┏━━━━━━━━━━┓
┃ 『週刊プロレス』 ┃
┗━━━━━━━━━━┛表紙:初代タイガーマスク
‡1983(昭和58)年08月09日(火) 創刊号 表紙日付
1983(昭和58)年08月16日(火) 創刊号 発売
https://project24gallery.web.fc2.com/gallery_04_w_pro_1983-1984.html
┏━━━━━━━━━━┓
┃ 『週刊ゴング』 ┃
┗━━━━━━━━━━┛
1984(昭和59)年05月24日(木)創刊号 表紙:猪木vs馬場
http://blogs.yahoo.co.jp/jaws112492/32940491.html
┏━━━━━━━━━┓
┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
┗━━━━━━━━━┛
1993(平成五)年08月09日(月) 非自民・非共産の8党派による細川連立政権が誕生。自民党が戦後初めて下野 ⇒ 衆院小選挙区比例代表並立制導入の是非をめぐり、6月に自民党が分裂。7月の総選挙で過半数を割り、日本新党の細川護煕代表を首相とする非自民・非共産8党派による連立政権が誕生した。1955年以降、政権を握ってきた自民党が初めて下野した。写真は就任後初めて記者会見する細川首相【時事通信社】
1946(昭和21)年08月09日(金) 第1回国民体育大会が兵庫県宝塚市で開幕
2004(平成16)年08月09日(月) 福井県美浜町の関西電力美浜原発で蒸気噴出事故、作業員5人が死亡
https://www.jiji.com/jc/daily
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 王貞治756号本塁打40周年記念企画 ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
【王貞治756号本塁打(01)】星野仙一から連発!「世界一」へあと10本
‡1977(昭和52)年08月09日(火) 745号 vs中日
‡1977(昭和52)年08月09日(火) 746号 vs中日
‡2017(平成29)年08月09日(水) 18:05 1977(昭和52)年、今から40年前、大げさではなく、日本中がプロ野球に熱狂した時期がある。王貞治のハンク・アーロンが持つ当時のメジャー最多記録通算755号本塁打への挑戦だ。メジャーは、はるかに上のレベル、まったく違う世界と誰もが思っていた時代に、比較することが正しいかどうかは別とし、一番華々しいホームランの数で「世界記録」を抜き去る可能性が出てきたのだ。巨人ファンだけでなく、いやプロ野球ファン以外も巻き込んだ熱狂は、当時を実体験していない若い野球ファンには、想像すら難しいかもしれない。週刊ベースボールでは、9月3日、756号の世界新記録達成までのカウントダウンを当時、王がホームランを打った日に合わせながら、写真とともに振り返る。
写真◆9回一死、フルカウントから放った2ランは、推定飛距離110メートル
まず、744本で挑んだ8月9日の中日戦(ナゴヤ)からだ。試合前から「今日は最高に調子がいい」と言っていた王は、5回表にベンチを出るとき「打ってくるよ」と宣言して入った打席で、中日先発・星野仙一の初球を完ぺきにとらえ、29号。
さらに最終回、やはり星野から30号をライトスタンドに叩き込み、16年連続の30号本塁打。これは
1962(昭和37)年07月01日(日)、初めて「一本足打法」で放ったホームランから数え、700号でもあった。
それでも試合が7対11と敗れたこともあり、「30本が目標ではない。40本がノルマだ」と、試合後の王の表情は硬いままだった。
対戦した星野は、誰から王が新記録を打つかというファンの投票で、1位になった男だ。
「僕はいつも王さんに真っ向勝負をしているからだろう。2本とも直球。打つなら打ってみい、と思って投げたんだ」
これで通算746号、新記録達成まで、残りは、あと10本となった。<次回へ続く>
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170809-16
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1986(昭和61)年08月09日(土) 竜の黄金左腕 近藤真一の2つの記念日
‡1987(昭和62)年08月09日(日) 竜の黄金左腕 近藤真一の2つの記念日
‡2017(平成29)年08月09日(水) 8:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は8月9日だ。
●甲子園の出世試合
写真◆高校時代の近藤。86年夏の甲子園では“BIG4”の一人に挙げられていた
天理高が悲願の初優勝を成し遂げた1986年夏の甲子園で、“BIG4”と呼ばれたのが、秋田工高の川辺忠義(のち巨人ほか)、沖縄水産高の上原晃(のち中日ほか)、広島工高の上田俊浩(プロには進まず)、そして享栄高の近藤真一だった。なかでも140キロ台の速球と大きなカーブを持つ左腕・近藤は、同年のセンバツにも出場し、プロのスカウトから高い評価を得ていた。
その評価を急上昇させ、一躍“ドラフト1位候補”となったのが、8月9日に行われた1回戦、唐津西高戦だ。先発の近藤は被安打1、奪三振15の完封勝利を飾り、その名を全国に轟かせた。享栄高は2回戦の東海大甲府高(山梨)に2対1の勝利も、3回戦の高知商高戦では、近藤のヒジ痛の再発に、自身、高校時代2本目の被本塁打もあって1対2で敗れた。
近藤にとって甲子園は、アピールの場でもあった。3歳のときに父親が他界し、母の手一つで育てられ、早々に「上で野球を続けます。進学はしません」とプロ志望を明らかにしていた。
意中の球団は中日ドラゴンズだ。愛知県一宮市出身で、少年時代から、あこがれの球団であっただけではない。母、姉、妹の女系家族でもあり、自分はずっと母親と暮らし、親孝行をしなければと思っていたからだ。
中日の田村スカウトも「ノドから手が出るほど欲しい」と絶賛しつつ、「地元だし、ウチが取らなきゃいけないんだけどね。自由競争ならどこにもやらないのにな」と複雑な心境をもらしていた。
夢をかなえてくれたのは、この86年のオフ、監督に就任した39歳の青年指揮官・星野仙一だった。初仕事となったドラフト会議、近藤は1位で5球団の競合となったが、星野監督は、2番目で見事、当たりクジを引き当て、「近藤、約束どおりやったぞ!」と興奮を隠さず、テレビカメラに向かって叫んだ。
近藤の“初恋”が実った瞬間だった。
●突然告げられた先発
写真◆快挙達成の近藤。この年は4勝、翌年は8勝を挙げたが、以後故障に苦しみ、通算12勝17敗で94年限りで引退となった
期せずして、プロの転機も8月9日だ。
期待されながらも開幕から二軍生活が続いていた近藤が初めて一軍に呼ばれたのが、8月8日。ナゴヤ球場での巨人との3連戦の2戦目だった。このとき首位巨人との差は4.5。中日は意地を見せ、初戦を3対1、2戦目は延長10回4対4の引き分けとした。迎えた第3戦は、勝てば2.5差、負ければ4.5差に戻る。
ただ、中日は激闘の中で先発要員を使い果たしていた。2戦目の後、「監督、明日の先発がいません」と嘆いた投手コーチの池田英俊に言ったのが、「池さん、高校生がおるだろう」だった。
ただ、すぐに告げたわけではない。8月9日、第3戦の当日、黙々と練習をこなしていた近藤は、池田コーチの突然の一言で頭が真っ白になった。
「今日、投げてみるか」
一軍初マウンドが満員の巨人戦、しかもテレビの全国中継もあった。緊張しないわけがない。最初は近藤自身、どうなることかと不安だったが、先頭打者の駒田徳広を3球三振に打ち取り勢いに乗った。以後、3割打者がそろう巨人打線が凡打の山を築く。
ストレートも走っていたが、効果的だったのは、落差のある大きなカーブだ。巨人の打者はまったくタイミングが合わなかった。8回を終えて、巨人打線はヒットも得点もなし。味方打線からは、落合博満の2本塁打もあって、すでに6点の援護をもらっていた。
9回裏、巨人最後の攻撃も仁村薫、鴻野淳基がいずれも三ゴロ。大記録達成まで、あと1人となった。迎えたバッターは、この時点でのセの首位打者・篠塚利夫。近藤は途中から「打たれるなら篠塚さんかな」と思っていたという。
カウント1ボール2ストライクから投げ込んだのは、自信あるカーブだ。一瞬、少し外れたかと思ったが、球審の手が高々と上がり、ノーヒットノーラン達成。それはないと球審に抗議する篠塚だが、すでにナゴヤ球場は割れんばかりの歓声に包まれていた。
「最後はボール。でも、もうそういう雰囲気でした。ファンの大声援がそうさせたんだと思います」とは、近藤の後年の言葉だ。
116球、許した走者は2四球と1失策の3人だけだった。プロ初登板でノーヒットノーランは、もちろん史上初。無欲でつかんだ快挙だった。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1996(平成八)年08月09日(金) 最下位どっぷりの阪神、1イニングだけの大変身?
‡2018(平成30)年08月09日(木) 8:27 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は8月9日だ。
写真◆息詰まる接戦が一瞬にしてワンサイドゲームに
藤田平監督でスタートした1996年の阪神。結果だけを見たら、いいところなく最下位に終わったシーズンだ。
特に深刻だったのは、リーグワースト打率.245の打線だったが、1日だけ、いや1イニングだけ、まったく別のチームのように打ちまくったことがある。
8月9日、横浜戦(横浜)だった。序盤は阪神先発・古溝克之、横浜先発・斎藤隆ともまずまずのピッチング。両軍の後続投手も踏ん張り、3対3で延長戦となった。
試合が動いた、いや壊れたのは12回表、阪神の攻撃だ。横浜の四番手・盛田幸妃から四球、安打、四球で満塁にした後、マースが勝ち越しタイムリー。
その後も打つわ、打つわで、17人攻撃で一挙11点。これは延長戦1イニングの日本記録で、世界記録まであと2点だった。
「世界記録なんていりまへんわ。でもあの回、ベンチは乗ってました」。さすがの鬼平・藤田監督もニコニコだ。
すごかったのが、適時打のマースの代走で出た米崎薫臣だった。一度生還した後、打席にも入り2点タイムリー。その後、ホームにもかえって1打席2得点だ。
試合終了は11時57分、試合時間は5時間36分。12回までの試合としては当時の最長記録だった。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡2005(平成17)年08月09日(火) 去る者に笑顔、送り出す者に涙。佐々木主浩引退登板
‡2019(令和元)年08月09日(金) 7:05 野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2005年8月9日だ。
写真◆最後の対決を終え、歩み寄った佐々木(左)と清原
希代の名クローザーがマウンドを去る――。この日、フルキャストスタジアム宮城の巨人戦で横浜の佐々木主浩が引退登板に臨んだ。舞台は生まれ故郷の仙台。相手は98年優勝時に防御率0.00と完ぺきな強さを見せた巨人、そして自身「最も燃える相手」という清原和博がいる巨人、である。
1990年に佐々木が入団して以来、横浜(入団当時は大洋)は計13試合、仙台でゲームを行っている。しかし対巨人となると90年の1試合のみで、佐々木は登板していない。自身の進退をかけるシーズンに、15年ぶりに巡ってきた機会だ。
ペナントレース真っ最中、Aクラス争いのかかる中での、異例の引退登板を、わがままとする見方もあった。だが、同じく“運命的”と感じていたもう一人の人物が牛島和彦監督だった。指揮官はこの8月に仙台での巨人戦が組まれていることを、佐々木の「引きの強さ」と表現した。
「彼は球団の功労者。たとえチームが優勝争いをしていたとしても、こういう形で登板させていたと思う」
2回裏無死一塁、清原に打席が回ると、大歓声を受けながら佐々木がマウンドへ向かう。
「清原君は高校時代からライバルで親友。彼の顔を見たときは涙が出そうになった」
1球目139キロ、2球目138キロ、3球目137キロ。150キロを超えた全盛期の面影はないが、一球一球に歓声が沸く。カウント1ボール2ストライク。決め球はやはり「これがあったからプロでやってこられた」というフォーク。清原のバットは大きく空を切った。
対決を終えた二人が歩み寄り、がっちりと握手を交わす。去る者は笑顔を浮かべ、送り出す者の目には涙があった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180809-02
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180809-02
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190809-10
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.376 ┃ 50円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1965(昭和40)年08月09日(月)号 オールスターの全米中継
2019(平成31)年01月14日(月) 10:15 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、平日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎張本勲、復帰会見
写真◆表紙は左から巨人・王貞治、宮田征典
今回は『1965年8月9日号』。定価は50円だ。
オールスターが賑やかに開幕、と書きたいところだが、巨人・王貞治、金田正一、西鉄・中西太、東映・張本勲らの欠場でやや寂しさもあったのは事実。
その中で気を吐いたのが第1戦のMVP、阪急・スペンサーだ。1戦目は2安打2打点と打ちまくるも、2戦目は1安打1打点2四球、2戦目は3四球と勝負を避けられた。
当時のオールスターは全米への中継もあり、この年は、12年前にNYジャイアンツの監督として来日したことがあるレオ・ドローチャーが解説者として現れた。
ドローチャーはスペンサーのジャイアンツ時代の監督でもあり、
「日本に来て、より一層迫力が出たようだ。私が使っていた当時も、このくらいの力を出してくれたらなあ」と話し、夜にはスペンサーと食事に行ったという。
また、12年前と比べ日本人選手の体格は向上したことに驚きながらも「外野に関しては、どうも腑に落ちない。これだけ体格がよくなったのに内野、または本塁に正確にスピードの乗った返球ができないのはなぜなのか」とも語っている。
結果はパの2勝1分。セの藤本定義監督(阪神)は、
「セのほうが選手が疲れている。パは1位とそのほかがこんなに開いている。もう勝負などどうでもいいんだ。パのほうがのんびりやれるんだ」
と南海独走を言い訳にしていた。
離脱組は、右足負傷の王が後半戦スタートの24日の中日戦(中日)で13日ぶりに復帰し、いきなり22号と元気なところを見せた。また、暴力事件で謹慎中だった張本も処分が解け、24日から復帰。復帰会見では、
「本当に申し訳ないことをした。心のどこかに思い上がりがあったのかもしれません。これからは社会人としてもフェアプレーできる人間になるよう努力します」
と謝罪した。
7月23日、広島は、白石勝巳監督の休養、長谷川良平コーチの代理監督昇格を発表した。チーム不振の責任をとりたいと、白石監督が辞表を出したため。
では、またあした。<次回に続く>
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.718 ┃ 90円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1971(昭和46)年08月09日(月)号 ロッテ・濃人渉監督の二軍降格を発表
2020(令和二)年05月28日(木) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎新監督は大沢啓二に
写真◆表紙は阪急・長池徳二
今回は『1971年8月9日号』。定価は90円。
7月23日、東京球場でのロッテ─阪急戦だった。
前年の優勝監督、しかも、この年も2位につけていた濃人渉監督の異例の交代劇が起こった。
期せずして、あの放棄試合でも投げていた足立光宏の好投もあってロッテが劣勢になっていた試合だ。
21時20分、9回表、阪急・長池徳二の満塁弾が出て、敗戦がほぼ確定した後、中村オーナーはネット裏からオーナー室に入り、スタンドで観戦していた大沢啓二二軍監督を呼んで、一軍監督昇格を告げた。
皮肉と言えば皮肉だ。
実は前年11月、永田雅一前オーナーがリーグ優勝したにもかかわらず濃人監督を交代させ、大沢を昇格させようとしたとき「優勝監督を交代させるのはおかしい」と、永田前オーナーを猛烈に批判したのが、オーナー代理時代の中村だ。結果的には「マウント」ではないが、今の球団で誰が力を持っているかを永田に思い知らせ、話をつぶした。
中村は、ある人から「なぜ濃人を辞めさせないのか」と聞かれ、こう答えたという。
「濃人君の采配がまずいことは言われなくても分かっている。そのために野球をよく知っている近藤(貞雄)君をヘッドにしたのだ。それより野球のことは、濃人より私のほうが知っている」
話を23日に戻す。
試合はやはりロッテの敗戦。濃人監督は自分が監督を降ろされたなどとはまったく知らない。
「(首位阪急に)8ゲーム差と開いたが、まだ望みはある。あすから気持ちを入れ替え頑張ろう」
と選手に活を入れていた。
しかし、この後、濃人と近藤ヘッドがオーナーに呼ばれ、そのまま記者会見に。中村オーナーから濃人監督と近藤ヘッドを二軍に降格させ、大沢と入れ替えることを発表した。
濃人さん、かわいそう。では、またあした。<次回に続く>
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.719 ┃ 90円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1971(昭和46)年08月09日(月)号 1971年オールスター、阪神・江夏豊の9連続奪三振後日談など
2020(令和二)年05月29日(金) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎江夏以上にしんどかった小谷
写真◆打球を受け、降板となった水谷。右から3人目の背番号27の選手
今回は『1971年8月9日号』。定価は90円。
前回と同じ号から後日談的ネタを拾う。
まずは、西宮球場(初出修正)のオールスター第1戦、阪神・江夏豊の9連続奪三振の後だ。
これが前年の球宴の5連続を合わせ、14連続奪三振であったことは以前書いた。
江夏の次なる登板は第3戦。
まずロッテの江藤慎一を三振で15連続、そして続くバッターが南海の兼任監督、野村克也だった。
「そんなに続けて三振取られたらかっこつかんからな」
と、もともと握り半分ほど短く持っていたバットをさらに短く持った。かつての三冠王のなりふり構わぬ姿に、マウンドの江夏は「この人からは三振取れんな」と思ったという。
結果はセカンドゴロ。記録は確かに途切れた。
実は前年の球宴、江夏は5連続奪三振をマークしながら、あるパの打者にぼろくそに言われたという。
「江夏のピッチングあれなんじゃい。変化球ばかり投げよって。その点、平松(政次。大洋)は抜群じゃ。正面から堂々投げてきた。連続三振取ったというても、内容は平松のほうが上じゃ」
誰とは書いてないが、たぶん、あの人だろう。
なお、この試合はセがノーヒット、16奪三振のリレーをしたことで知られるが、江夏以上に評価が高かったのは四番手の大洋・小谷正勝だ。
三番手の中日・水谷寿伸が打者の打球を受け、降板。4、5球投げただけで急きょの登板となった。
「思い出してもぞっとするほどしんどかった。ほんまに江夏を恨んだよ。最初に投げるもんは気が楽だが、こっちは初めから意識させられて、至上命令みたいなもんだから。野球生活で最高の疲れかもしれんね」
と小谷。しっかりノーヒットで最後まで投げ切った。
ロッテの放棄試合についても後日談。
当時、審判を恫喝するような抗議が頻繁にあったが、審判側にも問題はあり、放棄試合のようにジャッジが二転三転することもよくあった。
7月13日の放棄試合の翌14日、巨人─阪神ダブルヘッダー第2試合でこんなことが連続してあった。
まずは2回裏、巨人・上田のライト線の打球を一塁塁審がフェア、ライト線審がファウルとジャッジした。すぐ川上哲治監督が「フェア」と主張し抗議したが、このときは審判の協議で「ファウル」となった。
そして4回には、2ストライクから打席に立った阪神の田淵幸一の右手に投球が当たり「死球」の判定も川上監督の抗議で「コースがストライクだから三振」となった。
当然、阪神・村山実監督が22分の猛抗議をしたが、結局、提訴を条件に引き下がった。このようなことが続けば、やはり審判不信になってくるだろう。
球宴後再開のペナントレースではセが巨人のあまりの独走でしらけ気味。観客動員が激減し、鈴木龍二セ会長は、
「危機に直面していることを感じないわけにはいかない」と語った。では、また月曜に。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190113-02
②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200527-06
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200529-01
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
************************************************************