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┃BOΦWY STORY ARCHIVE【1985~1988:鶴田正人】Vol.02┃
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‡2016(平成28)年01月29日(金)
2015(平成27)年10月01日(木) @西小山WAREHOUSEにて
関係者によるBOOWY伝説を裏付けるドキュメンタリー!
鶴田正人(Wooly magazine/Wooly arts代表/元東芝EMI BOOWY担当A&R)
1985年以降、東芝EMI(当時)にてBOOWYのアーティスト担当として、主にプロモーション、マーケティング面に力を注がれたBOOWY伝説の立役者のひとり。そんな鶴田氏に、BOOWYが東芝EMIに移籍してきた経緯、ロンドンでの海外GIG、音楽雑誌を活用したメディア・プロモーションなどについてレコード会社目線から語っていただいた。なお、鶴田氏はBOOWY解散後、社内レーベルを起こし100万枚を突破したドラマ『ロングバケーション』のサウンドトラック制作、800万枚をセールスした宇多田ヒカルのデビュー時のマーケティングを担当し、現在では独立されアートプロジェクト『Wooly(http://wooly-web.com/)』を運営されている。3時間に渡って繰り広げられた、数々のBOOWY伝説を裏付ける貴重な2万字トークをお届けしよう。
※クローズドなメディア掲載での発言、多くの登場人物が敬称略であることをご了承下さい。
テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)https://twitter.com/fukuryu_76
――鶴田さんは、これまで公の場でBOOWYについてお話をされてきませんでしたよね? でも、最近福岡でお話をされる機会があったとか。
いま『Wooly』というアート・プロジェクトをやってまして、トークショーをやる機会が多いんです。福岡にもブランチがあって。たまたま、以前僕の部下で、その後布袋さんのマネージャーになった阿部くんと福岡で出会って「じゃあBOOWYの話でもしようか?」って自然になったんですよ。全然関係ないアートのイベントなのに、2人でBOOWYの話をしました。もちろん音楽だってアートだからね。それが僕としては人前でBOOWYについて初めて語った場となりました。なぜ急にやったかっていうと、いま横浜と福岡でラジオ番組を作ってるんですが、その番組にBOOWYのベルリンやロンドンでの写真を撮影してくれたフォトグラファー、ハービー山口さんがゲストで来てくれたんです。MCは雑誌『POPEYE』や『BRUTUS』の発行人のマガジンハウスの石渡健文さんと、僕が担当しているシンガー・ソングライターのQi Fang。その時にハービーさんが話してくれたBOOWY話に感動しちゃって。うちのミュージシャンも番組中に泣いちゃったんです、すごいでしょ? その時に、昔のことでもちゃんと伝えたら、すごい意味があるんだなってことを身をもって教えてもらいました。
――なるほど。
それで、たまたまブッキングされていたアートイベントに阿部ちゃんが「挨拶しに伺います!」って言うから「一緒になんか話そうよ!」って。彼が以前マネージャーを担当していた布袋さんの話となると阿部ちゃんも緊張しちゃうだろうから「俺もBOOWYの話を初めてすることにしたから、君も付き合って。横で聞き役になって!」と説得をして。ちょうど一月くらい前ですよ。そうしたら、アートイベントなのに盛り上がっちゃって。いまでもBOOWYを好きな人がいっぱいいるんだなって。
――お~、それは嬉しいですね。しかも当時のスタッフが語る場は貴重です。
ははは(苦笑)。ていうか、1988年の解散後、メンバーが語ってないから、余計ね。もうそれだけ。ほら、RED WARRIORSのダイヤモンドユカイとかさ、タレントとしてテレビ出まくっちゃってるじゃん? BOOWYは、むしろ封印しちゃったんだよね。そしてそれぞれが現役で頑張ってるし。誰も蓋をあけないからね。でも、本当のことを周りにいた人間が話すことって大事かもしれないと思って。僕がスイッチ入れられたのはハービー山口さんのおかげ。その会場にいた人たちも、まさかBOOWYの話を聞けると思ってなかったと思うんです。福岡のオシャレなカフェでやってはいるものの、田舎じゃないですか? でも、みんな「自分はBOOWYファンです!」ってカミングアウトし始めちゃって(笑)。アートのイベントだったのに全然目の色変わっちゃってさ。すごいバンドだったんだなと思いました。アートギャラリーのギャラリスト福岡NO.1ともそこで通じちゃうんです。あらためてBOOWYの影響力の大きさを知りました。面白かったですよ。
――それはすごいですねぇ。まさにBOOWYは、時代を超えて共有できる歴史に残るエンタテインメントってことですよね。ちなみに鶴田さんは、レコード会社である東芝EMIへ入社されたのって何年くらいですか?
1981年頃だね。
――入社当時はどんなお仕事をされてたんですか?
第2制作部といって、所謂『エキスプレス・レーベル』というニューミュージックの旋風を巻き起こしたセクションに配属されたから、長渕剛さんとか、寺尾聡のヒットで初めてボーナスもらったりしてました。小室哲哉さんがTM NETWORKの前にやっていた大所帯のバンドSPEEDWAYがいたり、オフコースもいたよね。
――名物プロデューサー、新田和長さんが活躍されていた部所ですね?
そうです、新田さんです。よく知っているね?
――息子さんと同世代なんですよ。その頃、長渕剛さんのマネージャーだった糟谷銑司さん(BOOWYの事務所プロデューサー)にお会いしたんですか?
長渕さんは大ヒット・プロジェクトだから、新入社員だった僕は糟谷さんとは接触できなかったんじゃないかな。糟谷さんとは、BOOWYのロンドンではじめてお会いしました。
――鶴田さんは、BOOWY以前はユーミンのプロジェクトにも関わられていたんですよね?
そう。あの頃ってアリスが独立したり。僕が配属されたセクションがスタッフごと抜けて、ファンハウスってレコード会社を作ったり、東芝EMIは大変だったんです。
――それってすごいことですよね?
僕をEMIに呼んでくれて、最初の初期設定をしたボスというか先輩の新田さんが、新しいレコード会社としてファンハウスを作っちゃったんです。しかもアーティスト連れていってしまって……。それで、どうしたものかと思ったら、当時ユーミンだけ動かなかったんですよ。それで、最若手だったこともあって、ユーミン付きになって。この経験は最高におもしろかったです。しかも一人でアー担だから、マネージャーさんと、ほとんどずっと一緒にいました。で、付き人みたいな修行で。ユーミンがプールで歌うときには、滑らないようにヒールの裏にゴムを張るのが初めてのユーミンの仕事でした。マネージャーに怒られながらね(苦笑)。
――えっ、それレーベルの人がやることなんですか(笑)
そういう感じですよ。アー担と言ってもできることなんてそのぐらいでしたから(苦笑)。
――そこからBOOWYとの出会いへの期間は?
えっと、数年ありますね。
――そうなんですね。その間もいろんなアーティスト担当されたり?
邦楽の部所が抜け殻になったところで、シティ・ポップな山本達彦が出てきたり。角川映画のプロジェクトで薬師丸ひろ子とかね。後にユニバーサルやワーナーを立て直した石坂敬一さんの邦楽セクションが産声をあげたタイミングでしたね。
――そんななか、東芝EMIとしては新人や、ロックに力入れていこうみたいな風潮だったのですか?
そうでもなかったかなぁ。でも、演歌とユーミンしか残ってなかったんですよ。そんな時にもともと洋楽にいらっしゃった石坂さんが邦楽畑に殴り込んで来たんです。ご存知の通り、ビートルズやピンクフロイドをやられていたロック一筋な方でしたから。そんな意味では一気にロックな風土ができたのかもね。
――その後、完全に東芝EMIというレコード会社は邦楽でもロックのイメージが固まっていきましたよね。
とはいえ、エピックソニーの丸山茂雄さんがやられたようにゼロからやるノウハウもないじゃん? そうなるとどうするかって言うと、移籍に頼るしかないんだよね。石坂さんがもうガンガン契約をとって。そこにはRCサクセションがあり、サンディー&ザ・サンセッツがあり、M-BANDがいたんだよね。その移籍シリーズのひとつに、ビクターと徳間を経由してきたBOOWYがいたんです。
――BOOWYは、東芝EMIへは3社目の移籍だったんですよね。
移籍です。当時の東芝EMIは、ひと月に2アーティストは契約してました。他社のロックバンドをね。で、我々は「あ、まただ」と思っていて。で、「鶴田どうだ?」なんて一番年下なのでよく聞かれました。そのなかにBOOWYという、全くスタッフの誰もが知らなかったバンドがいたんです。
――まだそういう存在だったんですね。
だからまぁ新人ですよね。移籍っていうのも、担当になって調べたら「あ、移籍じゃん!」みたいな。
――しかも2社経由ですもんね。なぜ鶴田さんが担当になったのですか?
ユーミンのプロジェクトが一段落したタイミングがあって、何も担当してない状態だったんです。今でも覚えているのは、いまはももいろクローバーZなどをやられているスターダスト出版の菅谷憲さんが課長で、まったく情報を知らないまま「お前BOOWY担当だからよろしくね!」って言われて「あ、頑張ります!」って。「早速だけどロンドン行ってくれる?」って言われて(苦笑)。「事務所やミュージシャンに現地で挨拶して」って(苦笑)。「いやだから、もう向こうにいるから!」ってせかされて。なんじゃこりゃと思って。初海外出張の手続きをしてるうちに、アーティストについて調べなきゃってなって、そうしたら先輩の子安次郎さんが担当だってことがわかったんです。「メンバーを子安が紹介するから」という話だったんですよ。
――ちなみに、東芝EMIとBOOWYを結び付けたのは最初のきっかけは誰だったんですか?
糟谷さんが長渕をやっていたから、事務所のユイ音楽工房の代表の後藤由多加さんだと思いますね。後藤さんが、新田さんがいなくなった後に石坂さんとつながったんでしょうね。
――なるほど。
石坂さんってプロモーションの主軸がラジオだったんですよ。音専誌でもファッション誌でも有線でもテレビでもなくて。もともと洋楽全盛期にラジオでヒット出していた人だから、なので、BOOWYを糟谷さんにつないだ東海ラジオのディレクター、加藤与佐雄さんとのパイプもあったと思います。ある種、洋楽の人って制作と言ってもA&Rじゃないですか? 石坂さんってやっぱり一流のビートルズのプロモーターだったから。
――そんな流れがもしかしたら、BOOWYのイギリスでのライブにつながったのかもしれませんね?
そうかもしれないね。で、結局、子安さんはレコーディング、ミックスが長引いてロンドンには行けませんってことになったんですよ。「え、じゃあ俺は誰にアーティストを紹介されて、誰と仕事するの?」みたいな(苦笑)。でも、とにかく行けって。それなりに一生懸命調べて。でも音はないんですよ、かつての音しか。新作のレコーディング中なので。
――ああ、そうですよね。
で、ミッションが2つあると言われたんです。キーとなるアーティスト写真をロンドンで撮影してこいと。そして「デビュー前の大トピックのために、ロンドンの伝説的なライブハウス、マーキー・クラブで日本人として初めてライブやるから、そこをちゃんと成り立たせて、且つトピックとして持って来い、日本での宣伝に反映させろ!」っていうのが僕のミッション。ただ、まだ入社したての若造でしたから。ユーミンで修業したとはいえ。まず海外に行ったことないし、英語はしゃべれない、バンドとは会ってないし、事務所の人とも会ってない、子安さんは来ないっていうし「ああヤバイ!」と思ったんですよ(汗)。しかも、石坂さんからは「絶対コーディネーターなんか雇うんじゃないぞ!」って言われて……。雇おうと思ってたのに(苦笑)。菅谷さんとは「雇っちゃえばいいんだよ。お前ロンドンわかんないだろ!」って話してたんだけどね。でも、石坂さんには「お前が全部自分でやれ!」って言われたんですよ。あと、もう一つミッションが増えちゃって。イギリス本国のEMIに連れてけって言われたの、BOOWYを。
――あ、本社ってことですね。
そう。石坂さんに「これから日本でNO.1になるアーティストをEMIにプレゼンして来い!」言われたの。「あ、もう終わった、俺もうできない……」って思ったんだけど、まぁ一応やりましたよ。
――ちなみにロンドンへは誰と行ったんですか?
音楽評論家の平山雄一さんです。
――新宿LOFTでの最初のライブも平山さんは観てらっしゃるんですよね。
僕がBOOWYの情報をもらったのは、子安さんでも石坂さんでもなく、全部平山さんなんですよ、飛行機の中で。
――すごい、そうなんですね。
平山さんがベーシックな、情報を全部教えてくれました。
――その時の平山さんの話で印象に残る話ってあります?
すごいなと思ったのは、僕が何にもできそうにないというのを見透かされていて。でも優しくて、そしてフォトグラファーとしてハービー山口さんをブッキングしてくれたんですね。「ハービー山口がいれば写真は安心だから!」って。
――初の海外出張でロンドンに着いたときはどんな状況だったんですか?
まずホテルに行ってメンバー4人とマネージメントの糟谷さん、土屋浩さんへ挨拶しました。ものすごい存在感を感じましたね。なんかこうキレがあるというか。挨拶自体は淡々としていたと思いますね。
――4人に会ってみて誰が一番印象的でしたか?
そのときは氷室さんでしょうね。リーダーとしての立ち居振る舞いが素晴らしかったんです。アー担になってからもリーダーだなって思うシーンがいっぱいありました。BOOWYは氷室さんがリーダーのバンドなんだと感じましたね。
――ライブや撮影はどんな感じでしたか?
ロンドンでは、3月12日にマーキー・クラブでライブをやって、それが終わってリラックスしてから、街で写真撮影をしました。マーキー・クラブでのライブは、本当になんだろ、ものものしいというか、すごい緊張感がありました。リハの後も毎日深夜にミーティングをしてたんですよ。ユイが雇ったコーディネーターとメンバーと我々でミーティングをする毎日。一つにはライブを成功させること。そして、あわよくばロンドンで話題にしたいというレベルの高い目標がありました。で、もう一個驚いたのは、マーキー・クラブでライブをやるリスクがあったんですね。最悪壊し屋というか、パンクな輩が、日本人がこんな伝説的なクラブに来るなんて許せないって潰しに来るだろうっていう最悪のシナリオの対策も考えていて。時代ですよね。なので、いわゆるニュース作りですごい楽しみだねって感じでは全くないんです(苦笑)。ピリピリしてました。
――うわ~、実際トラブルはあったのですか?
これが全然なかったんです。
――あ、大丈夫だったんですね。
いっぱい客も来たしね。あと、映画監督の石井聰互(現 石井岳龍)さんも観に来てました。8mmカメラもまわしてましたよ。スタッフ以外で日本人は彼ぐらいだったんじゃないかな。
――ちょうどロンドンにいらしてたんですね。ロック好きでパンクな方ですもんね。
そうそう。この時点からすでにプロジェクトは上手くすすんでました。コーディネーターとしても、事務所経由でクマ原田さんとカズ宇都宮さんという当時のイギリスでのトップ・コーディネーターがダブルでついていて。一番感動したのは、ロンドンの街を歩いたり、シューティングのロケハンをしているとBOOWYのポスターがたくさん張られていたんです。
――それはすごいですね!
スミスとかそういう地元のバンドが貼ってあるところにBOOWYのポスターがあるのよ。しかもすごい良いデザイン。イギリスのバンドのデザインにも負けてなくって。今でも鮮やかに覚えているのですが、綺麗なブルーのね。わりとダークな色が多いじゃないですか、向こうのポスターって。でも綺麗な鮮やかなブルーに白でBOOWYって書いてあって、バンドがどんな風貌かもわかるデザインで。
――1985年当時の日本のアーティストの海外進出って、前例があまりなかった時代ですよね。しかも新人バンドで。ライブ後はどんな感じだったのですか?
その時のエピソードは、音楽雑誌の『B-PASS』で喋ったことがあるんですけど、実はちょっとしたトラブルがありました。単純な話なんですけど、スタッフがシールド(ケーブル)を忘れたんですね。それをホテルに取りに戻らないとリハができないってなって、マネージャーの土屋さんが「鶴田さんすみません、部屋の鍵を渡すから、シールドを取りにもどってもらっていいですか?」ってなって。もちろん「いいですよ!」って。時間もありましたから。タクシーでホテルに取りに戻って全然間に合ったんです。ライブも大成功して。その晩、打ち上げの後にミーティングがあって、で、みんな「これ良かった!」、「あれ良かった!」、「ボンドガールが観に来てたよね!」とか、いろんな話があるなかで、氷室さんが土屋さんに「なんでレコード会社のスタッフにシールドをトリに行かせたんだ?」って言い出して。僕はびっくりしたんだけど「それはマネージャーの仕事だろ!」ってことだったんですね。筋を通すのが大切というか、バンドのプロフェッショナルなアティチュードをみましたね。
――仕事のあり方ですね。いいお話ですね。氷室さん、かっこいいなぁ。
仕事の考え方に感動しましたね。そういう風に気を回してくれたってことじゃなくて、リーダーとしてのマネージャーとの真剣なやり取りにね。
――その後、ロンドンでのハービー山口さんとの撮影はどんな感じだったんですか?
もうね、本当にハービーさんが、平山さんの言うとおりで、ロンドンを知り尽くしてる男だったんです。車の運転も彼が、俺は運転もできなかったからね(苦笑)。ロケハンも彼がやって。デュランデュランはここで撮ったとか、ポールジ・マッカートニーやジョージ・ハリスンがよくお店とか、で「まじすか!?」ってなって(笑)
――それはテンション上がりますね(笑)
ロック観光もしながら、ベストな場所でガンガン撮っていくんです。そして、ベルリンでのミックスが終わってプロデューサーの佐久間正英さんも合流したんです。ディレクターの子安さんはテープを持って日本へ帰国したんですけどね(苦笑)
――なかなか子安さんには会えなかったんですね(笑)
そうなんですよ(苦笑)。佐久間さんはバンド、プラスチックスでの活動など、ロンドン経験があって、バンドを食事に連れていってくれることになって、僕も便乗したんです。超おしゃれなレストランに連れてってくれて。とてもジェントルマンなんですね。その時の佐久間さんの立ち振る舞いや、おもてなしに感動しました。あと、やっぱりみんな真面目だからレコーディングの話になりましたね。「ミックスはどんな感じっすか?」みたいな。音楽の先輩としてのレクチャーだね。すごいなんかいい晩餐でした。あ、俺も「レコーディング順調だったんですか?」みたいなね(苦笑)
――スタッフ同士が海外でまず最初に出会うというシチュエーションが奇跡的ですよね。そして、実は海外進出からリスタートしたBOOWYというストーリーの面白さ、ワクワク感。しかも、帰国後すぐに赤坂ラフォーレ・ミュージアムで、マスコミ招待のコンベンション・ライブを4月13日に行ったんですよね。
ロンドンのマーキー・クラブでのライブからちょうど1ヶ月後ですね。当時、赤坂ラフォーレ・ミュージアムはライブで簡単に使える会場ではなかったんですよ。しかも、まだまだ売れているわけじゃない人たちに貸すような会場でもなくて。でも、やっぱり移籍後のインパクトと、マスコミに対してベルリン?ロンドンでスタートしたバンドのハイレベルなテンションを伝えるために会場探しにこだわったんですね。「いやもう、今回やばいですよ、本気ですよ!」って気持ちを伝える為にね。結果、素晴らしいライブでコンベンションはめっちゃくちゃ盛りあがりました。
――そして、ベルリンでレコーディングした新作音源をもってマスメディアへプロモーションされたじゃないですか? 3rdアルバム『BOOWY』の手応えはいかがでしたか?
実は、マスメディアへの評価は非常に厳しかったんですよ。ライブの評価はどんどんあがっていたんですけどね。でも、まだパンクやニュー・ウェーヴをメジャーな媒体が扱う時代ではなかったんです。まだコアな存在というか、ものすごい先入観があったんですよね。なので媒体へ行くと「お前、ユーミンどうしたの?」って話になるんだけど、BOOWYの話をしても「無理無理」って感じで。「わかるけど、ウチではないじゃん?」みたいな。それでも、ロンドンの熱狂や赤坂ラフォーレでのコンベンションの成功、そしてアルバムの素晴らしさついて丁寧に伝えていったのですが、マスコミからの返答は非常に冷たかったですね。そんななか、媒体よりも音楽ジャーナリストからの評価は高かったんですよ。平山さんに次ぐ若いライターたちや、女性編集者とかね。
――そんななか、テレビの深夜番組『オールナイトフジ』に出演していますよね?
そうそう。このタイミングで東芝EMIのアーティスト担当スタッフに一人加わってくるわけですよ、小澤啓二くんが。彼はフジテレビに強かったんだよね。あとは、有線をまわったね。氷室さんも有線試聴会にも来てくれたし、やれることはゲリラ戦ではあったけどいろいろチャレンジしました。
――後からこの時期のBOOWYの歴史を振り返ってみると、アルバム『BOOWY』を1985年6月21日にリリースして、25日に渋谷公会堂でワンマン公演をやってるんです。それって、ブレイク前であったのにキャパ的にはものすごい挑戦的にランクアップをされているんですよね。
まだライブハウス、渋谷ライブ・インでやってた頃だよね。あの頃はライブ・インがオシャレっていうか、メジャーな新人がやるハコだったんだよ。でも、すでにBOOWY自身のライブでの勢いは本当にすごかったんです。お客さんはいっぱい掴んでいたんです。だからさっきお話ししたマスメディア受けに対してのチグハグな感じとかには全く心配なかったんです。要するにバンドとしての人気、ライブ動員はものすごい勢いで伸びていました。会場のキャパを広くしていくのと、客が増えていくスピードがもう追いかけっこみたいな感じでしたね。だからコンベンションで使った赤坂ラフォーレにも一般の客さんがたくさん来て大変だったんですよ。コントロールが。
――そうなんですねぇ。渋公での最初のワンマン時のエピソードで覚えていることはありますか? 実は1回目の渋公の時のエピソードってあまり残っていないんですよね。
う~ん、なんだろうね。ある種の賭けっていうか、余裕はなかったと思うな。とりあえずチャレンジでやろうみたいな感じで。あと、動員はあってもレコードのセールスに結びついてなかったんですよね。やっぱり、一般的には露出ができなかったんですよ。インタビューやレビューも載っけてくれなかった。繰り返しちゃうけど、当時を振り返ると過渡期というか、日本のロックをメジャーなメディアで紹介するっていう考え方が、残念ながらまだできあがってなかった。それをスイッチしたのがBOOWYやREBECCAだったんだよね。相当、壁は分厚かったねえ。だって、俺はがっつりユーミンでだいたいの雑誌メディアの担当を押さえていたんですよ。だから簡単にインタビューもレビューも載っけられるって会議で言っちゃたぐらいで(苦笑)。全然ダメだったね……。それはBOOWY自身の問題ではなくて、日本のメディアの人たちのロックへの理解の前提がなくて「そんなもの何で載っけなきゃいけないの? 違うものあるじゃないいっぱい、もっとアイドルとかわかりやすいヤツ!」という反応との戦いでもありました。
――音楽シーンのターニングポイントだったわけですね。しかもBOOWYから80年代末の熱狂的なバンドブームが生まれていきましたからねぇ。
そうですよね。当時はネットがなかったんですけど、一番のプロモーションになったのはファンによるクチコミのすごさでした。ツールとしてカセットテープでのコピーでどんどん広がっていったんですよ。ライブの違法録音も広がってましたから。それこそネット的な現象ですよね。そして、ライブ動員が伸びていく早さに驚かされました。
――動員が伸びたであろう気になるポイントとして、NHKの番組『ミュージックウェーブ』で、日本青年館でのライブが1985年12月31日に放送されてますよね。NHKは80年代初頭、積極的にロックやインディーズ文化をいち早く紹介していました。そこでBOOWYが紹介されたことが一般的な飛躍のきっかけに感じました。
今でいうロックフェスに近いバンドのライブの盛り上がり、いわゆるオムニバス・ライブ。仙台の『ロックンロールオリンピック』もNHKで放送してたでしょ? NHKがロックをヤングカルチャーの兆しとして捉え始めたんだと思う。あと、この頃エピックソニーとか含めて、邦楽ロックの玉がそろい始めてきたんですよね。
――そういうタイミングでもありますね。
うん。レコードショップなどお店は実は気がつき始めていて。メディアはちょっと時間かかっただけどね。「ロックってジャンルはニューミュージックの次にいけるんじゃない?」みたいなバイヤーがあらわれ始めたんだろうね。
――ちょうど1985年といえば10月21日発売でREBECCA「フレンズ」のヒットもあったりとか。
大きいよね、REBECCAの存在は。ロックバンドからスタートしたけど、NOKKOを軸に洋楽センスを邦楽として上手くローカライズしてポップスターになったんだよね。この頃、時を同じくしてソニマガ系というか音楽雑誌がブレイクしていくんですよ。『GB』や『PATi・PATi(パチパチ)』とか、ヴィジュアル重視の紙面作りが時代性にハマったんだよね。BOOWYは『Arena 37℃ (アリーナサーティセブン)』など、音楽専門誌には早いタイミングから出ていたんだよね。しかも、BOOWYを掲載すると部数がガンガン出るってことに編集者が気がついてきたのが1986年ぐらいなのかな。メディアのコントロールはマネージャーだった土屋さんがすごかったよ。各雑誌別にネタも写真もしっかり分けてるんだよね。お互いに信頼関係をもってやってた。それは素晴らしいマネージメントだったと思う。
――たしかに、BOOWYは媒体ごとに露出イメージを変えてましたよね。普通だったらどの媒体も同じような記事になりがちなところを。
その辺がさっきのほら、ある意味びっちゃん(土屋)の強いところっていうか、ファンが喜ぶイメージとかストーリー作りね。なんたって紺待人(小説『BOOWY STORY 大きなビートの木の下で』の作者)ですからね。雑誌が面白く売れるように、ネタや写真の伝え方や振りワケはすごい見事だったと思う。
――書き手であるライターもキャラクター別に明確に分けていましたもんね。
音専誌をバランスよくやっていくうちに、びっちゃんと俺で、ライター・グループときっちりアライアンスを組むっていうことをやったんです。BOOWYに関しては、5人のライターだけに全部情報を出していくという。いわゆるオフィシャル・ライター、BOOWYライターズっていうのをやり始めたんですね。正しい情報を深くしっかり届けたいという理想型ね。音専誌が盛り上がってきたタイミングで、一歩BOOWYのPRが抜きん出ていた理由はこれだよね。もうしょっちゅうみんなで飯を食ってたわけ。場所まで決まってたの、赤坂の寿司屋なんだけど。そこに2週間に1回くらいは集まって濃い情報を伝えていたんです。ものすごく効果的なジャーナリスト対策。雑誌『ロッキングオン』出身の佐伯明、水村達也、藤沢映子とかね。編集者や編集長にも協力してもらいつつ、だんだんとソニマガの『PATi・PATi(パチパチ)』が主戦場になっていくんだよね。アルバム『JUST A HERO』の頃だね。
――1986年3月1日リリース、4枚目のアルバム『JUST A HERO』で一気にセールスも上がったわけなんですが、その理由をどう考えましたか?
あれはシングル「わがままジュリエット」の効果だと思うよ。もともと戦略的に、ちゃんと認知されるためのブレイクポイントはシングルだって考えていたんです。「ラジオでかかったり、普通の音楽ファンが聞ける音楽とはなんだ?」ってなって、バンドが出してきたのが「わがままジュリエット」だったんです。レコード会社もびっくりするくらいのポップさというか。この曲から、メディアへの壁がこわれて、とにかくレビューも掲載されてラジオもかかるようになったの。シングル戦略でそれをこじ開け始めたという。
――よくその後も氷室さんはソロ時代でも「シングルは名刺代わり」だってずっと言い続けてましたけど、「わがままジュリエット」での効果がきっかけなのかもしれませんね。
そして、アルバム『JUST A HERO』はオリコンチャート5位に入ったから、一気に変わるよね。メディアの人たちが手のひらを返してきました。あと、やっぱりフジテレビの音楽番組『夜のヒットスタジオDELUXE』への出演だよね。クチコミで広がっていた流れが一般層まで一気に広がりました。それこそチェッカーズとか聴いてた子たちまで巻き込んでさ。音楽性はもちろん、ヴィジュアルのインパクトもあったよね。チェッカーズもおしゃれなんだけど、BOOWYはそこにパンクさもあって尖ってたんだよね。びっくりしたと思うよ、こんなバンドがいるんだって。
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