過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 


 映像◆♪HELLO GOODBYE♪https://youtu.be/rblYSKz_VnI
 
 映像◆♪HELLO GOODBYE♪https://youtu.be/MYAjwzjoJP8
 
 https://www.uta-net.com/song/13642/
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 ┃A-side ♪HELLO GOODBYE♪  ┃
 ┃B-side ♪I AM THE WALRUS♪ ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛Single record by THE BEATLES
‡1967(昭和42)年11月24日(fri) UK released
 1967(昭和42)年11月27日(mon) US released
 1968(昭和43)年01月10日(wed) JP released
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 https://en.wikipedia.org/wiki/Hello,_Goodbye
 http://rock-t.info/beatles-discography-hellogoodbye-iamthewalrus.html
 英http://yokono.co.uk/collection/beatles/uk/single/single_original_p4.html##16-1
 米http://yokono.co.uk/collection/beatles/usa/single/usa_single_1967.html##18-1
 日http://yokono.co.uk/collection/beatles/japanese/single/or_1838.html
 https://music.amazon.co.jp/albums/B07FT833BP
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 音源◆The Beatles At Home- Sgt. Pepper Era (1966/67) https://youtu.be/7Sytq8zx2Zg
‡November 1966
 Strawberry Fields Forever (Electric Take 1) [3:49]
 Strawberry Fields Forever (Electric Take 8) [4:19]
 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 英国(イギリス)発売(リリース)通算16枚目のシングル作品 ┃
 ┃  ♪ハロー・グッドバイ♪/♪アイ・アム・ザ・ウォルラス♪  ┃1967年3枚目
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 ┌─――――――――――――┐U.K.チャート第①位獲得14回目
‡|1967(昭和42)年11月24日(金)|16枚目 U.K.シングルリリース
 └─――――――――――――┘https://beatlesdata.info/uksingles.html
  1963年1月23日に英国の公式シングルスチャートを上回り、1963年1月23日にビートルズに与えられた[49]。1963年に「She Loves You」以来、その過程で、この曲は5年間でグループの4番目のクリスマスナンバーワンとなった[51]
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 ┃ U.K. Picture Disc issued to celebrate THE BEATLES'20th Anniversary ┃
 ┃        THE BEATLES 20TH ANNIVERSARY PICTURE DISKS        ┃
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 A面♪Hello, Goodbye♪/B面♪I Am The Walrus♪
‡1967(昭和42)年11月24日(fri) 初リリース
 1987(昭和62)年11月23日(mon) RP-5655 第16弾
 備考・・・BEATLESのレコード発売20周年としてイギリスparlophoneから発売されたピクチャーレコード。イギリスでのオリジナル発売日を20年後の1982年から1990年まで8年かけて('60年代)の発売月に合わせ22枚のピクチャーレコートを発売。スリーブは厚めの透明ビニールに入れられて発売。タイトルにより黒色の台紙を挿入。20周年記念ピクチャーレコードの中で台紙入りは♪Lady Maddona ♪The Ballad Of John And Yoko ♪Get Back ♪HEY JUDE ♪Something/Come Together♪の5タイトル
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 0716 http://www.dermon.com/Beatles/Pd_uk2.htm
 http://mst1.fc2web.com/20th/picture-disk.html
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■『The BEATLES 1』とは?②
 2015(平成27)年10月27日 テーマ:ビートルズ
【第2話】ビートルズの「ビデオクリップ」
■ビートルズが制作した“PV”■幾つあると思います? 現役時代から、有名な「エド・サリバン・ショー」以外にも、国内でも積極的にテレビ番組に出演し、あるいは主演映画、そしてコンサートの記録映像などから、ビートルズの演奏シーンは意外と多く残されています。 これから「PV」っぽく編集されたコンテンツも少なくありません。 ですが、「当初からPVとして企画・制作された作品」となると・・・。以下、制作日ごとにまとめてみました。 今回『1』としてリリースされる映像コンテンツは、画期的なクリーニングを施された、「この中のどれか」になるはずです!! 現役時代の(1)~(13)と、解散後の(14)(①~⑪)は、その性格は全く異なりますが、ここではビートルズの「PV」として一括りにしました。
⑥:制作日
 1967年11月10日(サビル・シアター)
‡1967年11月24日「ハロー・グッドバイ」カラーの3バージョン。曲の作者でもあるポールが監督。
 (1)「ペパー」の衣装で演奏。デビュー当時の「襟なしスーツ」を着用したカットも。
 (2) 普段着で演奏。
 (3) 2バージョンを編集。ジョンがツイストを踊りまくったり、ジョージがオカマの真似をするカットも。
 https://ameblo.jp/magic7-koba/entry-12088731220.html


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 ┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 2』 ┃
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 1996(平成八)年3月18日(mon) JP Released
 1996(平成八)年3月18日(mon) UK Released
 1996(平成八)年3月19日(tue) US Released
◇Disc two (CD2)
◎LP D-side (Record Disc 2)
‡1966(昭和41)年11月24日(thu) EMI Studios 2:35
  02."Strawberry Fields Forever (Take 1)"
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 https://music.amazon.co.jp/albums/B01DJHE4YS
 https://music.amazon.co.jp/albums/B07FTBJ8VJ
 https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_2
 https://music.amazon.co.jp/albums/B00H77Z0I6
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 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1941(昭和16)年11月24日(月) ピート・ベスト誕生
②1960(昭和35)年11月24日(木) ライヴ演奏:カイザーケラー/ハンブルグ (52日目)
③1961(昭和36)年11月24日(金) ライヴ演奏1:カスバ・コーヒー・クラブ/リヴァプール
④1961(昭和36)年11月24日(金) ライヴ演奏2:タワー・ボールルーム/ワラジー
⑤1962(昭和37)年11月24日(土) ライヴ演奏:ロイアル・リド・ボールルーム/プレタティン
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①1941(昭和16)年11月24日(月) ピート・ベスト誕生
 ピート・ベストは本名をランドルフ・ピーター・ベスト (Randolph Peter Beat) といい、1941(昭和16)年11月24日(月)にインドのマドラスで生まれる。ピートの母モナ (Mona) はインドのデリーで生まれ、赤十字の看護婦になる訓練中にピートの父ジョンと出会う。彼らは結婚し、インドでピートと弟のロリーが生まれる。一家は1945(昭和20)年、インドを出航する最後の軍隊輸送船ジョージック号に乗り込んで英国に向かう。輸送船は
 1945(昭和20)年12月25日(火)にリヴァプールの埠頭に着いた。ピート・ベストはリンゴ☆スターが加入するまでは、ビートルズのオリジナルドラマーであった。
③1961(昭和36)年11月24日(金) ライヴ演奏1:カスバ・コーヒー・クラブ/リヴァプール
 ビートルズは1960(昭和35)年から1962(昭和37)年の間に、カスバに37回出演しているヨ(=^◇^=)
 1960(昭和35)年12月17日・31日
 1961(昭和36)年01月15日・29日
 1961(昭和36)年02月12日・19日・26日
 1961(昭和36)年03月05日・12日・19日・26日 
 1961(昭和36)年08月06日・13日・27日
 1961(昭和36)年09月10日・24日
 1961(昭和36)年10月22日
‡1961(昭和36)年11月19日・24日
 1961(昭和36)年12月03日・17日
 1962(昭和37)年01月07日・14日・21日・28日
 1962(昭和37)年02月04日・11日・18日・25日
 1962(昭和37)年03月04日・11日・18日・25日
 1962(昭和37)年04月01日・07日・08日
 1962(昭和37)年06月24日
④1961(昭和36)年11月24日(金) ライヴ演奏2:タワー・ボールルーム/ワラジー
 ビートルズはタワー・ボールルームに27回出演しているヨ(=^◇^=)
‡1961(昭和36)年11月10日 24日
 1961(昭和36)年12月01日 08日 15日 26日
 1962(昭和37)年01月12日 19日 26日
 1962(昭和37)年02月15日 16日 23日
 1962(昭和37)年03月02日
 1962(昭和37)年04月6日
 1962(昭和37)年06月21日 29日
 1962(昭和37)年07月13日 21日 27日
 1962(昭和37)年08月17日
 1962(昭和37)年09月14日 21日
 1962(昭和37)年10月12日
 1962(昭和37)年11月23日
 1962(昭和37)年12月01日 07日
 1963(昭和38)年06月14日
⑤1962(昭和37)年11月24日(土) ライヴ演奏:ロイアル・リド・ボールルーム/プレタティン
 1962(昭和37)年07月14日(土)のリル (Rhyl) のリージェント・ダンセット (Regent Dansette) 以来、2回目のウェールズ (Wales) で行われたビートルズのショーであった。彼らは北ウェールズ・プレタティン (Prestatyn) のロイアル・リド・ボールルーム (Royal Lido Ballroom) での2時間のショーに出演した。他にジャック・エリス (Jack Ellis) とオートクラッツ (Autocrats) がサポート出演している。ビートルズはステージに立つに先立って、リドの料理長アラン・ヴィーチ (Alan Veech) からジャムサンドイッチをふるまわれた。入場チケットは6シリング。ビートルズの出演料は30ポンドだった。ブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) の親友ジョー・フラナリー (Joe Flannery) が、この会場に呼ぶバンドの手配を担当したが、これが彼のサインした初めての契約となった。ビートルズの契約は、このコンサートに先立つ10週間はこのボールルームから半径10マイル以内の他の会場で演奏してはならないと規定していた。1960(昭和35)年に開業したこの会場はカエデ材でつくったフロアを持ち、「北ウェールズ最高のダンスホール」と主張していた。ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) が
 1963(昭和38)年08月31日(土)にイングランド以外の地で初めての公演を行うが、その時の会場もここであった。ロイアル・リド・ボールルームは後に改築され、名前もノヴァ・センター (Nova Centre) に変わる。カエデ材のダンスフロアは取り除かれてカーペットに変わるが、ステージはそのまま残っている。ビートルズとプレタティンの関わりは他にもあり、彼らのロード・マネージャーのニール・アスピノール (Neil Aspinall) はこの地で生まれている。またエプスタインは第二次大戦中の幼少時、この地にしばらく住んでいた。
 彼らのウェールズでの公演は、
 1962(昭和37)年07月14日 リル (Rhyl) 
‡1962(昭和37)年11月24日 プレタティン (Prestatyn)
 1963(昭和38)年01月24日 モールド (Mold)
 1963(昭和38)年06月22日 アバーガベニー (Abergavenny)
 1963(昭和38)年07月19日 リル (Rhyl) 
 1963(昭和38)年07月20日 リル (Rhyl) 
 1963(昭和38)年08月12日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月13日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月14日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月15日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月16日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月17日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年05月27日 カーディフ (Cardiff) 
 1964(昭和39)年11月07日 カーディフ (Cardiff) 
 1965(昭和40)年12月12日 カーディフ (Cardiff) で開催されているヨ(=^◇^=)
⑥1959(昭和34)年11月15日(日) TVスターサーチ ファイナル:ヒッポドローム/マンチェスター
 ジョニー・アンド・ザ・ムーンドッグス (Johnny and the Moondogs) は10月にリヴァプールで行われた「TVスターサーチ (TV Star Search)」の地区ファイナルで優勝することはできなかったものの、審査員の判断でファイナル・ラウンドへの出場資格を与えられた。このファイナル・ラウンドはマンチェスター・アードウィック (Ardwick, Manchester) のニュー・マンチェスター・ヒッポドローム (New Manchester Hippodrome) で開催された。彼らの心は踊っていた。もしこのオーディションにパスすれば、テレビ出演が約束され、それに伴って彼らの名前が売れることはほぼ確実だからである。このコンテストの審査は「クラポメーター (clapometer)」と呼ばれる方法でなされ、基本的には観衆の拍手の大きさで決まる。ジョニー・アンド・ザ・ムーンドッグスはリヴァプールではあった地元の支援が無かったこともあるが、何より観衆に強いインパクトを与えることができなかった。彼らはマンチェスターに泊まる所も無かったため、結果発表の時刻には帰りの列車の中にいた。
 シンシア・レノン『John』この頃までにジョンとポールとジョージは、ジョニー・アンド・ザ・ムーンドッグスという名前に変えていて、その志気は高かったのですが意気消沈して帰ってきました。オーディションにパスできなかったんです。主な原因はドラマーがいないためでした。それは大きな弱点でしたが、彼らは負けませんでした。何かうまく行かないことがある時、ジョンは一日二日落ち込みます。でもまた起き上がります。自分たちが最高であることに疑いを持たず、彼らを最高だと信じない人々には、それが間違っていることを知らしめました。
 マンチェスターのヒッポドローム (Hippodrome) は、1904年に高名な建築家フランク・マッチャム (Frank Matcham) により、アードウィック・エンパイア劇場 (Ardwick Empire Theatre) として建設された。1935年に改装され、ニュー・マンチェスター・ヒッポドローム (New Manchester Hippodrome) と改名される。その建物は1964年に取り壊された。
 ジョニー・アンド・ザ・ムーンドッグスの出演日は、
 1959(昭和34)年11月15日(日)で大方意見が一致しているが、異論もある。というのはこの当時、日曜日は劇場や映画館は全国的に休業だったので、日曜日に音楽イベントが開催されることは稀だったというのである。よってこのファイナルラウンドが行われた日は、
‡1959(昭和34)年11月24日(月)曜日だったのではないかという意見が提示されている。
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 ①https://gejirin.com/beatles/history/1926-1959/19411124_petebest_birth.html
 ②https://gejirin.com/beatles/history/1960/19601004_live_kaiserkeller1.html
 ③https://gejirin.com/beatles/history/1963/19630124-2_live_Assembly.html
  https://gejirin.com/beatles/history/1961/0history_index-1961.html
 ④https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620621_live_Tower_Ballroom.html
  https://music.amazon.co.jp/albums/B00BKB6N3G
 ⑤https://gejirin.com/beatles/history/1962/19621124_live_RoyalLido.html
 ⑥https://gejirin.com/beatles/history/1926-1959/19591115_live_TVstarsearch_final.html
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 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃|November 24|328
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃|11月24日|
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 1961(昭和36)年(金) カスバ・コーヒー・クラブに出演した後、ワラシーのニュー・ブライトンにあるタワー・ボールルームに出演。これはサム・リーチ主催のオペレーション・ビッグ・ビーツⅡというイベントで、ビートルズは午後11時からの出演。この時、イギリス在住のアメリカ人である黒人トップ・シンガーのデイビー・ジョーンズが突然会場に現れ、ビートルズのステージにも2曲で飛び入り参加したために、大盛り上がりのステージになった。
 1963(昭和38)年(日) 秋の全英ツアー中のビートルズ。この日はヨークシャーのABCシネマでコンサート
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17196
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/011/1124.html
 https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15562688.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info/
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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『WHERE IT'S AT』rec. November 1967 / trans. 25th November 1967 
32. John Talks with Kenny Everett and Chris Denning 
33. All Together On The Wireless Machine (Paul Jingle) 
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 ┃   『THE BEEB'S LOST BEATLES TAPES』  ┃
 ┃  Episode 14: No More She Loves Yous  ┃27:29 (sat)31 December 1988
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‡05.『WHERE IT'S AT』Interview, (fri)24 November 1967
 音源◆https://youtu.be/KEgBnbm2nIs
 
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 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beeb%27s_Lost_Beatles_Tapes
 https://www.youtube.com/playlist?list=PL073eZJnP1VSVL0DHZ-N_GATBFD-ou2eG
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 ┏━━━━━━━━━━━━━┓かみばやし さとる      朝日文庫
 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 本体680円+税 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛  2013(平成25)年11月30日(土)第1刷発行
‡No.30 P.170 1966年11月24日「スタジオ時代の幕開け」◎♪Strawberry Fields Forever♪レコーディング開始日◎
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓ 
 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
  人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
  ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
  文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
  語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
 ┌─――――――――――――┐
‡|1966(昭和41)年11月24日(木)|「スタジオ時代」の幕開け
 |2007(平成19)年11月22日(木)|甲虫日記更新日 No.013
 └─――――――――――――┘
ビートルズの活動は、「ライブ時代」と「スタジオ時代」に大別できる。ライブ活動は、1966年8月29日の米国・サンフランシスコのキャンドル・スティック・パーク公演を最後に終止符が打たれた。帰国後、思い思いの休暇を過ごして気力を充実させた4人は、11月24日、ニュー・アルバム制作のため、再びアビイ・ロード・スタジオに集まる。
締め切りに追われることなく自分たちのペースで仕事をすることが約束されていた。最初に取りかかった曲が、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」。66年秋、ジョンが出演を引き受けた映画「わたしの戦争」の撮影中にスペインのアルメニアで書き上げた。
「ストロベリー・フィールド」はリバプールにあった救世軍運営の孤児院のことだ。ジョンが育ったミミ叔母さんの家の近くにあった。ジョンの子ども時代の記憶をよみがえらせる場所である。
この曲には、テープの逆回転や変速録音などデビュー以来、4人がレコーディングスタジオで学んだありとあらゆるものが集約されている。4人の創造性が開花する「スタジオ時代」の幕開けにふさわしい曲となった。
苦心作でもある。完成までに7回のセッションを重ね、そのたびに曲は姿を変える。「テイク1」と完成版では、ストリング・シンセサイザーの前身の楽器、メロトロンを使った部分だけが共通するだけとされる。
ジョンは録音を始める前、スタジオでジョージ・マーティンの向かい側に座り、アコースティック・ギターを弾きながら歌ってみせた。「文句なしに素晴らしかった」。そんな風にマーティンが述懐する曲のテイストは、アンソロジー2に収録された「テイク1」で味わうことができる。ところが、いつもの楽器編成で録音を重ねるうちに曲のテンポが速くなりヘビーになっていったという。「ジョンは何も言わなかったが、ジョンが当初に思い描いていた出来とは違うことは何となく分かっていた」ベストとされた「テイク7」もわずか9日間の命。ジョンがマーティンに「もう一度取り直したい」と訴えた。話し合いの結果、マーティンがトランペットとチェロのスコアを書き加えることになる。
4人は新たなリズム・トラックを録音することから始めた。「テイク15」の初めから4分の3と「テイク24」の終わりから4分の1をつなぎ合わせた編集トラックをもとに、リメイク・バージョン「テイク26」がつくられた。
高々と鳴り響くトランペット、異様にヘビィなドラムス、躁(そう)病的でやたらとテンポの速いジョンのボーカル。スコアをつけたリメイク・バージョンは、アコースティックな「テイク1」とは似ても似つかぬ強烈なサウンドになった。
ジョンは再びマーティンに注文を出す。それは、キーもテンポも違う「テイク1」と「テイク26」をつなぎ合わせてひとつの曲にするという無理難題だった。「君ならできる」とも付け加えた。
マーティンとエンジニアのジェフ・エメリックは、2つのテイクを入念に調べ、最初の「テイク7」の速度を上げ、後の「テイク26」の速度を下げればうまくつなげるかもしれないと考えた。速度調整が可能なテープ・レコーダーを使い、つなぎ目のところで両方のピッチが同じになるように試した。
神は幸運をもたらした。
1966(昭和41)年12月22日(木)、録音開始から丸1カ月がたとうとしていた。曲のつなぎ目が知られるようになったのは、CD化された80年代後半からのことだ。曲の頭からちょうど60秒のところにある。ビートルズ研究家のマーク・ルイソンはこうも忠告する。「いったんその位置がわかったら、この曲は二度と同じようには聴こえなくなるだろう」曲づくりもさることながら、ジョンの子ども時代の思い出と重ね合わせて、この叙情詩の世界を探ることも興味深い。何しろジョンはこの曲で「自分自身を表現しようとした」とインタビューに答えているからだ。
歌詞のなかに♪No one I thinkis in my tree 誰も自分の「樹」にはいない♪とある部分は、子どものころから「自分みたいにヒップなやつはどこにもいなかった」「ぼくは狂人か天才のどっちかだった」と「感じていた」ことを指すという。次に歌詞は「I mean it must be high or low」(高すぎるか低すぎるせいだろう)と続く。「きっと自分には何か問題があるからだと思っていた。異常なうぬぼれ屋なんだと思ったね。人に見えないものが見えるんだから」
ジョンは、ストロベリー・フィールドのゴシック的な建物の壮麗さと森の神秘性に魅せらていた。そこは自分が1人きりになれる場所で、自由に想像力の翼をはばたかせことができた。そして自分は周りのみんなと違っている、という自意識のシンボルになっていたのだろうか。
音楽ジャーナリスト、スティーブ・ターナーは、「彼独自の世界観を表現した曲だとするなら、『自分と波長があう人間はひとりもいない、みんな高すぎるか低すぎる』と書かれていた初期の歌詞の方が伝わりやすかったはずだ」と指摘する。歌詞の意味をわざとぼかしたのは、「気取っていると思われるのを嫌ったためだろう」とも。
ニューヨークのセントラル・パークにあるジョンの慰霊碑は、ジョンの最高傑作に敬意を表して「Strawberry Fields」と呼ばれている。 
 ◎『この日のビートルズ』の次回の更新は、12月11日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
 ◎お知らせ ⇒ 本文中に登場するアルバム
「アンソロジー2」1998年3月11日発売 EMIミュージック・ジャパン 
「ビートルズ1967~70」1998年3月11日発売 EMIミュージック・ジャパン 
「マジカル・ミステリー・ツアー」1998年3月11日発売 EMIミュージック・ジャパン 
 http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/071122.html
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
 https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
 http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/071122.html
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①┃ Sgt. Pepper Gallery 24 November 1966 - 21 April 1967  ┃
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‡(fri)24 November 1966 Studio Two: 7.00pm-2.30am. 
 Recording ♪Strawberry Fields Forever♪ (take 1) This seven and a half hour session produced only this one song which amounted to little more than a detailed demo. This recording was officially released on Anthology 2 and a variety of alternate mixes circulate among collectors. Five months after the last Revolver session and three months after their last concert, here they are seen entering E.M.I. Studios for the first session of the new album At this time, the "Sgt. Pepper" concept had not yet been conceived. I often wonder if they had any indiciation of how different their musical direction had become. (click the thumbnails for enlargements)
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②┃ Sgt. Pepper Gallery 24 November 1966 - 21 April 1967  ┃
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   Circa November 1966 - April 1967 ⇒ I have found no way to definitively date these photos. My source simply dates them as during the "Sgt. Pepper" sessions. The ones of Paul with the moustache are definently during "Pepper". I suppose there is a possibility those of John, George and Ringo could possibly squeek into the Magical Mystery Tour sessions. The photos are of The Beatles arriving or leaving E.M.I. Studios. The last three of Paul and last one of John are at Paul's home. The photo of John and Paul in the hall was shot by Lizzie Bravo. This last photo of George in the booth is probably 
19 January 1967 but I cannot verify that.
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 ①http://www.beatlesource.com/bs/mains/audio/pepper2/66.11.24/index.html
 ②http://www.beatlesource.com/bs/mains/audio/pepper2/67.xx/index.html
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 ┃ Randolph Peter "Pete" Best ┃‡1941(昭和16)年11月24日(mon)
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛ https://en.wikipedia.org/wiki/Pete_Best
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 ┃ The Savage Young Beatles 1950s 1962 ┃
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 Late 1962-1963 Pete Best with Lee Curtis And The All-Stars and The Pete Best Four
 Various locations
 Photographers: unknown unless noted
 After his departure from The Beatles, Pete joined another Liverpool band, Lee Curtis And The All-Stars. 
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 http://www.beatlesource.com/savage/1962/62.xx.xx%20pete/62.xx.xxpete.html
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 ┃ 『The Beatles At The Beeb w/Pete Best!』  ┃音源◆https://youtu.be/AxEquwlZNGQ
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■『TEENAGER'S TURN (HERE WE GO)』BBC 1st appearance
 1962/3/7(wed)   rec. 8:00-8:45pm The Playhouse Theatre, Hulme, Manchester
 1962/3/8(thu) trans. 5:00-5:29pm broadcast
 00:00 01.♪Dream Baby♪
 02:01 02.♪Memphis Tennessee♪
 04:21 03.♪Please Mr. Postman♪
■『HERE WE GO』BBC 2nd appearance
 1962/6/11(mon)   rec. 8:00-9:00pm The Playhouse Theatre, Manchester
 1962/6/15(fri) trans. 5:00-5:29pm broadcast
 06:39 04.♪Ask Me Why♪
 09:04 05.♪Besame Mucho♪
 11:39 06.♪A Picture Of You♪
■『SATURDAY CLUB』BBC 6th appearance
 1963/01/22(tue)   rec. 04:00-05:00pm The Playhouse Theatre, London
 1963/01/26(sat) trans. 10:00-12:00am broadcast
 14:05 07.♪Some Other Guy♪
 16:02 08.♪Keep Your Hands Off My Baby♪
 18:30 09.♪Beautiful Dreamer♪
■『EASY BEAT』BBC 12nd appearance
 1963/4/3(wed)   rec. 08:30-09:45pm The Playhouse Theatre
 1963/4/7(sun) trans. 10:31-11:30am broadcast
 20:21 10.♪From Me To You♪???
■『SIDE BY SIDE』BBC 14th appearance
 1963/4/01(mon)  rec. 2:30-6:30pm Number 1 Studio, Piccadilly Theatre, London
 1963/4/22(mon) trans 5:00-5:29pm broadcast
 20:21 10.♪From Me To You♪???
 音源◆


 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃THE BEATLES  Live at The Casbah Coffee Club┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1961(昭和36)年11月24日(fri) No.19 The Casbah Coffee Club
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 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Casbah_Coffee_Club
 http://www.petebest.com/casbah-coffee-club.aspx
 http://gejirin.com/beatles/history/1926-1959/19590829_live_casbahcoffeeclub1.html
******************************************************
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃THE BEATLES Live 1961┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡(fri)24 November 1961 Liverpool, England, The Casbah Coffee Club
‡(fri)24 November 1961 Wallasey, England, Tower Ballroom 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃Autumn 1963 UK Tour“THE BEATLES SHOW”┃The Beatles Autumn Tour
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡No.21 (sun)24 November 1963 Hull, England, ABC Cinemas 
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 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃The Savage Young Beatles 1950s 1961┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡(fri)24 November 1961 The Tower Ballroom, New Brighton
 Photographer: Dick Matthews
 All indications are that these two photos with Emile are indeed this date. Previously, I had dated the photos of The Beatles on stage with singer Davy Jones as 8 December 1961 in these photos, they are not wearing their leather pants (see 8 December for further details).
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃The Savage Young Beatles 1950s 1962┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡Late 1962-1963 Pete Best with Lee Curtis And The All-Stars and The Pete Best Four
 Various locations
 Photographers: unknown unless noted
 After his departure from The Beatles, Pete joined another Liverpool band, Lee Curtis And The All-Stars. 
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 http://www.beatlesource.com/savage/1961/61.11.24%20tower/61.11.24tower.html
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  ┛THE BEATLES 1966 Recording Sessions ┛Studio 2
 ┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛7:00pm-2:30am
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃♪Strawberry Fields Forever♪ ┃take 1
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛No.1 アビイ・ロード第2スタジオ 「もうライブはやらない」と宣言したビートルズが、久しぶりのレコーディングに挑んだのがこの曲である。ポールはメロトロンという楽器(現在でも販売されており、今ではiPhoneアプリとしても発表されている)を取り入れ、この日はドラム(リンゴ)、ジョン(ギター)、ジョージ(ギター)という編成で、試行錯誤しながら第1テイクを録音。ベースなどをオーバーダブして一応このテイクは完成を見た。しかし、このテイクは使用されることなくオクラ入りとなった。
  Note・・・『THE BEATLES ANTHOLOGY 2』には、ジョンが自宅で録音したデモバージョン、1966年11月24日の第1テイク、そして第7テイクを中心に再編集したものの3曲が収録されている。まさに制作過程をそのまま聴ける興味深い内容。
  Producer: George Martin
  Engineer: Geoff Emerick
  2nd Engineer: Phil McDonald
 ‡1966(昭和41)年11月24日(thu)
  First session for the production following『REVOLVER』
 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓1996/03/18(mon) JP、UK
②┃『THE BEATLES ANTHOLOGY 2』┃1996/03/19(tue) US
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ ◎Disc two◎
 01.♪Strawberry Fields Forever♪ (demo sequence) (mono) November 1966 Kenwood, Weybridge, UK 1:42 
 02.♪Strawberry Fields Forever♪ (Take 1) 24 November 1966 EMI Studios 2:35 
 03.♪Strawberry Fields Forever♪ (Take 7 and edit piece)" (mono) 29 November & 9 December 1966 EMI Studios 4:14 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓1996/03/18(mon) JP、UK
②┃『THE BEATLES ANTHOLOGY 2』┃1996/03/19(tue) US
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ ◎Disc two◎
 01.♪Strawberry Fields Forever♪ [Demo Sequence] 66.11. ここからはSGT. PEPPERSセッションより。この曲ももともとは同アルバムに収録される予定でレコーディングがスタートした。ジョンが自宅で一人で録音したデモ・バージョン。ギター1本で淡々と歌われてるけど、これがまた悪くない。この曲はご存知の通り、完成までに紆余曲折があったが(詳細はこちら)、その影響か、ここでも同じ曲のアウト・テイクばかり3テイクが収められている。 
 02.♪Strawberry Fields Forever♪ [Take 1] 66.11.24. こちらは4人揃って最初に録音されたテイク1。出来としては公式テイクの前半部分に近いが、メロトロンの音がそれほど前面に出ていない一方、ジョージのトレモロを使ったギターの音が耳に残る。出来自体は悪くなく、これで完成でもなんら問題ないほど。 但しジョンは満足しなかったんだろう、そのことが完成までの様々な試みに繋がる。 
 03.♪Strawberry Fields Forever♪ [Take 7 & Edit Piece] 66.11.29.&12.9. 後に公式テイクの前半部分となるテイク7のコンプリート・バージョン。ということで、出だしは公式テイクと全く同じ、ただ途中で転調せず(というか、アップ・テンポのバージョン、テイク26に繋がらない)、最後まで同じアレンジで演奏されている。ご存知の通り、これで一旦「完成テイク」とされていたこともあり、出来はとてもよいと思う。 一体ジョンはどこが気に入らなかったんだろう・・・。実は私は公式テイク後半のアレンジが好きじゃないから、このバージョンが公式に発表されていたら、この曲は「大好きな曲」になっていただろうに・・・。なお、ここでもANTHOLOGYならではの強引な編集があり、 エンディングに公式テイク後半、テイク26の、フェイド・アウト→フェイド・インに挟まれて聴けなかったリンゴの荒っぽいドラムと、それに乗せてジョンがアドリブで発したCranberry Sauseという声などが収録されている。これを入れることで、「I burried Paulと言ったわけじゃない」と証明したかったんだろうけど、私は前以上にI burried Paulと聞こえるような気がしてしまった(笑)。 なお、この曲に関しては、完成までに紆余曲折があった関係上、まだまだ多くの未発表テイクがあり、ブートでもいろんなテイクが聴けた。その中では、公式テイク後半のテイク26の、しかもテープの回転速度を下げていないアップ・テンポなバージョンが興味深いものだった。あれは曲の完成までの過程を辿る上でも、絶対ここにも収めるべきだったと思う。 
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①https://beatlesdata.info/9/08_strawberryfieldsforever.html
①https://en.wikipedia.org/wiki/Strawberry_Fields_Forever
②https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_2
②http://www.geocities.co.jp/Broadway/5266/beaAlb21-2.html
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今日11月24日は、「ビートルズになり損ねた男」ピート・ベストの誕生日。
2016年11月24日 執筆者:中村俊夫
今日11月24日は、ザ・ビートルズのレコード・デビュー前のドラマーだったピート・ベストの75歳の誕生日。ビートルズが栄光への階段を上り始める直前に解雇されるという悲劇の主人公故か、「ビートルズになり損ねた男」という、あまり有り難くない形容詞が付けられて語られることの多い彼だが、かつてビートルズに籍を置いたメンバーの中で、今や“存命組”はポール・マッカートニー(74歳)、リンゴ・スター(76歳)、そしてピート・ベストの3人だけ。世界中の誰もが知る“Fab 4”には成り損ねたが、後世に語り継がれるであろうビートルズ伝説の貴重な当事者側生き証人のひとりであることは間違いない。
ピート・ベストことランドルフ・ピーター・ベストは、1941年11月24日、駐印英軍人だった父ジョンと母モナの間に、当時英国の植民地だったインドのマドラスで生まれた。第二次世界大戦終了後に一家は帰国。リヴァプールに居を構える。ピートが18歳の時に両親が離婚し、ピートを引き取ったモナは、自宅の地下室を改造してコーヒー・バーを開店。ここに地元のバンドが出演するようになり、そのひとつがビートルズだったが、当時彼らにはドラマーが不在だったため、ブラックジャックスというバンドでドラムを担当していたピートが時おり臨時でビートルズに加わり演奏することもあった。
それが縁となり、1960年にポールから誘われビートルズに正式加入。トニー・シェリダンとのレコーディング、デッカ・レコードのオーディションといった無名時代のビートルズの歴史的音源にその演奏の痕跡を残すが、記念すべきデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディング・セッションには参加したものの、リリースされたレコードに彼の演奏は刻まれていなかった。最初のセッション後に解雇されてしまったからである。一説にはジョージ・マーティンがピートの演奏技術に難色を示したためとも言われている。
1992年夏、筆者はビートルズ・ファンクラブ主催のイベント出演のため来日したピートに雑誌の仕事でインタビューしたことがあるが、 この“解雇宣告の日”の一部始終を次のように語ってくれた。
「朝、ブライアン・エプスタインから事務所に来てくれと電話があって、その時はてっきり次の仕事の打ち合わせだと思った。事務所に行ってみると呼ばれたのはボクだけで、ブライアンが言いにくそうに話を切り出した。<他の3人が君に辞めてもらいたがっている>。ボクには何が起きたのか理解できなかった。だって、昨夜クラブの仕事が終わった後、いつもと変わらぬ様子で3人と別れたから。ブライアンは<できればリンゴが加わるまでの仕事には来てほしい>と言ったけど、頭が混乱してどう返事したかも覚えていない。その日、事務所から家まで、どうやって帰ったかも覚えていない。怒りの感情も無く、ただ世界が終わってしまったような気持ちだった…」
身につまされる内容だが、御本人は至って明るい表情で淡々と語っていた。自分を解雇したバンドが世界の頂点に立つほどの成功を収めて行くのを横目で見ながら、一時は自殺を考えたというほどの苦悶の日々も続いたようだが、すべては時が解決してくれたのだろう。
ビートルズ脱退後、ピートは「オリジナル・オールスターズ」→「ピート・ベスト・フォー」→「ピート・ベスト・コンボ」と名前を変えていく自分のバンドを結成し、何枚かのレコードもリリースしているが、67年に芸能界を引退。製パン工場に1年間勤めた後、リヴァプール市役所の職員となり、職業安定所に約25年間に亘り勤務した。その間には友人たちと「ピート・ベスト・バンド」を結成し、勤務が終わった後に地元のクラブに出演。リクエストに応じてビートルズ・ナンバーも演奏しているそうだ。
波乱万丈のミュージシャン生活から一転、堅実な公務員として第二の人生を歩んでいったピート・ベスト。現在はリヴァプールで悠々自適のリタイア生活を楽しみながらも、他の存命ビートル同様に自分のバンドを率いてマイペースな演奏活動を続けており、アルバムも数作リリースした他、2013年には来日公演も果たしている。世界的ロックスターにはなれなかったが、彼なりに充実した幸せな人生を手に入れたと言えるのではないだろうか。
≪著者略歴≫中村俊夫(なかむら・としお):1954年東京都生まれ。音楽企画制作者/音楽著述家。駒澤大学経営学部卒。音楽雑誌編集者、レコード・ディレクターを経て、90年代からGS、日本ロック、昭和歌謡等のCD復刻制作監修を多数手がける。共著に『みんなGSが好きだった』(主婦と生活社)、『ミカのチャンス・ミーティング』(宝島社)、『日本ロック大系』(白夜書房)、『歌謡曲だよ、人生は』(シンコー・ミュージック)など。
http://music-calendar.jp/2016112401

 By coincidence, Coe had actually met McCartney three years earlier, in 1963 when he chose her as the prize winner in a dancing contest on ITV's Ready Steady Go!.[7] An update on Coe appeared in The Guardian in December 2008,[4] and she was interviewed about the song on the BBC programme The One Show on 
‡(wed)24 November 2010.[citation needed] In May 2017, Rolling Stone magazine carried an interview with Coe to commemorate the 50th anniversary of the album's release.[8]
 https://en.wikipedia.org/wiki/She%27s_Leaving_Home#Background

 ジョン・レノンゆかりの地「ストロベリー・フィールズ」、一般公開
 2019(令和元)年09月19日(木) 15:40 発信地:リバプール/英国 [ 英国 ヨーロッパ ]
 ビートルズの楽曲「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のモチーフとなった英リバプールにある元孤児院の門(2019年9月18日撮影)。(c)Paul ELLIS / AFP
【9月19日 AFP】英ロックバンド、ビートルズ(The Beatles)の地元リバプール(Liverpool)で、故ジョン・レノン(John Lennon)が名曲「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー(Strawberry Fields Forever)」を作るきっかけとなった孤児院の跡地が一般公開されている。
 レノンは子ども時代、叔母の家のフェンスを登って、孤児院「ストロベリー・フィールド(Strawberry Field)」に行っては、他の子どもたちと遊んでいた。リバプールのウールトン(Woolton)にあるこの孤児院を見ようと、毎年約6万人のファンが訪れては有名な赤いゲート越しに写真を撮っていたが、これまで敷地内が一般公開されたことはなかった。しかし、2005年まで慈善団体の救世軍(Salvation Army)が運営していた孤児院の門は今後、永遠に開かれたままとなる。門の前でAFPの取材に応じた救世軍のアリスター・バースフェルド(Allister Versfeld)少佐は、「多くの人が言う、真の静けさと安らぎを感じる庭をぜひ味わってほしい」と語る。しばらく放置されていた孤児院は今、学習障害のある18~25歳の若者の就職支援を行うセンターとなっており、その運営資金の一部が一般公開によって賄われる。バースフェルド氏によると、カフェや売店が併設されるセンター内では、救世軍やこの孤児院の歴史、レノンの子ども時代に関するエピソードや、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」の直筆の草稿が展示されている。壁には「僕にとってはどうでもいいことさ」という歌詞の一節やモザイクでできたレノンの顔が飾られ、またレノンが大ファンだったエルビス・プレスリー(Elvis Presley)の邸宅「グレースランド(Graceland)」から貸し出された品々もある。レノンの母ジュリアは自動車事故で亡くなるまで近所に住んでいたが、レノンを育てたのは叔母だった。ストロベリー・フィールズはレノンにとって、他の子どもたちに会うだけではなく、物事をじっと考える場所でもあったとバースフェルド氏は言う。「彼は遊びに来ては、そこで起きていることを観察していた」「ここの静けさと安らぎを感じ、ある種の聖域のように思っていた」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」の歌詞を見て多くの人は「何を歌っているんだろうと思うかもしれないが、それは彼が見つけた、自分にとって特別な場所のことなんだと思う」とバースフェルド氏は語った。(c)AFP/Paul BARKER
 https://www.afpbb.com/articles/-/3245243

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