ソ連軍進駐の大連。「電気屋です。修理させて」。ソ連人の家を訪ね回り、残飯をもらった。街は無法状態。冬は寒かった。鉄線で電気ストーブをつくって寝た〈証言 語り継ぐ戦争〉
2020(令和二)年6月8日(月)付掲載 南日本新聞
2020(令和二)年9月15日(火) 17:00配信
写真◆大連時代の思い出を語る池田國治さん=霧島市隼人
■池田 國治さん(89)霧島市隼人
【写真】大連の海岸で、満州電業の仲間と写真に納まる池田國治さん(前列左から2番目)。1945年夏とみられる(本人提供)
戦時中の私の記憶に残る歌がある。「万世一系たぐいなき すめらみことを仰ぎつつ(中略)荒地開きて 敷島の 大和魂 植うるこそ」―。隼人の宮内国民学校高等科2年を卒業したばかり、14歳だった私は1945年3月28日、同級生10人くらいと隼人駅から汽車に乗り込んだ。向かった先は茨城県内原(うちはら)(現・水戸市)の「満州鉱工青少年技術生訓練所」。ゲートルを巻き、戦闘帽子をかぶり、ほふく前進を繰り返す日々。満州に渡る直前の若者を鍛えるこの訓練所で覚えたのが、冒頭の歌だった。食前には、天皇陛下と親の恩に感謝して、「箸とらば 雨(あめ)土(つち)御代(みよ)の御(おん)恵み 君と親とのご恩味わえ いただきます」と唱えた。3カ月ほどをここで過ごし、山口県の仙崎港から船で釜山へ渡り、満州鉄道から分離独立した日満合弁の満州電業に入社した。本社があった満州首都の新京(現・長春)に、同期数十人と1カ月程度いた後、大連の社員養成所へ移った。 大連に着いたのは8月初め。既に日本は負けると思っていた。「きょうは重大放送がある」と知らされても、諦めの気持ちだった。戦争が終わるとすぐソ連軍の進駐が始まった。日本人と中国人の立場は逆転した。満州全土の電力業務を担っていた会社は中国側に引き渡されたが、私たちはそのまま残り、養成所の寮で暮らしながら、大人の従業員の仕事を手伝って糊口(ここう)をしのいだ。 会社から支給される食事は1日1回のコーリャンだけ。そこでソ連の言葉で「私は電気屋です。修理させてください。ご飯を食べさせてください」と言いながらソ連人が住む家を訪ね回り、台所の残飯をもらった。この時、意味も分からずに教えられるまま「カピタン」という単語を交えて呼び掛けていた。その意味が「大佐」と分かったのは、ほんの数年前のことだ。当時はまだ子どもで男だったし、襲われることはなかったが、街は荒れていた。警察は消えて、無法状態。路上で行き倒れた人も、ずっとほったらかしにされていた。大連の冬は寒かった。寮で直径3ミリの黒い鉄線をぐるぐる巻きにして即席の電気ストーブを作り、2枚の布団の端同士を縫い合わせて筒状にした中に友達と潜り込んでくっついて寝た。引き揚げ命令は突然だった。
‡1947(昭和22)年1月2日(木)、電気修理の手伝いで街に出ていたら呼び戻され、そのまま船に乗せられた。日露の日本海海戦でバルチック艦隊を見つけ「敵艦見ゆ」と電報を打った、あの信濃丸だ。復員輸送船に使われていた。長崎に着き、列車を乗り継いで隼人駅に着いたのは
1947(昭和22)年1月18日(土)。故郷の家族に連絡する手段もなく、誰にも伝えていなかった。鹿児島神宮近くの家に向かう途中で会った知人が知らせに行ってくれたのだろう。向こうから母親が走ってくるのが見えた。台所を飛び出してきたのか、手に包丁と野菜を持ったまま、あぜ道の真ん中で「こげなこっが…。たまがっせえ」と息を弾ませていた。後ろから姉たちも次々に現れた。 それから自動車修理工として働きながら、親機が電波を受信し有線で各家庭の子機に流す「親子ラジオ」の設置を隼人地域で始めた。23歳で結婚し、隼人駅前で電器店を開業。テレビが本格的に普及し始めると、面白いように売れた。戦後、大連に10回以上、足を運んだ。どんどん変わっていった。14歳から15歳の約1年半しか過ごしていないが、苦労しただけに終生忘れられない場所だ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/aed619fe05fabb5528cac17e2c570ea464d47238
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┃今日は何の日?┃
┗━━━━━━━┛※名称、肩書き、年齢などは当時のものですヨ(=^◇^=)
‡1997(平成九)年01月02日(木) 日本海でタンカーが沈没、大量の重油が流出 ⇒ 島根県沖の日本海でロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」が沈没、大量の重油が流出した。重油は日本海沿岸の10府県に漂着し、環境に重大な影響を及ぼした。
1997(平成九)年01月10日(金) 写真は福井県三国町で重油の回収をする人々=1月10日【時事通信社】
‡1959(昭和34)年01月02日(金) ソ連が月ロケット「ルーニク1号」の打ち上げに成功
‡1986(昭和61)年01月02日(木) ニューヨークとロンドンで1ドル=200円を突破
https://www.jiji.com/jc/daily?d=0102
2024(令和六)年01月01日(月) 正月の能登半島を震度7の地震が襲う ⇒ 午後4時10分、石川県能登地方を震源とする地震が発生し、同県輪島市と志賀町で最大震度7の揺れを観測した。石川県では約6000棟が全壊、約1万8000棟が半壊。輪島市の名物「輪島朝市」でも多くの建物が焼失した。震災に伴う人口流出は深刻で、地域社会の再建などが大きな課題になった。
‡2024(令和六)年01月02日(火) 写真は、火災が発生した輪島市の中心部【時事通信社】
https://www.jiji.com/jc/daily?d=0101
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2007(平成19)年01月02日(火) ロッキーズの松井稼頭央がロスの自主トレ地に出発
‡2018(平成30)年01月02日(火) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は1月2日だ。
写真◆成田空港から出発する松井
最初に断っておくが、週べ編集部は、基本的に年末年始は合併号となるため部員も休みとなる。あまり劇的な出来事もスクープもない。
このオフ、古巣西武に復帰した松井稼頭央が2007年1月2日、自主トレ地のロサンゼルスに向け出発した。
2004(平成16)年西武からFAでメッツに移籍した松井は、前年2006(平成18)年途中、ロッキーズに移籍となった。メジャー1年目の2004(平成16)年こそ114試合出場も以後出番を減らしていた松井は、2007(平成19)年から背番号を西武時代の7に戻し、巻き返しに燃えていた。
成田空港で記者会見した松井は「まず走ること、ここから始めたい。走攻守と打者には3つの仕事があるが、自分の仕事は走ること」と語った。
2004(平成16)年にメジャーに移籍してから3年連続初打席初本塁打も「もうこだわらない。セーフティーバントでもやるよ。ロッキーズでは一番を打ちたい、走りたい気持ちを出したいから」。実際、この年は久々に100試合以上(104試合)に出場し、メジャー最多の32盗塁をマークしている。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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2005(平成17)年12月15日(木) 魔術師、逝く。仰木彬氏死去
2017(平成29)年12月15日(金) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月15日だ。
写真◆05年、合併球団オリックス・バファローズの初代監督としてチームを4位に導いた
2005(平成17)年12月15日(木)、呼吸不全で前オリックス監督の仰木彬シニア・アドバイザーが死去した。近鉄、オリックスを指揮した名将。2005(平成17)年は70歳にして合併球団オリックス・バファローズを指揮したが、勇退後に体調が悪化し、ユニフォームを脱いでからわずか2カ月でその生涯を閉じた。今回は本誌
‡2006(平成18)年01月02日(月)号から仰木氏と親交が深かった当時の小社顧問・田村大五氏(故人)のコラムをそのまま紹介したい。
やや長いものになるが、ご勘弁を。
◎気は強いが、人には優しかった名将
「仰木彬」というと、私は“バカの一つ覚え”のようによくしゃべったり書いたりする若き日のエピソードをあらためて書き残しておきたいと思う。
1954(昭和29)年に投手として入団、すぐ二塁手転向を命じられたころの、当時の三原脩監督との“壮絶な戦い”だ。高校を出たての新しい二塁手に三原監督は“これでもか”という執拗なノックを浴びせ続けた。
捕れるか、捕れないかという“いやらしいノック”。エラーしたり、はじいたりした仰木・新二塁手は、ヘトヘトになりながら“いじわる執拗ノック”の球をやっとつかむと、なんと、三原監督の顔面めがけて全力で返球するようになる。明らかに自分の顔に向かってくる返球と分かっていて、だが、三原監督はそ知らぬふうにバットを顔の前に立ててコツンとその返球を受けた。“高校生”とプロ一流監督との息詰まる攻防。そこから“チャンピオン・西鉄ライオンズの仰木二塁手”が生まれた。
自分の顔面に向かって返球する二塁手を三原監督は愛し、その新鋭二塁手はのちに近鉄・三原監督に招かれ、コーチ→監督になって「三原監督のDNAを受け継いだ用兵」と言われた。監督になってからもことあるたびに、いや、この2005(平成17)年も上京すると東京・世田谷の三原監督の墓前にぬかずいていた。
「えらいもんだねえ」と会うたびに言うと、「だって、今のオオギを育ててくれたのはあの人だもの。お墓の前で手を合わせていると、気持ちが締まるんだ」とハニカミ笑いつつ、答えたものだ。
気は強いが、人には優しかった。背は高いほうではなかったが、いつも背筋をシャンと伸ばし歩く姿がカッコよかった。新婚時代、当時の福岡では初めての高層マンションに住み、近くの大濠公園を散歩している姿が絵になった。それでいて気取らなかった。ざっくばらんで、何でもあけすけにしゃべった。
◎仰木高等作戦その1
現役時代、スプリング・キャンプ前、自主トレーニングに中西太たちと別府の一軒家を借り、汗を流した。朝夕の食事は手作りで、あふれる湯の中でワイワイ騒いだ。前夜の酒で朝いつまでも私が寝ていると「早く起きんかい」と枕を蹴飛ばされた。「アキラちゃん」たちはもう朝のランニングを終えて汗びっしょりだった。文字通りの自主トレだった。
長いコーチ歴が「何よりの財産」になった。監督とどう接すればいいのか、体で覚えていった。二軍監督時代、“単身赴任”のマンションでご馳走になったことがあった。そのときも“手作り料理”だった。
監督になってからも“こんなに報道陣を大事にする監督がほかにいるだろうか”と思った。キャンプでは「飲み会」を設け、それぞれ勝手なことを言う声に笑って耳を傾け、時に記者たちの身の上話も聞いてやったりするから、各記者はそれぞれ、“自分が一番監督と親しい”と思っていたフシがある。「仰木高等作戦その1」だろう。
現役─コーチ─監督の中で、ただ1年、ユニフォームを脱いだ93年、高知のホテルで、ちょうどコラム「白球の視点」の読者と「車でキャンプ巡りをしよう」と落ち合ったところで“評論家・仰木”とバッタリ。そこで“仰木一行ツアー”となった。翌年、そのときに車を運転した青年が結婚することになり「祝電でも……」と頼んだ。「サチオオカレトイノル」式の定型電報でも……と思っていたら、野球になぞらえての長文の“仰木電報”で、青年一家は「家宝もの」と喜んだ。そのあたりの気の使い方も仰木式だった。
そういう報道陣やファンとの接し方を見て、それがグラウンドでの選手掌握、ベンチ采配にも通じるのではないかと思った。そういう人との接し方を、積極的に楽しんでいるふうもあった。野茂英雄のトルネード投法もイチローの振り子打法も、コーチに「触るな」と命じ、彼らの個性を自由に伸ばし見事に開花させたのも、自ら“積極的に楽しんだ”気配が見えるし、120通りとも125通りとも言われた“先発メンバー変え”も考えることを楽しんでいるようだった。
「ユニフォームを着てベンチで野球に接していることほど面白いことはないのに、何でみんな評論家になりたがるのかなあ」と言っていたことがあった。弱小戦力を与えられても、どれでどうやって戦うか考えることが楽しいんだ、とも。
「仰木彬に苦しいこと、悩みはないようだねえ」と言ったら、真顔で言われたことがある。「どうしてワシの下でプレーした選手ばっかりアメリカに行くんだろう。それが日本球界に申し訳なくってねえ」。そのくせ久しぶりにユニフォームを脱いだ02年、「イチローに会いに行く」と言ったときのうれしそうな顔といったらなかった。
2005(平成17)年の2月、宮古島キャンプでもまだホテル─球場の約10キロを歩いていると聞いたが「いや、もう半分で車に乗っている」と笑っていた。夜、久々に泡盛を酌み交わしたが、私のコップの中の液体より薄く、ピッチもかつてに比べれば遅くなっていたのが気になっていた。
「何とかプレーオフにもっていきたいなあ」
帰京する日、球団職員を通じてソッと「極上・限定品」の泡盛を手渡された。
「そのうちまた盛大に飲めるような体に戻しておくから」
それが20歳代から70歳まで続いた交友の最後の別れの伝言となった。
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180102-12
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171215-11
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.043 ┃ 30円
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1959(昭和34)年2月04日(水)号 特集 二年目の長嶋茂雄 ストーブ・リーグその後の主人公
2017(平成29)年12月9日(土) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎長嶋茂雄のオフの多忙な取材日程
写真◆表紙は南海・野村克也
今回は『1959年2月4日号』。創刊43号で定価30円だ。表紙は南海・野村克也のキャッチャーシーン。なかなか斬新だ。センターグラビアでは里帰りの密着もあった。センターカラーは青空バックで巨人・広岡達朗のゴルフ場での1シーンだ。
巻頭グラビアは残り少ない学生生活を楽しむ王貞治(早実─巨人)。そして本文巻頭が『2年目の長嶋茂雄』。オフの多忙な取材日程があったので抜粋する。
‡1959(昭和34)年01月02日(金) 浅草国際劇場に出演 2回目
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.449 ┃ 60円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1967(昭和42)年01月02日(月)号 西鉄・バーマのオンボロ車
2019(平成31)年04月25日(木) 13:01 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎東映ブラジル遠征で罵声
写真◆表紙は左から巨人・堀内恒夫
今回は『1967年1月2日号』。定価は60円だ。
この連載は1958年の創刊号からスタートだから10年目に突入。創刊第462号の紹介となる(プロ野球以外の増刊は紹介していないので、連載回数はこれより少ない)。
2019年プロ野球は初夏の決戦となっているが、この号はオフ、真っただ中だ。
自家用車を購入する人が増え始めた時代、プロ野球選手の車事情について特集があった。
高級車組では巨人・金田正一が、クライスラー・インペリアルに乗っていたが、これを少し安めのベンツのスポーツカーに買い替えた(金田は自分で運転せず、運転手を雇っていた)。
巨人では、ほかに長嶋茂雄はフォード・サンダーバード、王貞治はビュイック・スカイラーク、城之内邦雄がジャガー、柴田勲がフォード・ムスタング。外車ばかりだが、当時の国産車は小型車が主体だったこともある(もちろん、広島はマツダばかり)。
外国人選手は、いつ契約が切れるか分からないこともあってか、あまり車におカネをかけなかったようだ。
阪神のバッキーは特に倹約派(ケチ)だったようで、ずっと64年の日本シリーズの賞品でもらったバイクを乗り回していた。ナインから「阪神のエースなんだし、車の1台くらい」と勧められても、「僕はサラリーが安いので、車なんか」と言って顰蹙(ひんしゅく)を買っていた(本当はチームトップクラスの高給取り)。
しかし阪急のスペンサーがバイクで事故を起こしたこともあって、15万円の国産中古車を購入。ボディの塗り替え、シートカバーの張替はサービスでやらせたというから抜け目ない。
ただ、ドリス夫人は「狭いし、すぐエンストするから」と車の同乗を敬遠していたとか。
西鉄のバーマ(ジム・バーマ)はさらにすごい。56年型のトヨペット。これがまさにポンコツ車だった。スタートの際には毎度、バリバリッと轟音が響き、もくもくと煙が立ち上った。
このバーマが交通事故を起こした。急停止した前方車両への追突だったが、相手はプロ野球選手と知って高額の賠償をふっかけてきた。
バーマは、
「いきなり急停車したあなたが悪い。それにあなたの車は俺のオンボロ車に当てられてもびくともしなかったではないか。それに引き換え、俺のオンボロ車はこの事故で動かなくなるだろう。もうおしまいだ。俺は悲しい」
と一歩も譲らず、賠償金も払わなかったらしい。ちなみにオンボロ車は、その後も使っている。意外と丈夫だったか。
東映がブラジル遠征から帰国した話は前回書いたが、かなり寂しい遠征だったらしい。
メジャー選手も入ったチームやパナマのプロ球団相手に7勝8敗。勝敗はまだいいのだが、選手にまったくやる気が感じられなかったようだ。
初戦は在留邦人たちが集まり、3万人を超える大観衆だったが、最終戦は700人。
球場では「それでもプロ野球選手か」「日本人のツラ汚し」「日本に帰ってしまえ」など辛辣なヤジが飛び、毒島章一主将も「あのヤジはすごかった」とこぼしていた。
確かに選手に観光気分もあったようだが、慣れない暑さと、食事に黒山のようにハエがたかる中、かなりバテていたことも間違いない。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171209-10
②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190425-01
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┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
┃ プロ野球仰天伝説 No.010 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
ヘルメットなしの頭に当たっても痛がりもしなかった岩本義行
‡2018(平成30)年1月2日(火) 11:06 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
鉄でできていた頭?
優しさと美学にあふれていた岩本
ヘルメットなどなかった1940、50年代、死球がどこに当たってもまったく痛がらなかったのが、岩本義行だ。怪力を生かし、構えた位置から、ほぼ無反動で長打を量産する神主打法で知られた強打者だった。
ずんぐりした体ながら足も速く、38歳で迎えた松竹時代の50年にはトリプルスリーも達成している。52年には長く日本最多記録だった24死球の記録も作った。
小さいころから腕っぷしが強く、体が頑丈にできていたのは確かだが、頭部に来てもほとんどよけず、痛がりもしなかったのだからすごい。
「あんちゃん(岩本のあだな)の頭は鉄でできているんじゃないか。ボールのほうがへこむらしいぞ」という話がまことしやかに言われたほどだ。
ただ、実は違う。
「痛いに決まっているよ。時には息が詰まるようなこともあった。ただ、みんなの前でいかにも痛そうに倒れたり、変な格好をしたりするのがイヤじゃった。それに死球を受けた投手を恨みはせん。狙ったわけでもないだろうし、当たった自分がヘタなんじゃ。ワシのヘタさを棚に上げて痛がるわけにはいかんでしょ」
優しさと美学からの強がりだった。
●岩本義行(いわもと・よしゆき)
1912(明治45)年3月11日(月)生まれ。
広島県出身。広陵中から明大を経て社会人で活躍後、
1938(昭和13)年に南海入団も開幕前に応召し、
1940(昭和15)年に復帰。戦後は
1949(昭和24)年に大陽で球界復帰。
1950(昭和25)年にはトリプルスリーを達成し、松竹の優勝に貢献。
1952(昭和27)年大洋に移籍し、
1953(昭和28)年限りで引退も
1956(昭和31)年東映に監督兼任で復帰。
1957(昭和32)年で現役を引退し、監督専任に。
1981(昭和56)年野球殿堂入り。
2008(平成20)年9月26日(金)死去。通算成績856試合、859安打、123本塁打、487打点、140盗塁、打率.275
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http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180102-13
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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