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┛The George Martin Orchestra 1968 Recording Sessions ┛Studio 1
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①┃ ♪Pepperland♪ ┃
②┃ ♪Sea Of Time♪ ┃
③┃ ♪Sea Of Holes♪ ┃
④┃ ♪Sea Of Monsters♪ ┃
⑤┃ ♪March Of The Meanies♪ ┃
⑥┃ ♪Pepperland laid waste♪ ┃
⑦┃ ♪Yellow Submarine in Pepperiand♪ ┃
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The George Martin Orchestra (41 musicians directed by Martin),
re-records the B-side of『Yellow Submarine』LP
1968(昭和43)年10月22日(tue)
‡1968(昭和43)年10月23日(wed)
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①https://en.wikipedia.org/wiki/Pepperland_(song)
②https://en.wikipedia.org/wiki/Sea_of_Time
③https://en.wikipedia.org/wiki/Sea_of_Holes
④https://en.wikipedia.org/wiki/Sea_of_Monsters
⑤https://en.wikipedia.org/wiki/March_of_the_Meanies
⑥https://en.wikipedia.org/wiki/Pepperland_Laid_Waste
⑦https://en.wikipedia.org/wiki/Yellow_Submarine_(album)
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■僕の戦争撮影中のジョン写真◆http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17215
JOHN LENNON a shom BEATLE tries it on his own
John appears on the cover of『LOOK』magazine
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 1967(昭和42)年10月18日(wed) UK Released
①┃ 『HOW I WON THE WAR 僕の戦争』 ┃ 1967(昭和42)年10月18日(wed) NY premiere
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛‡1967(昭和42)年10月23日(mon) US Released
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ 109minutes
②┃ ♪HOW I WON THE WAR 僕の戦争♪ ┃ 1967(昭和42)年10月13日(fri) UK Released UNITED ARTISTS UP 1196
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①https://en.wikipedia.org/wiki/How_I_Won_the_War
②http://mst1.fc2web.com/john01/bokunosensou.html
http://www.uta-net.com/song/41195/ http://www.uta-net.com/song/89805/
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┃ 『Vivir es facil con los ojos cerrados』 ┃2013(平成25)年 9月23日(月) サン・セバスティアン国際映画祭
┃ 『Living Is Easy with Eyes Closed』 ┃2013(平成25)年10月31日(木) スペイン公開
┃ 『「僕の戦争」を探して』 ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛https://en.wikipedia.org/wiki/Living_Is_Easy_with_Eyes_Closed
映像◆https://youtu.be/bi7fGU0akK4
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┃ 『THE BEATLES Interviews Database』 ┃
①┃ 163 Beatles interviews & press conferences ┃
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‡1966(昭和41)年10月29日(土)
‡No.102(22) 1966-10-29(sat) Lennon / Carboneras, Spain (3 photos) Fred Robbins interviews John Lennon from the set of his new film.
Lennon Interview: Carboneras, Spain with Fred Robbins 10/29/1966
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1966(昭和41)年12月13日(火)
No.105(25) 1966-12-13(tue) Lennon / Look Magazine (10 photos) Behind the scenes with John Lennon on the "How I Won The War" film set.
John Lennon Interview: Look Magazine 12/13/1966
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①http://www.beatlesinterviews.org/db1966.1029.beatles.html
②http://www.beatlesinterviews.org/db1966.1213.beatles.html
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◎お知らせ ⇒ 映画『HOW I WON THE WAR』は英国でアヴァンギャルドな作品として扱われた。日本では「大勝利」という邦題までつけられたが、公開は見送られ、何度かテレビ放映されたのち。現在は「ジョン・レノンの僕の戦争」のタイトルでDVDが発売されている。
映画『ジョン・レノンの僕の戦争』
2009(平成21)年7月3日(金) 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
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ジョン・レノンさんの髪ひと房、約400万円
2016(平成28)年02月22日(月)
写真◆ジョン・レノンは映画『僕の戦争』出演の直前に散髪したImage copyright Getty Images/Heritage Auctions
ジョン・レノンさんが50年前に散髪した際の髪ひと房が20日(土)、米テキサス州の競売で3万5000ドル(約400万円)で落札された。落札者は英国を拠点にするコレクターだという。
レノンさんは1966年に映画『How I Won The War』邦題『ジョン・レノン 僕の戦争』に出演する際、ドイツ・ハンブルクで髪を切った。ドイツ人の理髪師クラウス・バルークさんが切り落として保管しておいた髪の束は、長さ約10センチ。テキサス州ダラスの競売主催者によると、「これまでオークションにかけられたジョン・レノンの髪で最も長い」ものだという。
「たくさんの髪がまとまった、かなりの量の束だ」と、ヘリテージ・オークション社の広報は話した。レノンさんは1966年にビートルズの伝説的なアルバム「リボルバー」発売の約1カ月後、兵士役のために髪を切った。映画は第2次世界大戦で次々とトラブルに巻き込まれる英陸軍部隊を、シニカルなユーモアで描いたリチャード・レスター監督作品。
写真◆映画で兵士グリップウィードを演じたレノンさんImage copyright Getty Images
(英語記事 John Lennon: Beatles star's locks sell for $35,000)
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-35628303
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┃ 『give my regards to BROAD STREET“ヤァ!ブロード・ストリート”』 ┃
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1982(昭和57)年11月05日(fri) recording Start
1984(昭和59)年07月26日(thu) recording The End.
1984(昭和59)年10月22日(mon) Soundtrack album released
‡1984(昭和59)年10月23日(tue) US released ※musical drama film
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https://music.amazon.co.jp/albums/B00BKB6N3G
https://en.wikipedia.org/wiki/Give_My_Regards_to_Broad_Street
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①┃ ♪Good Day Sunshine♪ ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛1984(昭和59)年の映画『ヤァ!ブロードストリート』でポールは6曲のビートルズナンバーを(スタジオ作品としては)初リメイクしているが、この曲も取り上げられている。実にこのアルバムからは4曲選ばれている事からも、ポールがいかにこの時期に充実してたのかが伺えよう。映画の中ではオープニングでポールが車でレコード会社に向かう場面のBGMで使用されている。このバージョンはポールが全ての楽器を演奏しており、また間奏はジョージ・マーティン本人が弾いているという完コピ度高め。
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②┃ ♪Yesterday♪ ┃
┗━━━━━━━━━┛1984(昭和59)年の映画『ヤァ!ブロードストリート』でポールは6曲のビートルズナンバーを(スタジオ作品としては)初リメイクしているが、この時はストリングスではなくホーンを取り入れている。ちなみに管理人は音楽の授業でこの曲を聴き『ヤァ!ブロードストリート』で初めてこの曲を聴いた。そこからずるずるとビートルズにハマりこんで行ったから、この曲は特に思い出深いのであるw
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③┃ ♪Here, There and Everywhere♪ ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛1984(昭和59)年の映画『ヤァ!ブロードストリート』でポールは6曲のビートルズナンバーを(スタジオ作品としては)初リメイクしているが、この曲も取り上げられている。実にこのアルバムからは4曲選ばれている事からも、ポールがいかにこの時期に充実してたのかが伺えよう。映画の中ではレコーディング風景で♪イエスタデイ♪に続いてメドレー形式で歌われた。ホーン4重奏を取り入れたアレンジになっている。また冒頭の歌詞を♪I need a Love of my own♪と変更している。このメドレーはポールのソロ作品の♪ワンダーラスト♪と続く3曲メドレーなんだが、その曲の部分のみリンゴがドラムで参加している。前2曲のビートルズナンバーへの参加をリンゴは「半分でビートルズなんてイヤだ」と断ったために、映画ではポールに「ブラシで叩いて」と頼まれたリンゴが、ブラシを探し回ってる内に2曲終わってしまい、見つけて戻ってきたら♪ワンダーラスト♪になってたので、ブラシを放り投げてスティックに持ち替えるという処理がされていた。なお、この録音風景にはジョージ・マーティンも参加しており、ファンにはたまらない内容である。(映画自体は・・・ちょっと困りもんだけど)
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④┃ ♪For No One♪ ┃
┗━━━━━━━━━┛1984(昭和59)年の映画『ヤァ!ブロードストリート』でポールは6曲のビートルズナンバーを(スタジオ作品としては)初リメイクしているが、この曲も取り上げられている。アレンジはアコースティック・ギターと弦楽4重奏(♪イエスタデイ♪と同じ)+フレンチホルンに変更されている。映画の中ではBBCのスタジオで歌われて、その後にすぐ♪エリナー・リグビー♪も演奏された。
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⑤┃ ♪Eleanor Rigby♪ ┃
┗━━━━━━━━━━┛1984(昭和59)年の映画『ヤァ!ブロードストリート』でポールは6曲のビートルズナンバーを(スタジオ作品としては)初リメイクしているが、この曲も取り上げられている。映画の中ではBBCのスタジオで♪For No One♪を歌った後に歌われて、その後ポールの妄想世界へ入っていく場面で使われた。♪エリナーの夢♪、というインストとメドレー。長い。
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⑥┃ ♪THE LONG AND WINDING ROAD♪ ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛1984(昭和59)年の映画『ヤァ!ブロードストリート』でポールは6曲のビートルズナンバーを(スタジオ作品としては)初リメイクしているが、この曲も取り上げられている。メロウなサックスで始まるなんともAORなアレンジがなんともいい感じである。ちなみに管理人は一番最初にこの曲を聴いたのがこのバージョンであった。だからこのオーケストラバリバリの♪レット・イット・ビー♪バージョンを聞いたときは目が点になったもんである。なお、ポールは1990年にも『フラワーズ・イン・ザ・ダート』のボーナスCDにも、この曲のリメイクバージョンを収録している。
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①https://beatlesdata.info/7/08_gooddaysunshine.html
①https://en.wikipedia.org/wiki/Good_Day_Sunshine
②https://beatlesdata.info/5/13_yesterday.html
②https://en.wikipedia.org/wiki/Yesterday_(Beatles_song)
③https://beatlesdata.info/7/05_herethereandeverywhere.html
③https://en.wikipedia.org/wiki/Here,_There_and_Everywhere
④https://beatlesdata.info/7/10_fornoone.html
④https://en.wikipedia.org/wiki/For_No_One
⑤https://beatlesdata.info/7/02_eleanorrigby.html
⑤https://en.wikipedia.org/wiki/Eleanor_Rigby
⑥https://beatlesdata.info/14/10_thelongandwindingroad.html
⑥https://en.wikipedia.org/wiki/The_Long_and_Winding_Road
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ポールの映画
2014(平成26)年02月27日(木) 17時58分 三村一樹 さん 閲覧数 468 役立ち度 0 総合評価★★★★★
1992(平成四)年1月2日(木)の深夜に4チャンネルで故・水野春雄の開設でお正月ミュージカル映画スペシャルとして放送されました。当時、千葉の江見の別荘にいた私は眠れないままに途中を少し見ました。ビデオに録画し見て、DVDもレンタル落ちを手に入れました。前振りが長くなりましたが、本題です。この映画は分かりません!ストーリーは追うのが必死で、画面はめまぐるしく変わり、ラストでは夢オチでズッコケます。ビートルズの歌はいいのですが、リメイクだとオリジナルと比較してしまいます。
https://movies.yahoo.co.jp/movie/23690/review/2/
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『ヤァ!ブロード・ストリート』:1984、イギリス
人気ミュージシャンのポールは車を運転している最中、ニューアルバムの曲を録音したマスターテープが、まだ届いていないと連絡を受けた。会社の従業員ハリーが届けるはずだったのだが、そのハリーも行方不明になっているというのだ。ポールが車を飛ばしてオフィスに到着すると、スタッフが集まって相談を始めていた。会社は経営難に陥っており、このままテープが見つからずにニューアルバムの発売が中止にでもなれば、ミスター・ラス率いるラスボーン社に身売りしなければならなくなる。捜査を開始した警察は、窃盗の前科があるハリーに疑いを目を向ける。ポールはハリーの前科を知っていたが、自分に更正を誓った彼の無実を信じると語る。しかしポールは仕事をしながら、ハリーがテープを盗んだイメージばかりを思い浮かべてしまう…。監督はピーター・ウェブ、脚本&音楽はポール・マッカートニー、製作はアンドロス・エパミノダス、製作協力はピーター・マンリー、撮影はイアン・マクミラン、編集はピーター・ベストン、美術はアンソニー・プラット、衣装はミレーナ・カノネロ、振付はデヴィッド・トゥガリ、音楽製作&音楽監督はジョージ・マーティン。主演はポール・マッカートニー、共演はブライアン・ブラウン、リンゴ・スター、バーバラ・バック、リンダ・マッカートニー、トレイシー・ウルマン、ラルフ・リチャードソン、イアン・ヘイスティングス、フィリップ・ジャクソン、アンソニー・ブラウン、ドナルド・ダグラス、ジョン・ベネット、クリストファー・エリソン、ルーク・マクマスターズ、マーク・キングストン、マリー・コレット他。ポール・マッカートニーが脚本、音楽、主演の3役を担当した作品。ポールとリンダ・マッカートニー、リンゴ・スターとバーバラ・バックという2組のカップルが出演している。ポール達3人はミュージャン役(というか本人役)で、バーバラは記者を演じている。劇中では何度も演奏シーンが登場し、ビートルズの曲とポールのソロになってからの曲が流れる。一応はミュージカル映画としてジャンル分けされているようだ。しかし、物語と演奏シーンは全くリンクしていない。物語とは全く関係無い形で、演奏シーンが登場する。まあ物語なんて無いに等しいので、リンクさせるのは無理かもしれないが。劇中で流れる曲の内、『Ballroom Dancing』ではジョン・ポール・ジョーンズ、『Silly Love Song』ではスティーヴ・ルカサーとジェフ・ポーカロ、『So Bad』と『No More Lonely Nights』では元10ccのエリック・スチュワートが演奏に参加している。ただし、『No More Lonely Nights』に関しては演奏シーンは無く、曲が流れるだけ。やはり見所としては、ポールとリンゴが一緒に演奏するシーンを挙げないけにはいかないだろう。ただし、ビートルズ時代の曲で、リンゴがドラムを叩くことは無い。『Yesterday』と『Here,There And Everywhere』の演奏場面では、リンゴはスタジオにいるのだが、ワイヤーブラシを探している内に演奏が終わってしまう。「これは決して映画ではないのだ、ポールのプロモーション・ビデオを繋げて作った宣伝用フィルムなのだ」と、最初から割り切って観賞すべきだろう。そうとでも思わないと、あまりに退屈で最後まで見ていられない可能性がある。ポール・マッカートニーがニューアレンジでビートルズ時代の曲を演奏する。ポールとリンゴが一緒に演奏する。ジョン・ポール・ジョーンズやスティーヴ・ルカサーなども何曲かは演奏に参加する。観賞する人は、それだけで満足しなければならない。ポール・マッカートニーのファンならば、彼の演奏シーンがたっふりと見られるのだから、それだけで楽しめるはずだ。ただし、ビートルズのファンに関しては、楽しめるかどうかは微妙なところだ。個人的には、『The Long And Winding Road』のニューアレンジ・ヴァージョンなどは、ちょっとヤバイ匂いがするのではないかと思ったりしたが。大事なテープが無くなったからといって、ポールが必死になって探し始めるわけではない。だからテープを探す中でサスペンスが生まれたり、ドタバタ劇が展開されたりするとか、そういうことは全く無い。「テープが無くなって困った」と言ってる次のシーンでは、ポールは何事も無かったかのように平然とスタジオでの演奏を始めている。たまにハリーのことを誰かに尋ねたりすることはあるものの、基本的にポールは、テープのことなどお構い無しである。というか、この映画自体がテープを捜すことに強い関心を示さず、ほとんどポールが色んな場所で歌ったり演奏したりしているだけだ。テープ捜索は一行に進まないまま、映画は終盤を迎える。そして偶然に、唐突に、あっさりと、テープとハリーは発見される。で、その直後には、「実は今までのは、ぜ~んぶポールの夢でした」という、誰も期待していないオチが待っている。ダラダラした話を垂れ流した挙げ句、最もやってはいけないコトをやらかすのだ。
http://www1.kcn.ne.jp/~pop/spcpm/f08y/broad_street.html
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┃ Lost Weekend 失われた週末は本当に失われていたのか・・・ ┃2012(平成24)年2月11日(sat)
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛テーマ:ビートルズ
1974(昭和49)年10月4日シングル「真夜中を突っ走れ」とアルバム『心の壁、愛の橋』を発表。「真夜中を突っ走れ」は11月16日にソロになって初めての1位曲となる。録音にはエルトン・ジョンが参加。その時にもし1位を獲得したらエルトンのライヴにゲストで出演するという約束が交わされていた。
1974(昭和49)年10月アルの努力で無事取り戻されたLAでの『ロックン・ロール』のテープでしたが、ジョンはそのテープを封印し新たに『心の壁、愛の橋』のミュージシャンを使いセッションを再開することを思い立ちます。それを聞きつけたモーリス・レヴィは自分の農場をリハーサルのために提供、『ロックン・ロール』セッションが再スタートされます。
‡1974(昭和49)年10月21日~25日レコード・プラントに閉じこもり5日間で『ロックン・ロール』を完成させる。ジョンがこの時期いかに充実した仕事をしていたかは、この辺からもうかがえると思うのですが・・・。また『心の壁、愛の橋』でいったんボツにした「ようこそレノン夫人Move Over Miss.L」を再び取り上げアルバムから3月にシングル・カットされた「スタンド・バイ・ミー」のB面曲として収録(UK盤)。
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http://ameblo.jp/sugarmountain/entry-11161734029.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/ON_THE_ROAD_2011_%22The_Last_Weekend%22_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
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┃ 『わたしの戦争“HOW I WON THE WAR”ジョン・レノンの僕の戦争』 ┃
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1967(昭和42)年10月18日(wed) UK Released
‡1967(昭和42)年10月23日(mon) US Released
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https://en.wikipedia.org/wiki/How_I_Won_the_War
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ジョン・レノンさんの髪ひと房、約400万円
2016(平成28)年02月22日(月)
Getty Images/Heritage Auctions
写真◆ジョン・レノンさんは映画「僕の戦争」出演(左)の直前に散髪した
ジョン・レノンさんが50年前に散髪した際の髪ひと房が20日、米テキサス州の競売で3万5000ドル(約400万円)で落札された。落札者は英国を拠点にするコレクターだという。
レノンさんは1966年に映画「How I Won The War」(邦題「ジョン・レノン 僕の戦争」)に出演する際、ドイツ・ハンブルクで髪を切った。ドイツ人の理髪師クラウス・バルークさんが切り落として保管しておいた髪の束は、長さ約10センチ。テキサス州ダラスの競売主催者によると、「これまでオークションにかけられたジョン・レノンの髪で最も長い」ものだという。
「たくさんの髪がまとまった、かなりの量の束だ」と、ヘリテージ・オークション社の広報は話した。
レノンさんは1966年にビートルズの伝説的なアルバム「リボルバー」発売の約1カ月後、兵士役のために髪を切った。映画は第2次世界大戦で次々とトラブルに巻き込まれる英陸軍部隊を、シニカルなユーモアで描いたリチャード・レスター監督作品。
写真◆映画で兵士グリップウィードを演じたレノンさん
(英語記事 John Lennon: Beatles star's locks sell for $35,000)
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-35628303
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┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
┌─――――――――――――┐
|1969(昭和44)年10月24日(金)|「死人が歩く、死人が答える」
‡|2009(平成21)年10月23日(金)|甲虫日記更新日 No.060
└─――――――――――――┘
アルバム「ABBEY ROAD」が発売された1969(昭和44)年秋、ポール・マッカートニーが死んだという噂が米国を中心にものすごい勢いで広まっていた。「僕が死んだって? なんで誰も僕に教えてくれないんだ」。ポールは新聞のインタビューに短く答えただけで、妻リンダと生まれたばかりのメアリーら家族を連れてスコットランドの北西部・キンタイヤ岬にある農場に引きこもっていた。
1969(昭和44)年10月24日(金)、一向におさまる様子がない噂の真相を確かめるべく、BBCの記者クリス・ドレイクがポールの農場に出かけた。ポールはばかげた噂をやめさせる良い機会と考え、ドレイクの独占インタビューを受け、自分は確かに生きていると断言した。その内容はラジオで3回放送され、少なくとも英国では噂はデマだと信じられた。
まことしやかな噂の出所は、正確にはわからない。
1969(昭和44)年09月17日(水)、米国アイオワ州のドレイク大学学生新聞が、「ポールは
1966(昭和41)年11月09日(水)、スコットランドにおける交通事故で死亡していて、うり二つの人物が身代わりを演じている」という噂について論じた。
1969(昭和44)年09月22日(月)には、イリノイ州のイリノイ大学学生新聞が、「Strawberry Fields Forever」のフェイド・アウト部分に「私はポールを埋葬した」と聞こえる言葉がある、ことなどを根拠に「死亡説」をほのめかした。この噂を一気に広めたのが、ミシガン州デトロイトにあるアングラ系ラジオ放送局WKNRだ。
1969(昭和44)年10月12日(日)、イースタンミシガン大学の学生だという『トム』は、同局のリスナー参加番組に電話をかけ、「ポールが死んだ話をしたい。レコードに手がかりがある」と主張し、DJにビートルズの「Revolution 9」を逆回転で聴くように強く迫った。おもしろがったDJは、この曲の「ナンバー・ナイン……ナンバー・ナイン」という声が繰り返される部分のテープを逆回転させた。単調な声が聞こえた。リスナーは「私をハイにしてくれ、死者よ……私をハイにしてくれ、死者よ」と聞こえると主張した。この放送を聞いていたミシガン大学のある学生が、噂の質をさらに高めるような突飛な記事を学生新聞に掲載した。その学生は「ウィリアム・キャンベル」という名のエディンバラ出身の孤児を「ポールの替え玉」に仕立てた。「キャンベル」はポールになりすますため、ほかのビートルズのメンバーからひそかに訓練を受けたというのだ。
後に別のラジオ局が実在するキャンベルを探し出す。キャンベルは一度「ポールそっくりさん」コンテストで優勝した経歴を持っていたのだ。アルバムを片っ端から聴き返し、ジャケットを穴の開くほど眺める日々を過ごしていたファンは、ビートルズがアルバムにちょっとしたジョークや隠されたメッセージを入れて味付けするのが好きなことを知っていた。コンサート活動をやめた1966(昭和41)年以降のレコードは様々な速度で逆回転させられ、アルバム・ジャケットや宣伝用写真は他に証拠がないかと吟味され、「ポールは死んだのか」会まで作られた。しかし、結果的にはどれも深読みされすぎていて、ビートルズがまるで意図しなかった「解釈」へと発展したものばかりだ。
◎次々と現れるポール死亡の「深読み」… 次のページへ
例えば、1967(昭和42)年発表のアルバム『SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』のフロント・カバーは、ポールの墓に集まる会葬者たちの姿とされた。黄色いヒヤシンスでできたベース・ギターがポールを暗示させ、ポールが手に持つ黒いクラリネットは「死の色」となり、ポールの頭上にかざされた手のひらは「東洋では死の象徴」と説明される。
ポールだけが背中を向けているバック・カバーは「意味シンだ」となり、ジョージの親指が指す「She's Leaving Home」の最初の一行「水曜日の朝5時……」はポールの死亡時刻とされた。実際、
「1966(昭和41)年11月9日」は水曜日だった。1968(昭和43)年発表のアルバム『』の「Glass Onion」でジョンが「WALRUSはポールだった」と歌ったため、アルバム『MAGICAL MYSTERY TOUR』のジャケット写真の黒いセイウチも暗示のひとつになった。北欧のある地方では、黒いセイウチは死の象徴とされているという。数え上げたらきりがない。こうした騒ぎの渦中に『ABBEY ROAD』は発売されたため、そのカバー写真は格好の餌食になった。先頭を歩く牧師のジョンが、黒い喪服を着た葬儀屋のリンゴ、裸足で歩く生き返ったポール、墓堀人のジョージを先導している、とされた。しかし、替え玉のポールはここで初めて過ちを犯した。左利きのポールが右手の人さし指と中指でたばこを持っていたからだ……。一連の騒ぎからは、「1969年」という、反体制の嵐が吹き荒れた時代の空気が読み取れる。学生新聞に記事を掲載したある学生は、「ぼくらの多くは、ベトナム戦争と、いわゆる権力側のせいで、どんな種類のデマであろうといつでも進んで信じるようになった」と後にインタビューに答えている。
硬派の雑誌やテレビ番組も取り上げた。タイム誌は「ポールは死んだのか?」という記事を掲載し、すぐに世界中の注目を引いた。ライフ誌は、マイアミ大学の研究者に「Hey Jude」と「Yesterday」の声紋の比較分析を依頼し、両者の声が別人のものだとする声紋写真付きで掲載した。著名な弁護士がテレビで模擬裁判を主宰する騒ぎにまで発展した。
商魂もたくましい。「Dear Paul」「Saint Paul」など騒ぎに便乗したタイトルのレコードが発売された。ビートルズのレコード・セールスが伸びたのも事実だ。
「僕が聞いたことがある噂の中で、最もくだらないものだ」とジョンは言った。11月に入り、再びマスコミのインタビューに応じたポールの談話がライフ誌に掲載された。表紙を飾ったマッカートニー家の写真と、「ポールはまだ我らとともにある」という見出しの文字が、噂を消し始めた。
写真◆『SGT. PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』のジャケット写真にも、「ポールの死」を暗示するものがあるといわれた
◎『この日のビートルズ』の次回は11月10日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
◎お知らせ ⇒ 1967(昭和42)年発表のアルバム『MAGICAL MYSTERY TOUR』(英国は6曲入り2枚組EP盤)の付録、24ページのブック・レットに掲載された写真は「ポール死亡説」の根拠を探し出そうとするファンにとって宝の山になった。「ポールの頭上に手が挙がっている」「ポールだけが襟に黒いカーネーションをつけている」「ポールだけが靴を履いていない」とするものや「軍人に扮したポールの前に『I Was』という過去形のサインが置かれている」などこじつけの度が過ぎるものもあった。
『MAGICAL MYSTERY TOUR』
2009(平成21)年9月9日(水) EMIミュージック・ジャパン
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/091023.html
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①┃『THEIR SATANIC MAJESTIES REQUEST』 ┃
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Studio album by the Rolling Stones
1967(昭和42)年02月09日(thu) 録音開始
‡1967(昭和42)年10月23日(mon) 録音終了
1967(昭和42)年11月25日(sat) US released
1967(昭和42)年12月08日(fri) UK released
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②┃『WE'RE ONLY IN IT FOR THE MONEY』┃
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Studio album by the Mothers of Invention
1968(昭和43)年03月04日(mon) Released
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①https://en.wikipedia.org/wiki/Their_Satanic_Majesties_Request
②https://en.wikipedia.org/wiki/We%27re_Only_in_It_for_the_Money
https://www.udiscovermusic.jp/stories/beatles-influence-sgt-pepper
https://www.udiscovermusic.jp/stories/10-things-that-made-sgt-pepper-possible
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『SGT:PEPPER'S』が後世に与えた影響
2017(平成29)年06月12日(月) STORIES Written By Martin Chilton
こと実験性という意味においては、1967年以降現在までの半世紀の間に生まれたポピュラー・ミュージックの大部分が、『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(以下『Sgt Pepper』)に借りがあると断言しても決して言い過ぎではないだろう。ザ・ビートルズのサウンド、ソングライティング、スタジオ・テクノロジー、そしてカヴァー・アートにおける極めてユニークな冒険が、たちまちのうちに大きなインパクトをもたらし、英国の全レコード・リリース史上最大のセールスを記録するに至ったこのアルバムが世に出たのは、
1967(昭和42)年06月01日(木)のことだった。
1967(昭和42)年06月04日(日) リリースから僅か3日後、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはロンドンのサヴィル・シアターでのショウのオープニングを、(『Sgt Pepper』の)アルバム・タイトル曲のカヴァーで飾った。折しも客席に居合わせたポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンはこの時、自分たちが何かとんでもなくスペシャルなものを作り上げたことを悟ったに違いない。それから5カ月も経たないうちに、ジェファーソン・エアプレインが、実験的な『Sgt Pepper』の影響色濃い『After Bathing at Baxter’s』をリリースする。これは彼らが同じ年にリリースしていた前作の『Surrealistic Pillow』とは全くかけ離れた作風のアルバムだった。ザ・ムーディ・ブルースもいち早く新たな音楽的視界の受け容れを表明したバンドである。67年11月、彼らがリリースした『Days Of Future Passed』はロンドン・フェスティヴァル・オーケストラの力を借り、ザ・ビートルズの影響を強く感じさせるサイケデリック・ロック/クラシック・サウンドを作り上げた。
1967(昭和42)年12月08日(金)には、ザ・ローリング・ストーンズが『Their Satanic Majesties Request』をリリースする。このアルバムは『Sgt Pepper』に対するシニカルなサイケデリック的回答と評価され、キース・リチャーズもこう認めている:「あれは、結局何とも中途半端なもんになっちまったな。ちょうどストーンズが新しいアルバムを出そうとしてた時に、『Sgt Pepper』が出てきて、要するに俺たちはあれのパロディーをやらかそうと考えたわけだ」。この他にも、ザ・ビートルズによって具現化されたアルバムには枚挙のいとまがなく、1968年のブリティッシュ・ロック・グループ、ザ・プリティ・シングスによる『SF Sorrow』から、一年後にはキング・クリムゾンが『In The Court Of The Crimson King(邦題:クリムゾン・キングの宮殿)』で明らかにそれと分かるオマージュを捧げた。ギタリストでありプロデューサーでもあるロバート・フリップは、ラジオ・ルクセンブルグで耳にしたジョン・レノンとザ・ビートルズの他のメンバーたちに触発され、かの歴史的プログレ・ロック・アルバムを作る着想を得たのだそうだ。「『Sgt Pepper』を聴いてから、私の人生は一変したんだ」、ロバート・フリップはそう言って憚らない。ザ・ビートルズはカウンターカルチャーの価値観をメインストリームに持ち込んだ。“ロック・アルバム”かくあるべし、という伝統的な不文律を破ることで、『Sgt Pepper』は他のアーティストたちに、それまでになかった新しいアイディアとアティテュードによる音楽へのアプローチを促したのである。レコードのプロダクションにおいても、このアルバムは専門的技術と革新性において新たな基準となった。ザ・ビートルズのファースト・アルバム『Please Please Me』は、全曲を実に僅か1日、約10時間で録音完了させたものだったが、『Sgt Pepper』は1966年11月から1967年4月まで、トータル約700時間の作業(プロデューサーのジェフ・エメリック談)が注ぎ込まれていた。レコードが完成するまでレコーディング作業を続けるという考え方(ただ単にスタジオを数日借りるということではなく)は革命的なコンセプトであり、プロデューサーのジョージ・マーティンによれば、‘道具としてのスタジオ’の定義を見直すきっかけにもなった。結果としてアビィ・ロード・スタジオの使用料総額が、当時としてはケタ外れの25,000ポンドに達したのも当然の成り行きだろう。更に画期的だったのはマルチ・トラックを使っての録音作業で、ジョージ・マーティンはその利点を駆使して西洋の音楽とインド音楽、ジャズ、そしてサイケデリック・ロックやポップ(ヴィクトリア時代のミュージック・ホール《訳注:ヴォードヴィル的演芸要素を含む軽音楽劇》をたっぷりと加えて)との融合を図り、声とインストゥルメンテーションによるめくるめくサウンド・コラージュを作り上げた。ポール・マッカートニーは『Sgt Pepper』が音楽カルチャーに‘大いなる違い’をもたらした理由のひとつとして、それ以前は「みんなポピュラー・ミュージックの枠の中で、少しばかり無難な方に寄っていたんだけど、僕らはふと気づいたんだよ、別にそうする必要なんかないんだってね」と語っている。『Sgt Pepper』は時に、史上初のコンセプト・アルバムとして称えられることがある。これは必ずしも的を射た表現とは言えないが(ドラマーのリンゴ・スターは、アルバムには首尾一貫したテーマは存在しないことを公式に認めており、レコーディング作業開始直後のセッションから生まれた2つの名曲、「Strawberry Fields Forever」と「Penny Lane」はそれぞれシングルとして出すことを前提に録音されたものだったと証言している)、世の人々はかの作品を‘コンセプト’・アルバムと信じて疑わず、その定義はもはや音楽界の民間伝承と化しているのだ。ザ・ビートルズに影響を受けたバンドには、ジェネシス、イエス、ラッシュ、ジェスロ・タルまで含まれており、彼らの独創的なアルバムは、空前の“ロック・オペラ”熱をも巻き起こすきっかけとなった。驚異的成功を収めたザ・フーの2枚組アルバム『Tommy』(1969)も、ティム・ライスとアンドリュー・ロイド・ウェバーによる『Jesus Christ Superstar』(1970)も、根元をたどれば『Sgt Pepper』という大木に行き着くのだ。ザ・ビートルズが変化の引金を引いたのは、何もロックの輪に限ったことではない。カーラ・ブレイはこのアルバムを聴いて、「これに負けないようなアルバムを作ってやる」と心に決め、それからの4年間を費やし、リンダ・ロンシュタットをフィーチャーして作り上げた前衛ジャズのトリプル・アルバム『Escalator Over The Hill』を1971年に世に送り出した。『Sgt Pepper』はまた、音楽上の第二の自我(ルビ:オルター・エゴ)という考え方を一般的に知らしめた。いつもの日常から一歩踏み出し、ステージの上やレコードの中では別のペルソナをまとっても差し支えないという発想は、「解き放たれたように感じさせてくれた」とポール・マッカートニーは言い、この冒険はやがてデヴィッド・ボウイやグラム・ロック時代のKISSをはじめとする多くのアーティストたちを巻き込んでいくことになる。もっとも、すべての人が『Sgt Pepper』を手放しで、何もかも超越した天才的作品と褒め称えたわけではなく、かのアルバムにインスピレーションを得て生まれた作品の中には、寧ろその逆に近い反応もあった。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションがヴァーヴ・レコードから1968年にリリースした『We’re Only In It For The Money』(*訳注:直訳すると「俺たちはただ金のためにやってるだけだ」)は、アルバム・カヴァーからして『Sgt Pepper』のパロディで、その政治的スタンスと、60年代後期のカウンターカルチャーの心臓部と思われていた、いかにもインチキ臭い“ヒッピー的”価値観を痛烈に諷刺した。ザ・ラトルズは『Sgt Pepper』ならぬ『Sgt Rutler’s Only Darts Club Band』というパロディ・アルバムを出し、子供向けTV番組の『セサミ・ストリート』までもが、‘With A Little Yelp From My Friends’という曲をレコーディングした。しかし、ザ・ビートルズがこのアルバムで切り拓いた新たな道は、実は音楽だけに留まらなかった。フロントの眩惑的なヴィジュアルは、アルバム・カヴァーがモダン・アート作品になり得ることを確信させたし、アルバムのパッケージの一部に全収録曲の歌詞をすべて完全な形で組み込んだ、最初のロック・アルバムともなったのである。マイケル・クーパーの撮影による写真では、バンド・メンバー全員が揃いのサテンのスーツ姿で、画家のピーター・ブレイクと彼の当時の妻ジャン・ヘイワースが制作したメイ・ウェスト、オスカー・ワイルド、ローレル&ハーディ、それにW.C.フィールズといった歴史上の人物たちの段ボールのコラージュの前に立っている。これは60年代サイケデリック時代全体を通じて、最も不朽のイメージのひとつだろう。『ザ・シンプソンズ』をはじめ、このカヴァーは愛情をこめて何百回と真似されてきた。2016年には、英国の芸術家クリス・バーカーが、レナード・コーエン、プリンス、フットボール選手のヨハン・クライフ等、同年惜しまれつつ亡くなった各界のスターたちをキャスティングした新たなヴァージョンを発表している。アルバム全体と同様、『Sgt Pepper』は曲単位でも数え切れないほど多くのカヴァー・ヴァージョンを触発している。特によく知られているのは♪Lucy In The Sky With Diamonds♪ エルトン・ジョン ♪With A Little Help From My Friends♪ ジョー・コッカー他、ハリー・ニルソン、ファッツ・ドミノ、ブライアン・フェリー、ジェフ・ベック、ソニック・ユース、アル・ジャロウ、ビリー・ブラッグ、そしてビリー・コノリーに至るまで、実に多くの優れたカヴァーが世に出ているのだ。20世紀の音楽の傑作に対するトリビュートは、1995年のスマッシング・パンプキンズの後も、世紀をまたいでなお続いている。カイザー・チーフスは1967年のレコーディング時にエンジニアを務めたジェフ・エメリックの手による2007年のトリビュート・アルバムのために、「Getting Better」のカヴァーを提供した。ブライアン・アダムスも参加したこの『Sgt Pepper』のニュー・ヴァージョンの録音に際し、ジェフ・エメリックはオリジナルのレコーディングで使用されたのと全く同じ機材を使っていた。アメリカのバンド、チープ・トリックは、2009年のライヴ・アルバムでフル・オーケストラをフィーチャーしたヴァージョンを披露し、更に2011年にはアメリカ人ギタリストのアンディ・ティモンズが、1970年に別のザ・ビートルズのアルバム、『Abbey Road』の全曲カヴァーを出した例に倣うように、全曲インストゥルメンタルのカヴァー・アルバムを出している。『Sgt Pepper』が何故こんなにも絶大な影響力を持っているのかを恐らく最も的確に総括してくれるのは、ロジャー・ウォーターズの言葉だろう。ピンク・フロイドの1973年の名作『The Dark Side Of The Moon(狂気)』の構想に、このアルバムがいかに大きな役割を果たしていたかについて、彼はこう説明している:「俺はレノン、マッカートニー、そしてハリスンから、俺たちの人生について書いてもいいんだ、感じたままを表現していいんだと教わったんだ ……あれは他のどんなレコードよりも、俺と俺の同世代たちに、思い切って既定路線を外れて、何でもやりたいことをやっていいんだって許可を与えてくれたんだよ」。
https://www.udiscovermusic.jp/stories/beatles-influence-sgt-pepper
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『SGT:PEPPER'S』を可能にした10の事
2017(平成29)年05月15日(月) STORIES Written by Laura Stavropoulos
『Sgt. Pepper』はザ・ビートルズのカタログにおいても、人々の記憶においても唯一無二の地位を占める作品である。あなたの音楽的な傾向にかかわらず、一般的に、音楽、文化、両面にとってこのアルバムの影響力が非常に巨大なものであることは否定できない。歴史は、サージェント・ペパーズ以前と以後で分類されるのだ。そのリリースを直に体験したことのない人々にとっては、『Sgt. Pepper』へのなじみは軽減されているだろう。かつては広く革新的であり、大いに新しいものであったものが、今や“クラシック・ロック”に分類されるからだ。それにもかかわらず、『Sgt. Pepper』はロックを“尊敬すべき”アート・フォームたらしめ、その評判は、その後何十年にわたって聞かれることとなる。『Sgt. Pepper』は1967年にしか生まれえなかったものかもしれない、それを理解するには、文化と音楽の間の共生関係を理解しなくてはならない。このアルバムの50周年を記念して、ザ・ビートルズ史上もっとも、褒め称えられた功績へと導いた周囲の状況を考察してみよう。
01:60年代カウンターカルチャー■カウンターカルチャーの精神は、『Sgt. Pepper』以前に、一足早く姿を現していた。ボブ・ディランが彼の伝説的な2枚組アルバム『Blonde On Blonde』をリリース、一方で、ブライアン・ウィルソンは、ザ・ビーチ・ボーイズで『Pet Sounds』を制作した。一見したところ、すべてのアーティストが創造的にフル回転しており、その1年間に及ぶ、凄まじいリリースのペースは異例なものであった。アメリカの両海岸、そして、イギリスにおいて、アーティストは各々刺激しあい、次々に何か新しいものが創作されるなど、文化的な交流が開放されていた。ジョン・レノンの指摘によると、ザ・ビートルズがカウンターカルチャーを作り上げたわけではない、しかし彼らが最も周知されたシンボルであることは間違いない。「僕らがみんなのヘアスタイルを変えたなんてほんの微々たることだろ?だけど、僕らは何らかの影響を受けたんだ、そこに漂っているすべてにね」とジョン・レノンは語った。「僕たちは60年代のすべての一部だよ。それは自然に起こったことだ。僕らはストリートで起きていることを代表するためのひとつとして選ばれただけ」。『Sgt. Pepper』は60年代文化の反体制的な本質を捉えたものではない一方で、音楽、ヴィジュアル・アート、歌詞のイメージといった点において、その寛容性を定義していた。ボードビリアン的な「Being For The Benefit Of Mr Kite!」から 「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」のスポークン・ワード、そして、「A Day In The Life」のフル・オーケストレイションまで、それらは、前衛的芸術とポップ・ミュージックの境界線をあいまいなものとしたのだ。
02.カリフォルニアのサイケデリックなバンドのバンド名■東海岸、特にサンフランシスコのシーンで起きていること夢中になり、ポール・マッカートニーはバンドの名前の最近の流行は、革命的に長く、そしてより想像力に富んだものであることに気が付いた。もはやザ・ビートルズ、ザ・バーズ、ザ・キンクスといったものではなく、それらは突然、ローター・アンド・ザ・ハンド・ピープル、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー、そしてジョン・レノンの提案(*訳注:インタビューにおける発言)の“フレッド・アンド・ヒズ・インクレディブル・シュリンキング・グレイトフル・エアプレインズ”といったものになった。バンドはパロディの偽名を無造作に口にしながら、ザ・ビートルズという名前を忘れるアイディアをうみだし、それ自身に新しいアイデンティティを創造していった。
03:オルター・エゴ(別人格)の採用■この時点までに、ザ・ビートルズの人気は、成層圏に届くレヴェルに達していた、そしてザ・ビートルマニアはバンドの音楽自体を曇らせてしまうほどだった。バンドは、彼らのモップの様な髪型の時代のイメージからの解放を求めており、それがオルター・エゴという未踏の地への探検へと導いたのだ。後にポール・マッカートニーは、「自分たちのアイデンティティを失うというのは素晴らしく思えたんだ、偽のグループのペルソナに、自分たちを隠してね」と思い出して語った。そして、サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドは生まれたのだ。この流動的なアイデンティティという考えは、カウンターカルチャーの若者たちにの心に強く響いた。もはやその人の将来すべては出自で決定するものではなく、自己改革はシンプルに行うことにできるのだ。
04:ザ・ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』■ジョージ・マーティンとポール・マッカートニーは、ザ・ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』を公に褒めちぎっており、『Sgt. Pepper』にとって、影響力を与えたものであったと公言している。ジョージ・マーティンはもしもブライアン・ウィルソンとザ・ビーチ・ボーイズがこの名盤を制作しなかったならば、「“Sgt. Pepper”は生まれなかっただろう」と語っており、ポール・マッカートニーは、「このアルバムにおける音楽的改革は、ただ‘ワオ!’という感じだよ。僕にとってはとても大きなことだった。しまった、これは最高傑作だ。いったい僕らは何をやってるんだ?って思ったね」と語った。しかし一方『Pet Sounds』は永続的なローテーションの中にあった、この作品はブライアン・ウィルソンがザ・ビートルズの『Rubber Soul』に影響を受けなければ、生まれなかったからだ。そして、このサイクルは続いている。
05:フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの『Freak Out!』■もし、ブライアン・ウィルソンが、ポップな側面に助言を与えたとしたら、フランク・ザッパは、ザ・ビートルズにより革新的であるようにと後押ししたといえるだろう。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの1966年のデビュー・アルバム『Freak Out!』は、ネオクラシカルなオーケストレーションとジャズの即興性を合体させ、カウンターカルチャー的な政治が内包され、また、単なるLPフォーマットを、コンセプチュアルな声明へと変化させた最初ともいえる作品であった。『Pet Sounds』も『Freak Out!』も、ロックとは、スタジオ・プロデューサーのメディアであるだけでなく、パフォーマンス・アートであることを証明したのだ。『Freak Out!』がLAのフリーク・カルチャーにおける宣言であったならば、『Sgt. Pepper』はサンフランシスコのヒッピーたちのサブカルチャーの高尚な宣伝といえるだろう。
06:ツアーをやめたこと■オルター・エゴの採用を決定する前、ザ・ビートルズは、ツアーをやめることを決めた。不便さを別にしても、熱心なファンや、ジョン・レノンのキリスト教を冒涜するように見える発言を受け入れない好ましくないオーディエンスのおかげで、ツアーはバンドにとって物理的に危険なものになっていた。1966年8月29日に、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われた彼らのパフォーマンスが、1969年の有名なアップル・ルーフトップ・パフォーマンスを別にして、最後のコンサートとなった。それぞれに自分のやり方で逃避していたメンバーが、1966年11月にふたたび集まった時、彼らは、ワーキング・バンドであることよりも、よりコンセプチュアルなアイディアと共にあることへと変化することを決めた。彼らの曲の中で、民主的にヴォーカルと楽器のパートを分け合わなければ、彼らはお互いの強みにより自由でいることができ、また、完璧に近いところまで成し遂げるために、スタジオで(音を)いじくりまわすことができたのだ。リンゴは『Anthology』のブックレットの中で、バンドの考えを総括して語った、「ツアーをやめると決めた後、僕らはわずかなことを気にせずに済むようになった。『Revolver』や『Rubber Soul』を聴けばわかるように、僕らはスタジオでより楽しめるようになった。スタジオから引きずり出されて、ツアーに出る代わりに、(スタジオで)時間を費やせるようになったし、リラックスできたんだ」。
07:スタジオにおける実験とジョージ・マーティン■アビィ・ロードにおけるセッションの間に、ザ・ビートルズは彼らのビートルマニアの章の幕を閉じ、スタジオ・イヤーズともいえる章の幕を開けたのだ。何年もの間、多くのロックとポップはある程度ライヴで演奏ができるように制作されていた。レコーディング・プロセスがどうかというと、大まかなやり方は、ライヴ・パフォーマンスを録音する、もしくは再構築するといったものだった。しかし、ジョージ・マーティンと・ザ・ビートルズは、彼らの奇抜な考えで、それらをひっくり返したかった。ジョージ・マーティンが語ったところによると、「テープでしかできない何かをテープの中に落とし込みたかったんだ」ということだ。彼はプロデューサー以上の存在であり、ザ・ビートルズ・サウンドの建築家であり、グループにより前衛的なタイプのレコーディングを経験させ、彼らの視野を広げるアイディアに触れさせた。
08:技術的制限■当時のスタジオ技術を使用して、ジョージ・マーティンとザ・ビートルズが成し遂げたことは、並外れたことであり、それが、『Sgt. Pepper』を印象的なものにしている。すべての素晴らしいアイディアのように、逆境は、創意あふれるアイディアの源である。1967年までに、マルチ・トラック・レコーディングは業界のスタンダードになっていたが、エイト・トラック・テープ・レコーダーは、アメリカではありふれたものであったが、イギリスでは、1967年後半まで、そうではなかった。アルバムにおけるサイケデリックなサウンド・エフェクトの大半は、ヘッドフォンをマイクとして利用したり、マイクをスタジオにある様々なものとつなげたりする独創的なアイディアや他の創意あふれる工夫によって、作り上げられた。
09:東洋的神秘主義■ザ・ビートルズは、他の西洋世界と同様に、インドの音楽の伝統、精神性、文化に夢中になっていった。その影響は、『Rubber Soul』収録の「Norwegian Wood」のころから感じられる、そして、特に、『Revolver』収録のジョージ・ハリスンによる「Love You To」では色濃く感じられる。ジョージ・ハリスンのインド音楽への興味は一生かけての情熱として花開いた。『Sgt. Pepper』のセッションが始まる前、ジョージ・ハリスンはボンベイへ、ラヴィ・シャンカールのシタールのレッスンを受けるために旅立った。結果として、東洋に染まった「Within You Without You」が生み出され、「Lucy In The Sky With Diamonds」のバックの音色にもそれは現れている。
写真◆George Harrison Ravi Shankar Credit: Michael Ochs Archives/Getty Images
10:音楽業界のトレンドを無視した■1966年までに、次々と巨大なヒットを蓄積しており、
1966(昭和41)年12月31日(土)までに、アルバム『Revolver』はアメリカだけで、1,187,869枚売り上げていた。彼らの成功は、自身をソングライティング、楽器/機材の使用において新しいアプローチを試みることのできるポジションへと押し上げていた。彼らは、それぞれのアルバムで、ロック・ミュージックが許容しうる定義を広げて、またあらゆるジャンルのファンにリーチすることができる能力は、メインストリームへのアピールを残しつつも、彼らに違うスタイル、楽器での演奏を可能にした。ポピュラー音楽の思いつきを通過しそれにこたえてこなければ、ザ・ビートルズはダンス・ミュージックやラジオ・フレンドリーなシングルを作ることを避けることができただろう。その代わりに、彼らはロックのスタンダードを上げ、その後すぐに頭角を現すプログレッシヴ・ロックや、アートロックの未来を切り開いたのだ。
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