過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)

 

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 ┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1963(昭和38)年11月22日(金) ケネディ米大統領暗殺 ⇒ 米ダラスをオープンカーでパレードしていたジョン・F・ケネディ大統領が何者かに銃で撃たれて死亡した。政府はリー・ハーベイ・オズワルド容疑者の単独犯行と断定したが、同容疑者は事件後に射殺され、事件は現在も謎に満ちている。写真は、凶弾に倒れる直前のケネディ大統領【AFP時事】
 1950(昭和25)年11月22日(水) 第1回プロ野球日本シリーズが開幕。6戦全て違う球場で開催
 1975(昭和50)年11月22日(土) スペインで王政が復活し、フアン・カルロス1世が国王に即位
 https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1950(昭和25)年11月22日(水) 42歳・若林忠志の奇襲先発が実り、毎日が初代“日本ワールドチャンピオン”へ先勝
‡2017(平成29)年11月22日(水) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は11月22日だ。 
 写真◆力投する若林。制球重視のフォームのようだ
 セ・パ分立初年度の1950年。セの王者・松竹ロビンス、パの王者・毎日オリオンズが「第1回日本ワールド・シリーズ」(現日本シリーズ)で激突した。 
‡1950(昭和25)年11月22日(水)、その第1戦(神宮)で毎日の先発マウンドに立ったのは、意外な人物だった。若林忠志、“七色の変化球”を操った日系人の伝説的大投手だ。どこが意外なのかと思うかもしれないが、当時すでに42歳で兼任監督でもあった(総監督に湯浅禎夫がいたので、実質ヘッドコーチ)。しかもシーズンでは14試合しか投げていなかったのだから、まさに奇襲である。 
 先発は本人の志願だった。「ほかのやつはあがっちゃう。一番いいピッチングができる選手は僕」という若林に、湯浅総監督は「いい年なんだから」と反対したという。 
 若林は「だったら味方に投げてみるから」と打撃練習のマウンドに立ち、完ぺきに抑え込んだ。さらに、そこから1カ月ほどあったというが、第1戦の配球を徹底的にシミュレーションし、初球は「外角にわずかに外れる球」と決めていた。 
 想定どおりのピッチングで、松竹の先頭打者・金山次郎をサードゴロに打ち取ると、あとはのらりくらりの老獪なピッチングで9回を終え、松竹自慢の「水爆打線」を失点1に抑え込んだ。ただ、松竹の先発・大島信雄も好投し、試合は延長戦に突入。12回表に毎日が2点を取ると、その裏、若林は反撃を1点で食い止め、毎日が3対2で勝利。若林は161球の完投勝利だった。 
 毎日はこれで勢いに乗り、4勝2敗で初代「日本ワールドチャンピオン」となっている。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1978(昭和53)年11月21日(火) 球界に激震!江川卓の「空白の1日」 
 2017(平成29)年11月21日(火) 7:05 
 写真◆正式な入団会見は翌79年。阪神入団後、巨人・小林繁とのトレードによってだった
 1978(昭和53)年11月21日(火)は、「空白の1日」と言われ、まさに球界に大激震が起こった日だ。 
 ただし、事件の全貌を説明していくと、1冊の本でも収まらない。今回は20、21日に絞り、何があったか拾い集めていきたい。 
 高校、大学球界で「怪物」と言われ、プロでもすぐエースになる力があると言われていた剛腕・江川卓。巨人と相思相愛ながら、法大4年時のドラフトではクラウンライター(その後西武)に1位指名されると、それを拒否し、1年の“浪人生活”を選んだ。 
 この時点では世論的には江川に同情的だった。「あんなに行きたいなら巨人に入れてあげたい」と多くは思っていた。しかし、そのすべてが覆ったのが、この日の、まさに暴挙からだった。 
 水面下はともかく、公に動き出したのは、
 1978(昭和53)年11月20日(月)だった。17時、江川が留学先のアメリカから4カ月ぶりに帰国。ほぼ同時期、西武が獲得断念の記者会見を行った。 
 マスコミが殺到し、騒然とする中、「お答えできません」「分かりません」を繰り返した江川が空港から向かったのが船田中自民党副総裁の自宅だった。ここで江川サイドが話を詰め、さらに深夜のホテルで船田議員の秘書と巨人側との最終確認を経て、早朝の3時50分、報道者幹事に記者会見開催の連絡があった。翌
 1978(昭和53)年11月21日(火)、船田事務所で朝8時50分に江川が巨人との契約書にサイン。9時30分、同ビルで記者会見を行った。江川は「小さいころからあこがれの巨人軍とただいま正式に契約しました」と笑顔で語ったが、もちろん、記者たちはみなあ然。ドラフトは翌
‡1978(昭和53)年11月22日(水)、ドラフトにかからず、なぜ入団会見が可能なのか……。 
 正力亨オーナーは、1977(昭和52)年のドラフトで江川を指名したクラウンライター(西武)の交渉権はドラフト2日前に
 1978(昭和53)年11月20日(月)で消滅。
 1978(昭和53)年11月21日(火)は協約上、江川は「いずれの球団にも選択されなかった選手」となり、自由に契約できると判断したと語った。巨人はその後、セ・リーグ事務局に江川の登録申請を届け、事務局も「ひとまず預かるだけ」と言いながら受け取った。 
 巨人・長嶋茂雄監督が聞いたのは11時30分だったらしい。「寝耳に水。どうなっているんだろう」ときょとんとした顔で記者たちに話していたという。 
 その後、12時15分からドラフト会議の打ち合わせのための12球団プロ野球実行委員会が行われ、当然のように事務局、セ・リーグ、他球団から巨人に激しい抗議があった。6時間にわたる会議の後、セ・リーグの鈴木竜二会長は会見を行い、「セ・リーグの会長として巨人の登録申請を協定上該当しないと判断して却下した」と発言。同席し、抗議の発言を繰り返した巨人・長谷川実雄代表に「いつまでやっても仕方がない」と席を立った。 
 20時30分には長谷川代表から「巨人軍の契約選手(江川)を(ドラフトで)指名したら告訴する」と発言。さらに正力オーナーとともに翌日のドラフト会議のボイコットを表明し、「リーグ脱退も辞さず」と語った。 
 とにかく、すさまじい1日だったのだ。
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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 1978(昭和53)年12月22日(金) 江川事件新展開! 金子鋭コミッショナーの「強い要望」
 2017(平成29)年12月22日(金) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月22日だ。 
 写真◆中央が金子コミッショナー。「球界の混乱を解決する名コミッショナー」から「卑怯者」へ、一夜にして評価が変わった
 1978(昭和53)年11月21日(火)、「空白の1日」から始まった“江川事件”。巨人と、巨人入団を希望する江川卓が野球協約の隙間を突くように起こした空前絶後の大事件だが、12月22日は、こう着状態にあった事態が大きく動いた2日間のうちの、2日目だ。 
‡1978(昭和53)年11月22日(水)、巨人ボイコットで11球団で行われたドラフト会議の後、巨人が「12球団全員出席でないドラフト会議は無効」との提訴。これに対し、まず12月21日、金子鋭コミッショナーが提訴の却下と江川の交渉権がドラフトで1位指名し、交渉権を得た阪神にあると裁定した。 
 これに世論は「胸のすく裁定」「明治人の気骨」と金子コミッショナーを大絶賛したが、それが翌日には「卑怯者!」の罵声に変わった……。翌
‡1978(昭和53)年11月22日(水)、12球団の実行委員会で同じ金子コミッショナーから「協約上は昨日の裁定で終止符が打たれたが、果たして実質的な収拾とは考えられません」と語り、さらに「まず巨人は江川をフリーにし、江川はすみやかに阪神との交渉を受ける。阪神は江川を入団させた後、キャンプまでに江川を巨人にトレードさせてほしい。これが昨日の裁定の続きです」と発言。指令かと問われ、「強い要望です」と答えた。 
 金子コミッショナーは「批判、異論は甘んじて受ける。私ひとりが悪人になればいい」とも発言。水面下で巨人が球界脱退をちらつかせ、揺さぶりをかけていたことがうかがわれた。 
 江川は同日、自宅の庭先で会見を開き、「この指令は素直に喜んでいいのか分からない。自分のためにトレードに出される人に迷惑がかかる。金銭トレードにしてほしい」と珍しく複雑な表情を見せたという。 
 それまで世間のいかなるバッシングにも江川が動揺しなかったのは、おそらくルールの隙間をついての個人の戦いと思っていたからではないだろうか。 
 それでだれかが犠牲になるのは、江川卓という男の美学に反していたのかもしれない。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 ①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171122-13
 ②https://ja.wikipedia.org/wiki/江川事件
 ②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171121-12
 ③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171222-14
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 ┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.391 ┃  60円
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‡1965(昭和40)年11月22日(月)増大号 南海・鶴岡一人監督、突然の退団表明
 2019(平成31)年02月04日(月) 15:33 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎新人・土井正三のサヨナラ打で巨人日本一
 写真◆表紙は巨人・王貞治
 今回は『1965年11月22日増大号』。定価は60円だ。 
 1965年、巨人─南海の日本シリーズは、第5戦を新人・土井正三のサヨナラ打で制した巨人が覇者となった(MVPは長嶋茂雄)。 
 土井は第1戦スタメンから外れ、第2戦はショートのスタメンに入るもタイムリーエラーで、ふたたび第3戦はベンチスタートとなった。 
 それでも川上哲治監督が第3戦の7回裏に代打で起用し、2点適時打。4、5戦はセカンドのスタメンに入った。 
 土井は、「一死だったんで杉浦(忠)さん、野村(克也)さんも狙ってくるのはゲッツー。必ず低目に来ると思って的を絞っていました」と声を弾ませた。 
 ただし、この号でページが多く割かれていたのは敗者の南海。 
 11月6日、南海監督・鶴岡一人監督が大阪難波の料亭「新常盤」で記者会見を開き、退団を発表したのだ。 
「今年20年目で区切りもいい。後進に道を譲るつもりだ。今後は、何らかの形で球界に残るよ」 
 と語った鶴岡監督の「今後」についてスポーツ紙は、3紙がサンケイ監督、2紙が東京監督だった。 
 東京は永田雅一オーナーが数年前から動き、鶴岡自身も一度は「南海を出るときがあれば永田さんにお世話になります」と話したが、水面下で猛烈に動いていたのが、セ・リーグのサンケイだったらしい。南海と戦うことに抵抗があった鶴岡も揺れていたようだ。 
 南海後任監督は蔭山和夫ヘッドコーチとの声がもっぱらだったが、蔭山本人は言葉を濁していた。 
 では、またあした。<次回に続く>
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190204-01
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.769 ┃  90円
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‡1971(昭和46)年11月22日(月)号 圧倒的なメジャーのパワーに巨人が沈黙/週べ回顧1971年編
 2020(令和二)年08月06日(木) 10:14 
◎試合開始時間をどうするか
 写真◆表紙は左からオリオールズのパウエル、巨人・王貞治
 今回は『1971年11月22日号』。定価は90円。
 椋鳥軍団、オリオールズが来日以来10戦し、7勝3分とまだ負けがない。
 ボルチモア・オリオールズはア・リーグ3連覇中で、2年連続世界一を目指したワールド・シリーズでパイレーツに敗れた直後。カッカしていたので、ついつい熱くなったとも言われた。
 とにかく選手層が厚い。ブルックス、フランクの両ロビンソン、パウエルを中心とした打線にドブソン、クエイヤー、パーマーらの投手陣は、まさに「世界最強軍団」だ。
 当時、「日米の差は縮まった」という声があり、「7連覇中の巨人なら互角に戦えるのでは」の声もあったが、結果は無残だった。11月2日、富山での試合は巨人単独チームがドブソンにノーヒットノーランを食らい、翌日の新聞で、
「巨人史上最悪の日」「日本一が泣きべそをかいた」
 と書き立てられた。
 王貞治も口惜しさを通り越したか、サバサバとした口調で、
「面白くないな。速いし、コントロールがいいし、次に何を投げてくるのか分かっていても、それを打てない。あんまりすごくてあきらめがついたよ」
 と話していた。
 このあまりの負けっぷりに、大洋の中部謙吉オーナーが「全日本川上哲治監督様へ」とメッセージを送った。
「平松(政次)、堀内(恒夫)、山田(久志)、江夏(豊)を2回から3回でいいから全力投球。高田(繁)、大杉(勝男)、張本(勲)、長嶋(茂雄)、王で二度打ってダメなのは交代」
 オリオールズとともにアメリカからキューン・コミッショナーらが来日。日米コミッショナー会談も行われたが、席上、キューン・コミッショナーから「近い将来、日米決戦のために努力しよう」との発言があった。
 これまでなら、日本側から出ていた発言を先に言われた形だが、オリオールズに対する、あまりの負けっぷりに、日本側は苦笑して聞くしかなかったようだ、 
 話を変える。7連覇の巨人戦は、当時からテレビ視聴率20パーセント超えのドル箱だった。
 当時試合開始は19時が多かった。18時まで働き、その後で、という観客のことを考えてだろう。しかし、これだと8時開始、9時26分で打ち切られるテレビ放映に入り切れないことが多くなっていた(試合時間が伸びていたことは書いた)。
 6時半スタートは、すでにパでは採用し、セでは巨人以外同意していたが、巨人は「8時の段階で勝負が決まっていたら逆効果」と反対意見を出していたようだ。
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.770 ┃  90円
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‡1971(昭和46)年11月22日(月)号 南海・野村克也監督の悩み/週べ回顧1971年編
 2020(令和二)年08月07日(金) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎仲間が次々と去っていく…
 写真◆71年に達成した500号本塁打のトロフィーを持つ野村克也
 今回は『1971年11月22日号』。定価は90円。
 ペナントレース最終戦の直後、南海・野村克也監督がワールド・シリーズ観戦のため渡米した。
 選手兼任で監督に就任した70年こそ2位だったが、この年は4位と低迷。ホークス担当の記者は、帰国後、退任発表があるのでは、とウワサしていた。
 理由は成績だけではない。信頼していた人間が次々チームを去ったことで、野村が監督業に嫌気がさしているのでは、という推測からだった。
 最初は古谷法夫投手コーチだった。元国鉄の選手だったが、その後、社会人の日本通運でコーチになり、その育成手腕を野村監督が買っての招へいだったが、選手が指導された際、「それはアマチュアでしょ、プロではダメです」など、面と向かって言われるようになっていたという。
 9月30日、新山球団社長から古谷コーチのスカウトへの転身を通告され、さらに選手がフロントにいろいろ首脳陣批判をしていることも聞かされた。
 追い打ちをかけたのが、藤江清志渉外課長の退団だった。藤江は通訳としてコーチのブレイザーにつき、野村監督も厚い信頼を寄せていた。こちらは「球団に在籍した場合の将来に不安を持った」というのが、退団の理由だったらしい。
 藤江の退団が10月8日。さらに9日には、捕手の里見進が「ロッテ移籍か、もしくは退団を」と申し出てきた。里見はロッテからトレード会議(現役ドラフト)で獲得した選手で、ロッテ・大沢啓二監督からは「戻してくれないか」と何度となく話が来ていた。
 ただ、野村監督も里見を高評価し、コーチ補佐に昇格させようという話が進んでいたらしい。
 10月10日、まさに羽田を旅立つ前、報道陣に新しいコーチ陣をどうするか尋ねられると、
「まだ分からん。自分がやるかどうかも見当がつかんのに」
 と答えた。「みんな俺から離れていくのか」とも言っていたらしい。
 さらに28日に帰国すると皆川睦雄から現役引退の申し出があった。皆川は野村監督と同期のアンダーハンド投手。
「入団したときから同じ道を歩んできた。ファームも一緒、2人でレギュラーの座をつかんで、今までやってきた仲」
 と野村が話す親友だった。では、また月曜に。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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①https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200805-02
②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200806-04
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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