下半身が元気すぎるカブトムシの亡骸が話題 なぜこんな状態に?専門家に聞いた
2019(令和元)年10月03日(木) 06:00 話題の画像
カブトムシ、幼少期によく捕まえた。艶のある背中、カッコいい角に惚れ惚れしたものだ。あの頃はひっくり返して、裏側をまじまじと見ることはなかった。そして大人になった今だって、まじまじと見ることは中々ないだろう。
写真◆カブトムシの裏側(画像はまさあき(@masaakisyumiaka)さん提供)
今ご覧いただいているのは、ツイッターにアップされた、カブトムシがひっくり返って死んだ姿である。何が目に飛び込んできただろうか。角、バンザイ状態の手、曲がった足だろうか。筆者が気になったのは、陰部である。見事に隆起している。死んでいるのに、元気なカブトムシ。すごい。でも体に一体何が起きているのだろうか。Jタウンネットは甲虫類を研究している専門家に話を聞いた。
◎大きくなることはない
まさあき ⇒ うちで飼っているカブトムシの中で一番小さい個体が死んでしまって、標本にしようと思って持ち上げたらなんとフル勃起状態で亡くなってた...
こちらはツイッターユーザー、まさあきさんの投稿。死んでしまった個体を標本にしようと持ち上げたところ、陰部に突起があることを発見したのだ。衝撃的なカブトムシの姿は、5000件以上のいいねを集めるなど注目を集めている(2日18時現在)。リプライ欄には、
〇立派ですねそそり立つ壁に見えなくもない
〇ったく...これじゃどっちが頭かわかんねぇよ...
〇男の死にざまですね(-人-)ナムナム などカブトムシの最期に答える声がぞくぞくと挙がっている。
‡2019(令和元)年10月02日(水)、Jタウンネットは、まさあきさんに取材をしたところ、死亡を確認したのはつい先日だという。“「普通は亡くなると足が縮こまってひっくり返っているのに、この個体の場合はうつ伏せの状態で足を広げて、なおかつペニスが露出していました」こう話す彼は、現在成虫3匹、幼虫237匹を飼っているカブトムシ好きだ。性器を見たときはビックリしたと述べた。亡くなってしまっては全身からエネルギーがなくなるだろうに...。筋肉(?)なども動かないのだから、当然交尾器が隆起することはないはずなのに...。これはいったいどういう状態なのだろうか。Jタウンネットは同日、甲虫類を研究する愛媛大学准教授の吉冨博之さんに話を聞いた。実際に画像を見てもらうと“「カブトムシは節足動物の仲間つまり外骨格を持っています。わかりやすくいうと、缶詰めのようなもので、外側が固くて中側が柔らかい。この画像は、その交尾器が出ている状態です。雄の交尾器というのは外骨格なので、基本的に固い部分です。その状態で、体の中にしまいこまれています。交尾をするときに、固い状態のものを雌の腹部の中に挿入します。それは、人間の交尾器とは全然違って、勃起するとかそういうものでは(生物学的に)ありません。単に交尾器が外側にでているだけです」つまり、大きくなったり小さくなったりするものではないのだ。外骨格なのだ。まだまだ知らない昆虫の事情がわかった。吉富さんも“「カブトムシの交尾器を見る機会もないですもんね」と話す。なかなか見ることがないカブトムシの裏側。まさか、こんな形でまじまじと見ることになるとは...。
https://j-town.net/tokyo/column/allprefcolumn/295516.html?p=all
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┃ 至高の昭和プロレス名勝負列伝 ┃
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2019(令和元)年11月04日(月) 20:00 ~ 22:00
~力道山・BI砲 伝説の貴重映像一挙公開~(力道山 1)
これが力道山だ! &徳光実況で復活! ジョナサン戦
日本プロレス界の父力道山が亡くなって55年。
1983(昭和58)年12月15日(木) 日本テレビでOAされた『新・力道山奮戦録』を放送(※一部権利関係のため抜粋) そして、
‡1958(昭和33)年10月02日(木)、第2代インターナショナルヘビー級王者・力道山の初防衛戦を放送。
挑戦者は“人間台風”ドン・レオ・ジョナサン。この試合は日本テレビに音声のない状態で保存されていたが、
60年経った今、元日テレアナウンサーとしてプロレス実況を担当していた徳光和夫が、新たに実況を入れたことでついに陽の目を浴びることになった貴重な試合。また、最強レスラーを決定する「ワールド大リーグ戦」の歴史を振り返る。
完全版映像◆https://www.bilibili.com/video/av39802096/
映像◆Rikidozan vs. Don Leo Jonathan https://youtu.be/p8VFb64Z2Sg
‡1958(昭和33)年10月02日(木)
http://www.ntv.co.jp/G/prowrestling/shikonoshowa/
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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‡1961(昭和36)年10月02日(月) 大相撲の大鵬関と柏戸関が横綱に同時昇進 ⇒ 大相撲で、名古屋、秋と2場所連続優勝した大鵬関と、秋場所で準優勝した柏戸関が横綱に同時昇進し、「柏鵬時代」が幕を開けた。優勝回数は大鵬関の32回に対し、柏戸関が5回だったが、両者の対戦成績は大鵬関の21勝16敗とほぼ伯仲していた。写真は1967年夏場所千秋楽で大鵬関(左)を破る柏戸関【時事通信社】
‡1967(昭和42)年10月02日(月) 深夜ラジオ番組『オールナイトニッポン』放送開始 ※2020(令和二)年記事追加
‡1985(昭和60)年10月02日(水) 関越自動車道が全線開通 ※2020(令和二)年記事削除
‡2005(平成17)年10月02日(日) 女子ゴルフの宮里藍選手、日本女子オープンに最年少で初優勝
https://www.jiji.com/jc/daily
1980(昭和55)年05月18日(日) 米国でセントヘレンズ山が噴火 ⇒ 米ワシントン州のセントヘレンズ山(標高2903メートル)が大噴火した。山頂部分は吹き飛ばされ、直径2キロに及ぶカルデラが形成された。住民の避難が事前に行われたため、死者は57人にとどまった。※2022(令和四)年説明削除
‡2004(平成16)年10月02日(土) 写真は、大噴火の24年後に再噴火した時の様子<米地質調査所提供>【EPA時事】
https://www.jiji.com/jc/daily?d=0518
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1960(昭和35)年10月2日(日) 広島市民球場で巨人・水原監督の殴打事件!
‡2017(平成29)年10月2日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月2日だ。
写真◆11月19日には川上新監督(右)が就任会見。水原前監督も笑顔で握手していたのだが
「1対1で勝負しよう!」
怒声が響いたのは、
‡1960(昭和35)年10月2日(日)、広島市民球場での広島─巨人ダブルヘッダーの後だった。この年、巨人、西鉄の監督としても優勝経験がある三原脩が万年最下位の大洋監督に就任。いきなり大旋風を起こし、巨人がこの日の1試合目に敗れた時点で球団初の優勝が確定していた。
水原監督は試合後のベンチ裏で、至近距離から盛んにシャッターを押していたカメラマンに「いい加減にしろ。撮るな!」と怒鳴り、それでも撮り続けた1人を何度か殴打。さらには冒頭の言葉を吐いてロッカールームに引きずり込もうとした。
このときは周囲がとりなし、冷静になった水原監督がカメラマン謝罪して収まったが、球団はすぐ水原監督を謹慎処分とし、翌日から閉幕まで川上哲治ヘッドコーチが監督代行として指揮を執り、
1960(昭和35)年11月19日(土)になって川上の新監督就任、水原監督のフロント入りが発表された。
もともと水原は球団社長の品川主計と対立。オフの退任騒動は定番のようになっていた。それでも勝っていればよかったのが、1956(昭和31)年から3年連続で三原監督率いる西鉄、1959(昭和34)年には南海に日本シリーズで敗れ、4年連続で日本一に届かず、さらにこの年は、前述にように三原監督率いる大洋に敗れ優勝を逃した。シーズン終盤から監督交代は既定路線になっており、それを察知していた水原のフラストレーションが爆発した事件でもあった。
なお水原はその後、巨人を退団。
1960(昭和35)年12月8日(木)に東映監督に就任している。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1961(昭和36)年9月7日(木) 2日がかりの試合に怒り、後楽園のスタンドでたき火?
2017(平成29)年9月7日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は9月7日だ。
写真◆問題のシーン。左の藤尾のタッチを土屋(右)が長嶋を盾にしながら逃げた
‡2017(平成29)年10月2日(月)発売の『ベースボールマガジン』で、取り壊しから今年で30年を迎えた後楽園球場を特集するが、
1961(昭和36)年09月7日(木)は、このプロ野球の聖地が焼き討ちに……、いや、大げさか。たき火事件? があった日だ。
巨人─国鉄(現ヤクルト)のダブルヘッダー第2試合だった。2対2で迎えた延長11回表二死一、二塁から国鉄の鈴木秀幸が三塁ゴロ。封殺を狙い、巨人のサード・長嶋茂雄が三塁ベースに駆け込むが、俊足の二走・土屋正孝の足が一瞬早くセーフ。ただ、土屋は勢いあまってオーバーランとなり、やむなく、そのままホームへ向かう。
間を詰めた長嶋が、捕手・藤尾茂に投げた後だった。戻ろうとした土屋と長嶋がぶつかりそうになり、土屋は写真のように長嶋を盾にするようにして藤尾のタッチをかわすと、ホームに滑り込んだ。
しかし、審判は藤尾がアピールしたタッチを認め、アウトの判定。これが22時1分のことだった。この後、国鉄の砂押邦信監督が抗議し、審判団が協議。「長嶋の走塁妨害」を認め、セーフとした。
すると今度は巨人が猛抗議。22時25分、一度は了承してベンチに戻ったが、その間、右翼外野席でファン同士のケンカが始まり、騒然となる。座布団やビール瓶が次々、グラウンドに投げ込まれ、スタンドで紙くずに火をつけ、たき火を始めた者もいた。
巨人側もしつこい。一度はベンチに戻ったが、ふたたび審判団に「土屋は3フィートを超えたからアウトでは」と再抗議する。これでファンはふたたび騒ぎだし、ついには球場の要請で機動隊60人が出動。観客とにらみ合いながらグラウンドで警備する中で、協議は1時間続いた。
試合は巨人が連盟への提訴の条件に試合再開に応じ、23時53分再開。土屋の生還で国鉄が3対2とリードした試合は、11回裏を金田正一が抑え、深夜0時11分ゲームセット。その後も、ざぶとんやら何やらが次々と投げ込まれ、金田は頭をかかえるようにしてベンチに戻った。
プロ野球初の2日がかりの試合となったが、すごいのは金田だ。実は、この試合の先発。しめて1時間52分の中断をものともせず完投したことになる。さすが!
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171002-14
http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170907-13
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┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.183 ┃ 30円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1961(昭和36)年10月02日(月)号 ど真ん中に投げても打たれぬ巨人・村瀬
2018(平成30)年04月28日(土) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎本文巻頭は『水原・川上戦わば』
写真◆表紙は巨人・長嶋茂雄
今回は『1961年10月2日号』。定価は30円だ。巨人の三番・王貞治、四番・長嶋茂雄の「ON砲」がいつから言われ始めたのかは定かではないが、ヤンキースのミッキー・マントル、ロジャー・マリスのいわゆる「MM砲」がきっかけになったのは間違いない。
この61年、王はまだ一本足打法にはなっていないが、グラビアに「ヤンキースのマリス、マントルの日本版か」とある。もしかしたら言われ始めていたのかもしれない。
本文巻頭は『水原・川上戦わば』。それぞれリーグでV争いをけん引する東映・水原茂監督、巨人・川上哲治監督の話だが、なんと因縁深き、大洋監督・三原脩にインタビューしている。自らチームが最下位とあって、三原も気楽なもので、「けっきょく、巨人軍は非常に常識的な選手が多すぎるということになるでしょうね。それが圧倒的な力を出せない原因でしょうね」と言いたい放題。
巨人-東映の日本シリーズが決まった場合については「はっきり言えることは選手の技量以上に、監督同士の才能と度量の戦いになるでしょうね」と語っている。いつも言葉にトゲがある人だ。
前回紹介した途中入団の巨人・村瀬広基は9月17日の広島戦で完封勝利を飾った。『優勝狙う右腕堀本と村瀬』では、別所毅彦コーチが以下のように称賛している。
「あのシュートはワシの若いころを思い出させるよ。なんと言っても球が重いことがいいね。ズシンとくる。捕手ならだれに聞いても分かるけど、みんな手がはれているんだ。だからたとえど真ん中に投げ込んでも打たれない。バットには当たるんだけど、飛ばんのさ」
真ん中でも打たれないなら無敵だ。
佐々木信也の連載対談では、南海の親分・鶴岡一人監督が登場。前回、右腕の動脈閉そくの記事が出た杉浦忠は、対談の前日が手術だった。血の循環をよくするための手術だったらしい。
佐々木に監督の苦労について聞かれた鶴岡は、こんなふうに答えている。
「覚悟はしてるよ。ほかの人よりよけい給料をもらっているんだから、それで腕組んでぼやっとしとって優勝できるなら、こんないい商売ないよ。やっぱりゼニをもらう人はそれだけ悩みがあるわけや」
以下、宣伝。
週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』が好評発売中。第3弾の『阪神編』はめでたく本日発売です。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.488 ┃ 60円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1967(昭和42)年10月02日(月)号 鉄仮面・藤井栄治のマスコミ塩対応
2019(令和元)年06月24日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎サンケイ・武上四郎のケンカ自慢
写真◆表紙は巨人・柴田勲
今回は『1967年10月2日号』。定価は60円。
鉄仮面と言われ、ほとんど表情を変えなかった阪神の藤井栄治。そのマスコミへの塩対応が面白い。
巨人戦でサヨナラ本塁打を打った後だ。大勢の報道陣に囲まれた藤井は、「どんな球だった?」と聞かれ、
「それは僕よりも投げた本人のほうがよく知っていると思うので、向こうに聞いてください」
さらに「ベースを1周したとき何を思った?」には、
「別に何も考えなかったですよ」
ほかにも何を聞いても、そっけない返事ばかり。
別に機嫌が悪いわけではなく、いつもそうだったようだ。
親しい記者に「何か喋れよ。これじゃ記事が書けん」と言われると、
「何も言うことないんですよ。書くことがないんだったら、なんでもいいから書いてください。何を書いてもらってもいいですよ」
一人の記者がむっとして「じゃあ、でたらめでもいいんだな」と言ってきたが、これも涼しい顔で、
「ああ、いいですよ。まさか命まで取るとは言わんでしょ」
さすが。
サンケイの新人王候補・武上四郎が妙な自慢をしていた。
「世間広しといっても、パトカーで通学したのは、俺ぐらいのものだろう」
一昔前、故郷の宮崎市では“ケンカ四郎”と呼ばれる有名人だったという。
「中学時代から子分を40人持つガキ大将。毎日ケンカばかりやっていたが、一度も弱い者いじめはしていない。相手はいつも土地の不良やチンピラだったよ」
特に激しく抗争していたのが柴団と名乗るチンピラグループだったという。
「一度、その一人をこっぴどくやっつけたので警官が出てきた。しばらく自宅謹慎となった後、学校に行くようになったのだが、警察が“お礼参りがあるといかん”とパトカーで送り迎えをしてくれたんだ。いい気持ちだったな」
優勝へのマジックナンバーが1ケタになった阪急ではマジメ助っ人、ウインディの評判がいい。
来日からこれまでは、いつも打率2割5分台だったが、この年は3割近い打率を残している。
マジメで愛妻家。趣味はギターをつまびきながらウエスタンものを唄うことで、なかなかの美声だったらしい。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180428-11
②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190621-01
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┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.093 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
【怒れる男たち No.05】
カメラマンに“タイマン”を挑んだ名将・水原茂のご乱心【怒れる男たち】
2018(平成30)年03月26日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
カメラマンに「いい加減にしろ」
巨人・水原茂
‡1960(昭和35)年10月02日(日)、広島-巨人のダブルヘッダー(広島市民)の1試合目に巨人が敗れ、大洋の優勝が決定した。
そして、失意のなかで戦った2試合目の後、巨人・水原茂監督が爆発する。ベンチ裏の通路で至近距離から盛んにシャッターを押していたカメラマンたちに「いい加減にしろ」と怒鳴り、それでも撮り続けたカメラマンに対し、「1対1で勝負しよう」とロッカールームに引きずり込もうとしたのだ。
周囲がとりなし、水原監督がカメラマンに謝罪したことで、その場は収まった。だが、球団は水原監督に謹慎を命じ、シーズン終了まで川上哲治ヘッドコーチが監督代行として指揮を執った。その後、
1960(昭和35)年11月19日(土)には水原のフロント入り、川上新監督が発表。水面下で自分の退任話が進んでいるのを知っていた水原のイライラが招いた事件とも言える。その後、
1960(昭和35)年12月08日(木)には水原の東映監督就任が発表された。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
②┃ プロ野球仰天伝説 No.031 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
メジャーがあこがれた成田文男の高速スライダー
2018(平成30)年1月23日(火) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
ウイリー・メイズからも三振
抜群のキレ味を誇るスライダーを投げた成田
メジャー・リーガーが認め、あこがれたという魔球が、ロッテ・成田文男のスライダーだ。数種類のバリエーションがあり、タテ、横に大きく変化するものもあったが、一番効果的だったのは、ストレートとほとんど変わらぬ140キロ台の速球で、打者の手元で鋭く曲がる、いまならカットボールだ。
入団当時はストレートとカーブだけ。もう1球種ないとプロでは勝負できないと、3年目を前に身につけたのがスライダーだった。「誰にも投げ方は教わっていない。いろいろやっているうちに自然と投げられるようになった」という。
この1967(昭和42)年に14勝とブレーク、さらに20勝を挙げた
1968(昭和43)年オフにはカージナルス相手の日米野球でも好投。カージナルスの一員として来日したスティーブ・カールトン(のちサイヤング賞。殿堂入りも)が、そのスライダーを見て衝撃を覚え、自ら研究し、自分のものにしたという逸話もある。
1971(昭和46)年、アリゾナで行った春季キャンプでは、サンフランシスコ・ジャイアンツを10回1失点で抑え切った。このときは大打者、ウイリー・メイズからも三振を奪い、すぐメジャー関係者から熱心に誘われたというが、「興味がない」と断った。
成田文男(なりた・ふみお)
‡1946(昭和21)年10月2日(水)生まれ。東京都出身。修徳高から
1965(昭和4)年に東京(のちロッテ)入団。2年目の
1966(昭和41)年には先発の一角も確保した。4年目の
1968(昭和43)年から3年連続20勝以上、
1969(昭和44)年には球団初のノーヒットノーランも記録している。
1970(昭和45)年に25勝で、
1973(昭和48)年には21勝で最多勝に輝いた。
1980(昭和55)年に日本ハムへ移籍、
1982(昭和57)年限りで現役引退。
2011(平成23)年4月21日(木)死去。主なタイトルは最多勝利2回、最多奪三振1回。通算成績534試合、175勝129敗8セーブ、防御率3.20
┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
③┃ プロ野球仰天伝説 No.196 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
前日頭部への死球で病院に運ばれながら放った劇的満塁弾
2018(平成30)年7月7日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
◎広島との熾烈なデッドヒートのなかで
写真◆満塁弾を放った巨人・クロマティ
鈍い音が客席まで届き、一瞬、満員の神宮球場が静まり返った。
1986(昭和61)年10月2日(木)、ヤクルト対巨人の6回一死。ヤクルト・高野光の145キロのストレートが巨人・クロマティの右頭部のヘルメットに直撃。大きく三塁側にはねた。タンカで運ばれ、そのまま救急車で病院へ。試合後、「外角球と思い、踏み込んだのでよけ切れなかった。ぶつかった瞬間も覚えているし、大丈夫」と本人のコメントが出され、治療に当たった医師も「首に痛みがあるようだが、頭の中ではない。後遺症はないでしょう」と説明した。
8月に入り、首位に立った巨人だが、
1986(昭和61)年9月23日(火)直接対決で敗れて広島に抜かれ、さらに翌日、四番の原辰徳が広島の守護神・津田恒実の球をファウルした際、左手有鉤骨骨折で離脱。試合も敗れた。
だが、そこから巨人は息を吹き返し5連勝。再び広島を抜く。その原動力となったのが新四番・クロマティだ。そこでの死球。試合には勝ったが、王貞治監督の眉間のシワがさらに深くなった。
翌1986(昭和61)年10月3日(金)、クロマティは再検査を受けた後、家に戻り仮眠。そこから自分で車を運転し、ヤクルト戦開始近くに神宮球場入りした。練習はしていないが、王監督には「代打でいいから出してほしい」と申し出た。
巨人は水野雄仁が先発も初回、いきなり3失点。それでも3回表に3点を取って同点にし、マウンドに斎藤雅樹を送った。クロマティもブルペンに向かい、投手の球筋を追う。いまさらバットを何回も振るより、目を慣らしたほうがいい。あとは1球で仕留めればいいのだ。
◎奇跡のひと振りでベンチも涙、涙
6回だった。二死満塁とし、打者は一番・松本匡史。ここで王監督は決断した。クロマティの名を告げる場内アナウンスと同時に、すさまじい歓声が起こる。1ボール2ストライクの後、尾花高夫の外角への速球だった。バットを一閃すると打球はバックスクリーン左へ。満塁本塁打だ。クロマティは右手こぶしを突き上げ、大きくほえた。
ホームにかえると選手、コーチが泣き笑いで次々抱きついてきた。巨人ファンからクロマティが好きな「バンザイ」コールが起こった。
「みんな泣いていたし、オレも泣いたよ。ベリー・エキサイティング!」とクロマティ。一番泣いていた感激屋の中畑清は「こんな試合をしたんだ。絶対優勝できるぞ!」と目をぎらつかせて語った。
この試合、8対3で勝利した巨人は、さらに翌日の阪神戦にも勝ったが、広島も負けない。巨人は
1986(昭和61)年10月07日(火)、同じ神宮でヤクルトに逆転負けし、ついにゲーム差なしながら2位転落。
1986(昭和61)年10月12日(日)には広島の優勝が決まり、巨人はわずか3厘差で優勝に届かなかった。
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②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180123-10
③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180707-12
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┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
④┃ プロ野球仰天伝説 No.192 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
4強が0.5差にひしめく空前絶後の超熱パ
2018(平成30)年7月3日(火) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
「西武以外ならどこが勝ってもいい」
写真◆結局西武がV5を達成した
現在、パ・リーグは3位にソフトバンク、オリックス、ロッテが並び、首位・西武、2位・日本ハムと4ゲーム差の中に5チームがひしめく混戦となっている。果たして、どこまで“熱パ”が続くのか。プレーする側にとっては胃の痛い日々が続くかもしれないが、1994(平成六)年のペナントのような展開になれば面白い。
同年のシーズン半ば、「西武以外ならどこが勝ってもいい」とオリックスの仰木彬監督は、パ・リーグ5球団の思いを代弁するかのように言った。この年も西武の優勝を許すようなことになれば、他球団にとっては屈辱とも言うべきパ初の5連覇が達成されてしまう。
“西武王国”の牙城を崩すため、他球団は時にローテーションを変更してまで、西武戦にエースをぶつけた。そして、史上最大級の“熱パ”が始まったのである。
春先、エース・工藤公康の開幕4連敗など、投壊が不安視された西武だが、ここを何とか首位で乗り切ると、6月には2位・オリックスに6.5ゲーム差。またもや首位を独走し始める。
ところがオールスター戦後、西武に試練がやってきた。ケガ人が続出し、後半戦突入直後の9試合はまさかの3勝6敗とつまずいた。そして、ついには
1994(平成六)年8月07日(日)、西武、ダイエー、オリックス、近鉄の4チームが0.5ゲーム差の中にひしめき合う大混戦になった。
ほぼ毎日が“首位攻防戦”である。シーズン序盤なら過去にもあるが、8月に4チームが0.5差にひしめくのは珍しい。特に近鉄の猛追はすさまじく、首位と16ゲーム差からの逆襲だった。
どのチームが、この混戦を抜け出すか注目が集まったが、やはり抜け出したのは優勝経験が豊富な西武だった。西武は
1994(平成六)年9月02日(金)、オリックスとの延長10回に及ぶ雨中の首位決戦を落とし、一度は首位陥落。だが、ここから底力を見せた。
翌1994(平成六)年9月03日(土)から破竹の11連勝。天王山と言われた
1994(平成六)年9月16日(金)からのオリックス4連戦に4連勝し、混戦を抜け出した。
1994(平成六)年10月2日(日)、西武は藤井寺球場で近鉄を下したV5達成。5年連続となる全球団に勝ち越しての“完全V”は史上初の快挙でもあった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
④http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180703-12
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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