過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)


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 ┃ ♪奇跡の地球♪ ┃
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 桑田佳祐&Mr.Childrenのチャリティーシングル
‡1995(平成七)年01月23日(月) リリース日
 2016(平成28)年02月26日(金) mora配信開始日 250円
 作詞・作曲:桑田佳祐
 英語補作詞:トミー・スナイダー
    編曲:小林武史&Mr.Children
************************ http://www.mrchildren.jp
 https://ja.wikipedia.org/wiki/奇跡の地球
 音源◆https://music.amazon.co.jp/search/奇跡の地球
 mora◆https://mora.jp/package/43000005/VICL-61006/
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 ┃ 浜田省吾 #17 1983年1月24日 郡山市民会館 ┃
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 2016(平成28)年05月01日(日)
 現在に至るまでぼくはおそらく千回以上のライブに出演してきましたが、今まで一度も穴を空けたことはありません。賞とはあまり縁の無い音楽人生ですが、これだけはぼくの矜持です。しかし時には這うようにしてステージに出たこともあります。今回はそんな話を。
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 浜田省吾1982(昭和57)年秋のツアーは年を跨いで、翌
 1983(昭和58)年2月22日(火)の大阪フェスティバルホールまで続いた。
 1983(昭和58)年1月20日(木)から始まった上越~東北の旅は、
 1983(昭和58)年1月20日(木)長岡市立劇場、
 1983(昭和58)年1月21日(金)新潟県民会館、
 1983(昭和58)年1月22日(土)宮城県民会館、
 1983(昭和58)年1月24日(月)郡山市民会館と続く5泊6日の旅だった。
 1983(昭和58)年1月22日(土)の仙台公演のあたりから何となく風邪っぽいなと思っていたぼくは、これ以上悪化させないように細心の注意をはらっていた。オフだった
‡1983(昭和58)年1月23日(日)は極力ホテルで安静にしていた。冬のホテルの部屋はとても乾燥するため、加湿器を全開にしてバスタブにもお湯をはり、部屋が乾燥しないようにし、市販の風邪薬を飲んで一日中寝ていた。しかし深夜にひどい悪寒に襲われた。悪寒でほとんど眠れずに朝を迎えた。朝になってベッドから起きようとすると、身体が震え全身の関節が痛む。身体を暖めなければと思い入浴してみるも、悪寒が酷くて浴槽に入っていられない。入浴することをあきらめ、フロントで体温計を借りて熱を測ってみた。みるみる温度があがって行く。39度近い熱があった。この日は郡山市民会館でのコンサートがある。会場入りまではまだ少し時間があったので、病院に行くことにした。ひとまず浜田さんのマネージャーに事情を説明して、フロントで教えてもらった病院に駆け込んだ。ホテルから病院までは歩いて数分の距離だったが、高熱のためふらふらして歩けない。病院までの距離が数十倍にも感じた。ようやく病院に着いて受付を済ませるも、院内は診察待ちの患者で超満員。いくら待てども一向に順番が回ってくる気配がない。あまりにしんどいので待合室の長椅子に横たわらせてもらってひたすら順番を待った。待つこと約3時間、ようやくぼくの番になった。この時すでに時間はお昼を回っていた。会場入りまであまり時間が無い。診察の結果はやはり風邪の症状とのこと。とにかく薬を飲んで安静にしているようにと言われた。しかしこの後コンサートが行われる。バックのミュージシャンが風邪で発熱したぐらいでは、コンサートを中止するわけにはいかないのである。ぼくはドクターに事情を話して懇願した。
「先生、そんなわけでコンサートに穴を空けるわけにはいかないんです。お願いですから本番の二時間の間だけ生かして下さい!」ドクターはあきれた顔で言った。
「そんな無茶言って貰っちゃ困るよ。コンサートなんてやったら肺炎になりますよ。無理だから休ませて貰いなさい。」ぼくは藁をもすがる気持ちでお願いした。
「先生、それは無理です。お願いですから二時間だけ!」
「しようがないなぁ。では一応解熱の座薬と頓服、あと注射を打っておきます。但し無理をして肺炎になっても責任持ちませんよ。」ぼくは注射二本と点滴を受け、薬を貰ってホテルに戻った。しかし高熱が下がる気配はなく、とてもじゃないがリハーサルをやれる状態ではなかった。マネージャーに連絡して、本番ギリギリまでホテルの部屋で休ませてもらうことにした。それから少しの間、ぼくは座薬と薬を飲んで泥のように眠った。開場時刻の6時を過ぎた頃、イベンターが用意してくれた車に乗って会場入りした。時刻はすでに6時30分近くになっていた。薬のおかげで熱は38度前半に下がっていたが悪寒は続いていた。楽屋に着くと代わる代わるメンバーが心配してくれた。どうにか衣装に着替え横たわっていると、浜田さんが心配そうな顔で寄って来た。「板さん、大丈夫?熱は?」ぼくはリハーサルをキャンセルしてしまったことをまず詫びた。
「リハ出られなくてすみませんでした。何とか大丈夫です。」
「そう、でも無理しないようにね。コーラスとか辛かったら町支に任せてくれていいから。」
「はい、でも大丈夫です。何とか歌えると思います。」「分かった。じゃ本番よろしく。」実は全然大丈夫じゃなかった。熱と薬で朦朧としていたぼくは、本番が始まってからも何をやっているのかよく分からないほど最悪の体調だった。コーラスのパートを歌おうとするたびに、吐き気が襲って来て気が遠くなりそうになる。リハーサルが出来なかったため、PAチームがぼくのモニターを最適の状態に調整してくれていた。ピアノはスタッフが代わりに弾いてバランスを整えていたくれた。そんなスタッフの心遣いも無駄になるほど、ぼくは本番中に何をやっているか分からないような状態だった。それでも何とかコンサート終え、楽屋に戻ってくるなりぼくはその場に倒れ込んだ。しかしこの日は終演後、新幹線で帰京の予定だったため、倒れ込んでいる暇は無かった。すぐに支度をして出なければならなかったため、急いで着替えを済ませ楽屋口で待機していたタクシーに乗り込んだ。郡山の駅に着いて新幹線に乗り込むとぼくはすぐに目を閉じた。当時は新幹線が大宮止まりで、そこから上野駅まではリレー号という列車に乗り換える必要があった。大宮駅でリレー号に乗り換え、やっと深夜の上野駅に到着した。するとずっとぼくの様子を見ていた浜田さんが、今夜は俺の家に泊まれと言った。ぼくは家に帰っても一人なので申し訳ないと思いつつも、浜田さんの家に泊めてもらうことにした。この頃、プライベートなことで沈み込んでいたぼくを見かねた、浜田さんなりの優しさだった。浜田さんの家に到着するなり、またしてもぼくは泥のように眠った。次の朝、目が覚めると体調はだいぶ良くなっていた。朝食をごちそうになり、もう大丈夫なのでお暇しようとすると、ちょっと出かけるが程なく戻るので、それまで犬を看ていて欲しいと言われた。ぼくはしばらくの間、浜田家の犬と一緒に暖かな部屋でまどろんでいた。やがて戻って来た浜田さんに丁重にお礼を言い、日も暮れた頃自宅に帰った。家に戻ったぼくは空腹な事に気がついた。近所の定食屋でサンマの塩焼き定食を食べた。ちょっとしょっぱいサンマの塩焼きを食べながら、なんだかぼくは急に泣けて来た。
 写真◆1982(昭和57)年頃。どこかの楽屋にて。 
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/05/17-1983124.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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 今日から3月~っうことで、いつもいつもオレのくだらない日常をみなさんに公開してばかりいてもしゃ~ないだろう・・・ちゅうことで、ここを覗いてくれる方の大部分が“浜田省吾ファン”であろうというあくまでも、独断と偏見による勝手な思い込みで新企画を始めてみました。題して “新企画 「妄想回想 ON THE ROAD」”はたして、皆さんのお気に召すかどうかはわかりませんが、よろしくお願いします。んで、具体的になにをやるのかといいますと、まあ、早い話がオレの浜田省吾への情熱こだわり思い込み・・・そ~いったものをぶちまけて、みなさんに聞いていただき想いを分かち合いたいたいというかなり自分本位なわがままな企画です(笑)
 前置きが長くなりましたが、今日は第一回目ということで、なにがいいか悩みましたが、初めての『ON THE ROAD』と題しまして、初ライブの時のお話をします。それでは...
 オレが初めて『ON THE ROAD』参加したのは遡る事今から21年前の1986年1月23日。場所は福島県の郡山市民文化センターでした。TUORタイトルがON THE ROAD'85~'86 DOWN BY THE MAIN STREETチケットが今では考えられない破格のプライス3000円ですよ。信じられない 場所は2階25列というそれなりの位置でした。まあ、当時からチケットはプレミアムチケットで非常に取りづらかったんです。当時はほとんど電話によるチケット販売でまだ一般家庭はプッシュホンはおろかダイヤル式の黒電話もあたりまえの時代で、チケット販売時間にはプッシュホン公衆電話に硬貨を大量に用意してスタンバっていたものです。駅の公衆電話が繋がりやすい。とか都心より地方からかけた方が繋がりやすいとか。色々と試したものです。真夏の炎天下で電話ボックスに長時間篭って電話していると頭クラクラしたのを今でも思い出します。さて、そうやって苦労してなんとかチケットGETして初めて『ON THE ROAD』に胸躍らせながら会場に向かいました。たしか会社の同僚4人で車に乗って見にいったのを憶えています。さらに遡る事2年前『愛の世代の前に』でやられちまってから日々生での浜田省吾を夢に見ながらついにこの日を迎えたのです。思えばこの時からオレの長い長いON THE ROADは始まったんですね~記念すべきライブでの一曲目は『DOWN BY THE MAIN STREET』でした。メンバーがステージに現れて、イントロの演奏が始まった瞬間の感動は今でもハッキリ記憶に残っています。省吾の井出達はギンガムチェックのシャツにブルージーンズ。当時はまだ頭とか手首にバンダナ撒いていましたよ(笑)夢にまで見た生省吾  マイクスタンドの前で熱唱する省吾の姿にオレはただただ痺れてしまいました。もうあっという間に省吾の世界に引き込まれました。やっぱレコード(当時はまだレコードの時代でした)で聞くより全然イイわぁ~。省吾=ライブ、オレの中でこの方程式はこの瞬間出来上がりました。やっぱ省吾の音楽の魅力はライブじゃないと100%は伝わらないです。生の省吾を見て、聞いて、味わって、その音楽の素晴しさに改めて気づきました。『家路』を初めて生で聞いた時にオレは一生浜田省吾に付いていくと心に決めました(笑)
‡1986(昭和61)年01月23日(木) 郡山市民文化センター
 01 DOWN BY THE MAIN STREET
 02 終りなき疾走
 03 独立記念日
 04 HELLO ROCK'N'ROLL CITY
 05 DANCE
 06 土曜の夜と日曜の朝
 07 SWEET LITTLE DARLIN'
 08 Midnight Flight -ひとりぼっちのクリスマス・イブ-
 09 DADDY'S TOWN
 10 路地裏の少年
 11 グッドナイトエンジェル
 12 いつわりの日々
 13 陽のあたる場所
 14 明日なき世代
 15 MONEY
 16 マイホームタウン
 17 愛の世代の前に
 18 家路
   ~ENCALL~
 19 反抗期
 20 MIRROR
 21 A THOUSAND NIGHT どうです?今じゃまず演奏しない曲なんかもあっていいと思いません?『いつわりの日々』とか『独立記念日』なんてまたライブで聞きたいですよね~また、やってくんないかな?そーいえばライブが終わった夜は興奮覚めやらず、家に帰らずにそのまま仲間と朝まで飲みまくったのを思い出しました(笑)まだ、若かった頃の懐かしい思い出です。
 http://yasu5706.blog91.fc2.com/blog-entry-16.html
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 ┃ ♪翼をください/川村かおり 往年の名曲 20歳の異色歌手で復活 ┃
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 |2012(平成24)年 3月 2日(金)|スポニチ Sponichi Annex 情報配信
 |1971(昭和46)年 2月 5日(金)|赤い鳥♪竹田の子守唄♪のB面曲としてリリース
‡|1991(平成三)年 1月23日(水)|川村かおり リリース
 |1991(平成三)年 3月?日(?)|★1991(平成三)年3月ランキング★
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1 ラブ・ストーリーは突然に、Oh!Yeah!/小田和正
2 はじまりはいつも雨/ASKA
3 歌えなかったラヴ・ソング/織田裕二
4 さよならだけどさよならじゃない/やまだかつてないWINK
5 Crime of Love/氷室京介
6 翼をください/川村かおり
7 愛は勝つ/KAN
8 想い出の九十九里浜/Mi―Ke
9 ジプシー/児島未散
10 会いたい/沢田知可子
注目ETERNAL WIND/森口博子
※ランキングは当時のレコード売り上げ、有線放送、ラジオ、テレビのベストテン番組などの順位を参考に、話題性を加味してスポニチアネックスが独自に決定。
【翼をください/川村かおり】70年代の伝説のフォークグループ「赤い鳥」によって大ヒットした「翼をください」を、ロック風にアレンジし、明るいテンポで歌ったのは20歳の川村かおり。91年1月23日にリリース。その日はまさに川村の20回目の誕生日だった。ファーストシングル「ZOO」でデビューしてから3年。これが最初のヒットではなかったが、合唱コンクールなどで中高生の間ではおなじみの曲を大胆に模様替えして、新たな生命を吹き込んだ。川村にとっても、20歳を機にさらに次の世界へと飛び立つ決意を込めたカヴァーでもあった。元新聞記者で商社マンに転身した日本人の父とロシア人の母親の間に生まれ、小学校6年までモスクワで過ごした。父の仕事の関係で日本へ移ると、待っていたのは壮絶ないじめだったという。当時ロシアはまだソ連の時代。自由主義陣営の西側諸国と対峙する、日本から見れば得体の知れない軍事大国だった。そのイメージも手伝い、金髪で目の色が違う川村は理不尽な扱いを受けた。83年、中学1年の時に起きたソ連機による大韓航空機撃墜事件では、ただモスクワで生まれ育ったというだけで、学校の教師までが罵声を浴びせ、同級生からは「殺す」とまで言われた。そんな時に少女の心を救ったのが音楽だった。都立高校に進学するも、勉強にも身が入らず、出入りしていたのはライブハウス。音楽をやっていたわけではなかったが、17歳で書いた「ZOO」の歌詞が目に留まり、デビューのきっかけをつかんだ。「テーマは殻に閉じこもっている自分やそういう人も決して一人じゃないてこと。どんなに嫌いでも離れることはできない」。そんな思いからつけたタイトルがだった。名前をカオリとしてからも、音楽を通じてさまざまな奇跡を起こしてきた川村だったが、乳がんのため09年7月28日、38歳の若さで他界。今でも「翼をください」といえば、本家の赤い鳥ではなく、川村のバージョンが一番いいとする人も少なくない。 
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BF%BC%E3%82%92%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84
 http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120302002744770.html
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