iTunes Store 配信開始
‡2011(平成23)年06月14日(火) iTunes Store 配信開始
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音源◆The Beatles - Magical Mystery Tour Outtakes Medley https://youtu.be/YA78vYmkKfE
1967(昭和42)年06月25日(sun) EMI Studios & Chappell Recording Studio, London
1967(昭和42)年09月25日(mon) EMI Studios & Chappell Recording Studio, London
01. All You Need Is Love (Warmup Take- Excerpt) [0:00]
02. All You Need Is Love (Unknown Take) [1:29]
03. All You Need Is Love (Unknown Take) [1:55]
04. Your Mother Should Know (Take 8- Excerpt) [2:08]
05. I Am The Walrus (Unknown Take) [2:36]
06. The Fool On The Hill (Demo Take Excerpt) [4:04]
07. Your Mother Should Know (Take 27- Excerpt) [4:29]
08. The Fool On The Hill (Take 3) [4:51]
09. The Fool On The Hill (Take 4- Excerpt) [5:00]
‡1967(昭和42)年06月14日(wed) The Beatles began recording All You Need Is Love on 14 June 1967, at Olympic Sound Studios in Barnes, London. On 23 and 24 June they made last minute rehearsals and additional recording, including an orchestral overdub. There was also a press call on the morning of 24 June, which saw more than 100 journalists and photographers enter Abbey Road. 25 June was the day of the Our World broadcast. Most of the day was spent rehearsing with the BBC camera crew. Your Mother Should Know was begun in Chappell Recording Studios in Maddox Street, London, as Abbey Road was booked for other artists. On the first day, 22 August 1967, they recorded eight takes of the rhythm track. The following day - their last session at Chappell - they recorded overdubs for the song. This was also Brian Epstein's last-ever visit to a Beatles recording session. The Beatles began recording I Am The Walrus on 5 September 1967, just nine days after the death of Brian Epstein. Sixteen takes were recorded on that first day, just five of them complete. John Lennon played a pianet electric piano, Paul McCartney played bass on the initial takes and later switched to tambourine, while George Harrison was on electric guitar and Ringo Starr played drums. On 6 September 1967 McCartney recorded a solo demo of The Fool On The Hill in a single take. He played the piano and sang, with no other Beatles appearing on the tape. On 16 September they began a remake of Your Mother Should Know, recording 11 more takes. The arrangement was harmonium, piano, vocals and drums, with a military-style snare rhythm. Recording of The Fool On The Hill with the full group began on 25 September. The Beatles recorded three takes of the rhythm track, with Lennon and Harrison playing harmonicas. Over the third take they overdubbed McCartney's recorder and lead vocals and Starr's drums.
ザ・ビートルズのメンバーが気に入らなかった、ポール・マッカートニーが手掛けた楽曲とは?
‡2020(令和二)年06月14日(日) 11:00配信 rockinon.com
写真◆ザ・ビートルズのメンバーが気に入らなかった、ポール・マッカートニーが手掛けた楽曲とは?
ザ・ビートルズは数々の名曲を生み出したが、以前にジョン・レノンはポール・マッカートニーが手掛けた♪Let It Be♪を好ましく思っていなかったと報じられたことがあった。そんななか、ジョンだけでなくザ・ビートルズの他のメンバーも気に入らなかったポールの曲について「FAR OUT」が取り上げているので紹介する。ザ・ビートルズのメンバーが敬遠していたポールが作った曲は、『アビイ・ロード』に収録された楽曲
♪Maxwell's Silver Hammer♪だという。ポールは、スタジオ・エンジニアを雇って長期にわたり、同楽曲に取り組んでいたそう。しかし、それだけ頑張ってもポールは曲に満足できず、当時を振り返ったリンゴ・スターが、「最悪のセッションは“Maxwell's Silver Hammer”だった。あれはバンドが収録したなかで最悪の曲だよ。しかも、レコーディングが何週間も続いたんだ」とコメント。そして、1980年にジョン・レノンも「PLAYBOY」誌のインタビューで、“Maxwell's Silver Hammer”が「嫌いだった」と言い、ポールが残りのメンバーに何百回も同曲を演奏させ、ポールはシングルにすることを望んでいたが、そうはならなかったと明かしている。また、ジョージ・ハリスンも“Maxwell's Silver Hammer”を気に入らず、何度もポールと曲について言い争ったのだという。1970年代のインタビューでジョージは、「時々、ポールはメンバーに本当に突拍子もない曲をやらせるんだよ」と語っていた。ちなみに“Maxwell's Silver Hammer”は、軽快なメロディに反して、かなりブラックな内容の歌詞として知られている。
◎この曲に限らず、いつもアビーロードを聴いて思うことは、よくもあれだけ不仲だった(というか、ビートルズに興味が失せた)にも関わらず、あんなにもクオリティの高い演奏ができるものだということ。ましてこの曲なんて、ポールがひとりでちゃちゃっと多重録音できるレベルだろうに、なぜそうしなかったのか、さらに、なぜ他のメンバーは「いいよ。やるよ」って付き合ってくれたのか、謎は多い
◎アルバム「アビー・ロード」のオープニング、カム・トゥゲザー、2曲目のサムシングと名曲が続いて3曲目に入っていたけど、息抜きに手ごろな曲だったような気もします。ポールは、シングルにしたかったそうだけど、どう考えても、カム・トゥゲザーとサムシングで正解でしたね。
◎ポールはそういう突拍子もない所があって、ソロになるとその傾向が益々顕著になる。例えば、ファーストソロアルバムはいきなり自身の宅録。ビートルズの直後に、その展開はあの時代ではちょっと考えられない。良くも悪くも天才故なのだけど、お互いにそういった事を率直に指摘したり意見するメンバー達だからこそ、ビートルズは上手くいったのだとも思う。
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https://news.yahoo.co.jp/articles/3f0eaf9a6d787f07a17e72f45b562f8a030ff7b8
発売禁止になったビートルズの「ブッチャーカバー」にまつわる裏話
2019(令和元)年06月16日(日) 10:15 JORDAN RUNTAGH
写真◆写真家ロバート・ウィテカーによるグロテスクな“ブッチャー(虐殺者)”の写真が、図らずもビートルズの超レアで最も珍重されるコレクターズアイテムとなった。
不本意ながら、リヴィングストンはカバーの生産を指示した。100万枚分のアルバムカバーの4分の3が印刷され、1966年6月15日の発売日に先立ち6万枚が各メディアの担当者や小売店に送られたという。予想通り、多くの人は残虐なカバーに対する拒否反応を示した。「ディーラーたちが扱いたくないという話が、すぐに聞こえてきた。彼らはあのアルバムを店に並べようとしなかった」とリヴィングストンは言う。一方でレノンは、抵抗を続けていた。「ベトナムと同じくらい重要なことだ」と彼は当時、記者会見で語っている。「ベトナム戦争のように残虐なものが容認されるのなら、このカバーも一般に受け入れられるに違いない」キャピトル・レコードは、売れもしないアルバムを抱えて途方に暮れるか、カバーのアートワークを変更して有名スターを怒らせるかという困った立場にいた。ビートルズは強固に押し通すこともできたが、関係者全員が驚くべきことに、バンド側が折れたのだ。バンドのマネジャーだったブライアン・エプスタインは、米国におけるディストリビューション契約の再交渉の真っ最中だった。今では信じ難いことだが、ほかのレーベルからのオファーはなかった。コロンビアの重鎮だったクライヴ・デイヴィスら業界内部の人間は、ビートルズは既にピークを超えていて、彼らはもはやエプスタインのやり方に従いたくはないだろう、と感じていたという。キャピトル・レコードの代理人とリスクを冒して交渉する代わりに(カバー写真を嫌っていたとされる)エプスタインは、新たな写真を撮るようビートルズを説得した。撮影はまたウィテカーで、古臭いスチーマートランクをメンバーが囲むショットを撮った。「無一文だが楽天的な4人組といった酷い姿をした我々の写真を、カバーにされた」とレノンは、10年後に不平をこぼした。
‡1966(昭和41)年06月14日(火)、キャピトル・レコードは「回収大作戦」と銘打った大規模リコールを始めた。小売店や評論家らへ手紙を送り、アルバムを直ちに送り返すよう依頼した。「英国で制作されたオリジナルのカバーは“ポップアート”に対する風刺のつもりでした」とリヴィングストンは手紙の中で説明している。「しかしながら、米国における一般の意見をヒアリングした結果、カバーデザインが誤解を招く可能性があるという結論に達しました」とのメッセージを送った。回収作戦は概ね成功したものの、一部の小売店は許可なくフライングして1日早く販売してしまっていた。キャピトルの4つの主要プレス工場では、週末も休みなく新しいカバーへレコードを封入する作業が続けられた。内部メモによると、5万枚の“ブッチャーカバー”が穴の中に廃棄され、上から水と泥とゴミを投入して埋められたという。最終的に、既存のカバーの上に新たなデザインのカバーを貼り付けるという合理的なアイディアが出された。時間だけでなくコストも削減でき、予定より5日遅れの1966年6月20日に、当たり障りのないカバーの『イエスタデイ・アンド・トゥデイ』が店頭に並んだ。カバー騒ぎにもファブフォーに対する大衆の情熱は冷めることなく、アルバムはビルボードチャートでナンバー1を獲得した。しかしリコールには20万ドル以上のコストがかかったため、キャピトル・レコードで唯一赤字になったビートルズのアルバムとされている。キャピトル・レコードは、貼り付けの手間をかける必要がなかったかもしれない。上から新たなカバーを貼り付けた話は口コミやアングラメディアの間に出回り始め、やがて新しい“トランクカバー”を蒸気で剥がして禁制のカバー写真、つまりビートルズから忠実なファンに対する秘密のメッセージを露わにするのがお決まりとなった。禁断の果実はその希少性からより一層甘さを増し、神話はバンドが活動を停止した1970年以降も長く続いた。「とんでもないコレクターズアイテムを生み出した」とリンゴ・スターは、ドキュメンタリー『ビートルズ・アンソロジー』の中で振り返っている。「正直に言うと、僕は1枚も持っていない。当時は“保管しておいた方がいい”などと考えもしなかったからね」という。しかし保管していた人は多く、今日まで取引が続けられている。コレクターのほとんどは、いわゆる“初版盤ブッチャー”を求めている。つまりリコールを免れたオリジナル盤だ。しかし 新しいカバーを貼り付けられた“ブッチャー第二版”もまた、高値が付いている。ブッチャーカバーの見分け方やアルバムの価値、そして上手に剥がして“ブッチャー第三版”を作る方法などを説明するウェブサイトもある。馬鹿げた話に聞こえるかもしれないが、お金は正直だ。2016年2月、シュリンクラップされた“初版盤”が驚くことに12万5000ドル(約1360万円)で取引された。価値の低い“第三版”ですら、数千ドルで取引されている。“ブッチャーカバー”の遺した価値は、金銭的なものを遥かに超えている。ウィテカーはシュールな写真で、ビートルズを人間化するという目標を達成した。ただし、彼の望んだやり方ではなかったかもしれない。公然とアヴァンギャルドを受け入れ、マニアの旗を掲げることで、ビートルズはメディアの寵児としての役割を超越した。ウィテカーは、無邪気なおふざけが、愛嬌があるとは言えない方向へと向かう貴重な瞬間を捉えた。4人の反抗的な若者が当時の状況に疑問を投げかけ、アーティストとしてリスクを厭わずに声を上げた瞬間だ。ブッチャーカバーは不気味で醜く、グロテスクですらあるかもしれない。しかしこれがリアルなのだ。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/31198/4/1/1