過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


 米国は第3の原爆投下を計画していた
 1945年の夏、米国は広島、長崎に続く準備を着々と進めていた
 2020(令和二)年08月09日(日) 文=ALEX WELLERSTEIN/訳=ルーバー荒井ハンナ
■終戦■だが、幸いなことにそれが遂行されることはなかった。トルーマンが英国大使と話をして間もなく、日本時間で
 1945(昭和20)年08月15日(水)、日本は無条件降伏を受諾すると発表した。日本がなぜ考えを変えたのか。原爆、ソ連の宣戦布告、日本軍の内部勢力。それぞれの相対的な役割を紐解くのは難しく、それらすべてが何らかの役割を果たしたと思われる。第3、第4の原爆投下は確かに、第二次世界大戦終結をにらんだ米国の戦略に含まれていた。原爆が戦争を終結させるだろうという期待はあったものの、トルーマンから軍の司令官まで、あのタイミングで終戦になるとは思っていなかった。さらに多くの原爆が必要と考えられており、米国の上層部はさらなる投下命令に備えて急速に動いていた。もしあのまま戦争が続いていたら、次の原爆は確実に落とされていたはずだ。(参考記事:「核の亡霊――世界の核実験の4分の1が行われた土地は今 写真24点」)
 1945(昭和20)年09月02日(日)◆写真◆日本の降伏後、連合国は天皇を戦犯として裁判にかけることを検討していたが、ダグラス・マッカーサー元帥はこれから日本を占領するにあたって天皇が存在していたほうが日本人には受け入れられやすいと訴え、その意見が聞き入れられた。1945年9月2日、日本と連合国軍の代表は戦艦ミズーリ号で日本の降伏文書に署名した。こうして天皇制は象徴として維持され、日本の統治権はマッカーサーの手にゆだねられた。写真は
‡1945(昭和20)年09月27日(木)に撮影されたもの。(UNIVERSAL IMAGES GROUP/UNIVERSAL HISTORY ARCHIVE/ALBUM)
  https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/20/080700466/?P=4

 杉田家ご店主にインタビュー!
 家系杉田家ご店主、津村さんにインタビューしてみました!
 Q:創業日を教えて下さい
‡「1999(平成11)年09月27日(月)です。おかげさまで七年目です。」
 Q:近況はどうですか?
 「毎日が研究です。」
 Q:お店に行く目印は何ですか?
 「JR新杉田駅より磯子方面へ徒歩3分、磯子産業道路沿いにあります。真横にセブンイレブンがあります。」
 Q:オススメのトッピングメニューはありますか?
 「ネギがおすすめです。あと当店オリジナルの「新杉田ラーメン」。鰹節と梅たたきのトッピングですが、ハマりますよ。その他多くのものがあります。」
 Q:お店をやっていてよかったと思う事は何ですか?
 「リストラなど暗い話題が多い中、働く場所がある事が幸せです 」
 Q:お店に来るには何時頃が狙い目ですか?
 「朝一(午前5時)がグーですよ。」
 Q:他のラーメンと比べてオススメの点を教えて下さい
 「うちは冷凍ではない本物のガラを使ってるんですよ。忘れられない余韻のある”また食べたいラーメン”を目指してます 」
 Q:お客様に一言どうぞ!
 「当店ではお子様から年配の方まで全ての方に 喜んで頂ける店作りを心がけてます
 Q:お子様にはアイスや飴のサービスもしておりますので是非ご来店下さい。ありがとうございました! 
 http://ieke1.com/source/sugitaya/index.html
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 映像◆横浜家系ラーメン地獄の修行180日https://youtu.be/Adm2BexmEAo
 1999(平成11)年09月27日(月) 家系杉田家 初日の売上 450人分 30万円の売上 津村3 石川3
 1999(平成11)年10月01日(金) 横浜駅西口 ラーメン吉村家 開店
 
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 ┃ 伝統保守と戦後保守編        ┃
 ┃ 其の六:司馬史観と占領憲法<全2頁> ┃
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 2008(平成20)年07月29日(火)
 ◆薩長史観と司馬史観 ⇒ ところで、この「勝てば官軍」の思想の影響を受けた保守層の場合は、その根源にある思想である「薩長史観」から逃れられないことになることに留意せねばならない。この薩長史観は、「三回にわたる薩長連合(薩長同盟)」による「有司専制」によつて確立したものである。ここで「三回」としたのは、文久三年八月に為された西郷隆盛らの薩摩と桂小五郎(木戸孝允)らの長州とが倒幕を目的とした「第一次薩長同盟」だけではなく、明治政府成立後の、明治六年の政変(第二次薩長同盟)と明治十四年の政変(第三次薩長同盟)のことである。これによつて、薩長同盟による薩長の有司専制によつて、薩長史観が確定したことになつた。まづ、明治六年の政変(第二次薩長同盟)とは、数々の汚職事件などを犯し続けてきた井上馨、山縣有朋らの悪事を容認し続けてきた長州閥(汚官派)と、何の成果も得られずに維新創業の最も重要な時期に職務放棄して単なる物見遊山だけをして帰朝した岩倉具視、木戸孝允、大久保利通ら欧米使節団(外遊派)とが結託して、その不正を追及しようとした西郷隆盛、江藤新平、板垣退助、副島種臣らを排除した「薩長汚官連合」による政変のことである。そして、明治十四年の政変(第三次薩長同盟)は、議会開設と憲法制定についての急進派(大隈重信ら)を伊藤博文らの漸進派(薩長派)が罷免して排除した政変のことである。そして、これらの三回による薩長同盟によつて薩長による有司専制が確立し、これによつて歴史観としての薩長史観が不動のものとなつたと云へる。このやうな薩長同盟による有司専制によつて抑圧されたのは、第一次薩長同盟によつて賊軍の汚名を着せられて排除された会津などの奥羽越列藩と、明治政府成立後の第二次及び第三次の薩長同盟によつて政府主流から排除された土佐などであつた。ところが、大正、昭和になると、軍部の指導層には薩長閥以外の者が進出する。特に、戊辰戦争で賊軍とされた藩からの出身者は、賊軍の汚名を尊皇の至誠を以て払拭しようとする精神主義が強くなる。そのやうな背景があることから、司馬は、「ひき殺していけ」とした少佐参謀が東北人であり、彼も長州人を反面教師として、長州人以上に尊皇的であらうとした歴史的コンプレックスが「ひき殺していけ」といふやうな暴走と狂信を生んだとするのである。司馬の感覚には、薩長史観に対する批判といふよりも、それ以上に、奥羽越に対する憎悪の方が大きいことが解る。尊皇の精神性において薩長よりも勝つてゐたとする自負と、その薩長に敗れたといふ憎悪によつて、明治政府に占める地位が薩長閥を凌駕することによつて報復を実現するのだといふ倒錯が奥羽越にはあつたとして、薩長よりも東北人を憎悪する。それが司馬の認識にあつた。確かに、大東亜戦争時の軍部人事には、薩長閥が消えてゐる。山本五十六は新潟県長岡市の旧越後長岡藩士の六男として生まれ、山下奉文は高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身であり、東条英機の家系は盛岡藩であつて、板垣征四郎は岩手県盛岡市出身、米内光政も旧盛岡藩士の長男として岩手県盛岡市に生まれてゐる。東京裁判で起訴された二十八名中、東郷茂徳(薩摩)、木戸幸一(長州)と松岡洋右(長州)の三名だけが薩長の出身者にすぎなかつた。その意味では、確かに、東亜百年戦争は、その初期においては薩長が主導し、終盤の大東亜戦争は非薩長(反薩長)が主導して終はらせたといふ人的側面があつたと云へる。しかし、何ゆゑに、司馬は、無念にも迫害された奥羽越諸藩に属する者を限りなく冷淡に見つめ、かつ、憎悪の対象とするのであらうか。それは、やはり、成果主義、合理主義からして、負け犬は評価されないといふことである。奥羽越は、戊辰戦争でも敗れ、その報復として取り組んだ大東亜戦争でも敗北したといふ二重の負け犬と見てゐるのである。司馬は、
‡昭和四十九年九月二十七日(金)、会津若松市の市民会館の演壇に立つてゐた。『会津藩はなぜ「朝敵」か』の著者である星亮一によれば、このときの司馬の話について次のやうに伝へてゐる。司馬は、世界の文化性についての茫洋とした話をした後に、「会津とはなんだ、そして会津をひどいめにあわせて近代国家をつくった長州と薩摩とは、どんな国なのかというお話をしてみたいのです。」と、会津の土地柄を配慮して切り出したものの、「だが、この三藩もまると外国のように違っていました。」とはぐらかせ、とりとめもない話をした後、「会津藩はあまりにも力が強く、会津藩を倒せば、それで天下は新しい世の中になったのだ、変わったのだと分かるだろうと、会津藩の恭順も許さずに総攻撃したのです。」といふ軽薄な説明の程度で終はつてゐるのである。司馬は、戊辰戦争から西南戦争に至るまでの官賊差別による薩長史観がその後にどのやうな影響をもたらしたのかといふ点について思ひを致すことがなく、これについての本格的な作品を発表したことがない。これは、売文業者にありがちなことである。大衆受けする明治史の作品は書けても、ノモンハン事件なども含めて、英雄が登場しない昭和史の作品は書かなかつた、といふよりも書けなかつたのであらう。司馬は、「時代が人を作る」とした唯物史観を売文業者の立場で逆らつて見せ、「人が時代を作る」として劇画風に英雄礼賛の作品を作つただけなのである。光と陰で織りなす歴史には、明治維新で光が当たつた薩長にも陰があり、陰となつた奥羽越にも光が差すといふやうな複雑系の重層構造となつてゐる。戊辰戦争後において、長州において倒幕への道を切り開いた郷士中農層で形成された奇兵隊(諸隊)は、その幹部のみが恩賞を受けて身分が保障されただけで一般隊士の保障が全くなく解散を命ぜられたことによつた叛乱したが、これに対して熾烈な弾圧と大量処刑の悲劇を生んでゐるし、また、薩摩においても、私学校の弾圧のための西南戦争が起こつてゐるといふ複雑な歴史の様相がある。西郷隆盛だけは、末路が悲劇となつた「英雄」として描いたといふことである。おそらく、司馬は、一度も日の目を見ない負け犬については一顧だにしない。しかし、このやうな「勝てば官軍」思想を追随する司馬史観と薩長史観によつて、現在においても「靖国問題」を複雑にさせてしまつてゐることに、その共鳴者たちは何らの痛痒も矛盾も感じないのであらうか。
 http://kokutaigoji.com/reports/rp_iwa_h200729-2p.html
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 ┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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‡2014(平成26)年09月27日(土) 御嶽山が噴火 ⇒ 長野・岐阜両県にまたがる御嶽山(3067メートル)が午前11時52分ごろ、噴火した。御嶽山の噴火は7年ぶり。山頂にいた登山客が巻き込まれ、死者58人、行方不明者5人を出す大きな被害をもたらした。写真は噴煙を上げる御嶽山【時事通信社】
‡1945(昭和20)年09月27日(木) 昭和天皇がマッカーサーGHQ最高司令官を訪問 ※2020(令和二)年記事追加
‡1954(昭和29)年09月27日(月) 中国、第1期全人代で毛沢東を国家主席に選出 ※2020(令和二)年記事削除
‡1988(昭和63)年09月27日(火) ソウル五輪陸上男子100メートルで1位になったベン・ジョンソンの金メダル剥奪
 https://www.jiji.com/jc/daily
 2022(令和四)年07月08日(金) 安倍元首相、奈良の街頭演説中、銃撃死亡
 2022(令和四)年07月08日(金) 安倍晋三元首相が、参院選の応援演説中に銃撃されて死亡 ⇒ 奈良市で参院選の応援演説中だった安倍晋三元首相が銃撃され死亡した。逮捕された容疑者の供述から多額の献金や「宗教2世」など、旧統一教会を巡る問題が注目されるきっかけに。
†2022(令和四)年09月27日(金)には、首相経験者では吉田茂氏以来となる国葬が行われた。写真は通夜会場に設けられた献花台に手を合わせる人たち【時事通信社】※2024(令和六)年説明追加&題名に変化有
 https://www.jiji.com/jc/daily?d=0708
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 ┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1946(昭和21)年9月27日(金) 史上まれにみる珍妙な没収試合
‡2017(平成29)年9月27日(水) 12:11 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月27日だ。 
 写真◆終戦後のプロ野球の人気者・大下。遊び人としても知られていた
 終戦後まもなく、珍妙な「没収試合」があった。試合中にもめたとか、そういうことではまったくない。 
‡1946(昭和21)年9月27日(金)のことだった。西宮球場でのゴールドスター対セネタース戦は午後1時試合開始予定だったのだが、セネタースの選手がそろわず、1時27分、球審によって「没収試合」が宣告された。 
 ゴールドスターは関西のチームで、東京から来ていたセネタースは西宮から電車で15分の宝塚に宿舎があったという。前夜から雨が降り続いていたが、球場周辺は午前11時過ぎにはあがり、ゴールドスターの選手たちは11時30分ごろから打撃練習を始めていた。 
 だが、セネタースの選手が現れない……。なんとか関係者と連絡が取れ、明らかになった事実がすごい。雨があがらず、試合中止だと思ったセネタースの選手たちが、早々と遊びに出かけてしまい、連絡が取れないというのだ。 
 正午過ぎになって、ようやく4、5人の選手がやってきたが、これではとても試合にならないと、没収試合が宣告され、ゴールドスターが9対0の勝利となったわけだ。 
 当時、携帯電話などあるはずもなく、セネタースの宿舎に電話があったかどうかも定かではない。ただ、青バットの大下弘をはじめ、遊び人が多かったと言われるチームながら、午前中から選手が総出で遊びに出かけてしまうって、いくらなんでも……。
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 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170927-12
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 ┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.383 ┃  50円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1965(昭和40)年09月27日(月)号 巨人・金田正一、復活!
 2019(平成31)年01月23日(水) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎長嶋茂雄のアウトステップ
 写真◆表紙は南海・野村克也
 今回は『1965年9月27日号』。定価は50円だ。
 最初に書いておく。以前も一度やってしまったのだが、この記事を前日にアップする際、設定を間違え、いわゆる“過去”の日時を入れてしまった。 
 即座に削除したのだが、うまくいかず……。この記事を2度目にお読みいただいている方がいたら、誠に申し訳ない。 
 以後、気をつけます。
 9月8日、左ヒジ痛で長期離脱中だった巨人・金田正一が古巣のサンケイ戦(後楽園)で復帰登板。1失点完投で7勝目を挙げ、バットでも二塁打を放った。 
 今季の復帰は難しいのでは、と言われていたが、直前の4日に自身初のイースタン“1勝”を挙げての登板だった。 
 試合後、金田は上機嫌で喋りまくる。 
「久しぶりやったね。ワシが速球を投げたときスタンドがどよめいたのは、プレートのワシの耳にもいつも入ってくる。これがないとワシは本物じゃないと思うとる。今日はあれが聞こえよった。ええ気持ちやった」 
 巨人は、この後も後楽園で広島相手に連戦。11日には城之内邦雄が7連勝で15勝目、翌12日はリリーフの宮田征典が3イニングを締め、18勝目をマーク。これで2位中日とは6ゲーム差だ。 
 好調巨人の中で、唯一表情が暗いのは打率3割に届かぬ不振に苦しむ長嶋茂雄。少しさかのぼるが、8月1日広島戦(広島)では成績不振で欠場もあった。本人はさほどショックではなかったようだが、 
「東京駅に降りたらえらいカメラマンがたくさんいるんですよ。何事かなと思ったら僕なんですよ(笑)」 
 ただ、それなりに悩んでいたのも確かなようで打撃練習では打席の後ろから助走をつけるように走りながら打って、周囲を驚かせた。 
 マスコミからは毎度だが、アウトステップの癖を叩かれた。 
「僕は学生時代からアウトステップなんですよ。アウトステップしても僕は右肩が残っているから打てる。まったく問題ない。ただ、確かに今年の春先、調子が悪いときは、体が一緒に前に出た。お客さんからは『まだ夏は来てないぞ。泳ぐのは早いぞ』とヤジられました(笑)」 
 パ・リーグでは各球団の投手が勝負を避けたこともあって、一気に調子を崩した阪急・スペンサーが記者を自宅に呼んで不満を爆発させた。 
「私はパ・リーグのほとんどの投手に失望を感じた。日本野球界は僕にホームランタイトルを渡したくないのだろう。どうかしてるよ」 
 9月10日現在、南海・野村克也は打率.338、本塁打35本、打点96。 
 対してスペンサーは打率.323、本塁打34、打点69。一時は三冠王の可能性もあったスペンサーだが、残り試合を考えれば、タイトルの可能性はホームラン王だけになった。 
「野村は確かにナイスバッターだが、それ以上に幸運だ。自分は歩かされるが、彼はそうではない。ベースは自分のほうが上だと思っているが、打たせてくれないことには仕方ない」 
 また、スペンサーが阪急の野球を「ハイスクール(高校野球)のようだ」と言ったことで、味方の中にも反スペンサー的な雰囲気になったことについては、「私はそんなことを言った覚えはない。ただ、南海に比べ気迫が足りないのは確かだ」と話していた。 
 この後の交通事故で野村が三冠という流れが定説になっているが、このイライラぶりでは、実際には事故がなくても野村は三冠王になっていたのではないか。 
 65年は“8時半の男”、巨人・宮田征典、“西の8時半の男”、広島・竜憲一、さらに右肩の故障でやむなく抑えになった南海・杉浦忠が活躍し、リリーフ元年とも言えるシーズンだったが、今度は中日に“8時45分の男”が登場した。 
 現在、タレントで活躍する板東英二だ。宮田らは7回からの登板が多いが、板東は8、9回がメーンなので15分遅れらしい。西沢道夫監督は、 
「いまの板東は宮田と決してヒケを取らない。むしろ宮田以上の実績がある」 
 と大絶賛。 
 板東は当初、リリーフ起用について、 
「やはり投手は先発して完投しなきゃ。勝ち星を挙げんことには給料が上がらんからな」と言っていたが、球団社長から「ちゃんとチームへの貢献度を克明に調べ、データとしてまとめているんだ。勝ち星にとらわれず、心置きなく働いてくれ」と言われ、モヤモヤが消えたという。 
「よーし、球団がそういう方針なら心配もない」 
 現金な気もするが。これもまた、板東らしいか。 
 今回はいつもより興味深いネタが多かったので少し長く。 
 サンケイの捕手・岩崎哲郎について紹介してみよう。 
 65年当時、現役選手として登録されているが、これは養老年金を受けるとき有利になるようにという球団の配慮で、実際には選手は完全に引退し、二軍でブルペン捕手、ノッカー、マネジャー、一軍のスコアラー、寮長の補佐と幅広く働く、いわば便利屋だった。 
 人情家で知られ、後輩選手に慕われたが、少々手が早く、時に鉄拳も振るったという。 
 一例として東京理大を卒業し、60年に入団した投手、平社達三郎との逸話があった。 
 平社は無口な変わり者で知られ、寮の風呂にも入りたがらず、とにかく写真嫌いだった。あるとき、それを知らず平社にカメラを向けたカメラマンにボールを投げつけたことがあったという。 
 幸い球は当たらなかったが、怒ったのがノッカーをしていた岩崎だった。すぐさま平社を怒鳴りつけ、ボコボコに殴った。 
 あとで分かったことだが、実は平社は背中に大きなアザがあり、みんなと風呂に入るのが嫌で、自然と人間嫌い、カメラ嫌いになっていたらしい。 
 記事は、この岩崎の鉄拳で平社が性格を変え、みんなと打ちとけるようになったと結んでいるが、いまの時代なら美談ではなく、完全にアウトだろう。 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
 ┃ プロ野球仰天伝説 No.049 ┃ ONLINE
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 最後の1本を記憶するためだけに海を渡った松永浩美
 2018(平成30)年2月10日(土) 11:05  長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 引退試合の代わりに……
 抜群の打撃センスを誇った松永
 あの福本豊が「あいつが普通にやっていたら2000安打に到達していた」と話し、残念がるのが阪急の後輩・松永浩美だった。 
 練習生からはい上がり、プロに入ってからスイッチに挑戦した苦労人で、打撃部門は無冠ながら、そのバッティングセンスは超一流だった。88年には首位打者争いをしていた高沢秀昭のロッテと終盤に直接対決。11打席連続四球で、1厘差でタイトルを逃し、91年には4毛差で、またも2位となっている。 
 その後、1993(平成五)年に阪神移籍も、翌年にはできたばかりのFA制度で地元・福岡のダイエーに移籍。わずか1年での離脱はファンの不興を買った。 
 ダイエーでは1年目こそ主力打者として活躍、打率も.314をマークしたが、その後、徐々に出番が減り、97年限りで自由契約。この後、メジャーに挑戦した。 
 ただ、松永の中にメジャーへの思い、夢はなかった。 
「自由契約と言われたとき、最後のヒット1本を覚えていなかった。だからそれをアメリカで作ろう。それだけ」 
 引退試合の代わりに球団にメジャーへの橋渡しをお願いし、アスレチックスへ。自己負担でスプリング・トレーニングに参加したが、結果が残せず、契約はかなわなかった。 
‡松永浩美 ◆1960(昭和35)年9月27日(火)生まれ。福岡県出身。小倉工高を中退し、練習生として78年阪急入団、翌79年に支配下登録。同年にはスイッチヒッターに挑戦。82年には正三塁手となってサイクル安打も達成した。85年に38盗塁で盗塁王。88年には11打席連続四球の日本記録、91年に2度目のサイクル安打も。93年に阪神、翌94年にダイエーへと移籍し、97年限りで退団。メジャーに挑戦したがかなわず、98年現役引退。主なタイトルは盗塁王1回。通算成績1816試合、1904安打、203本塁打、855打点、239盗塁、打率.293。
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.738 ┃  90円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1971(昭和46)年09月27日(月)号 シーズン終盤、長嶋茂雄、王貞治の明暗
 2020(令和二)年06月25日(木) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎ロッテ・江藤慎一のセ・パ首位打者はなるか
 写真◆表紙は巨人・高田繁
 今回は『1971年9月27日号』。定価は90円。
 ペナントレース終盤、セ、パの打率トップの話。
 パはロッテの江藤慎一が、チームメートのアルトマンと抜きつ抜かれつの戦いをしていた。
「おそらく最後までこんな状態で行くだろうな。同じチームというのは嫌だが、ここまで来た以上は絶対に引き下がれない。ワシは打率争いに慣れているんや。競ったら必ずタイトルを取っている」
 中日時代は2度首位打者。史上初のセ、パ首位打者が近づく。
 一方、セは35歳の巨人・長嶋茂雄。投低打高のセでは唯一の打率3割台だ。
 すでに首位打者5回。6回なら肩を並べていた先輩・川上哲治を抜き去り、単独最多だ。
 少し長嶋語録を紹介しよう。
 まずは年頭、新年の抱負を聞かれたインタビュー。
「守備の負担を減らしため外野に転向したらという人もいるが、人の商売がよく見えだしたら人間終わりですよ。僕は三塁のホットコーナーを守ってきた。三塁ベースは僕の恋人です。それが守れなくなったら、僕は潔く引退しますよ」
 前年は打率.269の大不振で、限界説もささやかれていた。
 次はベロビーチキャンプで、ミスターオリオールズと言われるブルックリン・ロビンソンと会った際、
「ロビンソンが帽子を取ったとき、アリャアリャと思ったね。すごく(髪が)寂しくなっていて。年を聞いたら、35歳という俺と同じだぜ。その俺はこのとおりフサフサさ。あれで自信を持ったね。年なんか気にせず、俺はバリバリやれるって。ベロビーチに行った最大の収穫はあれだったかもね」
 一方、王貞治は不振の真っ只中にいた(とはいえ、打率.287の36本塁打ではあるが)。
 9月5日には川上監督から試合前、
「一番と五番どちらがいい」と聞かれた。
 かつて首位打者を競っていた時期、打率を上げるために一番になったことはあるが、自分の不振からの打順変更は若手時代以外なかった。
 チームは4連敗。川上監督の何かしなければという思いからだったのだろう。
 しかも王が五番に入ったこの日、連敗がストップ。「王を動かしたら局面も動いたな」と川上監督は笑顔。
 王も顔がすっきりしていた。無安打ではあったが、3打席目、四球ながらベンチに戻った王は国松彰コーチに言った。
「クニさん、やっとつかんだよ。もう大丈夫だ。ありがとう」
 王は言う。
「一本足のタメができた。結局、これだったんだ」
 王は翌日、多摩川で打ち込み、この日の試合では37号を放った。
「力いっぱい振ったのでもないのに、よく飛んだな。もうOKです。
 一本足をぴたっと静止させてボールを呼び込む。それだけのことで、こんな回り道をした。つまらないようだけど、いい勉強だった。3割に死力を尽くせる自信が出た」
 と話していた。では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.739 ┃  90円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1971(昭和46)年09月27日(月)号 巨人・小松俊広スコアラーの報告は「このままでは巨人は阪急に敗れる」
 2020(令和二)年06月26日(金) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎西本幸雄監督も日本一に自信
 写真◆今度こそはと燃える阪急・西本監督
 今回は『1971年9月27日号』。定価は90円。
 9月1日からパで優勝確実となっていた阪急を視察していた小松俊広スコアラーは、
「はっきり言って今の比較だったら阪急のほうが上ですよ。仮に第1戦を落とすと、うちをなめて、かさにかかって攻めてくる。そうなると、うちはズルズル押しまくられるかもしれない」
 スコアラーが報道陣に語った言葉だ。当然、本音ではないと思うが、西本幸雄監督率いる阪急に、これまでにない勢いがあるのは確かだ。
 強がりが嫌いな西本監督も「ことしの阪急は巨人に勝てるよ」とはっきり言い切った。
 自信の源は、アンダースローの山田久志、俊足の福本豊、左の強打者・加藤秀司の若手3人衆の存在だ。福本のみ69年の日本シリーズに少しだけ出ているが、巨人からしたらほぼ未知数。
 小松スコアラーは山田について、
「下手投げだから逃げるピッチングと思ったら大間違いだ。あの下からえぐるようなスピードボールはセ・リーグにはいない」
 もともと阪急には対巨人に自信を持つ足立光宏もおり、投手陣では下手二枚を警戒していた。
 打線も俊足の福本、新鋭の加藤に加え、主砲の長池徳二も健在。脇役的な選手もそろい、バランスがいい。
 阪急は過去3回、巨人に日本シリーズで敗れているが、いずれもペナントレースを終盤まで競り、相手の研究が十分ではなかった。
 それが今回は比較的余裕があり、しかも自軍の選手に圧倒的な自信がある。
 評論家たちも阪急有利とまでは言わないが、「どちらが勝つにしれも7戦まではいくでしょう」という声が多かった。
 では、また月曜に。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.740 ┃  90円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1971(昭和46)年09月27日(月)号 近鉄のプリンス・太田幸司の近況
 2020(令和二)年06月29日(月) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎心配なヒゲ辻のめまい
 写真◆南海・島本講平とのコーちゃんコンビ
 今回は『1971年9月27日号』。定価は90円。
 1勝もできず、2年目のシーズンを終えようとしていた近鉄の太田幸司。人気先行と言われながらも一軍に帯同し、試合中盤からブルペンに向かう。
 そして、日生球場だけだが、それを追って女子中高生、子どもたちが動く。いわゆる“太田親衛隊”だ。
 前年秋、女子高校生がつくった後援会もいまだ健在。「不死鳥」という機関誌もあり、会員は500人以上という。
 ちなみに彼女たちの心配は、もう1人のコーちゃん、甘いマスクで太田同様人気者になった南海の新人・島本講平が実績で太田を追い抜いてしまうことだったというが、これは島本の伸び悩みで大丈夫だったようだ。
 この年、太田は最終的には14試合に投げているが、ほぼ負け試合。
 本人は、
「まだまだですね。とても使い物になりませんよ」
 と自嘲気味に語るが、決して成長していないわけではない。
 真っすぐに関しては、高校時代より遅くなっているのでは、と言われていたが、真っすぐとカーブだけだった球種を、この年はシュート、スライダーを習得。投球の幅は少しずつだが、広がっていた。
 捕手のヒゲ辻こと、辻佳紀も、
「やはり2年目なので余裕が出てきた。マウンドに慣れたようだ。球も生きてきた」
 と好評価している。
 ただ、太田ではなく、ヒゲ辻で少し心配なことも。試合中、突然しりもちをついて動けなくなったのだ。
 単なる貧血との診断だったが、
「急に頭がぼーっとなって汗が出てきた。こんなことは一度もなかったのに」
 と辻。若くしてガンで亡くなった方だけに、このころから何かあったのだろうかと思ってしまう。
 なお、近鉄では鈴木啓示が9月9日の西鉄戦(日生)で2度目のノーヒットノーランを達成した。これについてはまた次回で。
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200625-01
②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200626-01
③https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200629-01
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 映像◆2001(平成13)年09月27日(木) 松井秀喜 初の3打席連続ホームランhttp://youtu.be/Idh7vzkmhuc
 

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