過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)


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 ┃♪愛は心の仕事です♪/ラ・ムー 菊池桃子 突然のロックバンド転身┃
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‡1988(昭和63)年02月24日(水) リリース
 1988(昭和63)年02月17日(水)、突然の発表にファンも関係者も驚きと戸惑いを感じた。アイドル歌手の菊池桃子がロックバンドのボーカリストとして音楽活動をすることを発表。男女7人、黒人のコーラスも入れたバンド名は「ラ・ムー」で、24日に“デビュー曲”「愛は心の仕事です」をリリースすると報告した。15歳で芸能界デビューしてから4年。二十歳を前に女優としても活動の領域が広がり、大人っぽさも見え始めた菊池だが、思わぬ方向転換。そのきっかけは短大進学にあったと説明した。「高校と違って大学では何もかも自分で選択しなければならない。自分の意思で決めるることが、すごく楽しいことだと気が付いた。そこで自分が何をやりたいかと考えたら、歌を歌うにしても、制作の段階からいろいろと関わりたいと思った」。その時に偶然舞い込んだのが、バンドの話。ヒュージョングループのサポートメンバーだったキーボードの松浦義和らと組んで、R&B色の強いサウンドのボーカルとして声がかかった。思い切った挑戦と物珍しさも手伝って「愛は…」オリコンチャートでもトップテン入り、TBS「ザ・ベストテン」では3月10日に9位でランクイン。ちょっと不思議な振り付けとともに話題となった。まずまずのスタートを切ったように見えたラ・ムーだが、2曲目のシングル「少年は天使を殺す」がオリコンで4位になったのが最後に目立ったくらいで、その後名前が聞かれなくなった。秋に計画されていたコンサートツアーは結局企画段階でストップ。年明けの89年には解散危機がささやかれ、コーラス担当の黒人女性は米国に帰国したことも発覚した。菊池は「ロックと言ってもハードロックではなく、メロディーラインを重視して、リズムはタイトに決めて、その上にふわっとしたボーカルをかぶせる」とバンドの方向性を口にしていた。しかし、アイドルの時と変わらない“やさしい”歌い方とリズム感が良かったわけではなかったことが、メンバーに戸惑いを生じさせた。89年10月、菊池は個人事務所を設立。女優として芸能活動を続けることになった。これを機に「ラ・ムー」はシングル4枚、アルバム1枚を残し事実上解散した。 
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)
 http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120311002807900.html
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 ♪愛は心の仕事です♪
‡1988年2月24日 ダイドー・JUICE100 イメージソング 9位
 ♪少年は天使を殺す♪
 1988年6月8日
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)
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 1980年代を謳歌!『異邦人』からイカ天まで「俺たちの一発屋」名曲・青春プレーバック
 2022(令和四)年02月14日(月) 11:01 週刊女性PRIME [シュージョプライム] 
 清原果耶主演ドラマ『ファイトソング』で、シンガー役の間宮祥太郎が「世界で一番嫌いな言葉」としたのが“一発屋”。今回は、かつて確かに眩い輝きを放った、1980年代に青春を送った人なら誰もが知る「名曲」を歌ったミュージシャンをプレーバック!一番嫌いな言葉?そんなの関係ねぇ!思い出と共に色あせない、俺たちの、私たちの一発屋たちーー。
 写真◆左から森川由加里、哀川翔、柳葉敏郎、風見しんご 週刊女性PRIME
■'70年代末~'80年代初め 異邦人、完全無欠、ピカピカ、ついには猫まで一発ヒット■松原みきという歌手をご存じだろうか。1979年に『真夜中のドア』でデビュー。おしゃれなシティーポップスを歌える実力派として人気を得たが、2004年に44歳の若さで病死した。そんな悲運の歌姫が今、再評価されている。一昨年、インドネシアのユーチューバーが『真夜中のドア』をカバー。これを機に、海外のチャートで1位になるなど世界的にヒットしたのだ。松原がデビューしたころの日本は、世界第2位の経済大国に躍進。音楽にもその豊かさが反映され始めていた。演歌のような湿っぽいものより「ニューミュージック」と呼ばれたポップなものが好まれるようになり、歌の舞台もグローバル化。その一例が、庄野真代の『飛んでイスタンブール』(1978年)であり、松原のひと月前にデビューした久保田早紀の『異邦人』(1979年)だ。
■“ユーミンの再来”と称された■シルクロードをイメージさせる『異邦人』は翌1980年にかけて、オリコン1位を7週にわたって独走する大ヒット。今となっては一発屋だが、当時は久保田はユーミンの再来などと呼ばれた。彼女にとってもユーミンは憧れの存在だったが、その後はヒット曲に恵まれず、結婚を機に教会音楽家に転向する。その理由について、彼女は「男女の愛を歌うラブソングの上手な人は、ほかにたくさんいます」としたうえで、「私は違うタイプのラブソングを歌っていきたい」と、語った。なお『異邦人』はカラーテレビのCMソングでもあった。同様に、斉藤哲夫の『いまのキミはピカピカに光って』(1980年)や五十嵐浩晃の『ペガサスの朝』(1980年)ザ・ヴィーナスの『キッスは目にして!』(1981年)もCMつながりでヒット。『いまのキミは~』は宮崎美子が世に出たカメラのCMソングだ。宮崎がいまもピカピカなおかげで、ちょくちょく流れるラッキーな曲である。
■“ツッパリブーム”と「なめ猫」■コミカル路線では、アラジンの『完全無欠のロックンローラー』やシュガーの『ウエディング・ベル』(ともに1981年)といった一発ヒットが。ただ、アラジンのリーダー・高原兄は約30年後、島田紳助と組み、ヘキサゴンファミリーの作曲担当として二発目を当てた。また、又吉&なめんなよの『なめんなよ』(1981年)なんてキワモノ的一発も。猫にツッパリルックを着せて楽しむ「なめ猫」ブームから派生した曲だ。歌っていたのはもちろん、猫ではなく人間。ちゃんとしたバンドのボーカルだった。さらに、ツッパリブームの総本山・横浜銀蝿一家からは、紅麗威甦(グリース)が『ぶりっこROCK'N ROLL』(1982年)をヒットさせた。聖子ちゃん人気にも便乗した、あざとい曲だ。ボーカルを務めていたのは、杉本哲太である。かと思えば、その対極的な魅力で売れたのが、堀江淳の『メモリーグラス』(1981年)。女性っぽい歌い方や容姿と曲のハマり具合がこれ以上ないほど絶妙だった。ほかには、あみんの『待つわ』や一風堂の『すみれ September Love』(ともに1982年)もこの時期を代表する一発ヒット。ただ、あみんの岡村孝子はその後、ソロで成功したし、一風堂の見岳章は『川の流れのように』(美空ひばり)などの作曲者として歌謡史に大きな足跡を残すことになる。この人たちにとって、才能は一発で枯れるものではなかったわけだ。
■'80年代ど真ん中 アイドルの陰で吠えた人、泣かせた人、流行りに乗った人■1980年代中盤は、アイドルの時代だ。1980年デビューの松田聖子や田原俊彦、1982年デビューの中森明菜、1985年デビューのおニャン子クラブといった顔ぶれがオリコン1位を独占した。そのぶん、アイドル以外の人は一発屋になりやすい。例えば、せつない恋を歌い上げたちょっと地味な男性歌手たちである。『想い出がいっぱい』(1983年)のH2Oに『初恋』(1983年)の村下孝蔵、『シャイニン・オン 君が哀しい』(1985年)のLOOK。『想い出が~』はアニメ『みゆき』(フジテレビ系)のエンディング曲で、彼らのデビュー第2弾はドラマ『翔んだカップル』(フジテレビ系)のエンディング曲だった。当時のラブコメブームにぴたりとハマったデュオといえる。
■ドラマ主題歌が大ヒット■これに対し、女性シンガーは吠えまくった。『ボヘミアン』(1983年)の葛城ユキに『ふられ気分でROCK'N' ROLL』(1984年)のTOM CAT『ヒーロー』(1984年)の麻倉未稀、『翼の折れたエンジェル』(1985年)の中村あゆみ。このうち『ヒーロー』はドラマ『スクール☆ウォーズ』(TBS系)の主題歌である。実はこの時期、TBSのドラマから特大の一発ヒットがいくつも生まれた。1985年には『金曜日の妻たちへ3』の主題歌『恋におちて』(小林明子)、1986年には『男女7人夏物語』の主題歌『CHA-CHA-CHA』(石井明美)、1987年には『男女7人秋物語』の主題歌『SHOW ME』(森川由加里)という具合だ。『金妻』は不倫ドラマで『恋におちて』も不倫ソング。「土曜の夜と日曜の貴方」が欲しいとか「ダイヤル回して手を止めた」といったリアルでその時代っぽい歌詞が共感を生んだ。また、小林はのちに、カーペンターズのリチャードに「カレンに似ている」と気に入られたボーカルの持ち主。不倫ソングなのに、どこか清々しいところも支持につながったのだろう。一方、アイドル系でも一発屋的な人がいる。例えば『僕笑っちゃいます』(1983年)の風見しんごだ。歌よりもダンスや笑いが売りだったが、隙間狙いの戦略は長続きしなかった。それでも、第4弾『涙のtake a chance』で見せたブレイクダンスは語り草だ。最近も『中居正広のダンスな会』(テレビ朝日系)で当時の映像が紹介され、ネットをざわつかせた。ちなみに、風見はデビュー前、劇男零心会という集団に属し、原宿で踊っていた。この集団はその後、劇男一世風靡となる。そのメインメンバーたちが結成したのが、一世風靡セピアだ。1984年にデビュー曲『前略、道の上より』がヒット。哀川翔や柳葉敏郎がここから大成していった。また、この時期はチェッカーズがアイドルバンドとして絶大な人気を誇ったが、二匹目のどじょう的な感じで売れたのが『バージンブルー』(1984年)のSALLY。こちらはチェック柄ではなく、市松模様の衣装で歌ったりした。そして、カルロス・トシキも忘れられない存在だ。杉山清貴&オメガトライブから杉山がソロになるにあたって、1986オメガトライブとして再出発した際、ボーカルとして加入。デビュー曲『君は1000%』(1986年)などをヒットさせた。日系ブラジル人で、童顔と片言という甘いテイストで人気者に。現在はブラジルで農業に従事し、ニンニクの品種改良などをやっているという。
■「クロマティに似てるほう」■女性では、BaBeというアイドル的デュオもいた。業界ドラマ『アナウンサーぷっつん物語』(フジテレビ系)の主題歌『I Don't Know!』(1987年)がヒット。ただ、翌年デビューのWinkほどにはメンバーの名前を覚えてもらえず「クロマティに似てるほう」「富田靖子みたいなほう」などと呼ばれていたものだ。ところで、1980年代は広告主導の時代でもあった。CMのキャッチコピーがそのまま歌になり、ヒットしたケースも多い。中原めいこの『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』(1984年)はその典型だ。カタカナ系の食べ物が憧れだった時代の空気も反映されている。同様に、カタカナ系の職業も憧れの対象に。スタイリストにコンサルタント、さらには空間プロデューサーを名乗る人もいた。そんな世相から生まれたのが、ややの『夜霧のハウスマヌカン』(1986年)だ。おしゃれな仕事に見えても、食事はシャケ弁当だったり、カリアゲヘアは毛を剃るのが大変だったり、などなど、その実態をおちょくった内容。歌ったのが、ポップス出身なのに北島三郎に拾われた苦労人の女性歌手だったところも含め、なんでもあり的な1980年代を象徴する一発ヒットである。
■'80年代末~'90年代初め 「イカ天」と「やまかつ」が起こした一発屋バブル■1988年ともなると、アイドルブームも下火に。そんななか、ある大物アイドルがボーカルを務めたロックバンドが一発屋になった。ラ・ムーだ。工藤静香あたりがやるならともかく、ラ・ムーを始めたのはロックとは程遠いイメージの菊池桃子。デビュー曲『愛は心の仕事です』には、
■「桃子なのにラ・ムーなのはなぜなの?」■と題された解説文が挿入されていたが、その答えは曲を聴いてもわからなかった。また、秋元康が手がけた男性アイドルグループ・幕末塾もすぐに失速。秋元系ではおニャン子の男性版・息っ子クラブに続く一発屋となった。それでも、彦摩呂がグルメタレントとして生き残ったおかげで、たまに話題になる。先日も『あいつ今何してる?』(テレビ朝日系)で元メンバーが集まり、デビュー曲『Come on Let's Dance』(1989年)を披露していた。しかし、アイドルは下火でも、日本は元気だった。バブル経済が絶頂に向かいつつあり、それを象徴するような一発ヒットがCMから誕生。時任三郎が“牛若丸三郎太”名義で「24時間戦えますか」と歌った『勇気のしるし』(1989年)や、鷲尾いさ子と鉄骨娘が「ソーレソーレ」と踊った『鉄骨娘』(1990年)である。また『私の彼はサラリーマン』(1989年)のような珍品も。大手企業社員の2人組・SHINE'S(シャインズ)によるコミックソングだ。
■「イカ天」と「やまかつ」■そして、1989年には一発屋と縁の深いふたつの番組がスタート。『三宅裕司のいかすバンド天国』(TBS系)と『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』(フジテレビ系)である。前者は「イカ天」ブームを巻き起こし、数多くのアマチュアバンドを世に送り出した。なかでも『さよなら人類』(1990年)のたまはオリコン初登場1位や『紅白』出場といった快挙を達成。ただ、アンダーグラウンドな芸風を自覚していた彼らは意外とさめていた。メンバーのひとりは、「もし、百人が百人、たまをいいと思ったら、気持ち悪すぎます」などと語っていたものだ。少数派向きという傾向は『お江戸』(1990年)のカブキロックスなど、多くの「イカ天」系バンドにも当てはまる。今も生き残っているのは『恋しくて』(1990年)のBEGINくらいだろうか。一方、後者は山田邦子の冠番組で、テーマ曲にKANの『愛は勝つ』(1990年)や大事MANブラザーズバンドの『それが大事』(1991年)が使われ、爆発的にヒットした。どちらも年をまたぐかたちで、オリコン1位を独走。つまり、2年連続して年末年始に一発屋ソングが流れまくったわけだ。こちらは「イカ天」系とは逆に、万人受けするポジティブなメッセージが売り。ただ、それだけでやっていけるほど芸能界も人生も甘くない。そこがわかっていたのか『愛は勝つ』のカップリングは『それでもふられてしまう男(やつ)』という曲だった。
■一発でも当てるのはすごい■ほかに、沢田知可子の『会いたい』(1990年)やJAYWALKの『何も言えなくて…夏』(1991年)平松愛理の『部屋とYシャツと私』(1992年)といった一発ヒットが誕生したが、このあたりからJポップの時代が本格化する。「イカ天」に出た際、なぜか酷評されて落とされたGLAYをはじめ、長く安定して売れるアーティストが続々と登場。一発屋が生まれにくくなっていくわけだ。ところで、現在放送中のドラマ『ファイトソング』(TBS系)はヒロインが一発屋シンガーに恋をする話。そのシンガーは「一発屋」について「世界でいちばん嫌いな言葉だ」などと言ったりする。とはいえ、ほとんどの人がデビューしても何も残せずに消えていくなか、一発でも当てるというのはやっぱりすごい。一発屋もまた、勝ち組なのだ。
 寄稿:宝泉薫(ほうせん・かおる)アイドル、二次元、流行歌、ダイエットなど、さまざまなジャンルをテーマに執筆。近著に『平成「一発屋」見聞録』(言視舎)『平成の死 追悼は生きる糧』(KKベストセラーズ)
 https://news.yahoo.co.jp/articles/0436f0ad485695bf06a0d14cc9de23da86d79e29


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 ┃ 浜田省吾 #33 「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」 ┃
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‡2017(平成29)年02月24日(金) 
 今回は、1988(昭和63)年03月17日(木)からスタートした浜田省吾さんのコンサートツアー「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」と食べ物の話など。
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 1988(昭和63)年03月17日(木)、「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」と銘打った約100本に渡る浜田省吾の大規模なツアーがスタートした。バンドはメンバーにキーボードの梁邦彦くんと、トランペットの小林正弘くんが加わってThe Fuseは7人編成になった。ぼく達は前の日の
 1988(昭和63)年03月16日(水)に初日の公演地である宮崎入りした。最初のツアーは、宮崎~大分~小倉と廻る全6公演10日間の旅だった。宮崎での宿泊はリバーサイドホテルという、その名のとおり大淀川沿いに立つホテルだった。ホテルの裏手には有名な釜揚げうどんの店があった。コンサート初日の会場入りする前に、ぼくは早速ベースの江澤くんとその釜揚げうどんの店で昼食を食べた。噂に違わずとても美味しいうどんを堪能した。宮崎公演は17,18日の二日間公演だった。
 1988(昭和63)年03月17日(木) 初日のコンサートこそ緊張したが、
 1988(昭和63)年03月18日(金) 二日目からは段々とペースが掴めて来た。九州ツアーは
 1988(昭和63)年03月20日(日) 21日(月)の大分公演、
 1988(昭和63)年03月23日(水) 24日(木)の小倉公演と続き、
 1988(昭和63)年03月25日(金)に10日ぶりに帰京した。その後もコンサートは北陸~四国~中国~東京~北関東~東北~近畿~山陰と、途切れること無く続いて行った。まさにツアーという言葉がぴったりだった。コンサートツアーと言えば、ほぼ毎日のように次の公演地への移動と違うホテルでの宿泊が繰り返される。ぼくは移動の乗り物は飛行機以外はそんなに苦手ではなかったが、連日寝床が変わるのがあまり得意ではなかった。毎日違うホテルで固さの異なるベットと枕に順応するのが苦手だった。時には一晩中眠れないこともあった。元々枕が変わると眠れないほうなので、自分の枕を持って行くことを真剣に考えたこともあったが、さすがにそれはしなかった。ツアーでの楽しみの一つは訪れる街の美味しいものを食べることや、街を散策することだった。でもぼくは豪華な食事よりも、その土地の庶民的なものを食べるほうが好きだった。コンサートが終わった後に毎回打ち上げが行われるというわけではなく、時には三々五々自由に食事に出ることも度々あった。旅も長くなると、一緒に行動する面子というのが決まって来て、ぼくはベースの江澤くんと一緒にいることが多かった。ぼくも江澤くんもあまりお酒が得意ではなく、旧知の間柄だったこともあってか良く行動を共にした。お酒が好きな古村くんは、同じく酒好きの梁くんや高橋くんと一緒に行動することが多かった。時には、コンサートを観に来ていたお客さんと食事先の店でばったり遭遇し、意気投合して一緒に飲み食いしたりしたこともあった。
 1988(昭和63)年12月26日(月) 博多
 1988(昭和63)年12月27日(火) 博多では夜になるとたくさんの屋台が道端に出る。ぼくは博多の屋台で食べる天ぷらやおでんが大好きだった。
 1989(平成元)年01月26日(木) 名古屋
 1989(平成元)年01月28日(土) 名古屋
 1989(平成元)年01月29日(日) 名古屋では大須の焼き鳥屋「やば町」によく行った。ここのちょっと偏屈なおやじさんの蘊蓄を聞きながら食べる焼き鳥の味は格別だった。
 1988(昭和63)年04月14日(木) 金沢では「宇宙軒食堂」という、ちょっと怪しい感じの定食屋に毎回行った。今では有名になってしまったようだが、ぼく達が行っていた頃は地元の人しか食べに来ないようなひっそりとした食堂だった。
 1989(平成元)年01月12日(木) 広島
 1989(平成元)年01月13日(金) 広島は「むさし」のうどんとおにぎり、「みっちゃん」の広島焼き、駅構内の立ち食いうどん屋、東京にもあるベーカリー「アンデルセン」の総本山?がお気に入りだった。あと「中ちゃん」も。
 1988(昭和63)年06月10日(金) 盛岡ではいつも決まってメンバースタッフ総出で椀子そばを食べに行った。何度か「浜田省吾杯争奪わんこそば選手権」なる大会も行われた。優勝するのはいつも決まって百数十杯を平らげるスタッフの誰かだった。浜田さんやバンドのメンバー達は、とてもスタッフの食べる勢いにはついて行けなかった。
 1988(昭和63)年07月05日(火) 新潟
 1988(昭和63)年07月06日(水) 新潟は「越後屋」というおにぎり屋のおにぎりがお気に入りだった。
 1988(昭和63)年04月17日(日) 福井の会館の裏手にある肉屋のコロッケもバンドメンバーみんなのお気に入りだった。揚げたてのホクホクのコロッケを買って来て、楽屋でパンに挟んでソースをかけてよく食べた。
 1988(昭和63)年05月27日(土) 長野
 1988(昭和63)年05月28日(日) 長野で食べるそばの味もまた格別だった。残念ながら現在は閉店してしまったようだが、
 1988(昭和63)年11月07日(月) 長崎
 1988(昭和63)年11月08日(火) 長崎の「オビナタ」というイタリアンレストランも大のお気に入りの店だった。ここはクラシカルな内装の店内と、美味しい料理、そしてホスピタリティが抜群の店だった。
 北海道は美味いものの宝庫だった。
 1988(昭和63)年12月10日(土) 札幌
 1988(昭和63)年12月11日(日) 札幌では毎回何を食べようか悩んだ。札幌に行くと必ずと言っていいほど食べるラーメンは、バンドメンバーそれぞれお気に入りの店があってみんな違う店に行っていた。ぼくは「味の三平」が好きで毎回必ず行った。
 1988(昭和63)年10月22日(土) 函館は「五島軒」のカレー、
 1988(昭和63)年10月25日(火) 帯広は「炉ばたのあかり」、
 1988(昭和63)年12月07日(水) 旭川
 1988(昭和63)年12月08日(木) 旭川は「蜂屋」のラーメン、
 1988(昭和63)年12月13日(火) 釧路は炉ばた焼き発祥の地と言われている、その名もずばり「炉ばた」等、本当に美味しい店だらけだった。
 1988(昭和63)年12月22日(木) 倉敷
 1988(昭和63)年12月23日(金) 岡山の天神そばや
 1988(昭和63)年12月20日(火) 四国は高松のうどんも絶品だった。宇高連絡船の船内で、海風に吹かれながら食べるうどんもまた最高だった。
 1988(昭和63)年09月20日(火) 沖縄ではステーキと洋食とハンバーガーとアイスクリームが楽しみだった。ステーキは大概「ジャッキー」か「サムズ」、洋食はイタリアンのようなファミレスのような「ピザハウス」という店、沖縄のスーパー「ジミー」に併設されているアップルパイ、ハンバーガーは「A&W」、アイスクリームは「ブルーシール」がお気に入りだった。ぼくは一度普天間の「ピザハウス」で浜田さんに間違われたことあった。その日、宜野湾コンベンションセンターでのコンサートを終え、普天間の「ピザハウス」で食事を楽しんだ後、会計の列に並んでいたら、コンサートを観に来たらしいお客さんからいきなり「浜田省吾さんですよね?」と声をかけられた。ぼくは即座に否定したのだが、相手は浜田省吾に間違いないと言って譲らない。おそらくぼくがサングラスをかけていたこともあって間違えられたのではないかと思うが、そもそもぼくと浜田さんはそんなに似てないと思うのだが。何度否定しても相手は全然納得していない様子なので、だんだん面倒くさくなって来て、最後は「はい、ぼくは浜田さんではありませんが、あなたがそんなに言うのなら、もしかしたら浜田省吾なのかもしれません。」ということで納得していただいた(笑)「ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"」は
 1988(昭和63)年03月17日(木)の宮崎公演から
 1988(昭和63)年07月16日(土)の仙台公演までが前半戦で、計48本のコンサートが組まれていた。ぼくはこの頃からだんだん視力が落ちて来ているのを感じていた。コンサートの最中のステージから客席は暗くて殆ど見えないのだが、会場の出入り口の扉の上に点灯している「非常口」という緑色のライトはステージからよく見えた。コンサートの本数が進むにつれ、その「非常口」と書かれた誘導灯のパネルが段々とぼやけて見えるようになって来た。前半最後の仙台市体育館での公演の頃には「非常口」の文字が殆どぼやけて見えなくなってしまった。ぼくは仙台から戻るとすぐに眼科に行って検眼をしたところ、それまで両目とも1.2~1.5ぐらいあった視力が0.2ぐらいに落ちていた。これにはかなりショックを受けた。詳しい原因はよく分からないが、31才にして急に近視になってしまった。おそらく長年ステージでものすごい光量のライトを浴びていたことも、原因の一つではないかと勝手に推測したが、本当のところはよく分からない。
 1988(昭和63)年04月02日(土)の磐田市と
 1988(昭和63)年04月03日(日)の豊橋での公演を終えたぼく達は、次の公演地である四日市への移動日に、夏に行われる野外イベント会場の下見のために浜松へ向かった。そこは渚園と呼ばれる広大な敷地だった。8月にここで三回目となる浜田省吾のビッグイベント「A PLACE IN THE SUN」が行われることが決まっていた。まだ何もないだだっ広い敷地に数万もの人が集まることになるのが、この時には中々イメージ出来なかった。
 1988(昭和63)年08月20日(土)、浜名湖畔の渚園で観客動員数が5万人とも6万人とも言われた、浜田省吾の野外イベント「A PLACE IN THE SUN」が開催された。その話はまた次回。
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 ┃ ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON" ┃前半戦 日程
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 001.3月17日(木) 宮崎市民会館 一日目
 002.3月18日(金) 宮崎市民会館 二日目
 003.3月20日(日) 大分文化会館 一日目
 004.3月21日(月) 大分文化会館 二日目
 005.3月23日(水) 九州厚生年金会館 一日目
 006.3月24日(木) 九州厚生年金会館 二日目
 007.4月02日(土) 磐田市民文化会館
 008.4月03日(日) 豊橋勤労福祉会館
 009.4月05日(火) 四日市市文化会館
 010.4月06日(水) 静岡市民文化会館
 011.4月11日(月) 長岡市立劇場
 012.4月12日(火) 上越市文化会館
 013.4月14日(木) 石川厚生年金会館
 014.4月16日(土) 富山市公会堂
 015.4月17日(日) 福井フェニックスプラザ
 016.4月28日(木) 高知県民文化ホール
 017.4月29日(金) 愛媛県県民文化会館
 018.5月01日(日) 山口市民会館
 019.5月02日(月) 下関市民会館
 020.5月04日(水) 岡山市民会館
 021.5月12日(木) 代々木第一体育館 一日目
 022.5月13日(金) 代々木第一体育館 二日目
 023.5月15日(日) 代々木第一体育館 三日目
 024.5月16日(月) 代々木第一体育館 四日目 ※代々木最終日
 025.5月24日(水) 山梨県民文化ホール
 026.5月25日(木) 松本社会文化会館
 027.5月27日(土) 長野県民文化会館 一日目
 028.5月28日(日) 長野県民文化会館 二日目
 029.5月30日(火) 群馬県民会館
 030.5月31日(水) 宇都宮市文化会館
 031.6月04日(土) 秋田県民会館
 032.6月05日(日) 大館市民文化会館
 033.6月07日(火) 青森市文化会館
 034.6月08日(水) 八戸市公会堂
 035.6月10日(金) 岩手県民会館
 036.6月15日(水) 足利市民会館
 037.6月21日(火) 神戸文化ホール 一日目
 038.6月22日(水) 神戸文化ホール 二日目
 039.6月24日(金) 和歌山県民文化会館
 040.6月26日(日) 鳥取市民会館
 041.6月28日(火) 島根県民会館 一日目
 042.6月29日(水) 島根県民会館 二日目
 043.7月05日(火) 新潟県民会館 一日目
 044.7月06日(水) 新潟県民会館 二日目
 045.7月12日(火) 山形県民会館 一日目
 046.7月13日(水) 山形県民会館 二日目
 047.7月15日(金) 仙台市体育館 一日目
 048.7月16日(土) 仙台市体育館 二日目 ※ON THE ROAD '88前半戦最終日
 写真◆1988(昭和63)年09月20日(火)<?>、沖縄のホテルで江澤くんと。 
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 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/02/33on-road-88-fathers-son.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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 映像◆1986.12.10♪Only You https://youtu.be/4BYRJ3tRWU0
 

 1987年02月24日 日本武道館
 1987年02月25日 東芝EMI 102会議室インタビュー
 1987年07月頃 PSYCHOPATHレコーディングインタビュー(ROCK CITY)
 1987年07月頃 PSYCHOPATH完成記者会見
 1987年07月頃 MOJOインタビュー
 1987年07月26日 札幌・真駒内オープン・スタジアム「HOKKAIDO ROCK CIRCUIT 87’“A BIG MOUTH PARTY”」
 1987年07月31日 神戸ワールド記念ホール「CASE OF BOOWY」
 1987年08月07日 横浜文化体育館「CASE OF BOOWY」
 1987年08月04日 名古屋国際展示場「KING OF ROCK SHOW」
 1987年08月09日 宮城県・スポーツランドSUGO「ROCK'N ROLL OLYMPIC 87'」
 1987年08月22日~23日 熊本・グリーンピア南阿蘇アスペクタ「BEAT CHILD
 1987年11月30日~12月01日 日本武道館
 http://boowyblog.blog35.fc2.com/blog-entry-375.html

1989(平成元)年2月24日(金) 世界が日本を見つめた日1  https://youtu.be/X9p-YeX2avM

山本譲二「みちのくひとり旅」の大ヒットは土下座から…恩人の死に涙こらえる
2015(平成27)年 2月24日(火)19時43分『デイリースポーツ』配信
三島大輔さんとの思い出を語る山本譲二 
 歌手・山本譲二(65)が24日、横浜市内で営まれた自身の出世作「みちのくひとり旅」の作曲家で22日に死去した三島大輔(みしま・だいすけ、本名臼井邦彦=うすい・くにひこ)さんの通夜に参列。「先生は明るいことが大好きだった。だから泣きません。くよくよしたら元気だせ!と怒られるよ」と、恩人を亡くしたショックを隠し、気丈にふるまった。
1980年。歌手としてヒットがなく、もう後がない状況に追い込まれていた山本は、三島氏が作曲した「みちのくひとり旅」を聴き、「ぜひ歌わせてください」と土下座して自分の歌にした。
必死な活動で「みちのく-」は大ヒット。三島氏にとっても出世作となった。一緒に人生を賭けた勝負に出た者同士。「先生は自分にとってお父さんだった。先生も自分を息子と思ってくれていた。自分も先生も『みちのくひとり旅』で男になった」としみじみと振り返った。
8年前に、個人事務所を立ち上げ独立してからは、毎月1回「三島会」と称して酒席をともにした。数年前に三島氏にがんが見つかった後も11年に35周年記念曲「旅路の果ての…」の作曲を依頼。「依頼した時、先生は喜んでくれて元気になった。まだまだ曲を書くよ!と言ってくれたのに」。だが、三島氏との作品がこれが最後になった。
三島氏の遺影を前に「年上から順番とはいえ、悲しさ、世の無情を感じる。やるせない気持ちです」とまだ気持ちの整理がつかない様子。25日の葬儀にも参列するが「元気に送る。だから絶対に泣かない」と涙をこらえていた。

みちのくひとり旅
1980(昭和55)年8月5日(火)シングル発売
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BF%E3%81%A1%E3%81%AE%E3%81%8F%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E6%97%85
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 ┃ ♪愛は心の仕事です♪/ラ・ムー 菊池桃子 突然のロックバンド転身 ┃
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 |2012(平成24)年 3月11日(日)|スポニチ Sponichi Annex 情報配信
 |1988(昭和63)年 2月24日(水)|リリース
 |1988(昭和63)年 3月?日(?)|★1988(昭和63)年3月ランキング★
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1 パラダイス銀河/光GENJI
2 吐息でネット/南野陽子
3 抱いてくれたらいいのに/工藤静香
4 乾杯/長渕剛
5 GOOD MORNING―CALL/小泉今日子
6 You Were Mine/久保田利伸
7 風のエオリア/徳永英明
8 BEYOND THE TIME/TM NETWORK
9 愛は心の仕事です/ラ・ムー
10 悲しいね/渡辺美里
注目いつか何処かで/桑田佳祐
※ランキングは当時のレコード売り上げ、有線放送、ラジオ、テレビのベストテン番組などの順位を参考に、話題性を加味してスポニチアネックスが独自に決定。
【愛は心の仕事です/ラ・ムー】88年2月17日、突然の発表にファンも関係者も驚きと戸惑いを感じた。アイドル歌手の菊池桃子がロックバンドのボーカリストとして音楽活動をすることを発表。男女7人、黒人のコーラスも入れたバンド名は「ラ・ムー」で、24日に“デビュー曲”「愛は心の仕事です」をリリースすると報告した。15歳で芸能界デビューしてから4年。二十歳を前に女優としても活動の領域が広がり、大人っぽさも見え始めた菊池だが、思わぬ方向転換。そのきっかけは短大進学にあったと説明した。「高校と違って大学では何もかも自分で選択しなければならない。自分の意思で決めるることが、すごく楽しいことだと気が付いた。そこで自分が何をやりたいかと考えたら、歌を歌うにしても、制作の段階からいろいろと関わりたいと思った」。その時に偶然舞い込んだのが、バンドの話。ヒュージョングループのサポートメンバーだったキーボードの松浦義和らと組んで、R&B色の強いサウンドのボーカルとして声がかかった。思い切った挑戦と物珍しさも手伝って「愛は…」オリコンチャートでもトップテン入り、TBS「ザ・ベストテン」では3月10日に9位でランクイン。ちょっと不思議な振り付けとともに話題となった。まずまずのスタートを切ったように見えたラ・ムーだが、2曲目のシングル「少年は天使を殺す」がオリコンで4位になったのが最後に目立ったくらいで、その後名前が聞かれなくなった。秋に計画されていたコンサートツアーは結局企画段階でストップ。年明けの89年には解散危機がささやかれ、コーラス担当の黒人女性は米国に帰国したことも発覚した。菊池は「ロックと言ってもハードロックではなく、メロディーラインを重視して、リズムはタイトに決めて、その上にふわっとしたボーカルをかぶせる」とバンドの方向性を口にしていた。しかし、アイドルの時と変わらない“やさしい”歌い方とリズム感が良かったわけではなかったことが、メンバーに戸惑いを生じさせた。89年10月、菊池は個人事務所を設立。女優として芸能活動を続けることになった。これを機に「ラ・ムー」はシングル4枚、アルバム1枚を残し事実上解散した。 
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 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%BC_(%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89)
 http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120311002807900.html
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