過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のetSETOmeだヨ(=^◇^=)O♂


 一方アジア人が名付けた廻し蹴りは"Turning kick"と呼ぶ。 読んで字の如く、回しながら蹴るという意味だ。 現在でもジークンドーやテコンドーではこの呼び名を使っているケースが見受けられるが、一見して直訳した名称だと知れる。
 掲げたのは一例だが、英語を外国語とする人間は、基本直訳するのだ。 意訳とはその国の言葉に精通していなければ出来る物では無いという事だ。 そして空手家であれば空手家であるほど、本来の意味の"Chop"だけで手刀が語れるとは思わないだろう。 打ち下ろしの手刀など用法で言えば一部分でしか無いからだ。
 中村が力道山を指導したのが事実だとしても、アドバイスを受けた程度であり、中村が技名の生みの親、とは言い難いのでは無かろうか。
 そして、もう1人、力道山に空手チョップを指導したという人物がいる。 当時内外タイムスの社長で、空手家としても知られていた台湾出身の蔡長庚である。 前述した中村日出夫が力道山に指導したとされる写真の主は、この蔡であり1966年に出版された自著「練功秘法 唐手道の真髄」に同写真が掲載されている。
 力道山に空手を指導したのは1954年頃の様で、力道山の野球チームの試合がありそれを主催していたのが内外タイムス社で、対戦チームの灰田勝彦(芸能人)を通じて蔡に空手の指導を頼んだのだという。
後日、力道山の道場に行ったという事と、自身の野球チームを持っていた事を考えると、2月の日本プロレス旗揚げ以降の話だろう、蔡は力道山に空手(蔡は唐手と書く)の手刀を中心に2時間ほど指導した。 以下、中村の評伝のエピソードにも似ているが空手チョップと命名する下りを引用する。
 翌日同時刻に、私は力道山の道場に行った。 力道山が「先生この手刀打ちのことを何かよい呼び名をつけて下さい」というので、私は暫く考えてから「力さん、空手チョップという名前でいこうか」と言ったら、力道山も大いに喜んで「"空手チョップ""空手チョップ"これは素晴しい名だ」と感激していた。
 これは時期的に考えられない話である。 チョップという名称を思い付くかどうかというのは先に否定したが、全くあり得ない話では無い。 だが、日本プロレス旗揚げ興行以前に既に「空手チョップ」と名付けられていたのだから、蔡が出る幕は無い。
 前回冒頭に引用した「空手チョップ」の記事は日本プロレスの旗揚げ直前―つまり、蔡が指導する前の記事だし、この興行のパンフレットにあるプロレス技の説明にも同じ写真が使われ、"Karate chop"とある。 蔡が名付けたとされる時期以前の話だ。 よって、蔡が指導したというのは、アドバイス程度の事だったと思われるが、力道山没後、話を膨らませたのでは無いか。
 他にも合気道の手刀を学んだという写真があるが、これも髪型や体型から見るに日本にプロレスを持ち込んだ後だろう。
 個人的には誰が力道山に手刀の使い方を指導しても構わないし、前述した3人の空手家が皆指導した経験があっても良いと思う。 しかし、我こそは…と「空手チョップ」の命名にまで口を出すのは如何な物か。
 そして一時期、力道山のパートナーとして活躍していた遠藤幸吉も力道山にアドバイスしたと主張している。 ただ、こちらはプロレス的な使い方をアドバイスしたとある。 以下、遠藤の主張を引用する。
 せっかくの手刀チョップも、相手がそれを使わせてくれなければプロレスにならない。
 「どうしたら音が出るだろう?」
 力道山が私に相談してきた。
 「リキさん、昔の柔術チョップは、肩胛骨のところを狙ったもんだよ。 そのへんを狙ってみたら?」
 私のアドバイスは効を奏した。
 水平打ちの掌をやや丸めて胸板を打つと、バッシーンといういい音がした。
 「遠チャン、これだこれだ! これならプロモーターも喜んでくれるぜ」
 プロモーターも、今までよりも危険がないと喜んでくれた。
 遠藤がこんなアドバイスをいつ出来たのか、プロモーターが喜んでくれたというのだからプロレス修業中の52年の話なのだろうが、渡米時の記録を見るに接点がありそうなのは52年4月のハワイで数時間、そして7月のカリフォルニア州における2週間ほどの期間だが、少々無理がありそうだ。 
 面白いのは、遠藤が語る力道山の空手チョップの来歴だ。 遠藤によれば、力道山の相撲時代の得意技では決め技に欠けると思い悩んだそうだ。 そこで思い付いたのが、相撲で懸賞金を貰う際に行う手刀(てがたな)だった。 遠藤によれば稽古の手慰みにこの手刀を練習するのだという。 これは感謝の儀礼なので、攻撃技とは一切関係無い珍説に該当するが、柔道出身の遠藤は「柔道チョップ」という言葉に忌避感があるのか、「柔術チョップ」と呼んでいるのも興味深い。 そして最初に力道山が命名したのは「手刀(てがたな)チョップ」だとしている。
 当初「テガタナ・チョップ」と呼んでいたが、周りが「カラテ・チョップ」と呼ぶので、やがて訂正しなくなって定着したそうだ。 
 無論、検証するまでも無かろう。
***
 ここまで力道山の「空手チョップ」について書いて来たが、最後に力道山に再戦する為、1955年頃、木村政彦が編み出したという「猫手チョップ」について触れようと思う。 当時の一部媒体では「柔道チョップ」とも書かれているが、執筆者はアメリカに柔道チョップがある事を知らなかったのであろう。
チョップ15.jpg
木村政彦
 それでは、木村のチョップはどの様な物であったか、3種類の解説を見てみよう。
1) 木村の言葉によると"猫手"という空手の手なのだそうだ。 丁度"招き猫"の手と同じ恰好。 握りこぶしの掌(てのひら側)で叩く。
2) …力道山の「空手チヨツプ」は手を開いたまま側面で打つのに対して、木村は猫の手のように指先を曲げて、先ず親指の側面で打ち、さらに其の返えす手で小指の側面で加撃するその爆発力は力道山の空手チヨツプに劣らないものといわれている。
3) これは指の先を曲げて猫の手のようなかっこうで、まず親指側の左側面で相手のケイ動脈に一撃し、返す刀……ぢゃない、手で、ボクシングでは禁じられているバックハンド・ブローを加えるもの。
  所謂手刀打ちとは異なるが、チョップの意味からすれば間違いは無い。 猫手というよりも空手で言う熊手では無かろうか。
 ちなみにこの猫手チョップ、大山倍達より学んだと木村が吹聴していた様で、"牛殺し大山七段"より学んだという話が、例えばこの様な感じで出ている。
 "牛殺し"といわれる空手の大山七段から伝授をして貰った手とか。 この言葉は空手道では用いられていないので大山氏の独創かも知れない。
 しかし大山が認識している猫手とは、違った物であり、劇画「空手バカ一代」でも同じ認識である。
チョップ29.jpg
 大山 (中略) 
 しかし、力道山の空手チヨツプは指を揃えて伸ばしているでしよう。 実際は掌を少しつぼめた方が強力なんです。
 (中略)
 木村政彦の「猫手打ち」というのはおそらくこれじやないかと思います。
 1956年の大山のインタビューにある言葉だ。 自分とは無関係の様に語っている。
 邪推するならば、牛の角を折り、当時力道山に勝てる唯一の相手、との噂があり、木村が力道山との試合後に「殴り合いなら私の後輩で大山という空手七段がいる。 彼は対戦を希望している」と、仇討ちを託したほどの実力者である。 そんな大山倍達の名を出す事で、自身の猫手チョップに箔を付けたかったのでは無かろうか。
 実際に猫手チョップを最初に披露したのは、恐らく1955年12月3日に開催された大阪での興行、「木村七段再起試合」と銘打った大会である。 相手は「ネブラスカの野牛」を称するゴージャス・マックである。 この日木村はマックを相手にチョップを決め、体固めでフォール勝ち、翌月3日の試合でも「空手チョップ」の猛攻でマックを倒す等、多用している。 尤も、専門誌では
 …力道にやられた恨みの空手チョップをマックに食らわしてうさを晴らしたわけでもあるまいが、これでケリとは力道の空手打ちを批判した木村さん、ちとまずかったですねえ。
 と皮肉られている。
 余談であるが、このゴージャス・マック、木村と対戦して間もない1月16日に帝国ホテルで宝石強盗を働き、逮捕されている。 オマケにプロレスラーでは無く、元軍属でただの不良外人であったという事まで暴露された。 
 ***
 チョップは、現在のプロレスでも多く見掛ける事が出来る。 継承者はジャイアント馬場を始め、旧全日本プロレス系の選手にその使い手が多いが、力道山が逆輸入した手刀打ちは、完全に日本に定着した。
 その一方でその名を使われた空手の手刀打ちは、各派で導入されているルールに合わない為か、競技シーンではあまり見る事が無く、少なくとも競技という実戦の場ではあまり見なくなってしまった。
 今後、手刀打ちが現代の格闘競技シーンに甦る事はあるのだろうか?
 という事で終わりました。 最後の最後でメッチャ悩んだ挙げ句、こんな一言で締めましたw
 いや、別に面白そうだから調べただけで、何か深い意図があった訳じゃないんで、ラストに困った訳です。
 そもそもこの調査の切っ掛けというのは、「ワシが空手チョップを教えた」という人の中に、「ワシが空手チョップと名付けた」みたいな話があったからです。 それに対して、いや力道山が渡米する前からプロレスにチョップがあったよ、というのから遡って…w 結局手を付けてから4ヵ月くらい掛かっちゃいましたね。 いやまぁ、仕事があって手を付けられない週末が何度かあったのも原因なんですが。
 私は何度か書いてますが、空手の中でも転掌系の掛け技が好きでして、手刀掛けから手刀顔面打ちとか、あぁいう手の動きが好きです。 なので、接近戦での手刀脾腹打ちをフルコンの試合で是非見たいなぁと思ってますw
チョップ24.jpg
 前に広島の選手だったかな、鉄槌を試合で出して、鎖骨を狙ったら顔面に当たって反則を取られた、というのがありましたが、何かそういうのが発展したら面白い、と少々無責任に言ってみる。
 それにしても、今回は参考文献の量が凄い事にw 目を通しただけの新聞資料とか、結局使わなかったのを含めると、この何倍かは行く筈。 
 んで、本文中にも書きましたが、別に誰々が力道山に空手チョップを教えたとか教えてないだとか、んなこたぁ、どうでもいいんです。 名付け親を自称するのはどうかって話でね。
 まぁ、蔡長庚先生みたいに写真が残ってて、1日ちょっと指導しただけで目一杯自慢するのはアリでしょうけど、写真を剽窃した中村日出夫先生、これはいかんでしょ。 しかも一緒に慰問プロレスを見に行こうと誘うならともかく、経緯なんて、ちょっと検証すれば誰でも分かると思うんだけどなぁ…。 
 そして某著名ライターさんもそうですが、何故Bが教えたという新証言が出て来たからAが教えたというのはウソだっていう事になるのかなぁ。 AもBも教えた、じゃ気にくわないのだろうかw ちょっと世の中ね、デジタル思考が多すぎるんじゃなかろうか。 今回は状況証拠から否定しましたけど、教えた事自体は別に否定するつもりはありませんw ただ、「拳道伝説」に載った内容に対して否定しているだけでw
 その中で、むしろ微妙にリアリティがあるのが大山倍達総裁の話w 「既に空手チョップを使っていた」というのが肝ですね。
 実は、大山倍達の足取りの中で一番不明なのは、1953~56年なんです。 第1回アメリカ遠征は出立と帰国に関して確定していますが、2度目の遠征は実際に行ったのか、行ったとしてそれは53年なのか54年なのかもちょっと不明。 しかし本文中に書いた通り、53年の2~3月頃にハワイに行っていれば、実は力道山と合流出来るというw
 あ、もうちょっとチョップネタ。 実は今回採用しなかったネタに、大山総裁の師である曺寧柱先生による、木村政彦が力道山に空手チョップを教えた、という説がありますw
 他に本文中否定しましたが、梶原一騎先生は大山総裁以外にも自分が知っているネタを「空手バカ一代」に盛り込んでいる様で、猫手チョップの話も知ってたんじゃ無いかなぁ。 それで猫手打ちのエピソードを入れたんじゃ無いかと思ってます。
 前編でも書きましたが、今回はTwitterでのちょっとしたつぶやきから、専門知識を持った方々を引き寄せてしまい、非常に勉強になりました。 こういう知識が集結するのって中々無いですからね、機会があったらまた皆さんを巻き込みたいですねw
 そう言えばプロレスラーのユセフ・トルコ氏が亡くなられたそうです。 極真側からすれば妙に大山総裁に噛み付く変なおっさんで、アントニオ猪木憎さのあまり、自著にウソを書いたりと(後に自分で暴露)、歴史の生き証人でありながら、その発言に信が置けないという、全く困った人でしたね。 自分を正義の側に置こうとするタイプの人特有というかw
 しかしそれでも語れる人がいなくなるというのは、実に寂しいものです。 合掌。
 それでは、また。
追記:デューク・ケオムカを「ケムオカ」と書いていましたので、修正致しました。
http://blogs.masoyama.net/?eid=421


SUNDAY LIBRARY 
小林 照幸・評『力道山対木村政彦戦は…』石田順一・著
2015年12月8日
戦後屈指のヒーローを研究しつくした集大成 
◆『力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか』石田順一・著(北國新聞社/税抜き2000円) 
 1980年代初めより、プロレス誌に力道山の新知見を発表してきた本書の著者の石田氏は「力道山史研究家」としてプロレスファンに広く知られている。52年、石川県金沢市生まれ。81年に自費出版した『わがふるさとの金沢プロレス史』はプロレスと郷土史という視座を提示し、専門誌紙の記者、読者のみならず、当時現役のA(アントニオ)猪木や坂口征二らも評価し、県紙・北國新聞社は「プロレス史研究家」として注目した。 
力道山が日本でプロレス興行を開始したのは54年だ。石川県下初のプロレス興行は同年9月23日、金沢市… 
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http://mainichi.jp/articles/20151208/org/00m/040/044000c

 映像◆#21 タイガーマスクVSカネックhttps://youtu.be/laW3AEo6Xfs
‡1981(昭和56)年12月08日(火) 蔵前国技館 45分1本勝負
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃       『初代タイガーマスク大全集』       ┃
 ┃ ~奇跡の四次元プロレス1981-1983~ 完全保存盤DVD BOX ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
■1981年放送21回目
‡21 1981(昭和56)年12月08日(火) 東京・蔵前国技館 45分1本勝負
  タイガーマスクVSカネック
  タイガーマスクが“メキシコの帝王”のカネックと初対決。ヘビー級のパワーに押され、左足首骨折の重傷を負う。
 2008(平成20)年9月3日(水) DVD on SALE  PONY CANYON INC.
 ファン号泣!伝説の初代タイガーマスクの失われた31試合を発見!
 1981(昭和56)年~1983(昭和58)年までにTVでオンエアされた89試合の内、
 87試合を収録したコンプリートBOX発売!
 本編DISC4枚+特典DISC1枚の5枚組!
 PCBE.62256 / ¥19,200(本体)+税:631分
 発売元:ビデオパックニッポン
 2008テレビ朝日/新日本プロレス
  ◎活動期間・・・2年4か月 
 ◎シングル戦・・・155勝1敗9分
 インフォメーション・・・伝説の初代タイガーマスクが蘇る!!1981年~1983年までの約2年間、華麗なる空中技と変幻自在な四次元殺法、威力抜群の打撃技で、プロレス界のみならず、社会的に空前の“タイガーマスクブーム"を巻き起こした初代タイガーマスク=佐山サトル。タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週20%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。タイガーマスクは今までに何度もビデオ、LD、DVD化され、大ヒットを飛ばしている。初代タイガーマスクは1981年~1983年までにテレビでオンエアされた89試合のうち56試合はソフト化されていたが残り33試合はテレビ朝日にも映像はなく、ファンにとっては失われた試合となっていた。今作はソフト化されていなかった試合31試合を含んだ87試合を収録!文字どうり完全保存盤になります。
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 http://visual.ponycanyon.co.jp/short/sakuhin/PCBE000062256/?REF=VISUAL
 https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRU7aYvpoAb_mn1WlB0F6pwF
 https://www.amazon.co.jp/dp/B0019M5GB6
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SUNDAY LIBRARY 
小林 照幸・評『力道山対木村政彦戦は…』石田順一・著
2015年12月8日
戦後屈指のヒーローを研究しつくした集大成 
◆『力道山対木村政彦戦はなぜ喧嘩試合になったのか』石田順一・著(北國新聞社/税抜き2000円) 
 1980年代初めより、プロレス誌に力道山の新知見を発表してきた本書の著者の石田氏は「力道山史研究家」としてプロレスファンに広く知られている。52年、石川県金沢市生まれ。81年に自費出版した『わがふるさとの金沢プロレス史』はプロレスと郷土史という視座を提示し、専門誌紙の記者、読者のみならず、当時現役のA(アントニオ)猪木や坂口征二らも評価し、県紙・北國新聞社は「プロレス史研究家」として注目した。 
力道山が日本でプロレス興行を開始したのは54年だ。石川県下初のプロレス興行は同年9月23日、金沢市… 
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昭和は輝いていた? 黄金の力道山に純金バナナ 横浜
2015年5月23日(sat) 09時29分
黄金に輝く等身大の力道山像=横浜高島屋
黄金色に輝く往年のプロレスラーの力道山像などを展示した「大黄金展」が横浜高島屋8階で開かれている。入場無料。25日まで。
日本が「貧しくても輝いた時代」として、昭和がテーマ。空手チョップで外国人レスラーを倒し、敗戦でうちひしがれた日本人を勇気づけた力道山をはじめ、当時は高価だったバナナなど、昭和に光り輝いていたものを含む約1千点を展示販売している。
金箔(きんぱく)をはりつけた力道山像は、高さ約180センチの等身大で、値段は1944万円。ほかに、純金製のバナナ(5400万円)など。同店1階の正面玄関前には、重さ約120キロで、約6億円の世界最大級の金塊が置かれ、手で直接触れることができる。
http://www.asahi.com/articles/ASH5Q4PTQH5QULOB00F.html?ref=yahoo


第四話 プロレスの殿堂・リキパレス 
 (1)渋谷の丘の殿堂 
 (2)力士からプロレスラーへ 
 (3)ヒーロー誕生 
 (4)観客との奮闘 
 (5)波乱のこけら落とし 
 (6)天皇の次に有名な男 
 (7)成功の影で 
 (8)分断された祖国 
 (9)力道山の死とその後のリキパレス 
http://www.interq.or.jp/cancer/kuramasa/index01.html

第四話 プロレスの殿堂・リキパレス(7)~成功の影で~
<力道山に勝った男>
http://www.interq.or.jp/cancer/kuramasa/rikidouzan07.html

大ヒットホラー映画は実話だった【やりすぎ都市伝説 2009年SP】http://youtu.be/zH3nu6heZJI
ー語り手:品川祐
 ・スティーヴン・キング作品「ミザリー」は実話だった
 ・ジョン・レノンを殺害した犯人に遭遇していたスティーヴン・キング
ー関連して ・テリー伊藤が遭遇したミザリー

Great Antonio vs. Antonio Inoki http://youtu.be/9lXAGZtMxU8
まだ太平洋戦争と呼びますか? 「大東亜戦争」 http://youtu.be/ne9GbFIgAxM
時事ドットコム:終戦特集~太平洋戦争の歴史~http://www.jiji.com/jc/v2?id=20110803end_of_pacifi_war

太平洋戦争開戦ラジオ放送 http://youtu.be/r4xKhHfLB0s

有名人衝撃死の真相「力道山」“最古参プロレス記者が語る力道山の死”
Posted on 2015年8月9日(日) 9:56 AM 
戦後最大の英雄だった力道山は
1963(昭和38)年12月15日(日) ヤクザに刺された傷がもとで、39年の生涯を終える。現役最古参のプロレス記者・門馬忠雄氏が、当時の緊迫した様子を再現告白する。当時、「東京スポーツ」のボクシング担当だった私は社で原稿を書いていると、「力道山、急死」のニュースに原稿を放り投げて現場に向かった。プロレス担当になるのは1年後だったが、これだけ大きな事件だから担当も何もない。すでに赤坂の山王病院から自宅のリキアパートに遺体が運び込まれ、周辺を取り囲んだ日本プロレスの所属レスラーたちは、一様にピリピリした空気を出していた。先輩記者に聞いた話では、力道山の病室では、刺した組員への「仕返し」を考えているレスラーもいたというから。力道山は
1963(昭和38)年12月 7日(土) 静岡・浜松で試合をし、夜行列車で帰京。翌
1963(昭和38)年12月 8日(日) 赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で飲んでいたところ、口論となった若い組員に腹部を刺される。そして
1963(昭和38)年12月15日(日) 腸閉塞から容体が悪化し、午後9時20分に亡くなった──これが当時の私の取材メモです。日本にプロレスを根づかせ、熱狂を生んだカリスマだけに、翌日のスポーツ紙には「プロレスの灯が消えた」と書いているところがあった。力道山の死はイコール、プロレスの死だと報じられたのです。そして
1963(昭和38)年12月20日(金) 池上本門寺で行われた葬儀は、これほどの人がどこから集まってくるのかと思うくらい、とぐろを巻くほどの列だった。葬儀を終えた日本プロレスは、未亡人の名を借りた4人の合議制(豊登、遠藤幸吉、芳の里、吉村道明)に移行。そこから豊登が次の社長になったが、競輪や競馬に会社の金をつぎ込むなど経営者の器ではなかった。そんな混乱を救ったのが、アメリカから凱旋帰国したジャイアント馬場だ。馬場はアメリカでもスーパースター級の活躍をしていたが、日本に帰ってきたことで一躍、救世主となった。これにアントニオ猪木も続いた。力道山の死がプロレス界にもたらしたのは、インパクトを与えながらの「世代交代」という概念。日本の戦後と同じで、何もないところから復興を果たすという歴史の繰り返しだ。とりわけ、馬場と猪木の2大スターを育てたことが、力道山の最大の功績だったと思うね。
http://www.asagei.com/excerpt/40693
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓1954(昭和29)年8月15日(日) 第1刷印刷発行
 ┃ 『プロ・レスラー 力道山物語』 ┃1954(昭和29)年9月 1日(水) 第2刷印刷発行
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛1954(昭和29)年9月10日(金) 第3刷印刷発行
  三橋一夫:著 室町書房 定価 \150
 ┏━━━━━━━━━━━┓1964(昭和39)年3月 1日(日) 初版
 ┃ 『力道山 花の生涯』 ┃1964(昭和39)年4月15日(水) 11版発行
 ┗━━━━━━━━━━━┛三百円
   発行所:スポーツニッポン新聞社 編集:スポーツニッポン新聞東京本社
  2013/11/29(金) 午前 0:00  http://blogs.yahoo.co.jp/jaws112492/32944617.html
 ┏━━━━━┓1924(大正13)年11月14日(金) 生誕
 ┃ 力道山 ┃1963(昭和38)年12月 8日(日) 力道山、暴力団に刺される
 ┗━━━━━┛1963(昭和38)年12月15日(日) 39歳 暴力団員に刺された傷がもとで死去
「人間窮すれば通ずるものだ。手が使えなければ足を使う。足が使えなければ、かみついてでも試合はできる」書籍『ビジネスに活かす一流選手の言葉』より。
 http://showa-g.org/men/view/50 http://showa-g.org/wremarks/view/492
 衝撃トレ!力道山の宝刀・空手チョップの秘密
 2014(平成26)年7月20日(日) 16時00分  力道山はおそろしく原始的な方法で手刀を鍛錬【お宝写真館】撮影年月日は不明。写真は力道山が自宅で日曜大工にいそしむほほ笑ましい光景…などではない。なんと伝家の宝刀・空手チョップに不可欠である手の甲、指を木製のハンマーで叩きつけて鍛えている恐怖場面なのだ。空手家は拳で巻きワラなどを突くことで拳と拳を支える手首を鍛える。キックボクサーは足のスネをビール瓶で叩きスネの骨を硬くする。また、ぶちかましが得意な力士や頭突きを得意とするプロレスラーが硬い壁などに頭突きを繰り返すことで、頭の骨とそれを支える首を鍛える。一見、非科学的で野蛮そのものな鍛錬だが、痛みに慣れる(ある種のマヒ)ことで、それらのパーツで攻撃することにちゅうちょがなくなる上、それらの骨を覆う皮膚を酷使することで、ちょうど「タコができる」状態で皮が厚くなり、強度が増すという利点がある。だが力道山ときたら、大昔の拷問やSMに使用する三角木馬の小型版のような鋭角的な木材に手を置き、その手をワラ打ち用の器具(これは丸形)を四角形にした木製ハンマーで打ちつけて手刀を鍛えていたのである。撮影用のサービスショットであっても不思議ではないが、力道山の次男・百田光雄は父が自宅でこの器具を使い、手刀を鍛えている場面を目撃したことがあると証言。「手の全体を木製のハンマーみたいなので打ちつけているんだけど、だんだんと肉が割れて血が噴き出し、木製の器具が赤く染まってくるんだ。子供心にも怖かったね」写真からも力道山の尋常ではない指の太さ、手の甲の分厚さが分かる。大相撲時代に得意とした突っ張りを原型とする空手チョップだが、力道山は指や手の甲自体を硬くするという恐ろしい方法で手刀鍛錬を怠らなかったのである。空手チョップのフォーム自体は子供でもまねすることは容易。現在も見よう見まねで空手チョップを使用する選手は数多いが、この力道山の恐怖写真を目にしたら、安易に空手チョップを使用することなどできない。付け人だったアントニオ猪木をして「あの空手チョップ一撃に、あらゆる怒り、怨念が込められていた。すごい迫力だった」と語る力道山の空手チョップには、こんな鍛錬が隠されていたのだ。
 http://www.tokyo-sports.co.jp/prores/mens_prores/288630/
「テレビでプロレスを見た。力道山の空手チョップを見て、自尊を満たした。僕ら文化人が何をすべきかというのが大事」
 http://matome.naver.jp/odai/2143728463268180201/2143728541269160403
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E9%81%93%E5%B1%B1
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓1959(昭和34)年12月14日(月) 開店
 ┃ ニューラテンクォーター New Latin Quarter  ┃1963(昭和38)年12月 8日(日) 力道山刺殺事件発生
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛1989(平成元)年 5月27日(土) 閉店
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC
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力道山・刺殺事件
-経緯- ⇒ 昭和38年12月8日午後11時頃、赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で、国民的英雄のプロレスラー・力道山(本名:百田光浩、当時39歳)が住吉連合系暴力団の大日本興行組員・村田勝志(当時24歳)に登山ナイフで刺され病院に搬送された。
力道山と村田は以前にも些細なトラブルを起こしていたが、事件当日もクラブのトイレで足を踏んだ、踏まないということから口論となり、激昂した村田は持っていた登山ナイフで力道山の脇腹を刺した。この背景には、対立関係にあった住吉連合と力道山のバックであった東声会との因縁が根底にあったとされている。
刺された力道山は脇腹を押さえながら席に戻ると、付き添いの連中の心配をよそに平然と酒を飲んでいたという。だが、それも時間の問題で、次第に出血がひどくなり車で赤坂山王病院に運ばれた。
【この日、相撲協会の高砂親方が相撲関係者を伴って力道山に面会した。相撲協会から脱会(後述)した力道山にとって、これは嬉しい出来事だった。相撲協会の幹部が自分に頭を下げて「大相撲ロサンゼルス興行」の相談に来たのだ。力道山は上機嫌で料亭に親方達を招待し痛飲したという。その後、TBSのラジオ番組は酔っ払って収録ができなかった。TBSをあとにした力道山は赤坂のニュー・ラテン・クォーターに向かったというから泥酔に近い状態だったと思われる】。
診察の結果、緊急手術が必要と判断した病院側は、聖路加病院の外科部長に執刀を要請し手術が行われた。手術は無事成功し命に別条は無いものと思われたが、12月15日の回診で腸閉塞を起こしていることが判明し直ちに手術を開始した。だが、午後9時頃から危篤状態に陥り同10時35分に死亡した。死因はショック死とされているが真相は謎のまま(遺族の希望で遺体は慶応病院で解剖された。その結果、担当医は「傷口の洗浄不備と麻酔の過剰投与が原因」と言っていた事が後年判明する)。
英雄・力道山の死は国民に驚きと深い悲しみを与えた。圧倒的な強さを誇った力道山が、錆びついた登山ナイフの一突きで死ぬなんて誰も信じることができなかった。最後の言葉は「おれは死にたくない」だったと言う。
 -力道山の生い立ちと時代背景- ⇒ 力道山は本名を金信格(キム・シンキョ)といい大正13年11月に朝鮮の咸鏡南道で出生した。昭和14年の「創氏改名」で、名前を金村光浩にかえて昭和15年に二所ノ関部屋に入門し敗戦の年の昭和20年に十両に昇進した。
昭和25年、関脇に昇進した力道山は突然力士を廃業した。真相は定かではないが、朝鮮人であるため大関になれない不満、番付面での不満からだと言われている。
その後、プロレス界入りした力道山は昭和29年に柔道7段の木村政彦と組み、米国の強豪レスラー・シャープ兄弟とタッグマッチを行う。敗戦から9年を経て、ようやく日本の経済復興の兆しが見えてきたものの、今だ米国コンプレックスが根底にある日本人の目には、力道山が対等、いやそれ以上の強さで米国人レスラーに空手チョップをくりだす姿に興奮した。
おりしも、この年にNHKと日テレがテレビ放送を開始。駅前の街頭テレビに映し出されるプロレス実況は、国民を完全に虜にしてしまった。一躍国民の大スターとなった力道山は同年12月、木村との「世紀の遺恨試合」を経て覆面王・デストロイヤーや噛みつき魔・ブラッシーなどの強豪レスラーと対戦し連戦連勝を誇った。
一方、力道山は本業のプロレス以外に総合レジャー施設やクラブ、マンションなどの多角経営に乗り出し「リキ・コンツェルン」を築く。さらに、昭和38年6月には、日航の国際線スチュワーデスの田中敬子さん(当時21歳)とホテル・オークラで盛大な結婚式を挙げて、この世で欲しいものは全て手中にした。その結婚式から僅か半年後に力道山は他界したのだった。
 -事件の結末- ⇒ 犯人が住吉連合系であり、被害側のバックが東声会という図式は大規模な報復合戦があるのではと危惧されたが、双方のトップと仲を取り持った山口組の田岡組長との3者協議で和解が成立。最悪の事態は避けられた。
犯人の村田は懲役7年の刑を言い渡されて刑期満了で出所。その後、住吉連合系の組織で村田組の組長になった。 
http://jikenshi.web.fc2.com/newpage385.htm
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  日本プロレス激闘史 ⇒ 
 ‡1977(昭和52)年12月 8日(木) アントニオ猪木 VS グレート・アントニオ 東京・蔵前国技館
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 http://www.sportsclick.jp/pro60/lineup/05/index.html
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 映像◆1984.12.8 長州、全日本に乱入する  https://youtu.be/-INuYxKNNvQ
 1984.12.8最強タッグ公式戦ファンクス対ハンセン・ブロディの終了後、天龍が長州をマイクで挑発。長州らジャパンプロレス勢が全日本マットに軽く?乱入。着ているシャツを投げつける浜口、それを凄まじい形相で切り裂く天龍。その天龍をなだめる馬場。プロレスが本当に熱い時代だった・・・。それにしても今は・・・
 
1971(昭和46)年12月 8日(水)東京に戻った猪木は緊急入院、
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10115251055

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