一切の芸能活動を行っていない【時事通信社】※2021(令和三)年記事削除
 1894(明治27)年10月05日(金) 日本初の月本格的な時刻表「汽車汽船旅行案内」が出版
 1969(昭和44)年10月05日(日) 人気テレビアニメ「サザエさん」の放送開始
 2015(平成27)年10月05日(月) 大村智氏にノーベル医学生理学賞。日本人の同賞受賞は3人目 ※2020(令和二)年記事削除
 https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1999(平成11)年10月5日(火) 巨人の新人・上原浩治が敬遠で涙
‡2017(平成29)年10月5日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月5日だ。
 写真◆マウンドでボロボロと泣いた上原
‡1999(平成11)年10月5日(火)、15連勝もあった巨人のスーパールーキー、上原浩治が、20勝目をかけて神宮球場のヤクルト戦のマウンドに上がった。
 結果的には2失点完投で90年の斎藤雅樹(巨人)以来となる20勝を達成したのだが、この試合中、上原がボロボロと涙を流したシーンがある。決して、うれし涙ではない。
 このときヤクルトのペタジーニが42本、巨人の松井秀喜が41本でホームラン王争いをしていた。6回表の巨人の攻撃で、松井が初回に続き、2つめの四球で歩かされたのがきっかけだった。
 7回裏、ペタジーニが打席に入るとベンチから敬遠の指示。1、2打席と凡退に打ち取っていた上原だが、このときは相手が露骨に勝負を避けている以上仕方がない、と切り替えたようだ。捕手の村田善則は立ち上がりはしなかったが、大きく外角に外して構え、四球……。
 突然、上原に異変が起こった。マウンドを蹴り上げ、涙をぬぐった。当時はタイトル争いに絡み、露骨に勝負を避けるシーンが、この時期のプロ野球の風物詩のようなものだった。2014(平成26)年に小社で刊行した『ジャイアンツ80年史PART.2』に本人に寄稿してもらった中に、このときの話がある。一部抜粋しよう。
「敬遠をした後にマウンドを蹴ってしまったことは、いまでも後悔している。自分の仕事場に対して、あんな行為をすることは決してよくないよね。その一方で、あの日だけはスポーツニュースなどで、タイトルは何か、みたいな論議をしてくれていたのはありがたかった。これから醜いタイトル争いはなくなるのだろうと、思った」
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1977(昭和52)年9月28日(水) 野球を取るか女を取るか迫られ、南海・野村克也監督が退任!
 2017(平成29)年9月28日(木) 7:05
‡1977(昭和52)年10月5日(水)になって記者会見を開き、「彼女がコーチ会議に出たというのはまったくのデマ。私が刑事事件でも起こしたのならともかく球団は非常識過ぎる」と反論。さらに「鶴岡元老(一人。前監督)の圧力で吹っ飛ばされた」との発言もあった。夫人の現場介入など口実に過ぎず、鶴岡氏の息のかかったコーチ陣を一掃したことでクビに追い込まれた、と主張したのだ。
 その後、野村はチームを退団し、「生涯一捕手」と覚悟を決めてロッテに移籍。野村派の3人もロッテへの移籍を希望したが、結局、江夏は広島、柏原は日本ハム、高畠コーチのみロッテに移ることとなった。南海はその後、ダイエーとなり、97年までずっとBクラス。これは「ムースの呪い」というべきだろうか(野村氏の愛称がムースだった)。
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=桜井ひとし
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 2007(平成19)年10月3日(水) 新人・田中将大が11勝目で新人王確定?
 2017(平成29)年10月3日(火) 7:05
 写真◆試合後の田中。新人とは思えぬ貫録だ
 2007(平成19)年10月3日(水)は、田中がシーズン最終登板の日本ハム戦(フルキャスト)に先発し、1失点完投、自己最多タイ13奪三振で11勝目を挙げた日だ。
「今シーズンをいい形で締めくくろうと思っていたのでよかった」と笑顔で語った田中は、新人王について問われ、「一生に一度のチャンスなので取れることを祈っています。1年間ガムシャラにやってきたんで」と答えた。
 対して岸も
‡2007(平成19)年10月5日(金)のソフトバンク戦(ヤフードーム)の最終登板で9回途中まで投げ、11勝目。こちらも「気持ちよく終われてよかった。使ってくれた伊東監督に感謝です」と笑顔を見せた。この日は、退任が決まっていた伊東勤監督のラストゲームでもあった。
 これで田中が11勝7敗、防御率3.82、奪三振196、岸も勝敗はまったく同じ11勝7敗で、防御率3.40、奪三振142。ほぼ互角と言っていいだろう。
 ただ、岸は自分が大卒、田中が高卒ということもあって
‡2007(平成19)年10月5日(金)の試合後にタイトルについて聞かれると、「きょう完封だったら取れていたかもしれませんね。あまり期待していませんが」と淡々。岸の予想どおり(?)新人王には田中が輝いたが、岸にもパ・リーグ特別表彰として「優秀新人賞」が贈られている。
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④┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 2005(平成17)年10月7日(金) 若大将・原辰徳が監督復帰
 2017(平成29)年10月7日(土) 7:05
 写真◆新コーチ陣がガッチリ握手。前列中央・原監督、右・吉村禎章二軍監督、左・近藤昭仁ヘッドコーチ(当時)
‡2005(平成17)年10月5日(水)の就任会見でそう語った原監督。06年は4位に終わったが、その後、CSスタートの07年からはリーグ3連覇。有言実行、見事にチームを立て直した。
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⑤┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1980(昭和55)年11月04日(火) 世界の王貞治が引退発表
 2017(平成29)年11月04日(土) 7:05
‡1980(昭和55)年10月05日(日)には21年連続の100安打、
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 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171005-10
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170928-12
 ③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171003-11
 ④http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171007-11
 ⑤http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171104-11
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⑥┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1989(平成元)年10月12日(木) 奇跡の逆転優勝に導いたブライアント4連発
 2017(平成29)年10月12日(木) 7:05
崖っぷちからの逆襲
 写真◆3打席連続弾のシーン。手前でマウンドにヒザを着いているのが渡辺久
 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月12日だ。
 前年の1988(昭和63)年、あの「10.19(水)」で時間との戦いにも敗れ、つかみかけていた優勝を2厘差で逃した近鉄バファローズ。その途方もない虚しさと悔しさから、翌89年を前に、個性派ぞろいの、いてまえ男たちが「今年こそは優勝!」と一つになった。
 しかし、ケガ人の続出に加え、22試合連続三振もあった四番・ブライアントの不振もあって出足でつまずく。対して破壊力満点の“ブルーサンダー打線”を擁する新生オリックス・ブレーブスが独走態勢を固めていた。
 それでも夏場に入り、近鉄はブライアントの復調もあって猛烈な追い上げを見せ、ついにはオリックス、近鉄、西武の三つ巴の混戦にもつれ込んだ。最初に脱落したのが
‡1989(平成元)年10月5日(木)にオリックスに敗れ、自力優勝が消滅した近鉄と思われた。
 その日、近鉄グループの総帥・佐伯勇が死去の悲報も届く。一時期を除き、創設以来ずっとオーナーの座にあって、弱かった時代に「近鉄グループのお荷物」と批判があっても「ドラ息子だが、かわいいところもある」とかばい続けた人物だ。
 喪章をつけて戦った翌1989(平成元)年10月06日(金)のオリックス戦(藤井寺)から奇跡が始まる。1対2から9回裏二死に同点に追いつき、10回裏リベラがサヨナラ本塁打。仰木彬監督は「オーナーが見守ってくれたんでしょう」と声を震わせた。
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⑦┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1996(平成八)年11月24日(日) 清原和博、FAで巨人入団
 2017(平成29)年11月24日(金) 7:05
 写真◆長嶋茂雄監督(左)と握手する清原
 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月24日だ。
‡1996(平成八)年10月05日(土)、西武球場でのシーズン最終戦の後、オリックスのニールに1本差で本塁打王のタイトルを逃した西武の清原和博は帽子、リストバンド、さらにスパイクまでファンにプレゼントした。
 このときすでに気持ちは決まっていたはずだ。
 11年前、ドラフトで指名されずにかなわなかった夢、巨人入りを、今度は自分が勝ち得た権利、FAでかなえると……。
 西武・東尾修監督も慰留の話し合いの後、「入団の経緯や日本シリーズの涙もあったが、初恋のような気持ちがあるんだろうね」とあきらめ顔で語っている。しかし
 1996(平成八)年11月13日(水)、すんなり1回で決まると思われた巨人との第1回目の話し合いで、事態は紛糾する。
 思ったより低かった金額評価もそうだが、出席した球団代表は終始「そんなに来たければどうぞ」的な雰囲気を崩さず、ドラフト時、1位指名を約束しながら回避したことへの謝罪を求めても答えず。一気に清原の熱が冷めた。一方で
 1996(平成八)年11月15日(金)に交渉した阪神は巨人以上の条件を提示し、さらに吉田義男監督が「タテジマのユニフォームをヨコジマにしても」と強烈な口説き文句。清原も一時は阪神入りを決めかけていたという。
 しかし、その後、母親の「あんたの夢は何だったの」の言葉で変わった。あらためて少年時代の夢、巨人への思いがよみがえったのだ。
 1996(平成八)年11月20日(水)、2度目の交渉ではフロントが頭を地面にこすりつけんばかりに謝罪。長嶋茂雄監督からの「僕の胸に飛び込んでこい」からもメッセージをもらった。ここからは早い。
 1996(平成八)年11月24日(日)は、長嶋監督同席のもと、巨人の球団旗の前で清原の入団会見があった日だ。
「小学3年から野球を始めて、巨人はそのときからずっと僕の心にありました。プロ11年を振り返ると、西武に縁あってお世話になりました。これからはそれを忘れ、折り返し半分の野球人生で勝負したい。命がけでやります」
 西武時代、「どんなスランプ時も減らなかった」という体重が減るほど悩みに悩んだ末、夢にまで見たユニフォームにソデを通した清原。しかし、これはいばらの道のスタートでもあった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ⑥http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171012-10
 ⑦http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171124-11
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.130 ┃  30円
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‡1960(昭和35)年10月05日(水)号 特集 選手を眠らせない優勝命令
 2018(平成30)年03月06日(火) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎『大毎カゲの殊勲者うちあけ話』
 写真◆表紙は左から巨人・長嶋茂雄、中日・森徹
 今回は『1960年10月5日号』。定価は30円だ。巻頭グラビアは『ご機嫌さんの西本監督~優勝目前の大毎オリオンズ』。2位南海に6ゲーム差をつけ、ほぼ優勝決定のようだ。西本幸雄監督の余裕たっぷりの笑顔もあった。
 本文では『大毎カゲの殊勲者うちあけ話』。その中にこの年から「スコアラーという新職業」(文中)に挑戦する三宅宅三の話もあった。当時は革新的だったらしい。三宅は大毎の試合すべてに大きなスコアブックを持って1球1球、詳細なスコアをつける。ただ、まだ一人なので大毎の試合以外のデータが取れないのが悩みとあった。
 情報戦と言えば、大洋も相当のものだったようだ。本文巻頭は『選手をねむらせない優勝命令』。これは大洋、中日、巨人に絞られたセの優勝争いを各チームの選手へのインタビューを交えながら特集したものだ。
 この中で大洋の選手の座談会を抜粋する。
  秋山登(投手) ピッチャー同士でも試合が始まるまで先発が誰か分からない。三原さん(脩。監督)は、例えば僕が先発と指名されていても絶対にしゃべるなというんだからね。
 近藤昭仁(セカンド) だから記者の人に聞かれても分からない。隠してるわけじゃなく。
  土井淳(捕手) オーダーだって全員がベンチ前でミーティングするときに分かる。スコアボードに出るからね。それとミーティングのとき、三原さんは相手方のピッチャーの攻略法を指示するが、実に細かいね。それと試合の変化をほとんど読んでいて、何回にはこうなるから先取点を取られても焦るなという。感心しちゃうよ。
 さすがマジシャンである。
『佐々木信也連載対談11』では、10年連続20勝と3000三振を狙う国鉄・金田正一が登場。28歳だが、やや衰えを感じているらしい。
「スタミナは大丈夫。根性の問題だ。いやー、ナニクソッ、この野郎って気持ちを出さんといかん。またそこには言うに言えないわけがあるんだ。からだが悪かったりなんかしてね。だから自分の悪いとこ欠けているとこはみんな分かってるんだから。これは広言でもなんでもない。過去11年間の国鉄の歴史を見て、うちの悪いバックでもってわしがやってきたということは、多分に自分の実力があったんだからね。ところがもう、三振も取れなくなった。今後はバックの援助が必要だ。そういう時代に変わってきたんだ。それが目に見えて僕らの記録に表れてきてる。自責点なりいろいろな面で。
 だからまだ、このまま落ちるということは、自分では絶対に思わん。まだまだ三振だって一番多いもの。根性があればできるんだ」
 以下は宣伝です。しばらく、まったく同じ文を掲載します。
 現在、週刊ベースボール60周年企画として「週べでつづる12球団史」を制作中。第1弾は3月14日発売予定の巨人編です。
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.332 ┃  50円
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‡1964(昭和39)年10月05日(月)号 大洋・三原監督の思惑が裏目に?
 2018(平成30)年11月02日(金) 10:15 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎スタンカ効果で南海優勝
 写真◆表紙は左からサンフランシスコ・ジャイアンツ、村上雅則、W・メイズ、巨人・王貞治
 今回は『1964年10月5日号』。定価は50円だ。
 9月19日、阪急が東京に敗れ、南海の優勝が決まった。南海の残り試合は22日の東京戦だけで、この日は休養日だった(結局雨で流れ25日開催)。
 ラストスパートの最大の功労者はスタンカ。9月にチームが挙げた5勝すべての勝利投手となり、対阪急戦では9勝1敗と圧倒的な強さを誇った(実は、9月の南海は最終戦も含め5勝9敗と負け越し。一度は引き離した阪急に追い上げられていた)。
 写真◆たくましきスタンカの腕にぶら下がる南海ナイン
 セは大洋優勝と予期し、大洋─南海の日本シリーズを占う展望記事が出ている。ただ9月11日からの6連敗で息の根が止まったかに思えた2位阪神が9月20日、川崎球場での直接対決ダブルヘッダーに連勝。ゲームは1.5となった。
 雨模様の中で強行された2試合は、ともに勝ち投手はバッキー。初戦が完投、2試合目は8回から救援し27勝目。スタンドには視察に訪れた南海・鶴岡一人監督の姿もあった。
 実は、この日、連勝なら大洋の優勝決定。すでに祝勝会の準備もされていた。
 中止になってもおかしくない雨だったが、球団は試合をするかどうかの判断を大洋・三原脩監督に委ねた。
 三原は、「1日延びたら22日からの巨人2連戦との間に休養日がなくなる。それよりは一気呵成に」と思ったようだ。
 試合後の三原は意外と穏やかだった。
「すべて裏目でしたね。ここで一気に勝負をつけるつもりだったのに、うちにばかり悪かったな。22日からの巨人戦は成り行き次第です。きょうみんな投手を使ってしまったものな。今は森の石松や、うちは。バカだから斬られにいくようなもんや」
 この時点で大洋の残り試合は4つ。
 22、23日の巨人戦、24、25日の阪神戦だったが、雨のため23日が対巨人ダブル(後楽園)、26日が対阪神ダブル(甲子園)となった。
 一方の阪神の残りは、すべて甲子園で5試合だ。
 53本塁打の日本記録を達成し、あとは三冠王と思われた巨人・王貞治だが、そこからピタッと当たりが止まった。すでに本塁打、打点のタイトルはほぼ確定となっていたが、問題は打率。ジワジワ下がり、9月18日時点では中日・江藤慎一に8厘差をつけられていた。
 残り試合を考えると、三冠王はほぼ絶望か。
 では、また月曜日に。<次回に続く>
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓  特大号
③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.654 ┃  90円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1970(昭和45)年10月05日(月)特大号 鶴岡一人のヤクルト監督はならず
 2020(令和二)年02月25日(火) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎鶴岡一人のロッテGMもならず
 写真◆表紙は箕島高・島本講平
 今回は『1970年10月5日特大号』。定価は90円。
 ヤクルトの松園尚巳オーナーは鶴岡一人元南海監督招へいのため、旧知の元西鉄・中西太に仲介を依頼したが、9月11日、中西から電話があり、鶴岡が断ったと告げられた。
 松園と中西の関係は、中西が西鉄時代にさかのぼる。ヤクルトはもともと博多が本拠地の企業だったが、1955年ごろに中西を企業ポスターに起用し、その際、意気投合したらしい。
 松園には、ヤクルト監督としてもいずれは中西という思いがあったが、まずは基礎固めと鶴岡に依頼したという。ただ、鶴岡は引き受けるならフロント、コーチの人事権もと要求。家族主義が強かった松園オーナーはそれをのめず、断念した。
 これを受け、中西は義理の父で近鉄監督の三原脩招へいを進言。松園オーナーも承諾した。
 三原と近鉄の契約は2年で、ちょうど途切れることに加え、大阪での単身赴任が身体的にかなりつらくなっていたようだ。
 断った鶴岡は、すでにロッテの永田雅一からも熱心に誘われていたが、ロッテが優勝間近とあって「優勝監督の濃人監督を押しのけてまでしたくない」と断った。
 ならばと鶴岡が南海時代から熱望するGM職と話が決まりかけたが、横やりをいれたのが、いまや球団内では永田以上に力を持つ中村長芳オーナー代理。中村は岸信介元首相の秘書だったが、ロッテとオリオンズとの提携の際に動き、そのまま球団に入った。
 中村は永田が自分に相談せずに動いたことが気に入らなかったようだ。
「鶴岡さんの入団には絶対反対だ。3年がかりで優勝させた濃人君をくびにするようなことはできない」
 と語っている。
 昔、10年選手へのボーナスがあったが、その支払いがこの年で最後になった。すでに61年8月21日以前入団者と規定があった。
 表紙は箕島高の島本講平。第2のコーちゃんと言われ、大人気だった。 
 では、またあした。<次回に続く>
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 “2年目のジンクス”は関係なかった野茂英雄
 2018(平成30)年7月4日(水) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
 2年連続最多勝&200奪三振
 写真◆近鉄・野茂英雄
 「2年目のジンクスについては、終わったときにあらためて聞いてください」
 村田兆治氏(元ロッテ=解説者)が「2年目のジンクスをどう思うか?」とキャンプで尋ねると、近鉄・野茂英雄はこう力強く答えたという。
 投手タイトル総なめの8冠を収めたルーキーイヤーの1990年。明けて1991(平成三)年、野茂の周辺は前年以上にかまびすしかった。誰もが口にしたのが“2年目のジンクス”。
 「雑音なんか気にしない。とにかく自分がやらなくてはしようがない」
 1991(平成三)年04月7日(日)、開幕2戦目(対日本ハム)から
 1991(平成三)年05月9日(木)の同カードまで6試合連続2ケタ奪三振のプロ野球新記録を達成。その後は西武・工藤公康、オリックス・星野伸之と最多勝を争った。
‡1991(平成三)年10月5日(土)は、その3人が投げて3人とも勝利を手にした。野茂は17勝、星野と工藤は16勝。野茂と工藤は、その後も登板したが勝敗はつかず、野茂が1勝差で単独最多勝に輝いた。
 しかし、野茂いわく「大事な試合に勝っての17勝なら満足ですが、(優勝した)西武に勝てなかったのは残念」。エースとして「何よりも優勝したい」と願っていただけに、優勝した西武相手の5敗は、悔やまれるものだった。
 奪三振数は、前年とまったく同じ287個。新人の年から2年連続200奪三振は、江夏豊(当時阪神)以来23年ぶり8人目の記録になる。
 この年の成績は17勝11敗1セーブ、防御率は3.05。ジンクスを“トルネード”でしっかりと吹き飛ばした。
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