過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)


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 ┃1980年夏“Home Bound”Recording at Los Angels ┃
 ┃  SHOGO HAMADA JOURNAL  ┃
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●8月9日(土) AM8:00に起き、9:00頃から軽くジョギングし、ジムで運動し、プールで泳いで、部屋に戻った。
朝食をすませ、歌詞を書こうとしたが煮詰まってしまった。
鈴木幹治氏の車で出かけて、ジョギングシューズを買い、帰りにスーパーマーケットに寄って、雑誌と野菜とオレンジジュースを買った、部屋に戻って寝た。
食事に誘われたが断った。
PM10:30頃 幹治氏のTake Outの寿司を食べようと思ったが、食欲がなく食べなかった。
TVで『Saturday Night Live』とかコンサートとか観て、
AM2:00頃から仕事にとりかかった。
気は焦るが、なかなか歌詞は書けない。
こうなることは覚悟していたが、他のみんなが気楽に見えてしまう。でも、とにかくやらねば!

  無題3

  笑顔ひとつで 君はどんな恋でも たやすく手に入れた
  でも誰ひとり愛さず ただのボーイフレンド 遊び相手
  貧しさの中で こわれて消える 愛の生活は嫌だと
  まるでショーウィンドウに自分を並べるように
  着飾って 誰かを待ってた
  愛が買えるなら その涙の理由を教えて
  愛が買えるなら ため息の理由を聞かせて

  君がただひとり 心を奪われた あいつはまだ若く
  夢の他には何も持たない 貧しい学生
  だけど9月の雨の夜 君は丘の上に住む誰かの
  氷のような腕に抱かれて未来を手に入れた
  愛とひきかえに
  愛が買えるなら その涙の理由を教えて
  愛が買えるなら ため息の理由を聞かせて

  夜毎 冷たいベッドで夢見る 丘を駆け降りてく夢
  愛しい人のもとへ 戻ってゆくがいい
  愛だけを真っ直ぐに見て

  愛が買えるなら その涙の理由を教えて
  愛が買えるなら ため息の理由を聞かせて
                     8/10 AM5:00

  無題4

  どれほど泣いたらなら あなたをあきらめられる
  どれほど遠くへ行けば忘れられる
  あぁ他の誰かを好きになろうとしたけど いつも
  あなたとの眩しい瞬間がよみがえるだけ
  手紙も思いの指輪も捨てた今でも

  受話器を握りしめて夜がまた明けてゆく
  ひと言その声を聞けたら眠れるはずなのに
  あの人いつも優しく あなたを忘れることが出来るまで
  待ち続けると言ってくれるけど
  愛する人は ただあなたひとり このまま
  愛する人は ただあなたひとり このまま
                     8/10 AM9:30
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/Home_Bound
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 ┃ R O A D & S K Y ┃Vol.48
 ┗━━━━━━━━━┛Sendai
  ON THE ROAD 1991
   ONE AND ONLY
 TOUR REPORT by RINKO
    PHOTO by JUNJI NAITO
 1991(平成三)年08月発行。会報第48号全36ページ。
 【ON THE ROAD 1991 ONE AND ONLY】レポートで構成。
 【ShogoStation NO.42】"ON THE ROAD'91 Fan'sレポート"
 1991(平成三)年08月10日(土) 26本 みちのく杜の湖畔公園 くもり 前日の
‡1991(平成三)年08月09日(金)、メンバー達はリハーサルの為会場へ入った。仙台は涼しいというよりむしろ寒い。
 1991(平成三)年08月08日(木)までの仕込みは大雨の上、雷・強風に見舞われてスタッフは大変だったらしい。そのせいか、セッティングやサウンドチェックに思ったより時間がかかり、リハーサルが始まったのは午後7時すぎ。野外は近所の民家への迷惑を考えて、どうしても音の出せる時間が限られてしまう。時に追われるように駆け足でリハーサルをしていた。それを観ている間にもすっごく寒くなってきて、薄着で来てしまった私はジッとしていられず、思わず曲に合わせて踊ってしまう程だった。当日の10日、仙台は低温注意報が出る。ただ、1週間以上も続いていた雨は今日にはどうにか降らずに天気はもちそうだという。ホントに"晴れ男"。この公園がまだコンサートの候補地だった頃、「野外だと天気が心配だからなぁ…」と不安がっていた浜田さんに社長が「大丈夫でしょ」と軽く答えていたのを思い出した。メンバーは午後2時30分ホテル出発。1時間余りかかって会場入りすると、もう客席側は半分近く埋まっていた。今日の収容人数は30,000人で、渚園程ではないにしろこれだけの人数がいると、やっぱりちょっとしたイベントである。ON THE ROAD'90から定番となっているWaveも、ものすごい迫力があって"イントレによじ登ってでも上からこの光景を見たい"と思わされるくらいだった。いつもだと後ろの方の人が、のんびりとコンサートを楽しんでいる姿をよく見るけれど、今日は本当に後ろまで盛り上がって圧倒されてしまった。コンサート自体は基本的に今までと変わらないが、屋内と外の差はどうしても出てくる。見慣れているはずの照明も全然違った印象を与えてくれたり、聴き慣れた曲が何故かすごく新鮮に聴こえたり……。やっぱりお祭り的要素が強いなぁと思った。コンサート終了後はメンバー達は即逃げだったので、花火をゆっくり見る暇もなくバスに乗り込みホテルへ― 。(この花火、ずいぶん長かったように感じた)初めはあんなに緊張して、"26本といっても私には長ーいTOURだなぁ"と思っていたのに、終わってしまうとアッという間で、ちょっと寂しい気がしている。このレポートも四苦八苦しながらやっと書き上がる。ON THE ROAD'90~'91の109本を無事こなし終えた浜田さんは、しばらくは休みを取るらしい。ファンの人達の間で囁かれ心配されていた噂(もうステージに立たないんじゃないか)を吹き飛ばすようなTOURがまた再開されることを待ちわびながら、ペンを置きたいと思う。みなさん、本当にお疲れ様でした!
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 https://shogo.r-s.co.jp/fanclub/backnumber/backnumber048.html
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‡1983(昭和58)年08月09日(火) 通行許可証 浜田省吾野外コンサート 国営海の中道海浜公園
 1983(昭和58)年08月13日(土) 海の中道 BIG CONCERT '83 A PLACE IN THE SUN
 https://mobile.twitter.com/sudan0312/status/932994374497058816

  映像◆3:16 3 八月の歌https://www.youtube.com/watch?v=
 
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①┃ 『The Best of Shogo Hamada vol.1』 ┃
②┃ 『The Best of Shogo Hamada vol.2』 ┃
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‡2006(平成18)年08月09日(水) 初リリース
 2009(平成21)年09月02日(水) 再リリース
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 ①音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B00FYKTZO8
 ①https://ja.wikipedia.org/wiki/The_Best_of_Shogo_Hamada_vol.1
 ②音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B00FZ3RZL4
 ②https://ja.wikipedia.org/wiki/The_Best_of_Shogo_Hamada_vol.2
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浜田省吾さんの衝撃的なことばで、このアルバムの一曲のイメージが語られました
『日本は原爆という人類史上、かってない形で、強姦されたんだと思うんです。そこからボクらが生まれたんだと思う
「Blood Line」♪ 犯かされて1945 生まれて、詰め込んだ大量のジャンク・フードとアメリカン・パイ・・・ ♪
ボクらは、強姦されて生まれた日本とアメリカの私生児なのかもしれない』(アルバムの発売前に発刊されたのが田家秀樹著作の「陽のあたる場所」でした 記述に誤りがあるのは、改訂されていないのが残念ですが、ALBUM「FATHER'S SON」についてけっこう細かく語られています)
http://ameblo.jp/bar-flashandshadow/entry-10628460088.html

1981.10.4 長崎市公会堂
1981.10.4 長崎平和公園のDJ
浜田省吾 ラジオ番組 君が人生の時 81 1  https://youtu.be/64wX3CjC-ak

 映像◆一本の鉛筆 美空ひばり YouTube  https://youtu.be/2iennv9YhlA
 

一本の鉛筆 美空ひばり 戦争はいやだ
あなたは、美空ひばりさんが歌われた
『一本の鉛筆』という歌をご存じでしょうか?
この歌は今から41年前、戦後29年目にあたる1974年(昭和49年)8月9日、
広島市で開催された第1回広島平和音楽祭で、 初めて披露された。
作詞は、この音楽祭の総合演出で、
映画『名もなく貧しく美しく』(1961年)などを監督した
松山善三(まつやま ぜんぞう)氏が書き下ろしたものじゃそうな。
♪一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと 私は書く
(『一本の鉛筆』作詞:松山善三、作曲:佐藤 勝)
一本の鉛筆があれば、
一枚のザラ紙があれば、
反戦を訴えることができる、
というメッセージが込められとるんじゃの。
ひばりさんは音楽祭で歌うとき、「幼かった私にもあの戦争の恐ろしさは忘れることができません」
と観客に語りかけられたという。
1937年(昭和12年)、横浜生まれのひばりさんは、
自身も横浜大空襲(1945年5月29日)を生き延びたという経験があるそうじゃ。
それから14年後の1988年(昭和63年)7月。ひばりさんは第15回の同音楽祭でこの歌を歌うため、再び広島を訪れた。
このときのひばりさんは、 数年前から患っとった大腿骨骨頭壊死と肝硬変が治っとらんかった。
この年の4月には、楽屋に簡易ベッドを置き、医師が控える中、激痛に耐えながら全39曲を熱唱した伝説の「不死鳥コンサート」を行なったばかり。
そんなひばりさんが広島で『一本の鉛筆』を歌い、「来てよかった」と言われたという。
 『一本の鉛筆』は、ひばりさん自身が、数ある持ち歌の中でもベスト10に入る歌として、大事に歌われとったということじゃ。
ひばりさんは、 翌1989年(平成元年)6月24日、亡くなられた。52歳の生涯じゃった。
【参考記事】中国新聞 2015年8月10日「一本の鉛筆 今こそ歌われるべき歌」『負うて抱えて20 二階堂和美』
 http://blog.goo.ne.jp/hiroshima-2/e/4cef330856bb463fb2ba7f2e1ac99c13

 八月の歌(AUGUST SONG) 2010 REMAKE version http://video.fc2.com/content/20110331BuRukkYn
  アニメ◆動画:八月の歌(AUGUST SONG) 2010 REMAKE version
  ダイジェスト◆動画:八月の歌(AUGUST SONG) 2010 REMAKE version
  静止画◆動画:八月の歌(AUGUST SONG) 2010 REMAKE version
 八月の歌(AUGUST SONG) 1986 LIVE version http://video.fc2.com/content/20110331CKhdyKfh
  アニメ◆動画:八月の歌(AUGUST SONG) 1986 LIVE version
  ダイジェスト◆動画:八月の歌(AUGUST SONG) 1986 LIVE version
  静止画◆動画:八月の歌(AUGUST SONG) 1986 LIVE version

浜田省吾さんのアルバムthe best of shogo Hamada vol.2 に収録されている19のままさの配信限定アコースティックバージョンはiTunesで販売していますか? 
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10143844765


〝今〟という現実にむきあいながら〝明日〟の見えない若者の心情をそのままに反映したアルバムだった・・・はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』制作秘話
 2015(平成27)年08月05日(水) 執筆者:小倉エージ
 1970(昭和45)年08月05日(水)、はっぴいえんどのデビュー・アルバム『はっぴいえんど』が発表された。林静一が手がけたアルバム・カバーに描かれた製麺所の看板にちなんで後に「ゆでめん」と称されることになる。70年の4月以来、岡林信康の『見る前に跳べ』への参加をきっかけに岡林のライブでバックを務める一方、独自の活動を始めていたはっぴいえんどは、アルバム発表直後の
‡1970(昭和45)年08月09日(日)、岐阜県の糀の湖で開催された第2回全日本フォーク・ジャンボリーに出演し、岡林信康のバックを務めると同時に彼ら自身の演奏を披露した。「朝」を幕開けに♪12月の雨の日♪、「春よ来い」など「ゆでめん」からの主要曲に加え、遠藤賢司の「雨上がりの街」を演奏したが、
 ♪12月の雨の日♪の冒頭で大滝詠一が「暑くてやりにくいんですけど」と触れているように、収録された作品の大半が〝冬〟を背景にした作品が収録された「ゆでめん」の記念すべきお披露目のステージにしてはいささか不似合なものだった。前後して「ゆでめん」からの作品はラジオで放送されはじめたが、やはり暑い夏の真っ盛りだっただけにそれもまたいささか不似合なものだった。おまけに〝(音が)ひきずるように重い音!〟、〝歌詞が聞き取りにくい〟といった声も耳にするなど、当初「ゆでめん」の評判は芳しくはなかった。音楽誌での評価も様々だったが、岡林信康との共演や独自のライヴ活動、加えてURC初期の作品がそうだったように東京の最新情報を伝える各地の放送局の番組などを通じてはっぴいえんどと「ゆでめん」の評価は高まり、翌年のニューミュージック・マガジン(現ミュージック・マガジン)の4月号で日本のロック部門の1位に選出された。〝日本語のロック論争〟の発端のひとつになったものだが、それでもはっぴいえんどの存在は日本のフォーク、ロックを知るファン層に限られていた。日本のロック史、日本のポピューラ・ミュージック史における重要な存在としてその業績、影響などが一般に知られるようになったのは、「ゆでめん」の発表から10年以上を経てのことだった。私が細野晴臣に出会ったのは新宿の花園神社近くにあった「パニック」にエイプリル・フールの一員として出演していた時のことだった。初めての出会いにも関わらず、好んだ音楽が似通っていたことを知り、話が弾んだ。その際、エイプリル・フールの解散と新しいバンドの結成の話を教えられた。それは「バッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレイプみたいなバンド!」というものだった。アート音楽出版に勤務しURCの制作を担当し、どうしてもロック・バンドのアルバムを制作したかった私にとってはそれこそ望んでいたものだった。細野晴臣のその言葉、好きなグループやアルバム、作品についての会話から得た細野晴臣への信頼こそが、すべてのはじまりだった。そして無謀にも細野晴臣が結成するバンドの作品や演奏を聞かないまま、レコーディングの話を進めた。そのメンバーは細野晴臣と同じくエイプリル・フールの一員だった松本隆。当初、ヴォーカルでの参加を予定されながらロック・ミュージカル『ヘアー』への出演が決まった小坂忠にとって代わって参加することになった大滝詠一。「ゆでめん」の録音が終了するまで進学かそれともプロのミュージシャンになるか決めかねていた鈴木茂。URCの制作を担当していた私は、当然、4人の経歴、音楽的な背景や結成の経緯を知っておくべきだったはずだが、それを怠っていた。それを知ったのは「ゆでめん」を制作して後、音楽誌に掲載された彼らのインタビューでのことだ。それよりも彼らが目指す音作りや音楽性について確認し、具現化することにしか関心がなかった。細野晴臣だけでなく松本隆、大滝詠一と拠り所にしたグループのアルバム、作品についての入念な会話を交わすことが重要であり、それ以外は必要もなかったからだ。はじめて彼らの作品、演奏を耳にしたのはレコーディングの実現の為に必要なデモ・テープを制作した時のことだ。大滝詠一によれば彼らの演奏を耳にしながら私は終始うつむいたままで、バッファロー・スプリングフィールドの「ブルバード」のコピー演奏を耳にして初めて反応したということだが、「ブルーバード」の演奏を耳にして演奏の技量を確認し、録音が可能なことを確信した。録音にあたって日本語のオリジナルであることを必須の条件とした私にとって、彼らの作品はそれを満たすものだったが、明らかに習作の段階であり、実際、「春よ来い」がほぼ完成していた以外、
 ♪12月の雨の日♪は「雨上がり」の段階であり、「足跡」が「田舎のコーヒー屋にて」を経て録音時に「かくれんぼ」となったように、リハーサルを重ねるうちに作品の歌詞、メロディーは修正が施され、タイトルが改められていった。
 1970(昭和45)年03月18日(水)、麻布のアオイ・スタジオで初めてのレコーディングが実施された。URCは制作予算の関係から録音は使用料の安価な夜半を中心とし、ハウス・エンジニアの起用が基本方針だったが、はっぴいえんどの初回の録音ではメンバーの要望から吉田美奈子の兄で、当時は東芝EMIで様々な録音を担当していて吉田保があたった。もっとも、その日の録音は芳しくなく、キャンセルせざるを得なかった。最初の録音がキャンセルとなって後、
 1970(昭和45)年04月09日(木)から新たに録音にとりかかった。その様子については「定本はっぴいえんど」を始め、メンバーが様々に語ってきているが、いくらか誤認もあり、それを訂正すべくレコード・コレクターズ誌2015年1月号の「特集はっぴいえんど」での拙稿「「ゆでめん」が出来るまで」で記してきた。彼らが目指した音作り、録音への取り組みについて触れたものだ。音作りもさることながら、作品そのもの、歌唱や演奏を見逃すことが出来ない。〝お正月〟〝こたつ〟〝お雑煮〟〝歌留多〟といった日本の正月の光景を描いた意表をついた歌詞が衝撃的だった「春よ来い」。家を飛び出てひとり暮らす若者の姿は、即座に永島慎二の「漫画家残酷物語」を思い浮かべずにはいられない。それが掲載された劇画誌の「ガロ」こそは60年代末期、何かを求める若者にとって欠かせないもののひとつだった。さらに「12月の雨の日」は、そこに描かれた雨の日の情景が所在のない若者の心情が浮かび上がる。松本隆は「はっぴいえんどにはほとんどラヴ・ソングが無い。でも、ラヴ・ソングの少なさにもかかわらず、はっぴいえんどが普遍的に皆に支持されてるって言うのは、画期的だと思う。あれだけラヴ・ソングが少ないバンドって、かつてなかったと思うし、これからも出てこないと思う」と語る。その例外としてあげられる「かくれんぼ」は男女間の心情の隔たりを描いたもので、当時、ほとんどないシチュエーションだった。そればかりか、その背景に垣間見られる雪景色から、つげ義春的な世界が思い浮かぶ。例外的なもうひとつのラヴ・ソング「朝」では男女間の在り様、恋人の存在を観察する男の心情の描写が興味深い。いずれも大滝詠一が曲を書き、ヴォーカルを担当した。ロック・ヴォーカルにとって不可欠とされたシャウトにとって代わる〝唸り〟の表現、一方で滑らかなクルーナー・スタイルでの取り組みなど、大滝の歌唱はすでに独自性を明らかにしている。自身が作詞、作曲を手がけた「いらいら」でもパワフルな唸りを聞かせている。作曲に対する姿勢、考えはまだ曖昧ななままで、それ以上に〝自分の声〟を見つけ出せなかったという細野晴臣だが、松本隆による都会の冬の雪の情景を描いた「しんしんしん」、〝音〟と意味の重なる語呂合わせに凝った「あやかしのどうぶつえん」や前衛詩的な「敵 タナトスを想起せよ」など、松本隆の歌詞に即したメロディーを手がけ、自身が作詞、作曲を手がけた「飛べない空」では批評性をのぞかせている。さらに〝しあわせなんて どう終わるかじゃない、どう始めるかだぜ、しあわせなんて何を持ってるかじゃない、何を欲しがるかだぜ〟という松本隆が手がけた歌詞が印象深い「はっぴいえんど」の作品としての説得力と重厚さは白眉というにふさわしい。鈴木茂はまだ作詞、作曲を手掛けるにいたらなかったが、
 ♪12月の雨の日♪の鮮烈なリード・ギターを始め、歌を生かし、反映したギター演奏で大きな役割を担っていた。さらに細野晴臣のベースやキーボード、松本隆のキック・ドラム、また16ビートのニュアンスを生かしたトップ・キット・ワークなど、演奏面での充実も見逃せない。2トラックからはじまり、楽器、歌、コーラスのダビング作業の多さから4トラックに移行し、それも4トラックの録音機は一台しかなく2、4トラックの録音機材を駆使しながら録音作業を進めたが、その手法は手探りだった。楽器の分離などの明瞭さにはかける音の塊、ひきずるような重さのものになったが、それが結果として重厚さ、ガッツのある〝音〟を生み出すことになった。「ゆでめん」は、〝今〟という現実にむきあいながら〝明日〟の見えない若者の心情をそのままに反映したアルバムだった。自分探しのアルバムでもあった。さらにその背景には60年代末と言う時代の空気が見え隠れする。他に比較できるものがない画期的なアルバムだった。発表から45年を経た今、懐かしさを覚える人は少なくないはずだ。発表当時もさることながら後年になったその真価が問われ、評価が一層高まることになったのは、作品自体が持つ普遍性によるのは明らかだ。今なお魅力のつきないアルバムである。
 http://music-calendar.jp/2015080501

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