「鎌倉幕府」は存在しなかった! 変わる日本史の常識
2013(平成25)年10月21日(月)
「イイクニつくろう」で鎌倉幕府の成立は
‡1192年、という定説が揺らいでいる、と最近よく話題になっています。読売新聞が夕刊トップで掲載した「変わる日本史教科書」というタイトルの記事では、改訂された高校生用の日本史教科書が、鎌倉幕府の成立の時期について「1180年」から「1192年」まで6つの説を載せていることを紹介していました(平成25年3月27日付)。なぜそんなことになるのでしょうか。その答えが『歴史をつかむ技法』(山本博文・著 新潮新書)に書いてあります。もともと「幕府」という言葉は、中国が起源。出征中の将軍が幔幕を張って宿営しているところを指したのですが、これが日本では武家政権のことを指すようにもなりました。ただし、一般に広く武家政権のことが「幕府」と呼ばれるようになったのは、なんと江戸時代の末期からだそうです。つまり、源頼朝が鎌倉に政府を開いた際には、「幕府」なんて言葉は使っていなかったわけです。当然、頼朝はもちろんのこと、周囲の誰も「鎌倉幕府が出来た!」なんて盛り上がりは見せていません。したがって、正確に言えば、当時は「鎌倉幕府」など存在していなかったことになります。結局、いつ「鎌倉幕府」が出来たのかという答えは、後世の歴史学者の定義や解釈で異なってくるわけです。「安倍政権」「オバマ政権」といった現代の区分とは別のものなのです。こうした事情から、今の歴史教科書では「イイクニつくろう鎌倉幕府」というシンプルな教え方が消えていきました。同書によれば、鎌倉時代や室町時代に、征夷大将軍が実際に「将軍」と呼ばれることも少なかったし、江戸時代には「藩」という言葉もほとんど使われていなかったそうです。こういう事実を知ると、歴史小説やドラマの見方までがまた変わってくるのではないでしょうか。
http://www.gruri.jp/topics/13/10211630/
食の安全…
‡2018(平成30)年11月09日(金)
某ファーストフード店にて、ハンバーガーに人の歯が混ざっていたというニュースがちょっと話題です。
https://www.sankei.com/smp/affairs/news/181107/afr1811070037-s1.html
やれミミズの肉だネズミだと噂の絶えない、Mドナルドさんのハンバーガー。ところでハンバーグにミミズが使われていたというのは、事実としてあったんだそうです。その界隈に詳しい方によると、なんでも味の調節等に少量(?)使われていたそうで、子供の腕の太さほどもある南米原産のミミズがそれだそうな
※参考 https://www.tokyo-sports.co.jp/blogtalent-yamaguchi/414/
そのミミズ、とある理由から使用を辞める事になったそうです。なぜ?噂が広まったから??ではなく、体に良いからという理由だそうです。古来よりミミズは漢方で薬として使われる程であり、土を耕してくれるだけあって、人間の体も浄化、耕してくれる効果があるそうです。びっくらポン、びっくりドン○ーですねぇ。支配者さん達は、ケムトレイルを撒いたり電線から電磁波を照射するぐらいですから、庶民達にはなるべく不健康で馬鹿であって欲しいのです。なので体に良い、こんな良いもの、バカどもに食わすんじゃねぇ!!ということで使用を禁じられたそうです。ヒドイなぁヽ(´o`;さて食品から人体の一部が検出されるというのは、日本ではそれほど騒がれませんが、アメリカでは各地で報告され、ちょっとしたムーブメントになるほど。結論から言うと、最近ハンバーグ等に使用される人肉の割合がさらに高められたそうです。共喰いによる異常たんぱく、プリオンの発生による海綿状脳症といった事もそうですが、なによりも人間の持つ獣性を引き出すため、だそうです。古来より人肉食は広く行われており、現代においても、ある知り合いの知り合いのジャーナリストがタイの黄金三角地帯に潜入し、そこのマフィアのドンと仲良くなり、目の前で殺された人の肉で歓待を受けたという話を聞きました。死者を弔うだとか、人喰いさん達にとってはおそらく、神の寵愛から逸脱するという意味合いを込めて…儀式的にだったり、単純に趣味嗜好で人肉食を続ける事によって、人の魂は正常から逸脱していきます。支配層が望んでいるのは、ソレなのです…お前らも、俺たちと同類になれ!!しかしお前らも所詮、食料だ 今や、ハンバーグや成形肉は食べられなくなってしまいました (つД`)ノホルモンも危険です。プロでもない限り、調味された内臓は本当に牛豚の内臓なのか、判別ができません。個人経営で昔からやっているお肉屋さんが安心ですが、それもどうか…なにせ畜肉、屠殺業に携わる部落民は、アンタッチャブル扱いを受けて、裏でコッソリ何をしているかというと、遺伝子操作だったり…アレをアレしたり…という分野の最先端ですから。(部落差別には猛反対です。住んでいる場所だけで人に優劣をつけるなんて、なんという時代錯誤か!!!)秋篠宮殿下が浜松の牧場を訪れたのも、そこを伝える為だったとも思えます。私が行った日に火事だなんて、偶然にしてはちょっと…
(詳細は過去の記事を参照ください) http://yoshikawahiko.hatenablog.com/entry/2018/10/02/064622
ケムにまくために火をつけたなぁ??火消しのはずが付け火をするたぁ、洒落っ気があるねぇ(;´д`)嗚呼、書かねばいけないテーマが色々あるのに、ネットのニュース記事を見て、思いつきで書きなぐってしまいました。落ち着いたら、オーガニックライフの紹介もしていきたいですね。当方、米農家もやっておりますので、完全無農薬、肥料無使用のお米で、いろいろとやっております。特集!!米ヌカと重曹だけあれば薬局はいらないい!? 大量消費社会を激烈風刺!!とか 乳酸菌農法が土を救う!?打倒、食料ヤクザJA!!!とか、色々書きたい所ですが、いつ落ち着くやら。とりあえず、米だけは無尽蔵にあるので、鶏さんを飼って卵をいただきたいですね いずれは肉食から脱却するため、食を見直していく必要があると、貧農の息子は思うわけです。まる
yoshikawahiko.hatenablog.com/entry/2018/11/09/015924
┏━━━━━━━━━┓
┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
┗━━━━━━━━━┛
1963(昭和38)年11月09日(土) 三池・三川炭鉱で炭じん爆発事故 ⇒ 福岡県大牟田市の三井三池鉱業所三川鉱の坑口から約500メートル付近で大爆発が発生。戦後最悪となる458人の犠牲者と839人の急性一酸化炭素中毒患者を出した。送炭ベルト原動機付近にたまっていた炭じんが、摩擦熱か電気のスパークにより引火、爆発したとされる。写真は同僚らに運び出される遺体【時事通信社】
1963(昭和38)年11月09日(土) 国鉄・鶴見事故。死者161人 ※2019(令和元)年記事削除
1965(昭和40)年11月09日(火) 米ニューヨークで大停電発生 ※2019(令和元)年記事削除
1960(昭和35)年11月09日(水) ジョン・F・ケネディ氏が史上最年少で米大統領選に当選
1989(平成元)年11月09日(木) ドイツを分断していた「ベルリンの壁」が崩壊し、出国が自由化
https://www.jiji.com/jc/daily
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡2002(平成14)年11月09日(土) 松井秀喜が「巨人四番」のラストゲーム
‡2017(平成29)年11月09日(木) 7:05
写真◆試合後、猛烈な“カーテンコール”に再び姿を現した松井
「もうユニフォームを脱いでクリーニングの箱に入れ、みんなに頼まれたサインをせっせと書いていたんだけどね」
巨人・松井秀喜は、そう言って記者たちの笑いを誘った。
‡2002(平成14)年11月9日(土)は、東京ドームで日米野球のために来日したMLB選抜と巨人の親善試合が行われた日だ。
この年、優勝、日本一を果たした巨人にとっては、チームで戦う今季ラストゲーム、つまりはFAでのメジャー移籍を表明した松井にとって「巨人四番」のラストゲームでもあった。
試合は、イチロー(マリナーズ)は欠場したものの、ボンズ(ジャイアンツ)とジオンビー(ヤンキース)の2連発が2度見られ、MLB選抜が8対1と圧勝。松井は4打数1安打だった。
試合後、巨人の四番としての最後の試合を終えた気持ちを聞かれると,松井は「それよりボンズ、ジオンビーのホームランに圧倒されましたね」と笑顔で語っている。
実際、このあとも松井は日本代表として巨人のユニフォームを着る。もしかしたら、本当にさほどの深い思いはなかったのかもしれない。
ただ、観客は違った。
朝のテレビ番組で、元木大介が「ゴジ(松井の愛称)を胴上げして送り出したい」と言ったことが一人歩きし、試合が終わってもほとんどの観客が帰らず、松井コールを送り続ける事態となったのだ。
これで急きょ、巨人・香坂英典広報が松井と相談し、ファンへのあいさつが実現した。
大げさなものではない。さっと駆け足でグラウンドを飛び出し、ファンに手を振り、頭を下げる。割れんばかりの歓声が松井に送られた。
試合後、松井はいつもなかなかロッカールームを出てこない。この日も試合が終わり、1時間半ほどし、ほかの選手がすべて帰ってから、報道陣の前に姿を現した。あらためて、このときの心境について質問しても、はぐらかすような言葉しかなかった。
ただ、記者はみんな分かっていた。あのとき、松井の目が、真っ赤になっていたことを。間違いない、松井は泣いていた……。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171109-11
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.135 ┃ 40円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1960(昭和35)年11月09日(水)増大号 特集 三原脩“天下をとる”
2018(平成30)年03月11日(日) 11:05 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎『日本シリーズ涙と笑い』
写真◆表紙は大洋・秋山登。本人のサインが入っている
今回は『1960年11月9日増大号』。定価は10円アップで40円だ。グラビアは巻頭とセンターで大洋の4勝0敗で終わった日本シリーズ。うしろは再建を目指す巨人の秋季キャンプの模様が掲載されていた。水原茂監督の去就はまだ決まっていない。
本文巻頭は『特集三原脩天下をとる』。最初は巨人ファンでもあった五味康祐氏による大洋・三原脩監督へのインタビュー。この中で三原監督は大洋の選手に「個人の成績よりチームプレーが優先されておるんだということをずいぶんやかましく言うてやりました」と語っている。野球の転換期でもあったようだ。
『日本シリーズ涙と笑い』では、「第一話西本は一人で泣いていた」で敗軍の将・西本幸雄が日本シリーズ翌日、マネジャーと湯河原の温泉に行った話がある。それは「西本を憤らせる事件があったから」と書いているが、詳しいことについては「時にたたなければ明確にはならない」とぼかしていた。
また「第三話中部、永田の悲喜劇」では、ある意味、選手以上に張り切っていた大洋・中部謙吉、大毎・永田雅一オーナーの話。永田が第1戦で負けたとき「負けたのは予定の行動だよ、キミ。あんなものヘッチャラだ。わがオリオンズに力を見せるのはこれからだよ」と意気軒高だったが、第2戦、谷本稔のスクイズ失敗もあって敗れた後は荒れ模様。
「負けたことは、とやかく言わん。しかしあの8回表の満塁のチャンスに、谷本にバントをさせるとは何事だ。お客さんはみんなミサイル打線を見に来とるんだよ。あのバントを見てワシは本当に恥ずかしかった。負けるにしても、もっと大毎らしく負けてほしいものだ」
第4戦のあとはコメントもなかったらしい。ネット裏では西本クビ説が出ていた。
座談会は『驚異! 大洋輝く4連勝』。大洋から土井淳、秋山登、近藤和彦、近藤昭仁、鈴木武が登場し、4試合を細かく分析していた。
以下は宣伝です。しばらく、まったく同じ文を掲載します。
現在、週刊ベースボール60周年企画として「週べでつづる12球団史」を制作中。第1弾は3月14日発売予定の巨人編です。
では、またあした。<次回に続く>
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.337 ┃ 50円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1964(昭和39)年11月09日(月)号 バッキーの契約更改、もめる
2018(平成30)年11月09日(金) 10:14 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎阪急スペンサーは名コーチ
写真◆表紙は右から南海・杉浦忠、野村克也
今回は『1964年11月9日号』。定価は50円だ。
日本シリーズも終わり、いよいよ契約更改がスタート。滅多にないことだが、紹介する月号とリアルな日付が合致した。
もめていたのがセの優勝チーム、阪神・バッキー。
62年途中、テストを受けての入団だったバッキーは、当初の月給が25万円程度、それが2年目に8勝して年俸1万5000ドルになった(このときバッキーは身重の夫人を交渉に同席させたという)。
3年目のこの年は29勝9敗、防御率1.89をマーク。バッキーは3万ドルを要求したが、球団の返答は1万8000ドル(当時固定相場で1ドル360円)。バッキーは「北海道と沖縄くらいの差」と怒りの表情を浮かべた。
結局、「会社は僕を10勝投手並みの扱いにしている」と言って、未更改のまま帰国。次なる交渉は翌年2月1日の再来日後となる。
62年、5位に終わった後、大洋は「全員が減俸」を打ちだした。実際には一律の減額をした後、プラスの査定を行い、3人だけだが、昇格した選手もいた(前年1000万の選手なら900万に減額した上で査定をするというシステム)。
ただ大洋はもともと中部謙吉社長の方針もあって他球団より給料が高く、周囲からは「プロ野球を企業としてやっていく以上、もっと厳しくすべき」の声もあった。
一方、契約更改を早々に済ませ、帰国せずに秋季キャンプに参加していたのが阪急のスペンサーとウインディ。阪急は2位となったが、西本幸雄監督は、「2位になったからと言って気持ちがだらけてはなにもならない。練習は選手にとって一番大事なことなんだ」と語り、周囲が「これがプロチームか」と驚くほどの練習量をこなしている。
スペンサーは、自身の練習はマイペースながら、ほかの選手へのアドバイスを積極的に送る。石井晶には、「投手中心に打ち返すときは追い込まれたとき、そうでないときは内角をキッとシャープに振るべきだ」と言っていた。
MVP、ベストナインの発表が例年になく遅れていた。これは世間が東京オリンピックで大騒ぎとなっていたため、終了後の10月30日にするとなったからだ。
MVPは62年まではシーズン終盤に投票(記者投票)が行われ、最終戦で開票され、発表されていたが、62年、阪神・村山実に決まった際、成績で上回っていた小山正明が憤慨。
日本シリーズにも少なからず影響が出たとも言われ、翌63年から日本シリーズ後となった。
またこの際、「最高殊勲選手」から「最優秀選手」と名称を変え、特に不文律としてあった優勝チームから選ぶ、という制約を取っ払った(1リーグ時代は優勝チーム以外からも何度もあった)。
では、また月曜に。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180311-11
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20181108-01
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.660 ┃ 80円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1970(昭和45)年11月09日(月)号 阪神・村山実兼任監督の執念
2020(令和二)年03月04日(水) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎川上哲治、大喜び
写真◆表紙は巨人・長嶋茂雄
今回は『1970年11月9日号』。定価は80円。
ロッテの優勝決定からかなりたち、10月22日、129試合目で、ようやく巨人のリーグ優勝が決まった。
中日球場(のちナゴヤ球場)の中日戦だったが、ゲームセットの瞬間、ベンチから真っ先に飛び出したのが、なんと川上哲治監督。その顔は、皆さんに見せたいほどの、満面の笑顔だった。
そのままナインによる歓喜の胴上げ……とはならなかった。
ロッテのVシーン同様、客席から一気にファンが乱入。ただ、敵地とはいえ、この年の中日は大低迷。巨人の優勝シーンを見たいというミーハーファンが多かったようで(それとも乱入したのは巨人ファンがほとんどだったのか)、殺気だった雰囲気はない。巨人の選手を取り囲み、次々胴上げをした。
ただし、川上監督は79キロと巨漢でもあり、コツが分からぬファンには持ち上げられなかったようだ。
祝福ではなく、選手のグッズ狙いだった不届き者も多かったようで、最終的には選手の帽子が15個、グラブ2個が盗まれた(強奪された)。
その後、名古屋市内の宿舎で行われた祝勝会でも川上監督はご機嫌そのもの。選手にジョークを飛ばし、冷やかしながら酒を飲ませている。
逆にしんみりしていたのが、打点王ながら不本意なシーズンだった長嶋茂雄だ。
「よかった。本当によかった。俺は病気をしたりしてチーム苦戦の原因をつくったからね。でも優勝して本当によかった」
珍しいことだったが、目には涙が浮かんでいた。
この激闘は終盤の阪神の猛追が生んだものだ。
立役者はもちろん兼任監督の村山実である。
10月9日、甲子園での直接対決の前日には外野芝生に集めた選手たちに、
「巨人を意識しろ。逆転優勝を狙って戦うんや。悔いのないプレーをしよう」
と檄を飛ばした。
結果は2戦目こそ自身が勝利投手になったが、初戦と3戦目を江夏豊で落とし1勝2敗。
だが、村山はあきらめなかった。
「すべてをかけます。全力を尽くしてみます」
目の下のクマと、この言葉が終盤の定番のようになっていた。
18日のヤクルト戦では、右手指の血行障害が再発し、指が冷たくなりながらも128球を投げ、勝利投手になっている。
22日、巨人の優勝が決まった後の会見では、
「ずいぶんいろんなことがあった1年だった。1年生監督のワシがここまでやれたのも、みんな選手、球団、ファンなど周りの人のおかげや。選手はほんまにようやってくれた。ただ、ご苦労さんを言い、労をねぎらうだけです」
目からは涙が流れていた。
この年の村山は14勝3敗、防御率はなんと0.98。さすがミスタータイガースである。
ネタが多いので、またあしたも同じ号からいく。
では、またあした。<次回に続く>
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
④┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.661 ┃ 80円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1970(昭和45)年11月09日(月)号 東映・大杉勝男、やったぜベイビー!
2020(令和二)年03月05日(木) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎荒川堯、大洋キャンプに参加
写真◆表紙は巨人・長嶋茂雄
今回は『1970年11月9日号』。定価は80円。
同じ号からの2回目だ。
10月19日、前年のドラフト1位・荒川堯が大洋ホエールズのユニフォームを初めて着て秋季キャンプに参加した。
ドラフト会議の後、「巨人以外は行かない」と公言し、アメリカ留学。そのまま次のドラフト会議を待つかと思われたが、大洋の交渉期限の2日前に契約。
ただし、入団会見は「静養のため」と顔を出さず。大洋への入団も、巨人のコーチ退任が濃厚となっていた父・荒川博とセットで誘っていたヤクルトとの三角トレードが決まったためと言われた。
見え見えの茶番に世論も反発。のちの江川事件に近い雰囲気となっていたようだ。
怒ったセ会長の鈴木龍二に「練習に参加させよ」と大洋が勧告を受けた話は書いた。今回の練習参加はこれを受けてのものだった。
背番号3のユニフォーム姿の荒川の写真も掲載されていたが、当時の大洋のユニフォームの背ネームは本拠地の「KAWASAKI」で「ARAKAWA」の文字はない。
本人は記者たちの質問に答え、
「巨人ですか? いまでも好きな球団ですが、未練は捨てます。僕も男だから」
と言っている。
ヤクルトへの移籍に関しては、
「僕の力ではどうにもならないことですから。オーナーや森社長に一任しています」
と裏でのやり取りをうかがわせた。
ただ「なんでウチで働かないヤツと一緒にしなきゃいけないんだ。いじめてやろう」くらいの思いだった大洋ナインの声は、「意外といいやつじゃないか」になっていた。
口数は多くないが、礼儀正しく、何より、久々に一人ではなく、チームで野球ができる喜びが荒川から伝わってきたからだ。
荒川堯は長野県浅間山の麓の出身。荒川博の紹介で早実に入り、3年生のときに博の養子となった。世話になってきたという感謝の思いもあって、実の父以上に博に対し、遠慮があったようだ。
そして、この親子関係が問題を複雑にした。
堯のアメリカ留学の資金は巨人が出したと言われる。つまり、その時点では巨人は獲得に熱心だった。しかし、荒川博の巨人内での立場が微妙になり退団が濃厚となったことで、巨人は獲得を避ける決断をし、言い方は失礼になってしまうが、堯は父の就職活動のダシに使われる形になった。
早大の後輩はこう言って憤っていた。
「大洋だろうとヤクルトだろうと、荒川さんの野球をやりたいという気持ちに偽りはない。あるいは本当のことを、事実を全部吐露したら、どんなに気が楽で、悪者扱いされるのも避けられたはずなのに」
そのヤクルトでは三原脩監督の就任が濃厚となっていた。三原は2年契約が終了した近鉄を10月19日に退団していた。
パ・リーグでは史上最高打率.3834で東映・張本勲が首位打者になったが、東映では、もう一人の男のタイトル獲得にさらに沸いていた。
10月19日、最終戦の阪急戦(西宮)で大杉勝男が足立光宏から43、44号を放ち、42号で並んでいた南海・野村克也を引き離した(南海はあと1試合)。
2本目では、塁を回りながら涙がボロボロ。ホームベースまで出迎えた張本も大杉を抱きかかえながら涙を流した。
「おいおい声を上げて、少々オーバーにいえばひとりでベンチまで歩けないほどの男泣きだった。ワシが抱くようにしてベンチまで運んだが、大杉が泣いているのを見て、思わずもらい泣きした。ワシの目から涙が流れたのは久しぶり」と張本。
ベンチもみな涙だった。体が大きく、少し短気ながら、誰よりも純粋だった大杉が、タイトルをいかに熱望していたか、みんな知っていたからだ。
試合後、大杉は泣きすぎて目がはれ、まだ満足に話ができなかった。当時の記事では「教室でおしっこをもらした小学生のように」とあるが、記者たちに何を聞かれて、小声で「はい」「はい」。
ただ、最後はしっかり、
「もうここまでやって、ノムさんに負けても悔いは残りません」
と言った。
野村は最後の1戦で一番に入ったが、ホームランはなし。この日、青梅でゴルフをしていた大杉はそれを聞き、
「やったぜ、ベイビー!」
と言って、ゴルフクラブを放り投げた。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200303-02
④https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200305-01
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
************************************************************