株式会社 広島タクシーは、故小野正夫前社長が昭和22年創業以来、現在に至る事ができました。これもひとえに皆様方のご支援の賜と感謝申し上げます。三滝山の交通安全地蔵尊は、交通事故によりなくなられた方々や車にぶつかって死んだ小さな虫にいたるまですべての霊を供養する為、
1960(昭和35)年10月10日(月)に建立されました。広タクグループでは、春秋2回のお彼岸に法要を営んでおります。三滝山へおいでの節は、交通安全地蔵尊にお参りいただければ幸いに存じます。株式会社 広島タクシー 代表取締役社長 小野 正博
https://www.hiroshimataxi.co.jp/company.html
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老舗「広島タクシー」 コロナ下、今秋までに自主廃業へ
‡2021(令和三)年05月28日(金) 7:30配信 朝日新聞デジタル
写真◆緊急事態宣言が出た後の広島市の繁華街。深夜になると人通りは少なく、タクシーだけが道ばたに列をなしていた
広島県の老舗タクシー会社「広島タクシー」(広島市)が今秋までに営業を終え、自主廃業する検討に入った。業界の構造不況に加え、収束の見えないコロナ禍が重しとなった。資金繰りがつくうちに従業員への協力金を払い、雇用への影響も極力抑える考えだ。取引先の一部にはすでにこうした方針を伝え、従業員組合との協議も大詰めを迎えている。タクシー業界は乗務員不足による売り上げ減少に加え、コロナ禍で客足が急減。赤字に陥る企業が続出している。同社も売り上げが回復しないまま、乗務員の高齢化も進んだ。事業存続をめざして昨年から、首都圏など複数の同業大手と経営譲渡などを交渉してきたが、まとまらなかった。同社のオーナーである社長の体調不安なども重なったという。同社幹部によると、検討を始めたのは4月初め。社長ら一部役員の間で、年度末に向けて財務処理を終えられるよう10月下旬までに営業を終え、自主廃業する方針で一致した。資金のある現段階で「従業員の再就職支援や金融機関への融資返済を着実に進めたい」(役員)とし、廃業時期を早めに決めることに。4月に従業員組合に申し入れ、今月下旬まで協議を重ねた。従業員に退職金に代わる協力金を支払う方向だ。同社は1950年設立。約200台を保有する大手で、広島市内を中心に法人・個人客を対象に無線配車の事業を展開している。(松田史朗)
【写真】高卒、留学経験なし。30歳で英語の勉強を始め、4年で「ペラペラ」と言われるようになったタクシー運転手
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https://news.yahoo.co.jp/articles/0e2b5b7e356dc2c179d527147b725735de71ac98
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┃ ピサの斜塔 Torre di Pisa ┃
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1173(承安三)年08月09日(木) 第1工期には鉛直
1990(平成二)年01月07日(日) 安全上の問題により公開を休止し、傾斜角を是正するために改修工事が行われた。当初は沈み込んだ側と反対の北側におもりを載せることでバランスをとろうとしたが、根本的な解決には至らなかった。その後、改修工法には世界各国の建設会社から様々な提案がなされたが、最終的に、北側の地盤を掘削するという工法が採られた。他にも、薬液を注入して地盤改良を行うなどの案もあったが、透水性の低い粘土層への注入は難しく、強引に注入すれば攪乱が起こり前述の鋭敏比の問題は避けられなかった。そして2001年6月16日、10年間にわたる作業が終了し公開は再開された。
‡2008(平成20)年05月28日(水) 監視担当のエンジニアで地質学者でもあるミケレ・ジャミオルコウスキ教授により、少なくともあと300年は倒れる危険がないとの見解が示されている
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%B5%E3%81%AE%E6%96%9C%E5%A1%94
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①┃ 浜井信三 ┃
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‡1905(明治38)年05月28日(日) 生誕
1945(昭和20)年08月06日(月) 広島市大河町の自宅で被爆 当時の役職:配給課長
1947(昭和22)年08月06日(水) 第1回広島平和祭と慰霊祭にて平和宣言を発表
1958(昭和33)年07月29日(火) 広島市民球場 オールスター第2戦試合開始前 ヘリコプター・グラウンド着陸登場 始球式
1968(昭和43)年02月26日(月) 広島平和記念資料館の講堂 第4回広島地方同盟定期大会に出席
1968(昭和43)年02月26日(月) 逝去
1968(昭和43)年03月08日(金) 山田節男市長らが発起人 市民葬
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②┃ 広島平和記念都市建設法 ┃
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1949(昭和24)年07月07日(木) 日本国憲法第95条による初の住民投票において過半数賛成獲得
1949(昭和24)年08月06日(土) 公布・施行
1949(昭和24)年08月06日(土) 広島平和記念都市建設記念切手 発行
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E4%BA%95%E4%BF%A1%E4%B8%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E5%92%8C%E8%A8%98%E5%BF%B5%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E6%B3%95
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「原爆市長」が語るヒロシマ 映像と音声を復元【前編】
2020(令和二)年08月04日(火) 午後6:30 テレビ新広島
戦後・広島の復興に尽力し「原爆市長」の名でも知られる元広島市長・浜井信三さん。被爆75年を迎える今年、浜井市長のプライベート映像と大学の講演で被爆の実相を語ったとみられる肉声が新たに見つかりました。映像は1958年、そして音声は1967年代のものとみられています、音声には75年前の8月6日に見た出来事、そして平和への思いが残されていました自宅の庭でゴルフのスイングをする一人の男性。この映像では、顔はよく見えません。しかし別の映像でその人物をはっきりと確認することができます。右から2番目のスーツを着た人物。戦後の復興に尽力し「原爆市長」の愛称で知られる浜井信三(しんそう)さんです。慰霊碑前で撮影したこちらの写真。映像と同じ日に撮影されたものとみられます。浜井さんは1945年8月当時、広島市の職員で、食料を提供する「配給課長」でした。被爆の実相を語る肉声は8月5日の広島の様子から始まります。
【音声:元広島市長・浜井信三】
1945(昭和20)年08月05日(日)「8月5日、これは非常に我々としては不気味な日だったんですけれども、向こうさんの飛行機がビラを撒いたということでございました。そのビラの中に8月5日に大きな土産を広島へ持って行くから楽しみにして待っておれというビラをまいたという噂が一週間くらい前からたっておったわけです」「8月5日というのは危ないぞと、気をつけなきゃいけないぞという気持ちを我々は持っておったわけです」
「ところが夜の9時ごろになりまして、空襲警報が発令されました。「そら来た」といって私どもは身支度をしまして防空本部へつめました。しばらくしたら空襲警報が解除になりました」その後、午前0時に再び、空襲警報がなり、浜井さんは市の防空本部へ向かいます。そして午前2時、空襲警報が解除されました。
「(自宅と防空本部を)行ったり来たりするのは面倒ですから、遠いところ」「ひとつ役所で寝てやろうと思って、役所のソファーへころんどったんですけれども、蚊が多くてとても寝られない」朝まで眠れないと感じた浜井さんは市役所にほど近い、広島市中区榎町の親族の家で寝ようと考えますが、夜中に起こすのは申し訳ないと思いなおし自宅へ戻ります
「8時頃に兄嫁が干し物を干していたら、それが庭で大きな声でBさんが何かを落としたよと大きな声で言っているんです、飛び起きて、洋服へ手をかけようと思った瞬間でした、ピカッと目がくらむような閃光、伏せると同時にドッと爆風のようなものがやって参りまして、家を木っ端みじんに壊した」原爆投下後、浜井さんはすぐに市役所へ向かいます
「比治山橋の近所までやってまいりますと、むこうから雪崩をうつように、色んな人が逃げてきている、私と反対方向へどんどん逃げていく、みんな血相を変えているし、頭から血を浴びて真っ赤になっている人がたくさん、そして私を見ると、「あちらのほうには火はないか」「お医者さんはないか」ということを聞いてくる、火もない、お医者さんもどこへ行けと教えてやろう思う答えも待たないでまたどんどん走り去っていく、何かに追われているような格好で走り去っていく」
「よく見ると、みんな幽霊みたいな格好をしてですね、何かボロを持って逃げている、何を持って逃げているんだろうなと思って見ましたら、ボロじゃないんです、やけどをしてですね、皮が手の先へ垂れ下がって、そのままでどんどんどんこうして逃げてくる、その人たちに聞いてみると、全部「私の家に直撃弾が落ちました」とこう言っている、誰に聞いてもみんなそう言ってる」広島市佐伯区。浜井さんの妻・文子(ふみこ)さんの自宅から音声と映像が見つかりました。
【長男・浜井順三さん】「実は昨年、母が亡くなりましてね、70年前のおやじのこういう資料がですね、出てきたんですよ」
2019(令和元)年07月 去年7月、浜井さんの妻・文子(ふみこ)さんが105歳で亡くなり、今年、家族が遺品整理をしていたところ見慣れない箱を発見。中から白黒とカラーの映像フィルムと、音声テープが発見されました。
1958(昭和33)年09月 1958年に完成した原爆の子の像が写っていること。そして、撮影した親族の日記に、この年の9月に「浜井家と一緒に平和公園を訪れて撮影した」と書かれていたことなどから、白黒とカラーの映像は1958年。そして浜井さんの声は市長を引退した1967年5月以降、大学の講演で被爆の実相を語ったものとみられます。順三さんの許可を得てフィルムとテープを預かり、TSSのスタジオなどで復元しました。
証言の中では落とされた爆弾が新型の原子爆弾であると知った経緯についても触れています。
「2、3日後に私、新聞記者に聞きました、これが原子爆弾なんだと、どうしてそれを知ったのかと新聞記者に聞いてみましたら、新聞社では、当時は禁止されておったんですけれども、地下室に短波放送をキャッチする受信機を備えていた、それでトルーマン大統領が広島へ原子爆弾を落としたという放送をしたと、それをつかんだんだと、こういうことでございます、原子爆弾というものを初めて私たちは知ったわけです」その2年後の1947年、広島市長に初当選。そしてその年の8月6日、平和記念式典の始まりとなった第一回平和祭を開催します。この平和祭を開催した理由についても語っています。
「それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う」
https://www.fnn.jp/articles/-/70295
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「原爆市長」が語るヒロシマ 映像と音声を復元【後編】
2020(令和二)年08月04日(火) 午後6:30 テレビ新広島
半世紀の時を超え、被爆75年の今年新たに見つかった「原爆市長」の映像や肉声。毎年8月6日に開催される平和記念式典の元となった1947年に開催した平和祭について次のように述べています。
【声:元広島市長・浜井信三】「昭和22年頃になりましてようやく市民が、当時、虚脱状態、ふぬけのようになって何をしらいいのか分からないような状態で、市民は過ごして来たんですけども、ようやくそういった虚脱状態から市民が目覚め始めた時に平和祭をやろうよ、平和式典をやろうと。そうして私たちの体験を全世界の人に伝えて、そして二度とこういったことが起きないように、私たちは努力しなきゃいかんじゃないかというような声がですね、市民の中から湧きあがって来ました」「こういうことはじっくりと準備してかからないと、かえって世界の物笑いになることもあるから、もう少し落ち着いて考えていこうじゃないかと、小賢しくも私どもはそういう主張をしたんですけれども、市民の方はそれを許さない、とにかく、いけなければやりながら直していけばいいんだと、とにかくやろうということで、第一回の平和式典を昭和22年の8月6日にやったわけです、それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う、どうしても我々の使命だと、そうすることは生き残った我々の使命なんだというふうなことで、市民意志が結集されたのがこの平和祭だったんです」
2020(令和二)年07月下旬、現像した映像を浜井さんの長男・順三さんに見てもらいました
【長男・浜井順三さん】「一番左が僕だと思います」
Q:いくつくらいの時?「おそらく大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね」~
「妹だと思います、それから母親、父親、ほれからこれも妹だと思います」「昭和30年代くらいじゃないでしょうか、大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね」その後、私たちは順三さんと平和記念式典を間近に控えた平和公園を訪れました。「このあたりが動画で見たあたりですね」
【長男・浜井順三さん】「そうですね、こういう方向で写真をとって、そうそうそうそう」順三さんはあの日と同じ場所を探します
【長男・浜井信三さん】「この辺かもわからん、この辺だね」「やっぱり、木が大きくなっているよね、すごく」
Q:時の流れは感じますか?「感じますね、一つ一つが木も大きくなっていますしね、70年経って、本当に見違えるようですよね」浜井さんは広島平和記念都市建設法の成立に尽力し、平和記念公園を建設するなど広島の復興と平和活動に尽力しますが、1968年に62歳の若さでこの世を去りました。肉声の中で浜井さんは科学の進歩に合わせて核兵器が更に恐ろしいものになるのではないかと危惧しています。、
【声:元広島市長・浜井信三】「私たち当時直観したんですけれども、もうこんな兵器ができた以上、もう戦争は二度とやったらいけんだろうと、おそらく広島で使われた爆弾は、大した大きな爆弾じゃなかったに違いないけれども、もう人知を無限に発達していくわけですから、生産力や科学がどんどん発達していくと、それをどんどん殺戮や破壊に使っていくということになると、どんなものができてくるか分かりゃあしないと、いうことを私ども当時の災害で直感いたしました」[人道的に許しがたい残酷なものであり、非道なものであるということはすぐ我々も感じたわけですけど、それ以上に将来のことを考えた場合に科学兵器というものが、どんどん発達していけば結局人類は兵器のために自殺しなきゃならん時がくるんじゃないかということを痛感したわけです」長男の順三さん。父親に言われた言葉が今も強く残っていると話します。
【長男・浜井順三さん】「75年草木も生えないだろうと言われるようながれきの惨状の絶望の中から、何としても広島を蘇らせるんだということを子供(私たち兄弟)に言い聞かせていたことを未だに強く頭に印象に残っている」「広島は世界に向かって伝えていく使命と責務がある都市であるということ、市民一人ひとり含めて、そういうことが今、ほとんど知られなくなってきていると思うので、これを何とか少しでも伝え継いでいかないといけないと思う」
https://www.fnn.jp/articles/-/70296
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被曝75年「原爆市長」が語るヒロシマ【前編】
2020(令和二)年08月11日(火) 14:30 TSSテレビ新広島
戦後広島の復興に尽力し「原爆市長」の名でも知られる元広島市長・浜井信三さん。被爆75年を迎える今年、浜井さんが家族と映った映像を大学の講演で被爆の実相を語ったとみられる肉声が新たに見つかりました。映像は1958年、そして音声は1967年とみられています。音声には75年前の8月6日に見た出来事、そして平和への思いが残されていました。自宅の庭でゴルフのスイングをする一人の男性、この映像では、顔はよく見えません。しかし別の映像でその人物をはっきりと確認することができます。右から2番目のスーツを着た人物、戦後の復興に尽力し「原爆市長」の愛称で知られる浜井信三さんです。慰霊碑前で撮影したこちらの写真、映像と同じ日に撮影されたものとみられます。浜井さんは1945年8月当時、広島市の職員で、食料を提供する「配給課長」でした。被爆の実相を語る肉声は8月5日の広島の様子から始まります。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「8月5日(日)、これは非常に我々としては不気味な日だったんですけれども、向こうさんの飛行機がビラを撒いたということでございました。そのビラの中に8月5日に大きな土産を広島へ持って行くから楽しみにして待っておれというビラをまいたという噂が一週間くらい前からたっておったわけです、8月5日というのは危ないぞと、気をつけなきゃいけないぞという気持ちを我々は持っておったわけです。ところが夜の9時ごろになりまして、空襲警報が発令されました、「そら来た」といって私どもは身支度をしまして防空本部へつめました。しばらくしたら空襲警報が解除になりました」その後、午前0時に再び、空襲警報がなり、浜井さんは市の防空本部へ向かいます。そして午前2時、空襲警報が解除されました。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「(自宅と防空本部を)行ったり来たりするのは面倒ですから、ひとつ役所で寝てやろうと思って、役所のソファーへころんどったんですけれども、蚊が多くてとても寝られない」朝まで眠れないと感じた浜井さんは市役所にほど近い、広島市中区榎町の親族の家で寝ようと考えますが、夜中に起こすのは申し訳ないと思いなおし自宅へ戻ります。
【音声:広島市・浜井信三元市長】
「8時頃に兄嫁が干し物を干していたら、それが庭で大きな声でBさんが何かを落としたよと大きな声で言っているんです、飛び起きて、洋服へ手をかけようと思った瞬間でした、ピカッと目がくらむような閃光、伏せると同時にドッと爆風のようなものがやって参りまして、家を木っ端みじんに壊した」原爆投下後、浜井さんはすぐに市役所へ向かいます。
【音声:広島市・浜井信三元市長】「比治山橋の近所までやってまいりますと、むこうから雪崩をうつように、色んな人が逃げてきている、私と反対方向へどんどん逃げていく、みんな血相を変えているし、頭から血を浴びて真っ赤になっている人がたくさん、そして私を見ると「あちらのほうには火はないか」「お医者さんはないか」ということを聞いてくる、火もない、お医者さんもどこへ行けと教えてやろう思う答えも待たないでまたどんどん走り去っていく、何かに追われているような格好で走り去っていく。よく見るとみんな幽霊みたいな格好をしてですね、何かボロを持って逃げている、何を持って逃げているんだろうなと思って見ましたら、ボロじゃないんです、やけどをしてですね、皮が手の先へ垂れ下がって、そのままでどんどんどんこうして逃げてくる、その人たちに聞いてみると、全部「私の家に直撃弾が落ちました」とこう言っている、誰に聞いてもみんなそう言ってる」広島市佐伯区、浜井さんの妻・文子さんの自宅から音声と映像が見つかりました。
【長男・浜井順三さん】「実は昨年、母が亡くなりましてね、70年前のおやじのこういう資料がですね、出てきたんですよ」去年7月、浜井さんの妻・文子さんが105歳で亡くなり、今年、家族が遺品整理をしていたところ見慣れない箱を発見。中から白黒とカラーの映像フィルムと、音声テープが発見されました。1958年に完成した原爆の子の像が写っていること、そして、撮影した親族の日記に、この年の9月に「浜井家と一緒に平和公園を訪れて撮影した」と書かれていたことなどから、白黒とカラーの映像は1958年。そして浜井さんの声は市長を引退した1967年5月以降、大学の講演で被爆の実相を語ったものとみられます。順三さんの許可を得てフィルムとテープを預かり、TSSのスタジオなどで復元しました。証言の中では落とされた爆弾が新型の原子爆弾であると知った経緯についても触れています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】「2、3日後に私、新聞記者に聞きました、これが原子爆弾なんだと、どうしてそれを知ったのかと新聞記者に聞いてみましたら、新聞社では、当時は禁止されておったんですけれども、地下室に短波放送をキャッチする受信機を備えていた、それでトルーマン大統領が広島へ原子爆弾を落としたという放送をしたと、それをつかんだんだと、こういうことでございます、原子爆弾というものを初めて私たちは知ったわけです」その2年後の1947年、広島市長に初当選。そしてその年の8月6日、平和記念式典の始まりとなった第一回平和祭を開催します。この平和祭を開催した理由についても語っています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】「それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う」
https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000006845.html
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被爆75年「原爆市長」が語るヒロシマ【後編】
2020(令和二)年08月11日(火) 14:31 TSSテレビ新広島
半世紀の時を超え、被爆75年の今年新たに見つかった「原爆市長」の映像や肉声。毎年8月6日に開催される平和記念式典の元となった、1947年に開催した平和祭について次のように述べています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】「昭和22年頃になりましてようやく市民が、当時、虚脱状態、ふぬけのようになって何をしらいいのか分からないような状態で、市民は過ごして来たんですけども、ようやくそういった虚脱状態から市民が目覚め始めた時に平和祭をやろうよ、平和式典をやろうと、そうして私たちの体験を全世界の人に伝えて、そして二度とこういったことが起きないように、私たちは努力しなきゃいかんじゃないかというような声がですね、市民の中から湧きあがって来ました。こういうことはじっくりと準備してかからならないと、かえって世界の物笑いになることもあるから、もう少し落ち着いて考えていこうじゃないかと、小賢しくも私どもはそういう主張をしたんですけれども、市民の方はそれを許さない、とにかく、いけなければやりながら直していけばいいんだと、とにかくやろうということで、第一回の平和式典を昭和22年の8月6日にやったわけです、それはもう、全く原爆を体験した、そして生き残った市民の実感だったと思う、どうしても我々の使命だと、そうすることは生き残った我々の使命なんだというふうなことで、市民意志が結集されたのがこの平和祭だったんです」先月下旬、現像した映像を浜井さんの長男・順三さんに見てもらいました。
【長男・浜井順三さん】「一番左が僕だと思います」Q:いくつくらいの時?「おそらく大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね。妹だと思います、それから母親、父親、ほれからこれも妹だと思います。昭和30年代くらいじゃないでしょうか、大学に入ったか、そこらじゃないかと思いますけどね」その後、私たちは順三さんと平和記念式典を間近に控えた平和公園を訪れました。
【音声:長男・浜井順三さん】(Q:このあたりが動画で見たあたりですね)「そうですね、こういう方向で写真をとって、そうそうそうそう」順三さんはあの日と同じ場所を探します。
【長男・浜井順三さん】「この辺かもわからん、この辺だね。やっぱり、木が大きくなっているよね、すごく」(Q:時の流れは感じますか?)「感じますね、一つ一つが木も大きくなっていますしね、70年経って、本当に見違えるようですよね」浜井さんは広島平和記念都市建設法の成立に尽力し、平和記念公園を建設するなど広島の復興と平和活動に尽力しますが、1968年に62歳の若さでこの世を去りました。肉声の中で浜井さんは科学の進歩に合わせて核兵器が更に恐ろしいものになるのではないかと危惧しています。
【音声:広島市・浜井信三元市長】「私たち当時直観したんですけれども、もうこんな兵器ができた以上、もう戦争は二度とやったらいけんだろうと、おそらく広島で使われた爆弾は、大した大きな爆弾じゃなかったに違いないけれども、もう人知を無限に発達していくわけですから、生産力や科学がどんどん発達していくと、それをどんどん殺戮や破壊に使っていくということになると、どんなものができてくるか分かりゃあしないと、いうことを私ども当時の災害で直感いたしました。人道的に許しがたい残酷なものであり、非道なものであるということはすぐ我々も感じたわけですけど、それ以上に将来のことを考えた場合に科学兵器というものが、どんどん発達していけば結局人類は兵器のために自殺しなきゃならん時がくるんじゃないかということを痛感したわけです」長男の順三さん、父親に言われた言葉が今も強く残っていると話します。
【長男・浜井順三さん】「75年草木も生えないだろうと言われるようながれきの惨状の絶望の中から、何としても広島を蘇らせるんだということを子供(私たち兄弟)に言い聞かせていたことを未だに強く頭に印象に残っている。広島は世界に向かって伝えていく使命と責務がある都市であるということ、市民一人ひとり含めて、そういうことが今、ほとんど知られなくなってきていると思うので、これを何とか少しでも伝え継いでいかないといけないと思う」
https://www.tss-tv.co.jp/tssnews/000006846.html
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┃ アルフレッド・アドラー ┃Alfred Adler
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1870(明治三)年02月07日(mon) Born
†1937(昭和12)年05月28日(fri) Died 67歳没
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https://ja.wikipedia.org/wiki/アルフレッド・アドラー
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【嫌われる勇気】トラウマは存在しないhttps://www.youtube.com/watch?v=N-fT1KjtGGA
JR広島駅は南北自由通路が暫定開業
‡2017(平成29)年05月28日(日)
http://ab-hiroshima.com/201706hiroshimaeki_movie1
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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‡1980(昭和55)年05月28日(水) 張本勲選手が日本プロ野球史上初となる通算3000安打 ⇒ ロッテの張本勲選手が、対阪急11回戦の6回、山口高志投手から本塁打を放ち(写真)、日本プロ野球史上初となる通算3000安打を達成した。22年目、2618試合目での偉業だった。張本選手は1981年シーズンオフの引退までに3085安打を放った【時事通信社】※2020(令和二)年詳細追加
‡1927(昭和ニ)年05月28日(土) 第1回全日本オープンゴルフ選手権が神奈川県で開催
‡2008(平成20)年05月28日(水) ネパールが共和制移行、240年続いた王制に幕 ⇒ ネパール制憲議会は連邦共和制を宣言し、約240年続いた王制は正式に廃止された。ギャネンドラ国王は一般市民となり、王宮を退去した。専制政治や王宮銃撃事件で、王室に対する国民の不信感が高まっていた。※2020年詳細削除⇒2021年記事削除
2008(平成20)年05月29日(木) 写真は、カトマンズの王宮前に集まり共和制導入を祝うネパール市民=29日【AFP時事】
‡2017(平成29)年05月28日(日) インディ500で佐藤琢磨選手が日本人初の優勝 ※2021(令和三)年記事追加
https://www.jiji.com/jc/daily
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1992(平成四)年05月28日(木)“初代ミスタータイガース”藤村富美男死去
‡2017(平成29)年05月28日(日) 11:10 プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は5月28日だ。
写真◆5月30日の告別式には選手がユニフォーム姿で参列(先頭は真弓明信)
久々に首位を走る阪神。その好調さにあやかろう(?)と、5月28日の虎ネタを探していたとき、最後の最後で優勝を逃したが、若手の亀山努、新庄剛志が「カメシン」(シンカメとも)と呼ばれ大ブレークした1992年に、新庄が一軍3試合目の大洋戦(甲子園)で4打数3安打と大当たり、前日に続き、決勝本塁打を放った試合を見つけた。主砲のオマリーの骨折で急きょ一軍昇格。そのチャンスを見事に生かす活躍だった。
ただ、これをこの日の最重要としたら、間違いなく、阪神のオールドファンから袋叩きに遭うだろう。
1992年5月28日、初代ミスタータイガース、藤村富美男氏が、その波乱に満ちた生涯の幕を閉じた日だ。
藤村は1916年広島県呉市に生まれ、呉港中から36年創設時のタイガースに入団。すぐレギュラーとなり、戦後は猛打の三塁手として阪神ダイナマイト打線の中核を担い、本塁打王3回、打点王5回、首位打者1回に輝いた。
藤村の魅力はバットマンとしてだけではない。むき出しの闘志とともに、“魅せる”ことに徹底的にこだわり、そのパフォーマンスは巨人・長嶋茂雄にも影響を与えた。ただ、これほどのスーパースターも現役終盤の兼任監督時代は、阪神得意(?)のお家騒動に巻き込まれ、苦汁をなめる。58年退団以後は一度もタイガースのユニフォームを着ることはなかった。
マウンドでの豪快なプレーとは真逆に、ふだんは家族思いで、酒も飲まず、物静かな紳士だったという。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡2005(平成17)年05月28日(土) 日本ハム、初の復刻ユニフォーム登場
‡2018(平成30)年05月28日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は5月28日だ。
写真◆SHINJOはやっぱりエリ付きアンダーシャツ
2004年、球界再現問題の後、05年から交流戦が誕生。ここで前年の現状への危機感たっぷりの1リーグ移行論とは真逆(?)にOBによる始球式など歴史重視のイベントが次々行われた。
阪神の復刻版、横浜の交流戦限定版などユニフォームにも趣向が凝らされたが、5月28日、札幌円山球場の開場70周年を記念して行われたヤクルト戦では、日本ハムがオールドユニフォームを披露している。
試合ではなく、練習のみだったが、74年後期から81年までのユニフォームをモチーフにしたものを着用し、ファンを喜ばせた。81年は後期に優勝し、前期Vのロッテを破って日本ハムとしては初、この時点では唯一のリーグ優勝を飾ったときのものだ。ヒルマン監督も「いつもより重く感じるよ」と神妙な顔だった。
ただし、これは上着だけで下は無地。帽子も変わらずと、やや中途半端だった。後日になるが、この年のオールスターでオリジナルユニを制作するも着用許可が出なかったSHINJIOは翌年物議を醸すことになる襟付きアンダーシャツでやっていた。
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┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1997(平成九)年05月28日(水) 落合博満が史上2人目の偉業を達成
‡2019(令和元)年05月28日(火) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は1997年5月28日だ。
写真◆両リーグ1000安打を達成し、花束を掲げてファンの声援に応える落合
いかにも“らしい”打球だった。この日、東京ドームで行われたダイエー戦。日本ハムの落合博満は初回、若田部健一の外角139キロの直球に逆らわず一、二塁間を抜いた。
「オレらしいヒットじゃないか」
大杉勝男(東映ほか)以来、史上2人目となるセ・パ両リーグ1000安打達成の瞬間だった。これまで通算1000安打、1500安打、2000安打と、節目の記録を本塁打で飾っていた落合だが、この記録達成は地味な安打だった。
常々、「ヒットを打つのは簡単なことなんだ」と言っていた落合だが、今回は苦しんだ。記録に残り4本に迫ったのが5月17日のこと。そこから11日間、9試合を要した。
「記録は頭になかった。でも、いろいろと難しく考えてしまっていたと思う。どういう打ち方をしようかとか、どういう球が来るかなんて。でも、野球はやっぱり来た球を打つんだよ」
原点を再確認した安打でもあった。
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画No.007 ┃ 30円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1958(昭和33)年5月28日(水)号 タイガースは前進する
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
2017(平成29)年11月3日(金) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を継続中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
人気連載『カケヤ禍』『花形選手暮らしの手帖』
表紙は今牛若丸と言われた阪神・吉田義男
今回は『1958年5月28日号』。創刊第7号で定価30円。カラーページはない。
表紙は阪神の名遊撃手・吉田義男で、巻頭の特集タイトルは『タイガースは前進する~巨人をおびやかす猛虎の闘志』だ。
開幕から日系アメリカ人で、カイザーこと田中義雄監督が指揮する阪神が好調を維持していた(当時は大阪タイガースだが、阪神の略称はファンにも定着していたので、以下の回でもすべて阪神と表記する)。この記事の中で阪神フィーバーに沸く、関西のスポーツ紙についても触れているが、当時は阪神が勝つと翌朝の新聞の早版が駅売りされていたようで、ビッグゲームの際には夜の8時から11時ごろまで第五版、第六版と重ね、ついには翌朝売る新聞がなくなったとある。やや信じがたい気もするが、大先輩の記事だ。間違っているはずはなかろう。
特別レポートでは『勝利投手と敗戦投手』と題し、義原武敏(巨人)、鈴木隆(大洋)、牧野伸(東映)、大津守(近鉄)、梶本隆夫(阪急)、村田元一(国鉄)ら先発陣の二番手、三番手の投手が登場。センターグラビアでは巨人のエース、藤田元司、国鉄のエース、金田正一を紹介。金田は開幕から1カ月たたない4月30日に、早くも11勝目を挙げたというから驚く。国鉄もこの金田に引っ張られ、2位と好調だ。
今回は連載を2つ紹介しよう。まずは人気連載『カケヤ禍』だ。筆者の大井広介は辛口で知られた野球評論家。終戦直後のカケヤたちと球界関係者の“攻防”を書いたものだ。当時、特に関西球団は野球賭博が横行し、選手を取り込み、八百長を指示する輩もいたらしい。この回では、46年当時、近畿日本(南海)の兼任監督だった鶴岡一人(58年は山本一人)が、カケヤとつるんでおかしなプレーをする選手がいないかを監視するため、本来のサードではなく、一塁に回った話が載っている。
もう1つは、大和球士の『花形選手暮らしの手帖』。西鉄の川崎徳次ヘッドコーチが登場。家族構成は静江夫人と一女(10歳)一男(5歳)だが、月収の使い道を聞かれ、四分の一は貯金、四分の一は税金と化し、「その残りを五分の三の比率で、五を家に入れ、三を自分の交際費にしています」と答えている。数字の根拠は分からぬが、なかなか細かい。
<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.217 ┃ 40円
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‡1962(昭和37)年5月28日(月)号 カープは稽古横綱ではない
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
2018(平成30)年6月02日(土) 16:01 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
外人ブームと言うけれど
表紙は巨人・王貞治
今回は『1962年5月28日号』。定価は40円だ。オープン戦で12球団中2位ながら最下位説が濃厚だった広島がまずまずの好調を維持し、勝率5割台の4位に。稽古横綱は稽古では強いが、本番に弱い意だが、ファンの言葉として「カープは稽古横綱じゃない」があった。球団常務となっていた元監督の白石勝巳も、
「昔は試合前の練習で外野をレフトからライトに走っているとき、反対側から巨人の選手が走ってくると横にさっとよけて走った。ところがいまは胸を張って堂々とやっている。これだけでも違うよ。いまは巨人とも対等の気構えでいる。それでいいんだ」
と目を細める。
62年は外国人選手の獲得ラッシュだった(見出しは当時の表記で外人とさせてもらった)。すでに12球団で19人がいたが、さらに大毎にマンコビッチ(本人には失礼ながら、やや恥ずかしい気がしたが、登録名はマニーに)、近鉄はジェンキンス(登録名ジェンク)、阪急にリックが入団することになっていた。
『マンガのレポート』では新外国人の1人、大毎のニック・テスタが扱われていた。身長172センチと外国人選手にしては小兵で、ほぼディサ投手の専属捕手だった。
サンフランシスコ・ジャイアンツで1試合だけメジャー経験があるが、一度球界からは離れてた。それが61年夏、日本観光に来た際、知り合いだったビル西田に頼んで大毎にテストを受け、合格。もともと大の親日家で扇子や絹の織物などを集め、家に飾っていたらしい。
以下宣伝。
週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』『阪神編』『ロッテ編』が発売中です。
では、またあした。<次回に続く>
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①┃ プロ野球仰天伝説 No.156 ┃ ONLINE
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指先を空手の特訓で鍛えた七色の変化球・若林忠志
‡2018(平成30)年5月28日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
ストレートを入れたら13種類!?
大阪・若林忠志
1936(昭和11)年、大阪タイガースに入団した若林忠志。ナックルボールの日本初の使い手であり、七色の変化球で一世を風靡したハワイ出身の日系選手だ。もともとはストレート主体だったが、肩を壊し、球速が落ちたことで、生き残る手段として変化球を磨いた。
主な変化球はカーブが3種類、シンカー、ナックル3種類、パーム、フォーク、チェンジアップ3種類というから、ストレートを入れたら13種類。さらにどの球種も、ただ投げられるだけでなく、スリーボールでもフルカウントでも投げられるだけのコントロールがあった。
ナックルはテッド・ライオンズというホワイトソックスの投手に握りを教わり、「そのとき、このボールを引っ張ってみろ、と言われたけど、ビクともしなかった。そのくらい手が大きく、グリップが強いんだね」(若林)。
手の大きさは仕方がないから指の力を鍛えようと思い、毎日、空手の選手のように指先で畳や板を突いて鍛え、イメージどおりのナックルが投げられるようになったという。
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②┃ プロ野球仰天伝説 No.055 ┃ ONLINE
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【助っ人トンデモ話 No.06】
毎日焼き鳥を食べ野菜は食べず不摂生で死去した孤独な助っ人【助っ人トンデモ話】
2018(平成30)年2月16日(金) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
ジャクソン[1966―68サンケイ/外野手]
サンケイ・L.ジャクソン
日本の球団に在籍中に死去した唯一の助っ人だ。
1966(昭和41)年、サンケイに入団したジャクソンは、2年目の
1967(昭和42)年には打率.296、28本塁打を残しているが、ふだんがだらしなかった。大の酒好きで、特にビール、食べ物は焼き鳥が大好物。まあ、それは別に問題ないのだが、要は極端な偏食で、ほとんど肉しか食べない。野菜が大嫌いで、パンもごはんも嫌い。焼き肉やステーキばかり食べていた。
また、遊び好きのプレーボーイで女性関係も派手。地方に行くと、いつもストリップ劇場に入り浸っていたらしい。これは、夫人とうまくいっていなかったストレスもあったのではないかという。
1969(昭和44)年に胃痛を訴え、入院。末期のすい臓がんだった。
1969(昭和44)年5月27日(火)死去。
†1969(昭和44)年5月28日(水)には球団葬が行われたが、夫人の姿はなかった。
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③┃ プロ野球仰天伝説 No.016 ┃ ONLINE
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退場を無視して打席に入ったミスター・タイガース、藤村富美男
2018(平成30)年1月8日(月) 11:06 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
大もめとなり放棄試合に
稀代のショーマンでもあった藤村
巨人・長嶋茂雄にも影響を与えた稀代のショーマン、阪神・藤村富美男。物干し竿と呼ばれたバットを使い長打を量産し、ミスター・タイガースとも言われた傑物だ。ただ、荒っぽいグラウンドの姿とは異なり、ふだんは酒も飲めず、甘党。家族思いで寡黙な男だったとも聞く。
1954(昭和29)年7月25日(日)の大阪球場で、この藤村が前代未聞の事件を起こした。対中日戦で阪神の打者・真田重男のカウント2-2からのファウルを審判は一度、ファウルと言った後、球がダイレクトにミットに収まったとジャッジし直した。すぐ阪神・松木謙治郎監督が猛抗議。気の短い藤村は抗議に加え、何度も審判を小突いた。
この際、審判は2人に退場を命じたというが、実際には藤村に「風呂でも入ってきたら」と遠回しに言っただけ(藤村の弁)。藤村はその後もベンチに残り、打席が回って来た際も普通にバットを持って出てきたが、認められるはずもなく、ふたたび大もめ。ファンも乱入、警察官200人以上が出動する大騒ぎとなり、放棄試合になってしまった。
藤村は出場停止20日間の処分となり、1014試合継続中だった連続出場記録がストップしている。
藤村富美男(ふじむら・ふみお)
1916(大正五)年8月14日(月)生まれ。
広島県出身。
呉港中から
1936(昭和11)年にタイガース入団、秋に本塁打王に。
1944(昭和19)年と1947(昭和22)年から3年連続打点王、
1949(昭和24)年は46本塁打で本塁打王にも輝き、MVPに。
1950(昭和25)年には当時の日本記録191安打を放ち、打率.362で首位打者。
1953(昭和28)年は本塁打王、打点王。
1955(昭和30)年途中から選手兼任で指揮も執り、
1957(昭和32)年は監督専任、翌
1958(昭和33)年に現役復帰も、同年限りで引退。
1974(昭和49)年野球殿堂入り。
†1992(平成四)年5月28日(木)死去。主なタイトルはMVP1回、首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回。通算成績1558試合、1694安打、224本塁打、1126打点、103盗塁、打率.300
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