過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる捕る打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


◆動画◆https://youtu.be/Et5XcQvS6jg
 2011(平成23)年 東日本大震災のMC~♪J.BOY♪=浜田省吾 
 
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①┃東日本大震災┃
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‡2011(平成23)年03月11日(金) 14時46分18秒 東北地方太平洋沖地震 発生
 2011(平成23)年03月12日(土) 写真◆津波によって浸水した宮城県仙台市宮城野区沿岸。津波火災も発生した。
 2011(平成23)年04月03日(日) 写真◆津波によって破壊された岩手県陸前高田市小友町
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②┃『僕と彼女と週末に』┃
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 2010(平成22)年10月06日(水) 
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③┃『The Best of Shogo Hamada vol.3 The Last Weekend』┃
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 2010(平成22)年10月06日(水) 
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④┃『ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"』┃
⑤┃『ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"』┃
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 2012(平成24)年09月19日(水)  
 ①https://ja.wikipedia.org/wiki/東日本大震災
 ②https://ja.wikipedia.org/wiki/僕と彼女と週末に_(映像作品)
 ③https://ja.wikipedia.org/wiki/The_Best_of_Shogo_Hamada_vol.3_The_Last_Weekend
 ④https://ja.wikipedia.org/wiki/ON_THE_ROAD_2011_%22The_Last_Weekend%22_(映像作品)
 ⑤https://ja.wikipedia.org/wiki/ON_THE_ROAD_2011_%22The_Last_Weekend%22_(アルバム)
 首都圏もチェルノブイリ並に汚染されている
 2011(平成23)年08月10日(水) 日刊ゲンダイ
 https://ameblo.jp/sunamerio/entry-11451913360.html
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 復興税の「不正流用」、中止のフリをして今も執行されている現実 
 2019(令和元)年09月10日(火) 16:00 
 2019(令和元)年09月13日(金)号 週刊ポスト
 写真◆SHOGAKUKAN Inc. 提供 陸前高田市では被災地最大の“台地建設”が行なわれているが…(写真:時事通信フォト) 
 東日本大震災の復旧・復興財源として創設された10兆円の「復興特別税」が、中央官庁が巨額の予算を被災地以外の事業に流用していたことが発覚して国民の大きな批判を浴びたのはまだ記憶に新しい。「流用したカネは国庫に返納させた」。時の政府はそう説明したが、実際は大半が戻っていなかった。どこに消えたのか──。
◎無人の土地を守る防潮堤
‡2011(平成23)年03月11日(金) 東日本大震災から8年半、復興は未だ道半ばだ。4000人近い犠牲者を出した宮城県石巻市の北部、雄勝地区は高さ約10mの津波に襲われて町が潰滅した。現在、住民は海から離れた安全な高台に集団移転し、そこからは巨大な防潮堤が一望できる。高台から防潮堤までの空き地に住宅はなく、真新しい道路の建設工事が急ピッチで進んでいた。
「誰もいない土地を守るためになぜあんな巨大な堤防が必要なのか、不思議でしょう?」高台に住む男性が語り始めた。
「私も疑問に思って説明会で県の農林水産部のお役人に聞いたんです。そしたら、あの堤防は津波から人を守るんじゃなくて『県道を守るためです』と答えました」本誌・週刊ポスト取材班は「復興道路」の三陸自動車道を北に向かい、やはり津波で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市に入った。ここでは被災地最大の“台地建設”が行なわれている。川向こうの愛宕山を切り崩して巨大なベルトコンベアで毎日トラック4000台分の土を運び、復興予算1600億円をかけて市の中心部を10m以上盛り土をして約300ヘクタール(東京ドーム64個分)の市街地を造成する区画整理事業だ。だが、現地ではメインの商業施設は開業したのに、肝心の宅地予定地はガラガラで空き地が目立つ。
「時間がかかりすぎた。待ちきれずに別の土地に引っ越した人も多いし、被災者住宅などに残った人たちは高齢化して、いまから借金をして家を建てる気にならない」(住民の1人)造成した宅地の66%で住宅建設希望者がいない。その造成につぎ込まれた復興予算は1戸あたり5000万円といわれる。その原資は復興税である。
「増税の口実になる」──大地震と大津波、原発事故という未曾有の危機に直面したあの時、当時の菅直人内閣の中枢にそう考えた者がいたことは間違いない。復興税の構想が浮上したのは震災発生のわずか2日後だった。菅首相は野党だった自民党の谷垣禎一総裁と会談して復興への協力を要請する。2人とも財務大臣経験者で増税論者として知られていた。党首会談後の会見で谷垣氏はこう述べた。
「復興財源を国債発行だけで賄うことができるのか。復興支援税制のようなことを考える必要があるかもしれない」自衛隊や消防、警察が懸命に被災者の救助にあたり、福島第一原発ではメルトダウンが進んでいたさなかに、国民の生命を預かる首相と野党第一党の党首がカネの話し合いをしていたのだ。菅首相はほどなく「震災に伴う負担を社会全体が分かち合う」と呼応し、そこから与野党一体で増税シナリオが進んでいく。菅首相から「東日本大震災復興構想会議」の議長に任命された五百旗頭眞・防衛大学校校長が「震災復興税を創設する」と提案すると、短期間の議論で政府は復興基本方針に復興税の創設を盛り込む。その年11月には復興増税法案が民主、自民、公明党の賛成多数で成立した。所得税と住民税にそれぞれ「復興特別税」を上乗せする形で、総額10兆5000億円の増税が決められた。負担額は年収500万円のサラリーマン世帯(4人家族)で年間約2600円、年収1000万円なら年間約1万5000円だ。どんな国の政府であろうと大災害が起きれば被災者の生活再建と復興に最優先で取り組むはずだ。震災を口実に「財源がない」と復興より増税を優先させたのは世界でもこの時の日本の政治家、官僚たちだけではないか。国民は口車に乗ったことで、後々まで苦しめられる。
◎役人の給料に計上
 増税が決まると、各省庁は被災地そっちのけで湯水のようにカネを使い始めた。「復興予算の流用」である。国民が増税の痛みに耐え、何十万人もの被災者が不自由な避難所生活を強いられているとき、役人は自分たちの“職場環境改善”や福利厚生に増税のカネを食いつぶしていった。文科省は復興予算389億円で被災地以外の国立大学の体育館、図書館などの施設を建設し、国交省は「道のないところに道路ができれば防災に役立つ」と100億円をかけて沖縄と北海道で国道を整備、農水省は「被災地の住宅再建のために木を植える」と九州に林道を引き、水産庁は「被災地の石巻はかつて捕鯨の町だった。商業捕鯨再開で活気づけたい」と南氷洋での調査捕鯨とシーシェパード対策に23億円をつぎ込んだ。それだけではない。官僚たちは「防災」名目で内閣府が入居する霞が関の中央合同庁舎4号館、荒川税務署などの改修費など役所の職場環境改善に何億、何十億の復興予算を計上、各省の人件費(給料)にも131億円が計上され、果ては福利厚生で利用するスポーツクラブの割引にまで復興増税を使い込んだ。そうした実態をジャーナリスト・福場ひとみ氏が本誌追及レポート(2012年8月10日号)でスクープすると、被災者や国民から怒りの声が巻き起こった。『国家のシロアリ 復興予算流用の真相』の著者でもある福場氏が指摘する。「官僚たちは最初から流用するつもりで復興特別税をつくった。当時は民主党政権で公共事業予算が減らされており、各省とも予算が欲しい。そのために政府の復興基本方針にあらかじめ『全国防災』という考え方を盛り込んで、復興予算を全国の公共事業に流用する口実を用意していたのです」流用問題は国会で問題化し、会計検査院も調査に乗り出す。次の野田佳彦内閣は「復興予算見直し」の方針を掲げて35事業の予算執行を停止した。各省が基金に貯め込んでいた復興予算流用分の1000億円も追加で返納させると発表した。国民は役人が流用したカネは国庫に戻ったと思い込まされた。
◎返納額は1割未満
 真相は違った。返納指示の一方、野田内閣は役所がすでに執行していた予算は「返納に及ばず」と不問にしていたからだ。当時、会計検査院は復興予算が使われた1401事業を調査し、そのうち326事業、総額1兆3000億円分を「被災地と関係ない」と認定していた。政府が執行停止したのはわずか35事業、しかも全額停止は8事業のみで一部停止を合わせても停止額は168億円。追加返納分を合計しても1168億円で、流用総額の1割にも満たない。会計検査院はこの326の流用事業が何かを具体的に明らかにしていない。では、1兆2000億円ものカネは何に消えたのか。予算が消化された事業を探れば行き当たる。前述の水産庁は捕鯨調査費を全額執行し、昔からの天下り財団として知られる日本鯨類研究所への赤字補填の補助金につぎ込んでいた。環境省は震災の瓦礫処理を引き受けなかったにもかかわらず、自治体のごみ処理施設建設に250億円の補助金を与え、公安調査庁は「被災地での過激派や外国スパイの活動監視」を名目に無線付きの公用車14台を復興予算で購入していた。合同庁舎や税務署の改修予算は一部執行停止されたものの、その後、別の予算で改修工事が行なわれ、役人の“職場環境”はしっかり改善した。増税は政治家も潤した。震災復興は2020年までの10年計画で総額23兆円をあてる予定だった。だが、安倍首相は政権に返り咲いた直後の2013年1月に復興計画を修正して「前半5年で25兆円」に予算を増額させる。そのタイミングで自民党は復興特需に沸くゼネコン業界に「4億7100万円」の献金を要請する文書を送った。効果は覿面だった。その年の建設業界の自民党へのゼネコン献金は倍増し、大手ゼネコン5社の自民党献金が2012年は1社約810万円だったが、2017年には1800万円へと倍増している。その間、復興予算はさらに膨れあがって8年目の今年度までに35兆円が投じられた。シロアリ官僚が全国にバラ撒いた復興予算がゼネコンを太らせ、自民党へと還流する増税のトリクルダウンである。
◎恒久的に徴収され続ける
 味をしめた政治家と官僚は復興も増税も決して終わらせるつもりはない。住民税の増税分(1000円上乗せ)は期間10年間で2023年までで廃止されることになっていた。ところが、自民党は今年の通常国会で法案を成立させ、国民が気づかないうちに2024年からは「森林環境税」(国税)と名前を変えて同額を恒久的に徴収することが決まった。正直に「復興増税を永遠に続ける」といえば国民は黙っていなかったはずだ。復興事業も止まらない。復興庁は10年の復興期間が終われば廃止される臨時官庁だが、自民党と公明党は政府に「存続」を提言し、「防災省」へと格上げすべきという意見もある。「臨時増税」を安易に認めてしまうと、いつまでも増税が終わらなくなるという苦い教訓を国民に残した。
  遺族「未解決です、どうか」危機感も
  史上最古、135億年前の銀河を観測
 https://www.msn.com/ja-jp/news/national/復興税の「不正流用」、中止のフリをして今も執行されている現実/ar-AAH4vAT?ocid=spartanntp#page=2

 動画◆【※2009年にされた話】地震 津波 サイクロンは「HAARP」による人為的なものだった…?! https://youtu.be/yJmDoaRWe8E
 らく らく  cat55jp  11:54 2019/01/23(wed)
 国連の公認技術です=米ソが競い合った地震兵器が1970年代に国際問題となり
 1976(昭和51)年12月10日(金)第30回の国連総会で「環境改変兵器:禁止条約」が多数決で採択された。
 ※禁止された兵器は人工的な地震/津波/台風の進路変更など。? 
【やりすぎ都市伝説】2009 夏
 主題:大災害には黒幕がいた
 語り:テレンス・リー
 ・東南アジアの某国に起きた地震と津波は人為的だった…?!
 ・1970年代に旧ソ連とアメリカで極秘に結ばれた条約があった?!
 ・アメリカ軍が持つ「HAARP(ハープ)」とは?
 ・地球を囲う電磁層とHAARP
 ・東南アジアの某国が津波の被害に遭ったのにはイラク戦争が原因だった…?!
 ・HAARPの持つ本当に怖い使い道
 ・地震、津波、サイクロン…天災はもはや天災ではなくなっている
 ・東日本大震災は2011年…。
 

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 ┃ 『週間ファイト』 ┃
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‡1967(昭和42)年03月11日(土) 創刊号 定価30円
 https://project24gallery.web.fc2.com/gallery_04_w_fight_1967-1968.html

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①┃ 東京ヒルトンホテル ┃
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 1958(昭和33)年07月21日(月) 東京ヒルトンホテル株式会社:設立
 1963(昭和38)年06月20日(木) 日本初の外資系ホテル開業
 1966(昭和41)年06月29日(水) ビートルズ宿泊一日目checkin
 1966(昭和41)年06月30日(木) ビートルズ宿泊二日目
 1966(昭和41)年07月01日(金) ビートルズ宿泊三日目
 1966(昭和41)年07月02日(土) ビートルズ宿泊四日目
 1966(昭和41)年07月03日(日) ビートルズ滞在五日目check out
 1967(昭和42)年04月22日(土) ホテルジャパン東急:改称
 1967(昭和42)年05月12日(金) 改称差し止め
 1983(昭和58)年12月31日(土) 契約期間満了により閉館
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②┃ キャピトル東急ホテル ┃
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 1984(昭和59)年01月01日(日) キャピトル東急ホテル:改称
 2006(平成18)年11月30日(木) 建替えのため営業休止
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③┃ ザ・キャピトルホテル 東急 ┃
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‡2008(平成20)年03月11日(火) 東急キャピトルタワー 着工
 2010(平成22)年07月31日(土) 東急キャピトルタワー 竣工
 2010(平成22)年10月22日(金) 東急キャピトルタワー内で開業
  東京都千代田区永田町二丁目10番3号
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④┃ 東京ヒルトンインターナショナル ┃
 ┃ ヒルトン東京 HILTON Tokyo   ┃
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 1984(昭和59)年09月01日(土) 日本初の完全外資によるシティホテル開業
  東京都新宿区西新宿6丁目6番2号
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/キャピトル東急ホテル
②https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒルトン東京
③https://ja.wikipedia.org/wiki/ザ・キャピトルホテル_東急
④https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒルトン東京
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 ┃ 凌雲閣 ┃
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 1890(明治23)年11月11日(火) 開館開所
 1923(大正12)年09月23日(日) 解体
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/凌雲閣
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 映画館では3階から客が墜落、73メートルの凌雲閣は倒壊――壊滅していく首都・東京
‡2020(令和二)年03月11日(水) 11:00配信 
 地震計の針は飛び散った。家屋崩壊、列車の転覆、地盤沈下――“関東大震災”が起こった日  から続く東日本大震災の90年近く前、日本は大地震に襲われている。
 1923(大正12)年09月01日(土)、午前11時58分、関東地方を襲った地震は東京・中央気象台の観測室におかれていた地震計の針が1本残らず飛び散り、すべての地震計を破壊させてしまう規模だった。建物の倒壊、直後に発生した大火災は東京・横浜を包囲し、おびただしい死者を出した。人々は混乱し、様々なデマが流れ――。20万の命を奪った大災害をノンフィクション作家・吉村昭氏が書いた『 関東大震災 』(文春文庫)より「東京の家屋崩壊」を再構成の上、一部抜粋して公開する。
 ◆◆◆
■東京・消防署勤務だった林錠太郎さんの回想 ⇒ 麹町区第一消防署勤務であった林錠太郎氏の回想によると、その日も若い署員が望楼に上って火災発生を監視していた。正午少し前、林氏が突然起った地震で署外に飛び出し望楼を見上げると、鉄骨作りの望楼が左右に激しく揺れている。倒れる恐れがあると思ったが、望楼は柔軟にしなうだけで折れる気配はなかった。
■瓦が落下し壁が落ち、街の色彩は急激に変化してゆく ⇒ 後になって署員に地震発生時の状況をきくと、署員は望楼の上に伏して振り落されまいと手すりにしがみつき眼下の市街を見つめていた。街々は、篩(ふるい)の上の豆粒のようにひしめきながら震動していた。地鳴りのようなすさまじい轟音がふき上って、激浪の逆巻く大海にもまれる小舟にしがみついているような心細さを感じたという。そのうちに街の色彩が急激に変化していった。瓦が落下し壁が落ちはじめたのだ。と同時に、茶色い土埃が一斉に立ちのぼり、震動しつづける街をおおいかくしていった。
■友人と浅草に遊びに行っていた14歳の少年が見た光景 ⇒ 小櫃政男という本所区柳島梅森町に住む14歳の少年がいた。かれは、柳島小学校卒業後、精工舎に入社し時計の組立てに従事していた。9月1日は、休日だった。前日は給与支給日であったので、かれは小学校時代の同級生であった潮田文吉と浅草へ遊びに行った。浅草はいつものように賑わいを見せていて、かれは白地の浴衣姿で映画街へ入った。時刻は、11時近くであった。洋画専門の日本館では、フート・ギブソン主演の西部劇を上映していた。かれは、潮田と、胸を躍らせて館内に入った。フート・ギブソンの演ずるカウボーイは二挺拳銃使いで、乗馬も巧みであった。政男は、弁士のせりふに耳を傾けながら画面に眼を据えていた。
【写真】この記事の写真を見る(3枚)
 ⇒ 次ページは:頭上から絶叫! 3階で映画を見ていた客が床に落下
■頭上から絶叫! 3階で映画を見ていた客が床に落下 ⇒ 館内に入って1時間ほどした頃、不意に体が持ち上げられ、そして左右に激しく傾いた。と同時に、頭上から絶叫に似た声が起って、1階の椅子席に黒いものがたたきつけられた。かれは、一瞬なにが起ったのかわからなかった。が、椅子席に落下したものが、3階で映画を見ていた客の体であることに気づいた。館内は、大混乱におちいった。客は総立ちになると、出口に殺到した。その間にも、3階から2人の客が叫び声をあげながら落下した。
■館外に出るも建物が倒れかかってくるような恐怖に ⇒ スクリーンでは、依然としてカウボーイが原野に馬を走らせている。地震でスクリーンが伸縮するらしく、画像はゆがみながら揺れていた。政男は、潮田と人にもまれながらようやく館外に出た。前の道は鮨屋横丁で、余りの激しい震動に立っていることができず鮨屋の軒先の柱にしがみついた。が、その柱も大きく左右に揺れて、今にも店の建物が倒れかかってくるような恐怖に襲われた。地面に手をついている者もいれば、よろけて倒れる者もいた。映画館の看板が随所で落下する音があたりにみちた。
■材木に挟まった男性は、眼球が飛び出し口から舌を垂らしていた ⇒ 震動がわずかに衰えた。かれは、柱から手をはなすと鮨屋横丁をぬけ出た。角に建っていた天ぷら屋が倒れ、1人の男が太い材木の下から顔だけを突き出していた。眼球が飛び出し、口から舌を垂らしていた。政男は、初めて眼にする死者の顔に恐怖を感じた。思考力は失われていた。大地震が起ったのだということは意識できたが、どのようにしたらよいのかはわからなかった。
■「瓢箪池へ逃げろ」⇒ 突然かれの耳に、「瓢箪池(ひょうたんいけ)へ逃げろ」という人の叫び声がきこえた。その声に、かれは池の方向に走り出した。路面は粘液のように揺れつづけていて、足もとが宙をふむように心許なかった。ただかれは、潮田と手をにぎり合っていることに救いを感じていた。瓢箪池近くに来た時、潮田の口から短い叫び声が起り、その眼が前方に注がれていた。
■高さは73メートルもあろうかという凌雲閣は傾き……倒壊 ⇒ 政男は、その視線の方向に眼を向けた。前方には東京初の高層建築物といわれた十二階(凌雲閣・りょううんかく)が立っている。高さは220尺(73メートル弱)で、10階までが総煉瓦造り、11階と12階が木造の八角形の塔状建物であった。館内には絵画室、音楽演奏室、休憩室等があり、11階と12階には見料一銭の望遠鏡が設置され、雲を凌ぐ高層建築物として東京名物になっていた。その凌雲閣の上部が傾いている。そして、中央からやや上方の部分が裂けると右方へ倒れていった。揺れつづける足元に新たな地響きが伝わって、建物の倒壊音が鼓膜をふるわせた。その光景に、かれの足は萎(な)え、全身に激しい痙攣が起った。凌雲閣が、倒壊したのである。
 ⇒ 次ページは:花屋敷の檻が破れたのか、動物を射殺するらしい銃撃音
■花屋敷の檻が破れたのか、動物を射殺するらしい銃撃音 ⇒ 政男たちが立ちすくんでいると、凌雲閣の飛び散った煉瓦に傷ついた者や土埃に包まれた者たちが逃げてくる。さらに花屋敷の檻も破れたのか、さまざまな鳥類が飛び交い、獣類を射殺するらしい銃撃音もきこえてきた。そのうちに、池の近くにあるキネマ倶楽部が傾いてきたので、政男は、他の人々とともに浅草観音の境内に逃げた。が、早くも花屋敷方面に起った火災の炎が近づいてきて、かれは母のいる家へ帰るため吾嬬橋を渡って本所区に足を踏み入れた。
■凌雲閣の頂上展望台にいた人々 ⇒ 凌雲閣は、東京の代表的な高層建築物であっただけにその倒壊は東京人の関心をひいた。その日、凌雲閣の頂上展望台附近には12名乃至13名の登閣者があったが、8階から折れたため地上にふり落されて即死し、ただその中の1名は途中福助足袋の大看板にひっかかって奇蹟的にも死をまぬがれた。堅牢と思われていた他の大建築物にも倒壊又は大破したものが多く、丸の内のビルディング街でも工事半ばのビルや土台の軟弱な建物がつぎつぎに倒れた。さらに丸の内郵船ビルの裏手に建築中であった内外ビルも後方に倒れ、工事作業中の労務者300余名が圧死した。また芝区三田四国町にあった日本電気会社工場は米国製の最新式設備をもった3階建て鉄筋コンクリート造りであったが、第一震でもろくも全壊した。当時工場内には約400名の社員・職工が勤務中で、出口近くにいた十数名の者をのぞく全員が瓦礫の下敷きになって死亡した。
■地割れが発生し、橋梁は落ち電柱は倒れ、水道管が破裂 ⇒ その他、市内各所に地割れが生じ、橋梁は落ち電柱は倒れ水道管は破裂して、隆起・沈下によって東京市とその周辺の大地は激しく波打った。下町の本所区は、家屋全壊493戸、半壊479戸という大被害を受けているが、当時小学生であった内馬場一郎氏の回想談を記してみる。
■内馬場一郎さんの回想談 ⇒「私の家は南二葉町にあって、本所被服廠跡(ひふくしょうあと)のすぐ前の横丁を入った所にありました。家業は金属加工業で、職人を10名ほどかかえておりました。その日(9月1日)は2学期がはじまる日で、始業式を終えて帰宅してから十軒ほどはなれた友達の家に遊びに行きました。ひととき遊んだ頃、友達の家の台所でまな板に庖丁を小刻みにあてる音がしてきました。母から他人様の家で遊ぶのもよいが食事時近くになったらすぐ帰ってこなければならぬと厳しく言い渡されておりましたので、友達の家を出ました。その時です。突然体がはね上ったと思った直後、地面が横に激しく揺れはじめました。立っているどころではなく、恐しさでしゃがんでしまいますと、傍の家の瓦が波のような音を立ててすべり落ち、壁も崩れてきます。そのうちに激しくきしみながら揺れていた眼前の家が、土煙りをあげて露地に倒れました。
 ⇒ 次ページは:「この樹木をはなしたら死ぬ!」
■「この樹木をはなしたら死ぬ!」⇒ 私は、這ってでも家へ行くつもりでしたが、倒れた家で露地がふさがり進むこともできません。今にも傍の家が倒れはせぬかという恐怖で、私は物につかまりながら被服廠跡前の大通りへ辛うじて出ました。路上にも、多くの家が倒れていました。道に並木がありましたので、私は樹木にしがみつきました。木も右に左に揺れていましたが、この樹木をはなしたら死ぬと思いました。どれほどたった頃かわかりませんが、私の肩をつかむ人がいます。振り向くと、それは梅原という父の雇っている若い見習い職人でした。梅原の言うには私の家もすでにつぶれてしまったということで、ひどく悲しい気持になりました。震動が少しゆるやかになったので、私は、梅原と被服廠跡の敷地へ入りました。空地の多い亀戸村へ逃げようかという話もありましたが、広い被服廠跡の方が安全だと思ったのです。その頃、町の中から火事が所々で起きはじめていました」警告されていた大火災の発生。意外な発火原因と、延焼をうながした最大の原因  へ続く
【関連記事】
【前の話を読む】地震計の針は飛び散った。家屋崩壊、列車の転覆、地盤沈下――“関東大震災”が起こった日
【続きを読む】警告されていた大火災の発生。意外な発火原因と、延焼をうながした最大の原因
 3月3日未明、黒々とそそり立った波が村落を襲った――死者911名を出した田老の津波
「津波太郎」と言われても離れることはできなかった――岩手・田老と津波の因縁
「腹破らんでくれ! 喉食って殺して!」本当にあった“ヒグマ食害事件”の地獄絵図
 https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200311-00036405-bunshun-life

『サザエさん』『ドラえもん』『ちびまる子ちゃん』『クレヨンしんちゃん』――最も高い家に住んでいるのは? 査定してみた (3/4)
‡2020(令和二)年03月11日(水) 08時00分 公開
 https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2003/11/news013_3.html
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 2011(平成23)年03月11日(金) 東日本大震災、死者・行方不明者1万8千人超 ⇒ 午後2時46分、三陸沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生。沿岸部は高さ10メートルを上回る津波に襲われた。死者・行方不明者は1万8千人を超え、津波で破壊された福島第1原発が炉心溶融(メルトダウン)を起こした。写真は地震の後で押し寄せた津波=岩手・陸前高田市広田町[西條広さん提供]【時事通信社】
 1924(大正13)年03月11日(火) 阪神甲子園球場で起工式 ※2020(令和二)年記事追加
 1970(昭和45)年03月11日(水) ジャンボジェット機、日本に初飛来
 1985(昭和60)年03月11日(月) ソ連の書記長にゴルバチョフ氏が就任 ※2020(令和二)年記事消滅
 https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2001(平成13)年03月11日(日) 怪物カブレラの日本第1号特大弾 
‡2018(平成30)年03月11日(日) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか紹介していく。今回は3月11日だ。 
 写真◆すさまじいスイングからホームランを量産した
 巨人の斎藤雅樹が「えーっ!」という顔をした。2001年3月11日、西武─巨人のオープン戦(東京ドーム)だった。1回表、斎藤が投げたストレートに西武の新外国人カブレラがバットを出すと、打球はセンターに。最初は大きなセンターフライかと思ったが、巨人のセンター・松井秀喜の頭上あたりでグンとひと伸び、バックスクリーン左に飛び込む130メートルの特大弾となった。 
 これが来日初本塁打。「四番? そうなると思うよ」とは試合後の西武・東尾修監督。メキシコ、台湾でもプレーし、ハングリー精神もある。筋肉隆々、腕っぷしの太さからも、見るからに「只者ではない」雰囲気があった。 
「だいぶ慣れてきた。タイミングがピタリと合ってきた」とカブレラ。シーズン開幕後もケタ外れの特大弾を打ちまくり、最終的には49本塁打をマークしている。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2008(平成20)年03月11日(火) 高卒2年目の坂本勇人がオープン戦で4安打の固め打ち
‡2019(平成31)年03月11日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は2008年3月11日だ。 
 写真◆2008年3月11日の阪神戦(スカイマーク)に「七番・遊撃」でスタメン出場した巨人の坂本は4打数4安打をマーク
 この日、スカイマークで行われた阪神対巨人のオープン戦に「七番・遊撃」でスタメン出場した巨人の高卒2年目、坂本勇人が4打数4安打の見事な固め打ちを見せた。 
 その内容がいい、というよりすごかった。1本目は福原忍から左翼フェンス直撃の二塁打。2本目も福原から左前打。内角の141キロ、140キロを苦もなく打ち返した。 
 とにかくパワフルだ。3本目は渡辺亮からで、エンドランのサインを空振りするミスを犯した直後の中前打。4本目は金村大裕から左中間二塁打。3本まではいっても4本目はなかなか出ないものだが、坂本はあっさり打ってしまった。 
「1本目はちょっと詰まったけど、一発で仕留められた。結果を気にせず思い切っていこう、これだけでした」と坂本は言った。 
 勢いは止まらない。4日後、15日の西武戦(西武ドーム)の2回表には石井一久から左中間にオープン戦第1号本塁打。内角に食い込む135キロのカットボールを詰まりながらもスタンドまで持っていった。 
 実はこの一発が巨人のオープン戦初本塁打でもあった。ただ、坂本は「まだ初球見逃しが多い。もっと積極的にいかないといけません」と浮かれた様子はなかった。
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.048 ┃  40円
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‡1959(昭和34)年03月11日(水)増大号 プロ野球全選手写真名鑑
 2017(平成29)年12月14日(木) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎本文巻頭は『特集 笑う不敵なルーキー~王・板東・北川・張本・村山の20日間』
 写真◆表紙は阪神・吉田義男
 今回は『1959年3月11日増大号』。創刊48号で特別定価40円だ(特価表記はないが)。表紙は阪神・吉田義男で、センターカラーはなし。 
 ならば、なぜ特価かと言えば、これが週刊では初の『全選手写真名鑑』だからだ。ただし当時は「月刊ベースボールマガジン」も並行して発行しており、そちらにはかなり詳しい名鑑がついていた。逆に週刊では1球団見開きでややあっさりした作り。「2誌を共存させるため、名鑑は月刊のウリとして残したい」という判断があったのかもしれない。 
 この号は新人がかなり手厚く扱われている。巻頭グラビアのラストは『虎の子“ザトベック”』の見出しで関大から阪神入りした村山実投手が登場。いつも苦しそうな顔をして投げることからついた「ザトペック投法」(海外の長距離走者からきている)は大学時代からの異名だったようだ。 
 本文巻頭は『特集 笑う不敵なルーキー~王・板東・北川・張本・村山の20日間』。まず巨人の新人・王貞治が登場する。甲子園優勝左腕も、いまだ投手か野手かが決定していなかった。ただ、徐々に野手で固まっていたようだ、 
 水原円裕監督は「いまはいえない。投手陣が手薄と見たら、王も投手の一人としてやってもらわなくてはならない。投手が整備して大丈夫と見たら、もちろん文句なしに打者」と語り、守備位置としては「外野より一塁がいい」と言っている。 
 さらに王本人も「やはりバッティングを伸ばしたほうがいいと思う。実際のところ僕自身、投手としてはあまり自信がないんです。スピードもあるほうじゃないし、力が入りませんね」と、ほぼ気持ちは打者のようだ。投手と野手掛け持ちの練習が、かなりきついからかもしれない。 
 背番号30をもらった中日・板東英二の評判もいい。重く、制球のよいストレートは外角にいくとナチュラルにスライドし、首脳陣は高卒ながら1年目からの活躍を期待していた。 
 村山には、その負けん気の強さを感じさせる逸話もあった。関係者にフォームの欠点を指摘された際、普通の新人なら仮に不本意でも「はい」ですますのだろうが、村山は違った。 
「まだ、このとおりの寒さで、思うようにヒジを使って投げられないんです。いま大学時代に悪くしたところを、またぶり返したのでは元も子もありませんしね。だからスピードも五分程度ですし、ぼく自身、いま満足できるピッチングはできないんですよ」 
 そうきっぱり言い切った。 
 もう1つ。いまさらだが、オフの『賞金10万円大懸賞~ホームラン・クイズ』は、野球の予想ではなく、クロスワードパズルになっている。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.258 ┃  40円
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‡1963(昭和38)年3月11日(月)号 阪神のちょっと臭い? 話
 2018(平成30)年7月13日(金) 9:07 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎ゴジラ対キングコング?
 写真◆表紙は左から阪神・村山実、吉田義男
 今回は『1963年3月11日号』。定価は40円だ。 
 キャンプ終盤の時期で、ちらほらオープン戦が始まっている。大ネタがなかったので、今回は(今回も?)たわいもない話をいくつか……。 
 まずは国鉄キャンプの雑感から。 
 湯之元の国鉄キャンプの名物は、「ゴジラ対キングコング」、いや「金田正一とノッカー林田章三」の対決だった。 
 投手ながら金田は、練習最後に毎日志願して個人ノックを受けていたのが、とにかくタフ。いつもノッカーのほうが「もう勘弁してくれ」と音を上げてしまう。 
 そこで登場するのが怪力で知られ、疲れ知らずと言われる林田コーチだ。選手時代は打撃練習で1日何百球打っても平気な顔。コーチになってからは、選手たちが逃げ回るほど延々激しいノックを続ける。 
 いわば「ノッカー殺し対殺人ノッカー」である。 
 ともに「そらいくぞ」「さあこい」とにぎやか。これを楽しみに来る、お客さんもいたらしい。 
 南海・鶴岡一人監督は、佐々木信也の対談連載に登場。一番楽しみな選手として、新人左腕の村上雅則を挙げた。 
「体もいいし、球質もいい。オープン戦にほおらしても面白いと思います。いまはカーブを投げるときがはっきり分かるんですよ。いまはそれを直しています」 
 アメリカ・フロリダ州タイガー・タウンでキャンプを張る阪神では、村山実の評判がよく、社交辞令もあってだが、デトロイト・タイガースの関係者が「契約金10万ドル(3600万円)の価値はある」と言っていたようだ。 
 そうそう、ちょっと臭い話も届いていた。  
 牛乳嫌いだった藤本定義監督が、青田昇コーチに「オヤジさん、こっちのミルクはほんまうまいわ。飲まんで帰ったら日本で笑われますよ」とあおられ、つい飲んでしまって下痢になったらしい。 
 また、昔は多かったようだが、球場のロッカールームのトイレが完全オープンでついたてもなく、阪神の選手はみなバスタオルで隠しながら使っていたという。 
 では、またあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.513 ┃  60円
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‡1968(昭和43)年03月11日(月)号 二出川延明はなぜ審判になったのか?
 2019(令和元)年07月25日(木) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎近鉄・三原監督の優勝宣言
 写真◆表紙は巨人・王貞治
 今回は『1968年3月11日号』。定価は60円。 
 1968年春季キャンプで、近鉄・三原脩新監督があらためて優勝宣言をした(就任時にもしていた)。 
 根拠は、 
「ことしのパ・リーグは混戦でしょうね。ずばり言って優勝ラインは5割台。これならうちもチャンスがある。昨年優勝の阪急は75勝、近鉄が59勝ですが、そのうち1点差で負けた試合が17試合ある。1点差で負けた試合を今年はうちがいただく。野球は相手のミスを利用するゲームです。その相手を計算すれば昨年より16勝増えることは造作もありません。75勝はうちも可能です」 
 選手には、おだて作戦のようだ。若き左腕エース・鈴木啓示について、 
「十数年ぶりに素晴らしいピッチャーを見ました」 
 三塁に挑戦中の飯田幸夫には、 
「飯田という選手は、私が西鉄で豊田(泰光)を見たときを思い出しました。豊田そっくりの型の選手ですね」 
 豊田は、1年目からレギュラーに抜擢し、大活躍した選手だ。いずれも直接ではなく、報道陣に言って本人に聞かせるノムさん戦法だった。 
 名将の言葉に、2人とも大張り切りの様子である。 
 大和球士の連載「プロ野球名人伝」で、俺がルールブックだ、の審判、二出川延明が登場した。 
 この人は1935年の巨人の第1回アメリカ遠征に主将として参加したが、帰国後、二出川の明大の先輩だった岡田源三郎が監督となった金鯱に誘われ、江口行男とともにトレードとなった。 
 これが日本球界のトレード第1号と言われる。 
 その後、公式戦には出場せず、審判員になったのは知っていたが、ここに書かれていた経過は初耳だった。 
 事件は名古屋の夜、後輩を引き連れて飲んでいたキャバレーで起こった。 
 若いときの二出川は、いわゆる役者顔で女性にもてたという。この店でも、ホステスたちがキャーキャーと騒ぎ立てたが、それにほかの客がやきもち。ヤクザ風の男たちに絡まれた。 
 ただ、脅されて大人しくなるタイプではない。腕にも自信のあり、いつの間にか殴り合いのケンカに。二出川が優勢に戦っていたらしいが、いつの間にか、両手に手錠がガチャリとかかった。騒ぎを聞いてやってきた警官を知らずに殴ってしまったのだ。 
 事件は球団の母体・名古屋新聞が手を回し、もみ消してくれたらしいが、選手としての契約は、となって、依願退職となったという。 
 まあ、昔話の武勇伝はたいてい盛ってあるが。 
 その後、7月から審判となった二出川。有名な「私がルールブックだ」は、素晴らしい逸話だと思うが、アウトと宣告したプレーが翌日の新聞に写真入りで載り、それがどう見てもセーフだとたたかれたときの言葉がすごい。 
「写真が間違っています」 
 では、またあした。<次回に続く>
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.010 ┃ ONLINE
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 ヘルメットなしの頭に当たっても痛がりもしなかった岩本義行
 2018(平成30)年1月2日(火) 11:06 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 鉄でできていた頭?
 優しさと美学にあふれていた岩本
 ヘルメットなどなかった1940、50年代、死球がどこに当たってもまったく痛がらなかったのが、岩本義行だ。怪力を生かし、構えた位置から、ほぼ無反動で長打を量産する神主打法で知られた強打者だった。 
 ずんぐりした体ながら足も速く、38歳で迎えた松竹時代の50年にはトリプルスリーも達成している。52年には長く日本最多記録だった24死球の記録も作った。 
 小さいころから腕っぷしが強く、体が頑丈にできていたのは確かだが、頭部に来てもほとんどよけず、痛がりもしなかったのだからすごい。 
「あんちゃん(岩本のあだな)の頭は鉄でできているんじゃないか。ボールのほうがへこむらしいぞ」という話がまことしやかに言われたほどだ。 
 ただ、実は違う。 
「痛いに決まっているよ。時には息が詰まるようなこともあった。ただ、みんなの前でいかにも痛そうに倒れたり、変な格好をしたりするのがイヤじゃった。それに死球を受けた投手を恨みはせん。狙ったわけでもないだろうし、当たった自分がヘタなんじゃ。ワシのヘタさを棚に上げて痛がるわけにはいかんでしょ」 
 優しさと美学からの強がりだった。 
●岩本義行(いわもと・よしゆき) 
‡1912(明治45)年3月11日(月)生まれ。
 広島県出身。広陵中から明大を経て社会人で活躍後、
 1938(昭和13)年に南海入団も開幕前に応召し、
 1940(昭和15)年に復帰。戦後は
 1949(昭和24)年に大陽で球界復帰。
 1950(昭和25)年にはトリプルスリーを達成し、松竹の優勝に貢献。
 1952(昭和27)年大洋に移籍し、
 1953(昭和28)年限りで引退も
 1956(昭和31)年東映に監督兼任で復帰。
 1957(昭和32)年で現役を引退し、監督専任に。
 1981(昭和56)年野球殿堂入り。
 2008(平成20)年9月26日(金)死去。通算成績856試合、859安打、123本塁打、487打点、140盗塁、打率.275
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②┃ プロ野球仰天伝説 No.078 ┃ ONLINE
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   【助っ人トンデモ話 No.29】
 パフォーマンスで人気を博した踊るホームラン王
‡2018(平成30)年3月11日(日) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 ウインタース[1990-94日本ハム/外野手]
 日本ハム・ウインタース
 陽気な外国人選手は多いが1990年、日本ハムに入団したマット・ウインタースはレベルがかな~り上だ。チアガールに交じり、変装のうえ、詰め物でダイナマイトボディになったり、ほかの外国人選手のモノマネをしたりするのは、当時の野球ファンならおなじみの姿。雨天中断中にはファンの前で手品を見せたこともあった。 
 しかもウインタースの場合、ファンの前だけではなく、いつも水鉄砲やオスカーと名付けたヘビのおもちゃを持ち歩き、記者たちにも隙あらばいたずらを仕掛けていた。 
 当時に関してウインタースは次のように語っている。 
「いろいろパフォーマンスをやった中で、一番気に入っているのはダイエーのチアリーダーと一緒に踊ったこと。きっかけは近藤(貞雄)さん。雨で中断した試合でベンチに座っていると『行ってこい!』と言われたんだ。初めは恥ずかしいから嫌だったけど、やってみたらファンも喜んでくれた。野球はゲームだから、楽しむもの。街でファンに声をかけられたときも、『あのダンスパフォーマンスのウインタースさんだよね?』と言われたよ」 
 当然、パフォーマンスだけでなく、実力もあった。90年から4年連続30本塁打以上を放った豪快なスラッガー。ただ、タイトルには手が届かなかった。 
「『踊るホームランキング』と呼ばれていたみたいだけど、実際にはキングになれなかった。いつもデストラーデ(西武)やブライアント(近鉄)が立ちはだかった。大嫌い! ウソだよ、彼らは仲のいい友人だ。ファンも僕らのホームラン王争いを楽しんでくれたんじゃないかな」 
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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 編集部員コラム「Every Day BASEBALL」センバツ中止決定。1週間前に結論を出す選択肢もあったのでは
 2020(令和二)年03月12日(木) 11:59 文=岡本朋祐 写真=早浪章弘
 写真◆3月19日(木)に開幕する予定だったセンバツ高校野球大会は中止。高校球児にとって、甲子園でプレーできない無念は計り知れない
 結論は1週間の先延ばし――。この時間をどうとらえるのか、非常に難しい問題だ。 
 2020(令和二)年03月19日(木)の開幕へ向けて準備が進められていたセンバツ高校野球大会の中止決定である。
 2020(令和二)年03月04日(水)、日本高野連の臨時理事会では結論を出さず、
‡2020(令和二)年03月11日(水)の臨時運営委員会で最終協議された上での「中止」だ。大会運営サイドとしては、何とか出場32校に甲子園の土を踏んでほしいと、開催(無観客試合)に向けて「努力」を続けた1週間。現場サイドは開催を信じて、限られた環境下で「努力」を続けた1週間だった。双方とも「無念」という共通点はあるが、果たして、ショックが大きいのはどちらだろう。明らかに後者だ。この1週間、32校の球児たちは、あこがれの甲子園でプレーできることを信じてきた。全国的に感染が拡大している新型コロナウイルス。主催者側はさまざまな対策を講じてきたが、結果的に選手の健康を最優先するため、中止の結論に至った。1週間の情勢を見れば仕方ない「苦渋の決断」だが、現場の気持ちを考えるとやはり心が痛む。 
 2014(平成26)年のセンバツで優勝へ導いた龍谷大平安高・原田英彦監督(昨秋は京都大会準々決勝敗退)は
 2020(令和二)年03月04日(水)時点で、この「先延ばし」が教育上、厳しい展開になると予告していた。「この1週間を経て中止の判断となった場合、仮に私が出場校の監督ならば、どのように説明すればいいのか、言葉が見つかりません」出場校の「思い」を代弁したが、まさしく、そのとおりである。夏の甲子園は各都道府県大会を勝ち上がった代表校が出場する「選手権大会」に対し、春のセンバツ甲子園は大会主催者が選出する「招待大会」。選ばれた32校は、何とか開催へ向けて尽力した1週間の「準備」に感謝している。立場上、それ以上は口にできない。涙を見せている球児もいた。当然である。野球において「たら・れば」は禁物であることを承知の上で……。この結論が少しでも予測できたのだとすれば、4日の時点で中止にする選択肢もあったと思う。現場に期待を持たせたこの1週間により、心の傷はさらに深まった可能性は少なからずある。とはいえ、どうにかして、3月19日の開幕を迎えたいと、ギリギリまで予防対策に取り組んできた大会運営サイドの取り組みも十分、理解できる。一生に1度のチャンスだったかもしれない甲子園――。どこにもぶつけられない、当事者にしか分からない悔しさである。言うまでもなく、出場校の指導者は生徒に対して「細心のケア」という大変な仕事と直面する。簡単に「夏に向けて頑張ろう!!」とは言えない。ここは、時間をかけていい。次の目標に向かって最善の形で、一歩を踏み出してほしい。 
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