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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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1984(昭和59)年09月23日(日) 蔵前国技館が閉館 ⇒ 蔵前国技館が大相撲秋場所千秋楽を最後に閉館した。第2次世界大戦後、GHQに接収された旧両国国技館に代わる東京場所開催地として台東区蔵前が選ばれ、1954年9月に開館。プロレスなどの各種興行でもにぎわった。東京場所は85年1月から両国に戻った。写真は千秋楽の「さよならセレモニー」【時事通信社】
1889(明治22)年09月23日(月) 任天堂創業、花札製造会社としてスタート
1952(昭和27)年09月23日(火) ロッキー・マルシアーノがボクシング世界ヘビー級王座に
https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1989(平成元)年9月23日(土) 清原のバット投げ&ヒップアタック事件
‡2017(平成29)年9月23日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月23日だ。
写真◆平沼の顏からも、このときの衝撃の大きさが分かる
1989(平成元)年、2位の近鉄に1.5差とした首位・西武が本拠地にロッテを迎えたデーゲーム。秋分の日の休日とあって、西武球場は満員の4万5000人で膨れ上がった。
試合は序盤から一方的な西武ペースになり、四番・清原和博の満塁弾もあって3回を終え、7対0と大量リードした。
4回裏二死一、二塁で打席には再び清原が入る。このとき、ロッテの二番手・平沼定晴の初球が清原の左ヒジに当たり、次の瞬間、事件が起こった。
清原が持っていたバットをマウンドに向かって投げ、それがバウンドして平沼の左太もも当たる。さらに清原は平沼に向かって突進。強烈な“ヒップアタック”を食らわせた。そこから両軍選手入り乱れての大乱闘となる。
清原はすぐ退場処分となり、試合後にはパ・リーグから「厳重戒告、制裁金30万、2日間の出場停止」の裁定が下された。1年目から続いていた連続出場記録も490試合でストップ。平沼は全治2週間のケガを負った。
試合直後は、「投げる前から狙っているような感じやった。その前にホームランを打たれて悔しいのは分かるけど」と興奮気味だった清原だが、その後、冷静になり、「申し訳ない。何と言われても仕方がない。謹んで受けます。バットを投げつけたことに一番心が痛む」と語った。
この“事件”が掲載された当時の週刊ベースボールを見ていたのだが、その前週の号は、表紙が清原。見出しには「MVP有力候補?」とあった。さらに、その前週の号は「不死身の死球王・清原」で巻頭特集が組まれている。
1989(平成元)年9月7日(木)のオリックス戦で、今井雄太郎に左ヒジにぶつけられたが、その後、「鉄人ぶり」を発揮し、変わらず活躍しているという内容。そこには「2年目ぐらいまでは、あんまりみえみえの近めを放ってきたら、睨めつけとったけど、今はもうそんなことやめましたわ」というコメントもあった。
ルーキー時代から清原への厳しい攻めは際立っていた。この時点でリーグトップの15死球。うち5個がロッテだった。確かに乱闘になってもおかしくはない。ただ、清原自身のコメントにもあったが、バットを投げつけたことに関しては、清原ファンも擁護はできないはずだ。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1998(平成十)年9月16日(水) 空前の大混戦の中で近鉄・中村紀洋がサヨナラ弾
2017(平成29)年9月16日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月16日だ。
写真◆喜びを爆発させながらホームにかえってきた中村。佐々木恭介監督も「これで流れが変わる」とはしゃいだが……
1998(平成十)年のパ・リーグは世紀の大混戦と言われた。最終的には西武が抜け出すのだが、9月後半になっても西武、日本ハム、ダイエー、近鉄が1ゲーム差にひしめき合っていた。
この中で後半急失速し、オリックスにも抜かれ、5位に落ちてしまったのが、近鉄。4強にいなかったオリックスが優勝争いには絡まなかったものの、後半戦勝率トップで3位にまで上がったのだから、この年の混戦のすさまじさが分かるだろう。
1998(平成十)年9月16日(水)は、そんな近鉄が首位奪還に向かい、浮上のきっかけをつかんだかと思われた試合だ。ダイエーに3連敗の後、本拠地・大阪ドームのロッテ3連戦でも初戦敗退。ただ、あまりに壮絶な星のつぶし合いをやっており、それでも首位とは2ゲーム差だった。
試合は近鉄がマットソン、ロッテが園川一美の先発で始まり、9回表を終えた時点で3対2とロッテがリードしていた。
ここでサヨナラ3ランを放ったのが、若き三番打者・中村紀洋だ。
この回、4人目の打者となる。それまで4打席凡退していた中村だが、負けたら優勝争いから脱落は分かっていた。「ランナーが出ないと回ってこないので、何とか俺まで来い。俺が決めたる、と思っていた」という。
相手投手は三番手の左腕・河本育之。中村は「後悔はしたくない。中途半端なスイングはやめよう」と思い、持ち前のフルスイング。これが自身の25号、サヨナラ3ランとなった。中村にとって通算100号本塁打でもあった。
近鉄はその後も
‡1998(平成十)年9月23日(水)までは4勝2敗1分で、逆転優勝の可能性も十分にあったが、
1998(平成十)年9月25日(金)からの5連敗で前述のように5位に沈み、閉幕。ただし、首位とのゲーム差は5だった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170923-10
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170916-11
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.076 ┃ 30円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1959(昭和34)年9月23日(水)号 特集 ぶつけられた山内~大毎の危機感
2018(平成30)年1月11日(木) 11:08 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎巨人の新人・王が金田正一から初安打
写真◆表紙は巨人・広岡達朗
今回は『1959年9月23日号』。定価は30円だ。本文巻頭は、『ぶつけられた山内~大毎の危機』。8月27日の近鉄戦(森ノ宮)で、大毎の主砲・山内和弘の顔面にミケンズの投げた球が当たり、入院となったのだ。その病室を訪ねたのが、南海のエースで29日に27勝目を挙げた杉浦忠だった。8月31日現在で首位南海と2位大毎の差は3ゲーム。山内の離脱でチーム力が大きく落ちて苦戦が続いていた。2人の会話が掲載されていたが、その中で山内の「当たる瞬間」の話を抜粋する。
「あのときのミケンズの球ね。3メートルくらいのところへきたとき、これは当たるなと思ったけど、どうしたわけか体がすくんでしまって動かない。足や腕だったら、よけられんことはないが、どうもあのコースはいかん。わざとやったとは思いたくないが、わからない球だったよ」
日ごろから「ビーン・ボール」は投手に必要と公言するミケンズ。投げた後、プイと横を向いたというから、かなり真っ黒だ。
『12球団週間報告』では、8月30日、国鉄・金田正一から初安打(7号本塁打)を放った巨人の新人・王貞治が登場。「金田さんからの初安打がホームランとは。そりゃうれしいですよ。だけど、これがきっかけとなって打てるかどうかは、わかりませんね」と笑顔も中途半端。打撃不振が続き、これが21日ぶりのスタメンというから当然か。
『特報対談』として乱闘事件で出場停止処分となり、8月31日に処分解除となった東映の山本八郎が登場。聞き手は、お馴染みのNTVアナウンサー・越智正典だ。
連載『選手の秘密』では国鉄のライト・町田行彦が登場。すさまじい強肩で、外野からの返球を受ける捕手役の手が真っ赤に腫れ上がり、“ノーバウンド返球”禁止となったという。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.279 ┃ 40円
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‡1963(昭和38)年9月23日(月)号 西鉄・稲尾和久のあまりに過酷な連投
2018(平成30)年8月21日(火) 9:44 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎長嶋茂雄は死球禍で一時離脱
写真◆表紙は左から中日・江藤慎一、巨人・長嶋茂雄
①巨人・中日の優勝争い
②日本シリーズへ準備する南海 ←表紙の一番上の①&②
今回は『1963年9月23日号』。定価は40円だ。
セ・リーグは巨人、中日の優勝争いがさらに激化していた。
9月8日時点でゲーム差3.0。しかも首位巨人は、好調だった国松彰が自打球で1カ月の離脱となっただけではなく、9月7日には、長嶋茂雄が甲子園の阪神戦でバッキーの投じたビーン・ボールくさい1球を右手薬指に受けた。
チームの象徴だけに痛手は大きい。
すぐさま東京から夜行列車で、球団専属で伝説の名医・吉田増蔵接骨医が大阪へ。診断の結果は、骨に異状なく、1週間ほどの離脱で戻れるという。
ちなみに、この時点で長嶋は変わらずセの三冠王。これまではすべて王貞治と1、2位独占だったが、打率で異変があった。
長嶋.347に対し、広島・古葉毅が王を抜き、.332で2位につけた。
その広島に、沖縄の琉球煙草の投手・安仁屋宗八が入団した。
複数球団の争奪戦となっていたのだが、いかんせん、安仁屋がいたのはアメリカの統治下にあった沖縄。なかなかスカウトが現地入りできず、どこも本格交渉ができなかった。
ただ、広島には日系人のフィーバー平山がおり、彼が沖縄に行き、契約をまとめたという。日本人なら申請から1カ月ほどがなければ沖縄に「入国」できなかったらしい。
一方、ほぼ南海優勝で決まったかに見えるパ・リーグでは、いまだ6ゲーム差ながら、西鉄があきらめていない。
その原動力が稲尾和久だ。
とにかく、すさまじい勢いで投げている。
「カラスの鳴かない日はあっても稲尾の投げない日はない」とまで言われ、シーズントータルでは、386イニングを投げた年だ。
7月が77回3分の2、8月が63回と2カ月で規定投球回に届きそうな勢いだった。
たとえば、9月1日に先発し8回を投げた後、1日あけて3日のダブルヘッダーは第1試合に3イニング、第2試合は12回を完投している。
「気力でやっていく。もう勝つとか負けるではなく、力を出せるときに出すだけなんだ」と稲尾の言葉には悲壮感がこもる。
もはや55年前の話だが、明らかに常軌を逸していたと思う。
申し訳ないが、この連載の担当者は、いわゆる“スポ根”世代。命を削るようなパフォーマンスの美学は分かる。
ただ、これは違うのではないか。
このシーズンの稲尾は明らかに「神様、仏様」ではなかった。酷使による異常が出ながら、必死に歯を食いしばって投げていた。
成績を見ても分かる。
2年前、78試合404イニングに投げたときは42勝を挙げているが、この年は74試合に投げながら28勝。防御率も落ち、特に試合終盤に一気に球威が落ちた。
間違いなく、投げさせるべきはなかった。稲尾はこの年28勝で最多勝、防御率2.541はリーグ3位。イニング数では2位の東映・土橋正幸より85イニング多かった。
話が重くなったので、最後に軽めの雑ネタを。
5位に低迷していた国鉄・浜崎真二監督の髪が急激に抜け始めたという。
あまりの勢いに驚き、医者に診てもらうと、自律神経の問題と言われた。
浜崎は「必死にAクラスに入ろうとやっているからだろう。今回の治療費は不振の選手に払わせてやるから覚悟しろ!」と、結構本気で怒っていた。
あまり軽くないか。
では、またあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.541 ┃ 60円
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‡1968(昭和43)年09月23日(月)号 あなたがかんだ、小指が痛い、の大合唱?
2019(令和元)年09月05日(木) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎メジャーのサイン盗み大作戦
写真◆表紙は巨人・柴田勲
今回は『1968年9月23日号』。定価は60円。
いつからか分からないが、巨人・柴田勲が打席に入ると必ず客席から歌が始まるようになった。特に広島市民は大合唱だったという。
あなたがかんだ、小指が痛い……。
当時の流行歌、「小指の想い出」である。
球界一のモテ男、柴田は、芸能誌でこの歌を唄っている伊東ゆかりとの交際を盛んに記事にされていた。
これまでも、頻繁に女性関係を報道されていた柴田だが、今回はかなり大々的。
いつもはのらりくらりと受け答えする柴田も「何度同じことを聞いたら気が済むんだい。ただの知り合いの一人にすぎないさ」と、さすがに怒っていたようだ。
巻頭の「暗躍するプロ野球の地下組織」という記事はサイン盗みの話で、かなり看板倒れ。
ただ、例として挙げられていた1902年の話は面白かった。
フィリーズであった事件らしいが、バッターボックスの中に電線を埋め込むという手法だ。
センター後ろから覗いて捕手のサインを盗むと、モールス信号のようにパターンを決めて電流を流して、その場所に足を置いた打者に球種をつたえていたというものだ。
ばれたのは、相手打者がスパイクで地ならししている際、たまたま、そこを踏んでしまい、ビリビリと電気を感じたことによる。
そのバッターは、そこから手で打席を掘り起こし、黒い電線を発見。その線を掘り起こしながらたぐると、フィリーズベンチにつながっていたというのだ。
日本では巨人・牧野茂コーチの63年の話が載っていた。
巨人は西鉄と日本シリーズだったのだが、途中まで南海が独走で優勝確実と言われ、大逆転優勝した西鉄の情報がまったくなかったという。
牧野は川上哲治監督に「任せてください」と言い、わずか数日で事細かな情報を仕入れてきた。
元西鉄のコーチに聞いたらしいが、当時、「よほどのカネを積まなければ、これほどは集められまい」とウワサされた。
ペナントレースでは阪神が首位巨人を猛追。9月17日からの甲子園での直接対決4連戦が天王山と言われていた。
藤本定義監督は、
「勝負はこの4連戦にある。お客さんをたっぷり入れて、がっぽり稼ぎ、そして巨人をやっつけることができたら言うことなしや。ワシにうま逆転優勝のことをいくらしゃべらそうとしても無駄なことや。巨人戦が終われば大いに話してやるよ」
とこの人らしい怪気炎をあげた。
巨人、広島、西鉄、大洋、東映、中日が訪れ、条件提示も行った静岡商高の新浦寿夫は9月7日、巨人入りを発表した。
韓国籍でドラフト対象外と分かってからの争奪戦だったが、当の新浦は「これまで日本人として通してきたのに、嫌な気がした」と話していたという。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180111-13
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180820-06
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190904-02
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①┃ プロ野球仰天伝説 No.189 ┃ ONLINE
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日本酒でよみがえった谷沢健一
2018(平成30)年6月30日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
◎アキレス腱で出番が減少して……
写真◆中日・谷沢健一
1976年、最後に張本勲を逆転して首位打者を獲得した谷沢健一。中日の中心選手としてはもちろん、日本球界を代表するヒットメーカーへと着実に歩を進めているかのように思われた。ところが、その2年後から谷沢の試合出場機会が見る見るうちに減ってきた。78年には70試合に減り、翌79年はわずか11試合の出場である。
原因はアキレス腱痛。ただ、アキレス腱が傷ついたわけではなく、アキレス腱の最下部、カカトとつながる部分が炎症を起こし、アキレス腱に痛みが出るという厄介なもの。大学時代からの持病だった。
それまでも軽い痛みはあったものの、我慢できないほどではなかった。ところが、いわゆる“勤続疲労”、さらに人工芝を採用する球場も増え、知らないうちにアキレス腱への負担が増し、悪影響をもたらしていったようだ。痛みとともに、患部が硬くなって満足に走れない日々が続く。有効な治療法が見つからず、ついには引退の危機を叫ばれるほどになった。
そんなとき、ファンから日本酒を塗ってマッサージする療法を聞かされた。そしてたどり着いたのが、九州で日本酒を用いる治療法を指導していた小田山秀雄氏。谷沢は小田山氏を「日本酒マッサージで私のアキレス腱をよみがえらせ、私の心も回復させた名医」と呼ぶ。風呂上りに、酒に湿らせたガーゼで患部をぬぐっては丁寧にマッサージを繰り返す。ゆっくりではあったが、痛みが薄らいでいった。
‡1979(昭和54)年9月23日(日)、ついに一軍復帰。横浜大洋戦(ナゴヤ)の7回に代打で登場したときには、中日ファンの大声援が谷沢に降り注がれた。
そして80年は、開幕からヒットを連発。ついには打率.369の高打率で2度目の首位打者を獲得、あわせてカムバック賞も受賞した。
中日ファンが、谷沢の打席の際に鳴らすヒッティング・マーチは、この年から「帰ってきたウルトラマン」のテーマになった。
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②┃ プロ野球仰天伝説 No.196 ┃ ONLINE
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前日頭部への死球で病院に運ばれながら放った劇的満塁弾
2018(平成30)年7月7日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
◎広島との熾烈なデッドヒートのなかで
写真◆満塁弾を放った巨人・クロマティ
鈍い音が客席まで届き、一瞬、満員の神宮球場が静まり返った。
1986(昭和61)年10月2日(木)、ヤクルト対巨人の6回一死。ヤクルト・高野光の145キロのストレートが巨人・クロマティの右頭部のヘルメットに直撃。大きく三塁側にはねた。タンカで運ばれ、そのまま救急車で病院へ。試合後、「外角球と思い、踏み込んだのでよけ切れなかった。ぶつかった瞬間も覚えているし、大丈夫」と本人のコメントが出され、治療に当たった医師も「首に痛みがあるようだが、頭の中ではない。後遺症はないでしょう」と説明した。
8月に入り、首位に立った巨人だが、
‡1986(昭和61)年9月23日(火)直接対決で敗れて広島に抜かれ、さらに翌日、四番の原辰徳が広島の守護神・津田恒実の球をファウルした際、左手有鉤骨骨折で離脱。試合も敗れた。
だが、そこから巨人は息を吹き返し5連勝。再び広島を抜く。その原動力となったのが新四番・クロマティだ。そこでの死球。試合には勝ったが、王貞治監督の眉間のシワがさらに深くなった。
翌1986(昭和61)年10月3日(金)、クロマティは再検査を受けた後、家に戻り仮眠。そこから自分で車を運転し、ヤクルト戦開始近くに神宮球場入りした。練習はしていないが、王監督には「代打でいいから出してほしい」と申し出た。
巨人は水野雄仁が先発も初回、いきなり3失点。それでも3回表に3点を取って同点にし、マウンドに斎藤雅樹を送った。クロマティもブルペンに向かい、投手の球筋を追う。いまさらバットを何回も振るより、目を慣らしたほうがいい。あとは1球で仕留めればいいのだ。
◎奇跡のひと振りでベンチも涙、涙
6回だった。二死満塁とし、打者は一番・松本匡史。ここで王監督は決断した。クロマティの名を告げる場内アナウンスと同時に、すさまじい歓声が起こる。1ボール2ストライクの後、尾花高夫の外角への速球だった。バットを一閃すると打球はバックスクリーン左へ。満塁本塁打だ。クロマティは右手こぶしを突き上げ、大きくほえた。
ホームにかえると選手、コーチが泣き笑いで次々抱きついてきた。巨人ファンからクロマティが好きな「バンザイ」コールが起こった。
「みんな泣いていたし、オレも泣いたよ。ベリー・エキサイティング!」とクロマティ。一番泣いていた感激屋の中畑清は「こんな試合をしたんだ。絶対優勝できるぞ!」と目をぎらつかせて語った。
この試合、8対3で勝利した巨人は、さらに翌日の阪神戦にも勝ったが、広島も負けない。巨人は
1986(昭和61)年10月07日(火)、同じ神宮でヤクルトに逆転負けし、ついにゲーム差なしながら2位転落。
1986(昭和61)年10月12日(日)には広島の優勝が決まり、巨人はわずか3厘差で優勝に届かなかった。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
③┃ プロ野球仰天伝説 No.191 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
ダメ虎に灯ったかすかな光明。ドライチ、5連続完投の“快記録”
2018(平成30)年7月2日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
◎シーズン終盤に起こった“奇跡”
写真◆阪神・湯舟敏郎
1991(平成三)年の阪神は残り18試合で早くも2年連続最下位が目前。秋風がビュービューと吹きまくっていた甲子園球場に、ある“奇跡”が起こった。
まずは1991(平成三)年9月22日(日)の横浜大洋戦。お立ち台で涙を流した阪神先発・中込伸の完投勝利からだ。
「すごくうれしいです。これまでなかなか勝てず、スカウトの方や田舎の監督、コーチのみなさんにも、ご迷惑をおかけしました……」
背番号は99と大きいが、1989(平成元)年のドラフト1位。右ヒジの手術もあり、これがプロ初勝利だ。この消化試合から、史上例を見ない“怪記録”がスタートした。
‡翌1991(平成三)年9月23日(月)の同カードで、今度は新人ドライチの湯舟敏郎が先発での2試合連続完投勝利(完封)。さらに
1991(平成三)年9月24日(火)からのヤクルト3連戦の初戦で、88年のドライチ、野田浩司が3失点完投勝利、続く
1991(平成三)年9月25日(水)には1987(昭和62)年のドライチ、猪俣隆が1失点完投勝利。これで4連続完投勝利だ。阪神にとって、
1977(昭和52)年4月07日(木)の6連続完投勝利以来14年ぶりとなる。
1991(平成三)年9月26日(木)、今度は1990(平成二)年のドライチ、葛西稔が1失点完投勝利。まさに前代未聞、ドラフト1位だけの5連続完投勝利を達成した。
阪神は、これでこの年初の5連勝、3連戦初の3タテ、2年目の中村勝広監督にとって、就任以来初の月間勝ち越しでもあった。この間、和田豊、八木裕、オマリーら打線も好調。遅まきながら“勝ちパターン”もできてきた。
しかし1991(平成三)年9月28日(土)、甲子園を離れた途端、“魔法”が解けた。中日に8対9と逆転負け。以後、閉幕まで2勝11敗とダメ虎へと完全に逆戻り。ただし、我慢しながら5人を軸に作った先発投手陣は翌年も機能。リーグトップの防御率2.90を残し、2位躍進の原動力となった。
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180630-13
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180707-12
③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180702-13
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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①┃ Jackie Robinson ジャッキー・ロビンソン ┃
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1919(大正八)年01月31日(fri) Born
‡1947(昭和22)年09月23日(tue) エベッツ・フィールドでジャッキー・ロビンソンデーが開催
1972(昭和47)年10月24日(tue) Died (aged 53)
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②┃ 『42~世界を変えた男~』 ┃
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2013(平成25)年04月12日(fri) US released
2013(平成25)年04月15日(mon) US&カナダ公開3日で2730万ドル(約27億円)初登場1位、野球映画史上最高のオープニング記録達成
2013(平成25)年11月01日(fri) JP released
1945(昭和20)年08月28日(tue) 0:09:16 Brooklyn Dodgers契約試験
1947(昭和22)年04月15日(tue) 1:03:00“EBBETS FIELD”Opening Day“エベッツ・フィールド”開幕戦
amazon・・・4月15日。その日、大リーグではグラウンドにいる全員が背番号「42」をつける。どのチームの、どの選手も。敵も、味方も、関係なく。「42」――それは、大リーグで唯一の、全球団共通の永久欠番。その裏側に、鳥肌の立つようなドラマがあった。Rating G (C) 2013 Warner Bros. Entertainment Inc. All rights reserved.
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①https://en.wikipedia.org/wiki/Jackie_Robinson
②https://en.wikipedia.org/wiki/42_(film)
②https://www.amazon.co.jp/dp/B00JCUV2AG
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