ED薬の効き目と女性心理 「ムラッ」がなければ勃起もしない (2/2ページ)
美人薬剤師 そっと教える回春術
‡2017(平成19)年10月08日(日) 吉澤恵理氏
はじめまして。薬剤師のエリー☆です。今回から元気を応援するコラム「中高年の回春術」をお届けします。1回目のテーマはズバリ「ED治療薬」です。
男性が「男としての自信」を無くすのは、どんな時ですか? 多くの男性に共通するのが「性欲減退」や「ED=勃起不全」ではないでしょうか?
俗に言う「ムラッ」とすることってとても大切なんですよ。
なぜかというと、ムラッとするような性的刺激が起こると、脳からの信号が副交感神経を介して陰茎に伝わり、陰茎海綿体の動脈が広がって血液が流れ込むと陰茎海綿体はスポンジ状なので血液を吸収し膨張して勃起する仕組みだからです。
EDは、なんらかの原因で陰茎に血液が十分に流れ込まないために起こるのですが、その原因はさまざまです。
(1)心理的原因(2)生活習慣病による血液障害や泌尿器系疾患(3)薬の副作用-などが挙げられます。中でも仕事やパートナーとの関係性によるストレスは、ナイーブな男性の気持ちを萎えさせてしまう大きな原因ではないでしょうか?
現在、ED治療薬にはバイアグラ、レビトラ、シアリスの3種類があります。共通する作用は陰茎の動脈を広げるように働き、勃起を起きやすくする点です。特徴を見てみましょう。
バイアグラ=効果発現まで服用後1時間程度。効果は5時間程度持続。空腹時に服用。
レビトラ=効果発現まで服用後20~30分。効果は、5~10時間程度持続。空腹時に服用。
シアリス=効果発現まで1~3時間。20~36時間程度と持続効果は長いです。
よく誤解されますが、ED治療薬を服用したからといって四六時中、勃起が持続するわけではありません。服用してもムラッとするようなきっかけがなければ勃起しないのです。人生100年時代。50代、60代のミドルエイジから改めて愛とSEXを考えることこそが重要です。
ただ、女性と男性では、SEX観が違うことをご存じですか? 実は女性にとってEDはあまり問題ではありません。女性がパートナーに求めるものは「愛」です。
女性はパートナーがカラダの隅々まで知ってくれて気持ちよくしてくれることに愛を感じ満足します。愛するパートナーとのSEXは、愛のコミュニケーションです。
私は、むしろ大切なパートナーがEDに陥ったらストレスや疲れを癒やしてあげられる懐の深い女性でありたいと思います。
■吉澤恵理(よしざわ・えり) 薬剤師、医療ジャーナリスト。1969年福島県生まれ。92年東北薬科大(現・東北医科薬科大)卒業。薬物乱用防止の啓蒙活動、心の問題などにも取り組み、執筆のほか講演、セミナーなども行っている。
https://www.zakzak.co.jp/lif/news/171006/lif1710060021-n1.html
映像◆アナザーストーリーズ 松嶋菜々子「三島由紀夫 最後の叫び」 [運命の分岐点] https://youtu.be/HOx5_GEx4YM
‡2019(令和元)年10月08日(火) 第131回「三島由紀夫 最後の叫び」
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┃ 三島事件 ┃
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1970(昭和45)年11月25日(水)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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映像◆三島由紀夫 最後の演説https://youtu.be/_oNMABlVRtM
昭和45年11月25日市ヶ谷駐屯地にて、最後の演説をして、割腹自決しました。ヤジと怒号が飛ぶ中、最後の訴えをした三島由紀夫氏です。
https://ameblo.jp/jam512412/entry-12590017349.html
映像◆三島由紀夫 森田必勝 憂国忌https://youtu.be/Qr1N17WBY3w
1990(平成二)年11月25日(日) 憂国忌20年祭 東京・九段
1990(平成二)年11月26日(月) 放送 筑紫哲也
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┃ 三島由紀夫 ┃
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1925(大正14)年01月14日(水) 生誕
1970(昭和45)年11月25日(水) 逝去
映像◆三島由紀夫 Yukio Mishima on WWII and Death -Full NHK Interview (1966) https://youtu.be/hLGMm6c_BCA
TransylvaniaBoogie
●終戦のとき、私は終戦の詔勅を親戚の家で聞きました。と申しますのは、東京都内から離れた所の親戚の家に私どもの家族が疎開をしていまして、そこへたまたま私が勤労動員で行っていた海軍の工場から帰っていたのですが、なぜ帰っていたかというと、ちょうどチブスらしい熱を出しまして、そして帰ってしばらく静養していた時期に当たっております。そして詔勅を聞くとすぐまた自分の職場へ帰って後始末をしたのですが、終戦の詔勅自体については私は不思議な、感動を通り越したような空白感しかありませんでした。それは必ずしも予期されたものではありませんでしたが、今までの自分の生きてきた世界がこのままどこへ向かって変わっていくのか、それが不思議でたまらなかった。そして戦争が済んだら、あるいは戦争が負けたらこの世界が崩壊するはずであるのに、まだ周りの木々の緑が濃い夏の光を浴びている。ことにそれは普通の家庭の中で見たのでありますから、周りに家族の顔もあり、周りに普通のちゃぶ台もあり、日常生活がある。それが実に不思議でならなかったのであります。それから間もなく神奈川県高座の海軍工廠、つまり勤労動員先へ帰りまして、友達といろいろ話し合った。当時はもう残っていた学生もわずかでありましたが、そこで目にした2つのことが非常に印象が深かった。一つは厚木航空隊その他からどんどんどんどん物資やなんかを運んで、兵隊たちがトラックを徴発していってしまう。我われの使うべきトラックも何もない、そういう状態の中で、しかしアカデミズムの連中は非常に意気軒昂としておりました。私どもの周りにおりました法律学関係のアカデミズムの若い学者たちは、「これから自分たちの時代が来るんだ」「これから新しい日本を我々が建設するのだ」と、「今こそ軍閥の悪夢が終わって、新しい知的な再建の時代が始まるんだ」と、いわば誇張して言えば欣喜雀躍という様子でありました。私は今も昔も疑り深い人間でありますから、そう様子を見ていて、「へへえ、そんなもんかな」と思っていた。「いったい知的に再建するって何のことだ」「日本の精神的な再建って何のことだ」と。私がそのとき感じました疑問は20年ずっと尾を引いておりまして、やっぱり彼らは何もしなかったんじゃないか、というようなことを感じるようになりました。私の今までの半生の中で、20歳までの20年は軍部が色々なことをして、軍部のおそらく一部の極端な勢力でありましょうが、それがあそこまで破滅的な敗北へ持って行ってしまった。そのあと20年は一見太平無事な時代が続いているようでありますが、結局これは日本の工業化のおかげでありまして、精神的にはやはり何ら知的再建というに値するほどのものがなかったのではないかと。ちょうど40年、41歳の私はちょうど20歳の時に迎えた終戦は自分の人生の目処として、そこから自分の人生がどういう展開をしたかということが、考える一つの目処になっております。これからも何度も何度もあの8月15日の夏の木々を照らしていた激しい日光、その時点を境に一つも変わらなかった日光は、私の心の中でずっと続いて行くだろうと思います。
●リルケが書いておりますが、現代人というものはもうドラマティックな死ができなくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいく、というようなことをどこかに書いていたように記憶しますが、今、現代の死は病気にしろあるいは交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものもない時代に我われは生きております。それにつけて思い出しますのは18世紀頃に書かれた『葉隠』という本で、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というので有名になった本ですが、この時代もやっぱり今と似ていた。もう戦国の夢は醒めて、武士は普段から武道の鍛錬はいたしますが、なかなか生半なことでは戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。その中で汚職もあれば社用族(注:斜陽族のもじり。誤記にあらず)もあり、今で言えばアイビー族みたいな者も侍のあいだに出てきた時代でした。その中で『葉隠』の著者はいつでも武士というものは一か八かの選択のときには死ぬ方を先に選ばなきゃいけない、ということを口を酸っぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死ぬのであります。そういうふうに武士でもあっても結局死ぬチャンスが掴めないで、死ということを心の中に描きながら生きていった。しかし今の我々は死を描きながら生きているのかどうか、それさえ疑問であります。私の死と一番親しかった時代は戦争中で、戦争が済んだとき20歳だったので、10代の私どもは「いつ死ぬか」「いつどうやって死ぬか」ということだけしか頭の中にない。そういう中で20代まで行ったのでありますが、それを考えますと今の青年には、それはスリルを求めることもありましょう、あるいは「いつ死ぬか」という恐怖もないではないでしょうが、「死が生の前提になっている」という緊張した状態にはない。そういうことで、仕事をやっていますときに、何か生の倦怠と言いますか、ただ人間が自分のためだけに生きようということには卑しいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。それで、人間の生命というものは不思議なもので、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬっていうほど人間は強くないんです。というのは人間は何か理想なり、「何かのため」ということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると、死ぬのも「何かのため」ということが必ず出てくる。それが昔言われた大義というものです。そして大義のために死ぬっていうことが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられていた。しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態っていうものは大義なんてものはいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。ことに私、自分に帰って考えてみますと、死を「いつか来るんだ」と、「それも決して遠くない将来に来るんだ」というふうに考えていたときの心理状態は今に比べて幸福だったんです。それは実に不思議なことですが、記憶の中で美しく見えるだけでなく、人間はそういうときに妙に幸福になる。そして今、我われが求めている幸福というものは生きる幸福であり、そして生きるということはあるいは家庭の幸福であり、あるいはレジャーの幸福であり楽しみでありましょうが、しかし、あんな自分が死ぬと決まっている人間の幸福というものは今はちょっとないんじゃないか。そういうことを考えて、死というものを、じゃあお前は恐れないのか。それは私は病気になれば死を恐れます。それから癌になるのも一番いやで、考えるだに恐ろしい。それだけに何か、もっと名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局『葉隠』の著者のように生まれてきた時代が悪くて、一生そういうことを想い暮らしながら、畳の上で死ぬことになるだろうと思います。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
https://ameblo.jp/jam512412/entry-12584825987.html
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‡1988(昭和63).10.8(土)決戦の時は、弱音を吐く旦那に「今、何て言ったの? アンタ負けに行くの。何が天下の落合よ」→見事な先制ホームラン!
落合信子伝説http://2chart.fc2web.com/nobuko.html
落合博満ガンダム宣言http://2chart.fc2web.com/ochiaigundam.html
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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2012(平成24)年10月08日(月) iPS細胞開発の山中氏にノーベル賞 ⇒ スウェーデンのカロリンスカ研究所はノーベル医学・生理学賞を、体のあらゆる細胞に変わる能力を持つ万能細胞「人工多能性幹細胞(iPS細胞)」を世界で初めて開発した山中伸弥京都大教授らに授与すると発表した。日本人の医学・生理学賞受賞は25年ぶり2人目。写真は、記者会見で笑顔を見せる山中教授【時事通信社】
1968(昭和43)年10月08日(火) 阪神の江夏豊投手が大リーグ記録を上回るシーズン383奪三振を記録 ※2021(令和三)年記事削除
1998(平成十)年10月08日(木) 横浜ベイスターズが38年ぶりにリーグ優勝 ※2021(令和三)年記事追加
2005(平成17)年10月08日(土) パキスタン北部地震、死者約9万人の大災害に
https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1994(平成六)年10月08日(土) 最終戦同率決戦! 伝説の「10.8」
‡2017(平成29)年10月08日(日) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月8日だ。
◎指揮官に悲壮感なし
写真◆気持ちよさそうに宙を舞う長嶋監督。会心の一戦だった
「みなさん、こういう試合は初めてですか。やりますよ! 総動員です。もう社会現象というか、国民的行事になっていますからね」
巨人・長嶋茂雄監督が満面の笑顔で報道陣に語ったのが、
1994(平成六)年10月7日(金)、新横浜駅の新幹線ホームだった。ナゴヤ球場で行われるシーズン最終戦への出発前だ。
130試合制の129試合を終え、巨人は翌8日に対戦する中日と同じ69勝60敗。最後の一戦での勝者がリーグ優勝という劇的な戦いとなっていた。現役時代、73年の最終戦の阪神戦も勝てば優勝。そのときを思い出していたのかもしれない。優勝か2位かの大勝負だが、目をキラキラさせた長嶋監督に悲壮感はまったくなかった。
長嶋監督はその夜、宿舎で槙原寛己を呼び「あすは、お前と斎藤(雅樹)、桑田(真澄)に任す。まず、お前が先発で行け」と告げ、次に桑田を呼び「しびれる場面で行くぞ」と声を掛けた。なぜか斎藤は呼ばなかったようだが、巨人が誇る「先発三本柱」にすべてを懸けたのだ。
◎槙原が思わぬ乱調
写真◆二番手で登板し、気迫の投球を見せた斎藤
決戦当日、試合前のミーティングで、長嶋監督は顔を紅潮させながら「俺たちは勝つ! 勝つ! 勝つ!」と叫び、選手たちも「おう!」と大声でほえた。「選手冥利に尽きるでしょう」と長嶋監督は試合前に話していたが、間違いなく、自分も選手として出たいと思っていたはずだ。
初回、巨人の攻撃を中日先発の左腕・今中慎二が簡単に3人で打ち取る。その裏、マウンドに立った槙原がピリッとせず、2本のヒット、1死球を与えるが、大一番の緊張もあってか中日の拙攻に救われ、無失点に抑えた。
2回表、均衡を破ったのが、FA入団1年目、40歳の四番・落合博満だ。今中の真ん中低めの速球をスタンドに運び1点。その後、巨人はさらに1点を加えた。
しかし、その裏、またも槙原が崩れ、同点に追いつかれ、さらに無死一、二塁とされる。ここで長嶋監督は早くも槙原を見切り、斎藤にスイッチ。槙原は「特別な緊張感はなかったけど、それがよくなかった。何となく自信があって、その勢いのまま先頭打者に初球を投げて、打たれたことですべておかしくなったんです」と語った。
そのときブルペンにいた斎藤は「バッテリーコーチの山倉(和博)さんに、斎藤!って呼ばれたけど、こんな場面で投げたくないと、聞こえないふりをしました」と振り返るが、おそらくジョークだろう。ピッチングは気合十分。2日前に先発している疲れを感じさせぬ力投で、その後を抑えた。
3回表には川相昌弘がヒット、松井秀喜のシーズン初の送りバントの後、落合がライト前に運び、ふたたび3対2とリードした。
しかし、その落合が3回裏の守備中に左足の内転筋を痛めてしまう。痛み止めを打って一度はグラウンドに戻ったが、「迷惑をかけると思い、自分から言った」と4回からベンチに退く。
◎村田真、コトーの本塁打
4回表、巨人打線が今中をつかまえた。一死から村田真一、二死からコトーがソロで2点。流れが一気に巨人に傾く。さらに5回表には、今中から代わった山田喜久夫から松井が20号。珍しく右手を大きく上げ、塁を回った。
結果論だが、中日にはまだ最多勝の山本昌広、防御率1位の郭源治がいた。巨人同様、早めに2人につなぐ展開も考えられたが、高木守道監督はなぜか動かなかった。
二番手の斎藤は6回裏に1点を取られたが、被安打は3で中日打線を沈黙させた。大きな声でほえ、何度もガッツポーズを繰り出す気迫のピッチングを貫く。実は、途中で内転筋を痛め、テーピングでぐるぐる巻きにして投げていたという。捕手の村田真は「足がちぎれても投げろ!」と乱暴な活を入れた。長嶋監督も斎藤を「この試合、一番の功労者」と称えている。
7回には桑田が登場。こちらも3日前に8回を投げ、「体がバリバリだった」と言うが、斎藤同様、気迫を前面に出したピッチングで三者凡退に斬って取る。
◎落合の涙
写真◆胴上げ投手となった桑田が捕手の村田真が抱き合う
8回裏、中日も意地を見せた。桑田にとってはPL学園高の後輩でもある立浪和義が三塁前の当たりで一塁にヘッドスライディング。内野安打としたが、左肩を脱臼し退場となった。「野球には流れがある。自分が出たら絶対点になると思った」と語った捨て身のプレーだ。意気消沈としていた中日ベンチにこれで再び火がつき、一死一、三塁とする。
しかし、ここで桑田は「さすが立浪。PL野球だ。俺はお前のためにも勝つぞ」と自らを鼓舞し、ギアを上げる。しっかり後続を断った。9回表には、バックスクリーンに当たったかに見えた川相の幻のホームランもあったが、結局、無得点。ただ、きょうの桑田に、もう援護の必要はなかった。
その裏、最後の打者を空振り三振に打ち取り、桑田はガッツポーズ。走ってきた捕手の村田真に思い切り、飛びついた。
時計は21時22分。笑顔の長嶋監督が5度宙を舞う。自身、1977(昭和52)年以来、17年ぶりの優勝胴上げだ。その後、ベンチから足を引きずって出てきたが、胴上げには参加しなかった落合と長嶋監督が抱き合う。落合の目に涙が浮かんだ。「長嶋監督を胴上げするために来た」と巨人入団。まさに有言実行となった。
インタビューで長嶋監督は「竜の背中にまたがり、天にも昇るような気持ちです」と語った。この試合のテレビ視聴率は関東で48.8パーセント。まさに国民的行事だった。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=高塩隆
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2013(平成25)年9月13日(金) 楽天時代のマー君がシーズン21連勝
2017(平成29)年9月13日(水) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月13日だ。
写真◆21連勝の記念ボードを掲げる田中
今季は急失速でソフトバンクに大差をつけられた楽天だが、2013(平成25)年の初優勝時、9月13日に大きなポイントとなったゲームがあった。
2位・ロッテとのゲーム差を7に広げて本拠地・Kスタ宮城に戻った首位・楽天。9月13日のオリックス戦では、田中将大が2失点(自責1)完投勝利で、またまた金字塔を打ち立てた。稲尾和久氏(元西鉄)のシーズン連勝記録を抜く21連勝に加え、昨季から続く連勝を25とし、36~37年のカール・ハッベル(ジャイアンツ)を抜く世界新記録を樹立した。
楽天・星野仙一監督は「すごいな、ホンマに。それしか言いようがないよ。聞くなよ、そんなこと、もう(笑)」と称賛の言葉も尽きた様子だったが、田中が勝ち続ける要因について「もうちょっと(味方が得点するまで)我慢してくれ、というところまで我慢してくれるから(味方が)点を取ってくれる」とその粘り強さを挙げた。その言葉どおり、この日は5回までに5安打を許しながら無失点で切り抜け、中盤以降の得点に結びつけた。
連勝記録について田中自身は「ピンときてないです。数字は後からついてくるものなので、そこで僕がブレてしまってはダメ」と眼中になし。投球内容についても「完封しないとダメだったと思う。すごく悔しい」と笑顔を見せることなく振り返ったが、9回を投げ切ったことについては「連戦が続くので、僕がしっかりと投げればリリーフの方々も休めると思った。休養日になって良かったです」と納得の表情。最後に「記録を伸ばすためにやっているわけじゃない。日本一を目指してやっている」と語った。
そのブレない投球に「もう負けずに終わってしまうから、今シーズン」と太鼓判を押した指揮官。マジックについては、それまで「壊れた蛍光灯」と繰り返してきたが、12となったナンバーに「アイリスオーヤマのLEDに変えてから、うまくいってるね」。独特の言い回しで、チーム状態の良さと、ゴールまでの距離が近いことを示した。
その後も田中は連勝を続け、
‡2013(平成25)年10月8日(火)のオリックス戦(Kスタ宮城)でシーズン24連勝、連続シーズン28連勝として閉幕。チームも優勝、さらに日本一となった。ただ、翌年、24勝無敗の田中がヤンキースに移籍したこともあり、82勝が64勝になり、楽天は最下位となっている。
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171008-11
https://ja.wikipedia.org/wiki/10.8決戦
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170913-11
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画No.026 ┃ 30円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1958(昭和33)年10月08日(水)号 特集 引退を決意した? 川上哲治
2017(平成29)年11月22日(水) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎藤村富美男が対談中にこぼした恨み節
写真◆表紙は巨人・広岡達朗
今回は『1958年10月8日号』。創刊第26号で定価30円。中カラー見開きは『暴れまわる猛虎の五勇士』と題し、巨人の本拠地・後楽園球場の前で並ぶ阪神の田宮謙次郎、三宅秀史、吉田義男、西尾慈高、小山正明。ペナントを大いに盛り上げた男たちだ。
巻頭グラビアもその阪神から『合理派監督』の見出しで日系人監督・田中義雄が登場。合理的な「インサイドベースボール」を称賛する文章が載っている。ただし、その後も阪神が続くが、見出しは『苦戦続けるタイガース』。一時は0.5ゲーム差まで迫った首位・巨人と差が少しずつ離れてきた。
本文巻頭は『特集 引退を決意した? 川上哲治』。表紙文字でもあるが、写真は同じ巨人ながら広岡達朗。おそらく写真への着色があるので、進行的には写真セレクトが文字より早いのだろう。
打撃の神様・川上の引退について、本人の言葉に加え、各方面からの意見を聞きながら特集しているが、その中で、川上の口グセが2つ紹介されている。1つはこの年になって増えたもので、「老兵は死なずだ。老兵は気持ちの上でまいったらいけない。一度機械が止まったら、歯車がさびるように、休んだらもう二度と出場できなくなるだろう」。
そして、もう1つ機嫌がいいときの口グセ。この年はすっかり聞けなくなったというが、「若さと美貌を誇るわが川上選手は……」。
神様にもお茶目なところがあったようだ。
対談も今回はベテランが登場。『若い者に負けるものか!~23回戦の代打登場をめぐって』と題し、阪神の藤村富美男、巨人の別所毅彦が語り合っている。ミスタータイガース・藤村も引退がささやかれていた一人だが、次期監督候補と目される川上と違い、取り巻く環境は厳しい。
この年はほぼ代打起用。実は前年まで兼任監督ながら更迭され、その際、球団フロントは更迭の理由は何も言わず、「非常に君は打ちたそうな顔をしているから、君は一つ代打ピンチ・ヒッター要員としてやってくれ。君が世間態がわるければ、なにか肩書をつける」と言われたという。
功労者に対し、失礼極まりないとも思うが、対談中に恨み節もあった。抜粋しよう。
「俺が特別にピンチ・ヒッター要員としてチームに活入れたわけでなし、会社がそういうふうにさせたんだから、どうせここまで恥かいたんなら、来年もう1年恥かいてやろうと思って(笑)、どうせ恥かきついでや。それでとことんまでやってなにしたら、もうやめるよ。それはその時期にきてるんやから」
「でも、これはもうしようがない。雇われてるもんはな。われわれは雇われている人間であるということが、頭にこびりついてさ、上のいうことは仕方ないという、まあ私の考えですな。しかし、このままじゃすまさんですよ、私は」
「こっちはもう倒れるまでやる。どないなろうと、もうここまで恥かいてきてるんだから、とことんまで恥かいてやる」
語りながらどんどん熱くなっていく様子が伝わる。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.236 ┃ 40円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1962(昭和37)年10月08日(月)号 三原脩の秘策、スタメンの7人が偵察メンバー?
2018(平成30)年06月21日(木) 17:50 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎鶴岡一人監督、復帰の理由
写真◆表紙は阪神・村山実
今回は『1962年10月8日号』。定価は40円だ。
ペナントレースはパが東映の優勝目前、セは阪神、大洋のデッドヒートが続いている。
大洋の三原脩監督は、奇跡の逆転優勝に向け、魔術師らしい戦術を駆使。
9月22日中日戦では、スタメン中7人、当て馬を使ったり、投手の秋山登を左打者ニュークのときだけサードを守らせ、また投げさせたりと自在。
西鉄監督時代、稲尾和久を苦手の大毎・葛城隆雄の打席に一塁を守らせたのは知っていたが、サードとは驚いた。
三原と阪神・藤本定義監督との舌戦もにぎやか。以下は互いに記者を介してのやり取りで、直接ではない。
藤本「三原はピッチャーの使い方を知らん。あんな秋山を酷使したら終盤の大事なときにつぶれてしまう」
三原「秋山と村山(実)、小山(正明)の投球回数を見れば分かる。決して酷使ではない。藤本さんは昔から物の道理が見えないんだ」
藤本「三原は教え子。あいつは頭がいいから星勘定ではあいつの言うとおりになるかもしれん」
三原「教え子だなんてとんでもない」
監督の進退についてもウワサが出ている。
南海・鶴岡一人監督については、なぜあれだけ大げさに休養会見を行いながら、2カ月ほどで戻ったのか、不可解さが残ったが、この号の記事では、後援者から「もし他球団に移るのならば、いっそう南海の指揮を執って終わりをまっとうしなくてはならん」と言われたからでは、と書いている。
鶴岡本人の言葉はないが、大毎との話がすでについており、ならば“立つ鳥跡を濁さず”と閉幕まで務め、退団するために復帰したのではないか、という内容だ。
南海でホームラン王をほぼ手中に収めた野村克也が、佐々木信也との対談に登場。いまもよく話している内容が2つほどあった。
1つは、「わしは南海電鉄という会社は大嫌いなんだ(笑)。だけれども南海のチーム自体はものすごく好きだからね」。
2つめは、「キャッチャーをしながら打つのは大変でしょう」の質問への答え。
「僕はいつも逆に考えるんです。キャッチャーをやっているからこれだけ打てるんじゃないかと。ヤマを張りやすいんですよ。キャッチャーの心理を取りやすいですしね」
以下宣伝。
週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』『阪神編』『ロッテ編』が発売中。現在、『広島編』を鋭意制作中です。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
③┃ プロ野球仰天伝説 No.023 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
球史に残る異色投法。背面投げの小川健太郎
2018(平成30)年1月15日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
王対策として編み出した投法
変則投法で王に立ち向かった小川
球史に残る変則投法が中日のアンダースロー、小川健太郎の背面投げだ。左足を上げた際(小川は右投げ)、重心を下げたところで右腰あたりから、ヒョイと投げるもので、3年連続被打率4割を超えていた巨人・王貞治対策として考えたものである。
記念すべき第1球は、外角に外れてボール。続いて6回裏にも投げたが、外角へのワンバウンド。それでも3回がライトライナー、6回が見逃し三振だから、ストライクにこそならなかったものの、ひとまず効果はあったようだ。
その後、球界でボーク論争も起こったが、“合法”となり、
19XX年08月31日(X)、
19XX年10月19日(X)にも1球ずつ王の打席で投げている。しかし、いずれもボール。これで小川はあきらめたのか、変則投法を“封印”した。
背面投げの練習は
1969(昭和44)年の春季キャンプから始め、以後、毎日20球は投げていたという。捕手の木俣達彦によれば、練習ではほぼストライクだったというからすごい。ただ、王は「最初はびっくりした。でも、超スローボールを投げられているのと同じだから投げ方も気にならなくなった」と語っている。
小川健太郎(おがわ・けんたろう)
1934(昭和九)年1月12日(金)生まれ。福岡県出身。明善高から
1954(昭和29)年テストを受けて東映入団。2年で退団し、社会人でプレー。
1964(昭和39)年30歳で中日に入団し、
1967(昭和42)年には29勝で最多勝に輝いた。
1970(昭和45)年オートレースの八百長疑惑で逮捕され、永久追放処分。
†1998(平成十)年10月8日(木)死去。主なタイトルは最多勝利1回、沢村賞1回。通算成績253試合登板、95勝66敗、防御率2.62
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171122-12
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③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180115-10
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