『グレート・ギャツビー』(F・スコット・フィッツジェラルド著、1925年)
累計販売部数(推定):2500万部
https://www.msn.com/ja-jp/lifestyle/photos/古今東西の書籍超ベストセラー45冊/ss-AAJsaiG?ocid=spartanntp#image=45
☆『Home Bound』☆
1980(昭和55)年10月21日(tue) released
1985(昭和60)年12月01日(sun) CD released ※初CD発売
‡1990(平成二)年06月21日(thu) CD released ※再CD発売
1999(平成11)年09月08日(wed) REMASTERING 初回限定版 SRCL-4601
1999(平成11)年09月29日(wed) REMASTERING
①原田真二くんとか世良公則くんとか、自分たちより後輩がどんどんブレイクしていって、ひょっとしたら俺の時代は来ないまま終わってしまうのかなあって思ってたんですね。で、このアルバムを作ってコンサートも少し出来るようになって日本中を回りはじめたら、違うものが見えはじめたんです。夢のようなサクセス・ストーリーとか、金持ちになってアメリカに留学してみたいとか、いろんなことが夢なんだなあというなかで、300人や400人のお客さんしかいないんだけど、そこで演奏してすごく楽しかったんですよ。これでいいじゃないかって思いはじめた。ある意味じゃ、俺の本当のデビュー・アルバムっていう感じがしますね。当時、ジャクソン・ブラウンが好きで、彼はセクションというバンドをやってたんです。俺はロンドンに行きたかったんだけど、セクションとやれるかもしれないというんで、このアルバムをロサンゼルスでレコーディングしたんです。ロックの生まれた国で音を録ろう、本当のピュアなミュージシャンというのはどういう感じなのか会ってみたいと思って。結局、セクションのメンバーはジャクソン・ブラウンのあの"HOLD OUT"ツアーでいなかったんで、メンバーは変わったんですけど、すごくいい体験でしたね。
②「戻ってくるために離れることが必要だった」。レコードの帯には、そう記されていた。日本を離れた海外録音、そこに自らのルーツであるRock、そしてR&Bに回帰することを重ねた秀逸なコピーだった。1980年の夏、初めての海外録音でロサンゼルスに。当初は、アメリカ西海岸ではなく、イギリスでレコーディングしたいと思っていました。ニューウェイウ゛の出てきたイギリスの、たとえばエルウ゛ィス・コステロなどのロックなザラつき感が、自分のサウンドイメージに近いと思っていたから。でも、ジャクソン・ブラウンのレコーディングメンバーのザ・セクションと出来るかも……という話があって、それならアメリカもいいな、と。ただ、交渉中にザ・セクションのメンバーがジャクソンとのツアーに出ることになってしまって。それで、改めてデヴィッド・キャンベルという、ジャクソンなどの弦のアレンジをしている(キャロル・キング『つづれおり』ではウ゛ィオラを演奏)プロデューサー/アレンジャーがミュージシャンをコーディネートしてくれることになったんです。彼は、最近では〝ベックのお父さん?ということでも有名だよね。アルバムの1曲目は「終りなき疾走」。俺の感覚としては、ニューウェイウ゛の出てきたイギリスのロックなザラつき感が俺のサウンドイメージに近いと言ったけど、アメリカでいえば当時、イギリスのパンクやニューウェイウ゛に影響を与えたラモーンズのサウンドをイメージしていました。70年代になってロックがビッグビジネスになって産業化されていって、R&Bがディスコになる。その流れに対抗するように、60年代の古き良きロックを過激なサウンドでプレイして70年代後期に流行ったのが、ラモーンズにも代表されるパンクだよね。実は、その頃はほとんど聴いていなかったんだけど、ブルース・スプリングスティーンも、流行の音に振り回されることなくロックやR&Bのルーツの音を再生させていたという点では、パンク的だったとも言える。「終りなき疾走」や2曲目の「東京」でギターを弾いているのがTOTOのスティーヴ・ルカサー。俺達、彼がスタジオに来る前の日に、当時はまだ野外劇場だったユニバーサル・アンフィシアター(のちのギブソン・アンフィシアター、現在は閉館)にボズ・スキャッグスのコンサートを観に行って、そのゲストミュージシャンがTOTOのメンバーだったんだよね。その演奏を聴いた次の日の朝、スタジオに行ってそこに“TOTO”と書いた楽器車があったときには「お、本当に来てるんだ!?」と思った(笑)。TOTOとパンクじゃ正反対だけど、ギター奏者の水谷さんや町支くんは大喜びでした。そして、スタジオのブースの中にマーシャルのアンプが並んでいて、彼はスタジオの調整室のほうで弾くんだけど、地鳴りしていたね。プロデューサーの鈴木さんも「ルカサーのプレイは圧巻だった。若くていちばんいい時期に弾いてもらえたのは、僕らにとって大財産。すごくラッキーでした」と言っています。「丘の上の愛」などのピアノを弾いてくれたニッキー・ホプキンスも、とても印象深い人でした。ローリング・ストーンズのあのロックンロールピアニストのイメージが強かったけど、会ってみたらすらっと背が高くて優しい人で、モーツァルトとかシューベルトがすごい好きというクラシック派でした。間奏では、ウーリッツァーと生ピアノを重ねて、テープをスロー回転にして、それを速くして2回ダイビングしてバロックの感じにしてくれた。イントロは、コード進行に合わせて彼がアドリブで弾いていたのがあまりに美しいフレーズだったので、そのまま録音させてもらいました。「バンドを集めて行くから、日本で一緒にツアーをやろう」と住所も教えてくれたんだけど、彼は50才の若さでなくなってしまって、叶わないままになってしまいました。当時俺はザ・クリトーンズというニューウェイウ゛系のバンドも好きで、そのバンドのギタリストのマーク・ゴールデンバーグも参加してくれました。イメージとしてはタイトな、モッズみたいなスーツで演奏していたイメージなんだけど、スタジオに来たときはビーチサンダルに短パンにTシャツのカルフォルニア青年で(笑)。しかも、彼の12弦ギターが大好きだったのに持ってきてなくて「俺はきみの12弦ギターがすごく好きなんだ」と言ったら、「オッケー、わかった!家は近いから」って車で取りに行ってくれた。「明日なき世代」で弾いてくれています。ミュージシャン達が「傷心」のメロディーラインをすごく気に入ってくれたのも意外でうれしかった。「beautiful tune」と言っていたけど、マイナーでヨーロッパ的なメロディーだからかな、新鮮だったみたいでみんないい演奏をしてくれているよね。ハーモニカをトミー・モーガンという人が吹いてくれたんだけど、俺が待合室でまだ出来ていない歌詞を書いていたら、エンジニアが来て「なんでこの素晴らしい演奏を聴かないんだ!」って(笑)。曲は出来ていたけど、テーマもタイトルも歌詞もまったくないままロサンゼルスに向かった、そんなアルバム制作だった。アルバムのタイトルになった「家路」にしても、ロス滞在中にかなり苦しんで書いた。「反抗期」の歌詞は行きの飛行機、エコノミークラスの通路側の席で、まわりは暗くなっている中で、灯を点けてずっと書いてた。なんでもいいからとにかく書かなきゃって、必死だった(笑)。でも、「家路」にしても、実は苦し紛れのぎりぎりのところで書いているからリアルだったりするのかもしれません。それと、ミュージシャン達の出す音が詞に向かう気持ちを大きく増幅してくれたんだと思います。テーマもタイトルも歌詞もなかったけど、自分がやりたいのはロックだ!というのだけはあったんだよね。デビュー2枚目の『LOVE TRAIN』から『君が人生の時...』まで、70年代のアルバムのメロディーやサウンドや歌詞はポップソングだけど、ファーストアルバムのロックに戻るという気持ちが強くありました。だから、アルバムタイトルを『Home Bound』としました。すごく満足のいく作品が出来たという気持ちがあったし、高く評価してもらえると思ってはいたけど、一方で、ポップな「風を感じて」が少し売れたあとに、ロックなこのアルバムを発表したので、覚悟はしてたけど、前作の半分くらいの売れ行きだったから、少しがっかりした(笑)。ただ、70年代にはテレビにも出たけど、自分のいる場所はあそこじゃない、自分の音楽をやる場所はライブなんだ、サクセスストーリーは夢かもしれないけど、300人、400人という観客の前でライブをやっていることが楽しい、そう感じるようになってきた時期でもありました。ヒットチャートを意識するのではなく、いいアルバムを作っていいライブをやる。歌詞もメロディーもサウンドも、まさに原点に戻るようなアルバムが、この『Home Bound』だと思う。ロックナンバーだけでなく「今夜こそ」のような、俺のもうひとつのルーツであるR&Bのポップな曲もあるし、習作時代を経て、本当の意味でデビューアルバムという見方も出来る感じがします。初の海外レコーディングだった『Home Bound』のあと、ミックスやマスタリングは海外で何回もしているけど、レコーディング工程を全て海外でやったのはこのときだけ。コンサートツアーで年間に何本もライブをやるようになると、一緒にやっているミュージシャン達と自分の音楽を分かち合いたいという気持ちが強くなってくるんです。ステージだけではなく、アレンジやレコーディングもツアーメンバーとやるべきだと。それが後の『DOWN BY THE MAINSTREET』あたりから現在に至る考え方になっていきます。
https://shogo.r-s.co.jp/disco/album06.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/Home_Bound
☆『Down by The Mainstreet』☆
1984(昭和59)年10月21日(sun) released
1984(昭和59)年11月01日(thu) CD released ※初CD発売
‡1990(平成二)年06月21日(thu) CD released ※再CD発売
1999(平成11)年09月08日(wed) REMIX AND MASTERING 初回限定版 SRCL-4604
1999(平成11)年09月29日(wed) REMIX AND MASTERING
『PROMISED LAND~約束の地』ですごく大きなテーマを抱えたんで、もう1回等身大のところに戻って、ふつうに生きている少年たちというか、自分がかつて作りそこねた曲を作りたくて、このアルバムになったんです。『生まれたところを遠く離れて』というアルバムを作ったあと、『君が人生の時…』まで、すごくポップなものばっかりだったでしょう、本当はその頃に作らなきゃいけなかったんです。それをはじめて自分でプロデュースして作ったんです。だからアレンジにしてもサウンドを作るにしても失敗だらけだったんですけど、はじめてプロデュースして、はじめてツアー・バンドで作ったアルバムなのですごく思い入れがありますね。このアルバムの主人公というのは、みんな少年なんです。ここではじめたことが、『J.BOY』につながるんです。
https://shogo.r-s.co.jp/disco/album11.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/DOWN_BY_THE_MAINSTREET
☆『Sand Castle』☆
1983(昭和58)年12月1日
1987(昭和62)年7月22日
1990(平成二)年6月21日
2003(平成15)年9月26日
http://ja.wikipedia.org/wiki/Sand_Castle
①☆『CLUB SURFBOUND』☆
1987(昭和62)年06月28日(日) LP&TAPE released
1987(昭和62)年07月06日(月) オリコン週間LP&TAPESチャート第1位
1987(昭和62)年07月20日(月) オリコン週間LP&TAPESチャート第1位
②☆『CLUB SURF&SNOWBOUND』☆
1987(昭和62)年06月28日(日) CD released
‡1990(平成二)年06月21日(木) CD re-released
2021(令和三)年06月23日(水) CD re-re-released
①https://ja.wikipedia.org/wiki/CLUB_SURFBOUND
②https://ja.wikipedia.org/wiki/CLUB_SURF%26SNOWBOUND
☆『LOVE TRAIN』☆
1977(昭和52)年05月21日(土) released
1985(昭和60)年12月01日(日) released 再 発
‡1990(平成二)年06月21日(木) released 再々発
https://music.amazon.co.jp/albums/B00FS7V7AW
https://ja.wikipedia.org/wiki/LOVE_TRAIN_(浜田省吾のアルバム)
☆『Mind Screen』☆
1979(昭和54)年05月21日(月) released
1985(昭和60)年12月01日(日) released 再 発
‡1990(平成二)年06月21日(木) released 再々発
https://music.amazon.co.jp/albums/B00FS7URNA
https://ja.wikipedia.org/wiki/MIND_SCREEN
☆『ON THE ROAD』☆
1981(昭和56)年12月26日(土) 録音:広島郵便貯金会館
1981(昭和56)年12月27日(日) 録音:広島郵便貯金会館
1981(昭和56)年12月28日(月) 録音:広島郵便貯金会館
1982(昭和57)年01月12日(火) 録音:日本武道館
1982(昭和57)年02月25日(木) 初発売 CSCL-1168
1985(昭和60)年12月01日(日) 再発売
‡1990(平成二)年06月21日(木) 再々発
ライブ・アルバムですね。広島で録ったものと武道館のものと。武道館の方はエネルギーがあったんだけど、テンポがものすごく速かったんです。ライブの他に『ON THE ROAD』という曲を書いてこのアルバムを作ったんですけど、メロディは出来たんだけど、詞が全然書けなくて、CBSソニーの信濃町のスタジオを蹴とばした思い出がありますよ。俺は、もう「出来ないからいらない」って言ったの。ライブなんだからライブの曲だけでいいじゃないかって言ったら、須藤晃くんが「絶対必要だ」って言うわけ。でも書けないものは書けないんで、「書けない」とか言ってパッカーンと壁を蹴とばしたら須藤くんが目を丸くしてた(笑)。「なんて奴だ」みたいな顔をして。
https://shogo.r-s.co.jp/disco/album08.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/ON_THE_ROAD_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
音源◆https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRUOmB5o_Q1G6FGiGtp2o4dW
30年前のコンサートレポ~1983年~浜田省吾さん
2013(平成25)年08月27日(火) 八月ももうすぐ終わり・・・何故か子供の頃のこの時期を思い出し、夏休みが終わるまでに宿題を仕上げねば!と焦る今のユタなのです。宿題とは、このブログで時々書いている「30年前のコンサートレポ」シリーズのこと。気まぐれに書いている様でも、一応30年ジャストの月からそれほど遅れないようにとは考えていたのですが、実は1983年に8月まで聴いたコンサートの分の記事用セットリストがもう5回分も溜まっているのです。ということは、今日からはじめても1日1本でギリギリ夏休み(そんなものもちろんありませんが)最終日の31日か・・・。まぁ夏休みの宿題が計画通りにいかないのは「お約束」ですが、なんとか再開してみましょうか。で、紹介するのは前回記事の佐々木好さんと同じ月、
‡1983(昭和58)年06月21日(火)に島根県民会館で行われた浜田省吾さんのコンサート「ON THE ROAD'83」です。
1、Ocean Beauty
2、終りなき疾走
3、モダンガール
4、DJ お願い!~バックシートラブ
5、さよならスウィートホーム
6、ガラスの部屋
7、今夜こそ
8、恋におちたら
9、風を感じて
10、愛しい人へ
11、マイホームタウン
12、パーキングメーターに気をつけろ
13、土曜の夜と日曜の朝
14、東京
15、愛の世代の前に
16、凱旋門
17、僕と彼女と週末に
アンコール 今夜はごきげん~Highschool Rock&Roll~あばずれセブンティーン
この頃の浜田さんは前回82年編で紹介したアルバム「Plomised Land」とそのツアーが充実したものだったからでしょうか、本当に乗りにノッている印象でした。セットリストにもニューアルバムの曲を増やすとともに70年代のヒット曲「風を感じて」なんかを加えて客席と合唱したり、かなり余裕が出てきた感じでした。これは後で理解したことですが、このツアーの前に浜田さんはご自分の事務所「Road&Sky」を設立して、その経営上のことでかなりプレッシャーを感じて、それゆえにこれまでになく張り切っていたようです。そしてこの時、8月に九州で行われる浜田さん初の野外イベント「A PLACE IN THE SUN」のことも発表され、ロビーではその参加受付けもすでに行われていました。残念ながらユタはこの夏も前年同様南こうせつさんの「サマーピクニック」に行くつもりでしたので、この浜田さんのイベントはパスしてしまいましたが、そちらも良い内容だったみたいですね。後にユタは野外イベント「A PLACE IN THE SUN」シリーズにも一度だけ参加することが出来たのですが、その事もまたいずれ書く機会があれば。とまぁ、ユタは80年代当時こんなに浜田さんに傾倒していたわけです。先日の80年代シリーズのライブで歌わなかった分、今週末には浜田さんの曲を何曲か歌いたいですね!ではでは、またね(^^)/~
https://cafefolks.exblog.jp/20987282/
詩人の鐘~THE POET'S BELL 浜田省吾
20180608 Fri
一昨年のことだったか。
政府の教育再生実行会議において非常に興味深い点があった。
どうして日本の教育の水準が下がったのか。
それは企業が求める人材像に少なからず問題があったのではないか。という点。
企業側がどのような人材をどう受け入れ、どう伸ばしていくか。
そこにメスを入れる。
非常に素晴らしい改革案だな、と率直に思った。
時代の変化とともに人間の多様性、複雑性に目を向け、あらゆる労働の門戸を用意していくこと。
企業側がその姿勢を示せば、おのずと教育現場にも波及していくことだろう。
引きこもりの子供さんを抱え悩む親も多く存在するが
私は引きこもりの子供さんたちが、どんな可能性を内側に秘めているか、実にとても興味がある。
ひょっとしたらとんでもない発明品につながるような試行錯誤をしているかもしれないじゃないか。
社会性も確かに大切かも知れないが
社会性を駆使して人の和に猛毒を撒くような人間だってこの世には
五万といる。いわゆるネットワーク商法(創価も含む)は
その社会性があってこそビジネスたれるのだ。
たとえば漫画や小説を書くような行為は、自分の世界感と向き合う行為がゆえ
周囲周辺の雑音を遮断して、引きこもることから始まる。
エッジの効いた強烈な作品はそんな「たったひとり」の孤高の姿から生まれてきたのだ。
その作品が、映画やドラマなどになりありとあらゆる産業に利潤をもたらしているのだ。
どんな大スターだって
本を書く人間がいて演じることができる。曲だってそうだ。
そこに大企業はスポンサーとなって莫大な資金を投下する。
それぞれがそれぞれの特性を活かしてこそ、なのだ。
そして店先で売られているありとあらゆる企業が生み出した商品を
並べることも、その一環の仕事なのだ。
どんな仕事もすべてに、なにかに繋がっている。
我々はアリとなんら変わらないな、と思う。
アリは今日も働いているのだ。
うちの娘たちはクレヨンしんちゃんに挿入される蟻の曲をなぜだか毎日歌う。
物事は視点をどんどん変えたほうがよく見えてくるものなのだ。
子どもの頃、蟻の巣作りをみたく、水槽に砂を入れて毎日観察を続けた。
しかし上手くいったことが一度もない。
いったいなにが問題だったんだろう・・・と
考え出す頃には、夏休みは終わっている。
ああ、話がそれた。
先日問題になった日大アメフト部の監督の在り方の問題は
その学生たちの就職にまで影響を及ぼすような立場であったことも指摘されていた。
企業は体育会系で鍛えられた体力・忍耐力・そして従順な人材を求める場合が多くある。
それは決してなにも間違いではないだろう。
トップの人間の指揮によってプラスの方向に向かえば何ら問題はないのだ。
トップの人間が卑劣な人格の人間だったから今回のようなあり得ない事件が起きたのだ。
責任ある立場の大人がいかなるものか。
それによって、すべての結果は変わっていく。
有能な多くのリーダーの元で企業は常に努力をしている。
しかしそうではない企業も間違いなくある。
創価学会は建前上企業ではないが。
はてさて。
さあ。今日はこの曲で何を書こうか、と思い悩んだ挙句
こんな話を書いてしまった。
1990年。女子部学生局に在籍中に第二次宗門問題が勃発した。
もうその頃すでに
「人間と言う生き物は自分の都合の悪いことは隠し
都合のいいことばかりを吹聴したがるものだ」というのは
生きる中で充分理解に及んでいた。
何事も伝聞されたことは鵜呑みにはするまい。
ましてや人の悪口を吹聴する人間にロクな人間はいない。
賢い人間はみなそれを知っている。
そんなごくごく本能的な防御策というのは持ち合わせている。
創価学会のいうところも。そうであろうなあ、とは当時から思っていた。
退転した大幹部の吊るし上げなど
これはほんとうに会員をバカにしてるんだろうなーと思ったものだ。
教学の研鑽に赴くなかでも、その「危機感」というものは持ち合わせていたのだが
あまりにも膨大な文献と立ち向かうとき、必要なのは時間と集中力だ。
誰しもに平等に24時間で1日が終わってゆく。
とてもじゃないが容易には追いつかない。
とりあえず、立ち止まって研鑽することも決して無駄ではないだろう。
たとえ無駄だと思う事であっても、注力することは決して無意味なことにはならないからだ。
「これこれこうだから間違ってますよねえ。おかしいですよねえ。1+1は2ですよ?」
というように「明確な美しい指摘」にもつながりゆくのだから。
ちなみに私は数学が最も好きな学問なのだ。数字の世界ほど明確で美しいものはない。
そんな中でも2世である私は感情の部分で
強く心で働くのが「強烈な脅し」だったと自覚する。
私が創価学会と正宗に対し、もっとも義憤を抱くのは
この「脅し」の教義を振りかざした点のみ、と言い切ろう。
幼い心に刻まれた脅し、というものはほんとうに害毒でしかない。
その脅しに翻弄された自分にも憤りを覚えるのと同時に
心を脅す、という悪質な信仰を元に
創価財閥は成り上がったことにただただ茫然自失してしまうのだ。
麻薬というものと関係があったのか、なかったのか。
裏社会とつながりがあったのか、なかったのか。
創価問題はメジャーシーンではタブーになってきている以上
なんらかの関わりがあったものと思うのが、ごく自然ではないだろうか。
これらの創価をとりまく疑念はすべて
創価を牽引してきたリーダーにすべて責任があることであり
それに従順に従った、会員たちに責任はないもの、と考える。
よって創価から一切合財、
「利を得なかった」
会員たちはどこまでいっても「被害者」という立場をとるべきだと訴えるのだ。
創価の根底は悪質な脅し教義であるという一点。
当ブログでも解説済みであるし、学者たちも指摘している。
それらを元にして、真性の創価アンチの発信者たちは
「やめたかったらやめても大丈夫なんだよ」「安心しな」
「脅しに屈するなよー」と親しみを込めた言葉を綴った声を上げているのだ。
そこに導くために、ああだこうだ、こうでもないああでもないと
書きたくもない色々な事象を指示しているのだ。
そうやって。手を差し伸べているのだ。
だた、それだけのことだ。
浜田省吾さん。
御父上は特高警察官。
実に私の祖父と同じ職業だ。
勝手に親近感を覚えてしまう。
私の祖父は山口県の特高警察官幹部であった。
親戚一同、ありし日の祖父を目を輝かせてこう伝えてくれた。
「いついつも困った人を助けようとする、心優しい立派な方だったんだよ」と。
祖父のたったひとりの子供。それが私の父だ。
父は親戚一同から途轍もない愛情を注がれて育った、という。
どんなときも常に笑って、優しい父だ。
そんな父は私に今なお、際限なく愛情を注ぎ続けてくれている。
ただそれだけでどれほどに幸せな気持ちになるかを言葉で表現するのは難しい。
にやにや。にこにこ。げらげら。だろうかなあ。
若くして亡くなった祖父に私は会えなかった。
私がこの世でもっとも会いたかった人だったかもしれない。
祖父の墓は山口県にある。
そこに行くたびに。私は広島・原爆ドームに必ず行き祈りを捧げている。
http://sarabasokagakkai.blog.fc2.com/blog-entry-82.html
無名の庶民=J.BOΦWYさん
まああーーー!!!!!!!!
そうだったんですねー!!!
いやいや、全然大丈夫です、大丈夫です!!!
むしろ、ご丁寧にこちらが恐縮してしまいます。
ほんとにありがとうございます(__)
サイドシートからの応援・・・。
文章が苦手・・・。それでもあのとき、色々書いてくださったわけですよね。
嬉しい限りです。感謝いたします!!
対話のこと、いちやはくお知らせくださって、ほんとにありがとうございました。
しかし・・・。本当に復旧できてよかったですよね。
浜田さん・・・ああああ!!だから
J.BOΦWYだったわけかあー!(笑)気が付くのが遅いですよね!!
ほんとすいません(__)そっか、そっかー!!
このアルバムの年月で察しますが
J.BOΦWYさんと私は同時期に学生部、私は女子学生局ですヨ。
まさに第二次宗門問題からの世紀末を経験したあの時代ですね。
バブル経済。そして2000年代への突入。
なにかが変だ。なにかがおかしい。
そう感じずにはいれない得体のしれない不気味さを覚えてきました。
しかし謎解きを終えると、「あー。そういうことか。」というのが昨今であり。
ではこれからどうしていけばいいのか?ということを
みんなで知恵を絞りながら次世代に継いでいくのが我々世代の責任なんだよな・・と。
こちらの映像ね。意味不明なんですが涙が出ました。
なんだろう。
答えはわかりませんが、とっても素晴らしかったので
記事にさせてください。
管理人特権を振り回してなんですが(笑)何卒ご了承くださいませ(__)
少々お待ちくださいませ。
空 ?URL ? 2018-06-06 15:59
管理人特権を振り回してなんてとんでもございませんヨ(=^◇^=)
どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m(__)m
>バブル経済。そして2000年代への突入
まさに空さんが言われるように
この歌は
この詩は
バブル経済、MONEY、マスゴミ、来るべき1999年を
浜田省吾さんが預言者的感覚でバブル経済が破綻する前の年
1990(平成二)年6月21日(木)に発表された魂の声が入った歌です
それにしても空さんの文章には、何かがあります
その何かが何なのかは??
わしにもわかりませんが???
恐らく、この歌を聴いてくださって涙があふれるほどの
PUREな純粋な心の持ち主だからです
これからも世界遺産が二つある街角から??
真夜中の夜汽車に揺られて
孤狼の血が流された仁義があるのかないのかは
わからん街にGET BACKして
空さんのブログを読み拍手させていただきマッスルヨ(=^◇^=)
■詩人の鐘の歌詩です■
https://www.uta-net.com/song/11684
J.BOΦWY ?URL ? 2018-06-07 00:41 ?
?
J.BOΦWYさん
御許可ありがとうざいます!!
1990(平成二)年6月21日(木)・・・。
この時、自分はなにをしていただろう。。。と考えちゃいました。
大学に行っては、バブル真っ盛りな女子大生をながめつつ。
キャンパスの芝生にあぐらかいたり、ゴロゴロ寝転がってたのが気持ちよかった。
バイトで疲れてるし。単位もとらなあかんし。でも学内組織を盛り上げなあかんし。
好きな趣味にも没頭したいし。でも家は。親はぐちゃぐちゃやー。
なんやねん、信心してたらなにもかも上手くんちゃうんかー?真反対やんけーと。
「コンパに参加して!!」とどんなに誘われても拒絶していたなあ・・・・
大阪は花の博覧会で大事故を乱発し。
MCハマーが大流行していて。レゲエも。
車に「HIMIRO」と英字シールがでかでかと貼られていたり。
創価は文化祭を開催し・・・。
あっちこっちで。猛烈な花火が打ち上げられていたような。
途轍もなく落ち着きのない時代だったな・・・と。
そんな騒々しい時代の中で、
浜田さんはどこかを見つめて。楽曲にしていたのかなあ・・・。
私ごときにはわかりませんが。。。想像です。
私自身はピュアだなどと自分ではまったく思いませんが
そうありたい、そうなりたい、と願う気持ちは確かにあります。
かつて婦人部幹部に折伏ができない私に(厳密にいうともっと複雑なんですが)
「貴女は命が汚いのよ!!」と叱責されたことがあります。
こんな創価に人を誘い込めないから命が汚い・・・
どこまで傲慢なんだろうなあーって。創価の理屈って粗悪で乱暴だなーって。
相手の気持や状況を尊重することがだめなことなんだねーって。
悉く、創価が嫌いになった瞬間ですね。
人生ってほんとに一瞬で決まりますね。
世界遺産が2つある街角・・・。
愛と平和。そんな温かな風が吹くことを。
それを今日も強く、願います。
空 ?URL ? 2018-06-07 04:37 ?
◆映像◆https://youtu.be/SG0QVLCBhzo
浜省だらけの野球対決
◆削除映像◆https://youtu.be/s_JjxaKb9R0
浜省だらけの大運動会
2001(平成13)年11月18日 O.A 画質悪いですが