過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の走る投げる打つシンプルなゲーム等だヨ(=^◇^=)


 ワクチン確保計画は破綻寸前!? 河野ワクチン担当大臣周辺や各省庁の不協和音
‡2021(令和三)年02月19日(金) 08:02 
 2021(令和三)年02月26日(金)号『週刊朝日』一部加筆修正
 写真◆河野太郎行革相 (c)朝日新聞社c AERA dot. 提供 河野太郎行革相 (c)朝日新聞社
 コロナ対策の「切り札」とされるワクチン。海外から第1便の約20万人分が届き、ようやく希望が見えたかと思いきや、実は、
 2021(令和三)年06月末 (水)までに全国民に必要な数量のワクチンを確保するという政府の目標の達成が見通せなくなっているという、衝撃的な情報が飛び込んできた。日本が結んだ契約に、政府が目標とする「6月末まで」の記載がないというのだ。省庁間の連携も滞り、確保計画は「破綻寸前」との指摘も。なぜこんな事態になっているのか。背景には各国がしのぎを削るワクチン争奪戦がある。欧州連合(EU)は1月末、域外へのワクチンの輸出規制を導入。出荷のたびに加盟国政府やEU当局の承認が必要とされるようになった。米国でもバイデン大統領が、国外への輸出を禁じるトランプ政権の方針を支持している。こうした状況下で、日本政府の交渉も難航している。政府が昨年7月に米ファイザー社とワクチン供給について基本合意した際は「21年6月末までに1億2千万回分(6千万人分)」という条件だった。ところが、
 2021(令和三)年01月20日(水)にファイザーと最終合意して結んだ契約は、「年内に1億4400万回分(7200万人分)」と、数は増えたが時期が半年も後ろ倒しされてしまった。厚労省の関係者は内情をこう語る。「契約時期が変わったのはファイザーから『厳しい』と言われたから。それでも必死で交渉し、なんとか『年内』という言葉を入れた。イスラエルのように相場より高く買ったり患者のデータを提供したりと交渉の余地はあったはずだが、承認手続きや薬害、副反応のリスクを考えてどうしてもおよび腰になり、最終判断が遅れた。ファイザーはなかなか決断できない日本を横目に、他国にワクチンを回すようになってしまった」ワクチンを思うように確保できない状況にしびれを切らした菅義偉首相は1月、官邸主導で打開しようと、河野太郎行政改革相をワクチン担当大臣に指名。河野氏の「突破力」に期待した形だが、就任早々ひと悶着があった。
 2021(令和三)年01月21日(木)に坂井学官房副長官が会見でワクチンについて「6月までに接種対象となる全ての国民に必要な数量の確保は見込んでいる」と語ったが、河野氏が翌
 2021(令和三)年01月22日(金)、「修正させて頂く」「まだ供給スケジュールは決まっていない」などと噛みついた。両者は結局、「6月に確保することを目指す」という表現で着地したが、この騒動も契約内容の解釈を巡って勃発したという。
 内情に詳しい政府関係者は、ワクチン契約をめぐる情報が行政内部でも十分に共有されていないと指摘する。
「河野氏は「『情報管理』や『機密保持』を徹底するあまり、製薬会社との交渉を担う厚労省や、輸出規制を導入したEUとの窓口になる外務省にさえ情報を伝えていない。中でもワクチンの供給契約の詳しい情報は『最高機密』で、一部の人間しか知らない。交渉にも支障が出ており、省庁間の関係もぎくしゃくしています」自民党新型コロナウイルスに関するワクチン対策プロジェクトチームの役員会でも「契約の詳細がわからないのでEUと交渉ができない」という外務省の不満も取り上げられた。メンバーの佐藤正久参院議員が振り返る。
「厚労省の説明では、外務省の交渉担当者とは情報を共有していると言っていましたが、一部の担当者に限られるようです。相手方(製薬会社)との関係もありますし、(情報を共有する職員は)非常に限定されているのでしょう」情報共有が十分でないことからくる不協和音は、いまや関係する各省庁に広がっている。河野氏が担当大臣となる以前、ワクチン確保を所管していたのは和泉洋人首相補佐官や、和泉氏と「コネクティングルーム不倫疑惑」が報じられたこともある厚労省の大坪寛子審議官らを中心としたチーム。コロナ対策を担当する西村康稔経済再生担当相や田村憲久厚労相も関わり、外務省や総務省の存在も大きい。だが、こうした厚労省を中心とした体制での契約交渉が順調だったとは言い難く、事態を打開するために河野氏が送りこまれた経緯がある。
「河野氏はこれまでワクチン確保の中心となってきた和泉氏、厚労省に代わって主導権を握り、自身に情報を一手に集めている。しかし、専門のブレーンがいないのに、外交ルートを有する外務省や製薬会社とパイプのある厚労省を遠ざけて、うまくいくのか危惧されている。いまやワクチン確保のための体制は破綻寸前の状態です」(前出の政府関係者)各自治体が実施するワクチン接種をとりまとめる総務省の担当者も困惑しているという。
「自治体ではいま、厚労省が示したスケジュールに間に合わせるため、医師や看護師の手配や会場の確保に追われています。各自治体の担当者から『ワクチンがどれだけ確保できるかがわからなければ準備を進められない』と突き上げられています。我々も最新データを知りたいと厚労省に再三伝えているのですが、『国内の承認を得られるまでは教えられない』の一点張り。少しの情報でもいいから提供してほしい」(地域政策課)国際医療福祉大学医学部(公衆衛生学)の和田耕治教授は、こうした状況にこう警鐘を鳴らす。
「ワクチンの接種で重要なのは、ワクチンの『供給速度』です。世界的な争奪戦の中、いつ、どのくらいの数量を確保できるかが大事。ワクチンの必要量と供給量にギャップができれば、混乱が生じます。例えば、同じ医療従事者といっても、国内で感染者が多い地域もあれば、少ない地域もあり、優先順位を考える必要が出てくる。供給速度がわからなければ、こうした優先づけを行うのも難しく、接種のための人員や場所の用意も進められません。政府と国民の信頼関係にも響きます」どこかの段階で、ワクチン供給のスケジュールが大幅に遅れることが判明すれば、国民は大きな衝撃や失望を受けることになる。
「現状では、国民の不安や怒りを噴出させないという意味において情報コントロールが成功してしまっているのかもしれません。ただ、ワクチンにかける期待感が失速した瞬間に、政権が国民に期待感のみを抱かせ、実体が伴っていなかったことに気付かされるでしょう」(前出の政府関係者)河野氏にワクチンの供給契約の詳しい内容や確保の見通し、情報開示が消極的な理由などを尋ねたが、期限内の回答は「時間を取る余裕がない」とのことだった。厚労省も「契約の内容はお答えできない」と言うのみだった。河野氏は
 2021(令和三)年02月16日(火)の会見で、「政府の基本的な対処方針は令和3年前半までに国民に必要な数量のワクチンの確保を目指すということで変わっていない」とした。一方、「確保を目指すと語っているわけで、接種の時期について申し上げたわけではありません」とも語った。また、東京五輪の開催前までに国民への接種が間に合わなかった場合について問われると、「五輪については橋本(聖子)大臣にお尋ねをいただきたいと思います」。希望する全国民が接種を追える時期については「現時点では定かではありません」とした。(本誌・池田正史/今西憲之)
 https://news.yahoo.co.jp/articles/6c523018a178b075c379602629968ecac9b06993

 一蘭初のカップ麺が発売数日で約40万食のヒット、展示会では試食に行列も
 2021(令和三)年02月24日(水) 15:50配信 食品産業新聞社ニュースWEB
 写真◆「一蘭」初のカップラーメン「一蘭 とんこつ」
 写真◆スーパーマーケットトレードショー「一蘭」ブース
 天然とんこつラーメン専門店「一蘭」初のカップ麺「一蘭 とんこつ」が、発売数日で40万個ほどを売り上げるヒット商品となっている。カップ麺「一蘭 とんこつ」は、20年以上の歳月をかけ、カップ麺で一蘭の味を楽しめるよう開発した商品。具材無しでありながら税込490円という、カップ麺としてはかなり強気の価格設定が話題となった。そして
 2021(令和三)年02月15日(月)からドン・キホーテやローソンなどの量販店・小売店や、一蘭店舗・一蘭公式通販サイトで販売開始すると、完売店舗が続出し、SNSでは“一蘭難民”という言葉も広がった。公式通販サイトでも品切れとなっており、3月上旬に販売を再開する予定だ。一蘭は
 2021(令和三)年02月17日(水)
 2021(令和三)年02月18日(木)
‡2021(令和三)年02月19日(金)に幕張メッセで開催された食品展示会「スーパーマーケットトレードショー」に出展。担当者は
 2021(令和三)年02月19日(金)に食品産業新聞社の取材に対し、「40万個ほど売り上げたのではないか」と語った。展示会では、一蘭の紙袋を持った来場者が多く見られ、同社ブースの試食には行列ができるなど「一蘭 とんこつ」の人気ぶりがうかがえた。一蘭担当者によるとドン・キホーテでは追加発注を行なっているとのことなので、まだ見つけられてない人は、すぐに入手するならドンキがねらい目かもしれない。
【関連記事】
・完売続出「一蘭」初のカップラーメン、「企業秘密が詰まったこだわりの味」開発秘話とは
◎一蘭、公式で購入した5袋入のインスタントは口に合わなかった。やっぱり店で食べるのがいいよ。
◎博多の人以外は一蘭信仰の人が多い。
◎8月のライオン | これがヒットして他のメーカーが小売り値を上げられたら、困るのよ…。
◎どこで売ってるんや?見たことないけどな完売してるからないだけなんか???
◎ドンキーで売ってますよ。無ければ3月以降ですね。
◎Japanese Boy コンビニはローソン限定。わしは、中国地方最大都市の左隣の街じゃが、一週間前までは、数店舗のローソン棚に置いてあったんじゃが、今日見たらなかったわい
 https://news.yahoo.co.jp/articles/9bde256f649d95ce8f61ac65fd112885fe8ade5f

 昭和プロレス雑誌表紙集
 1980年代前半のプロレス雑誌表紙集
 https://project24gallery.web.fc2.com/gallery_04_prowres_index.html
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 ┃ 『苦しみの手放し方』大愚元勝 ┃
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‡2020(令和二)年02月19日(水) Kindle版
 2020(令和二)年02月20日(木) ソフトカバー
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 https://www.amazon.co.jp/dp/B0848ML9QH
 https://www.amazon.co.jp/dp/4478102783
 https://www.youtube.com/channel/UC4arQnli3ffEuCSrSgAD_Ug
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 沢木耕太郎 スポーツ・ドキュメント 奪還~ジョージ・フォアマン45歳の挑戦~
‡1995(平成七)年02月19日(日) No.800 
 https://www2.nhk.or.jp/archives/search/special/detail/?d=special027
 映像◆奪還~ジョージ・フォアマン45歳の挑戦~https://youtu.be/uDKqT6XLpIA
 2017(平成29)年04月06日(木) アップロード
 2017(平成29)年10月15日(日) 追記:熱いファンの方に喜んでいただけて何よりです。実はフォアマンって、ベルトを取らない限り自分をどう変えても満たされることはないと知っていたんだと思います。そして、心の底から「ベルトが欲しい」と思える何かを求めていた。財産を持ち逃げした会計士は許せても、寄付してくれた人たちに「もっと出せ」と言った人間は許せなかった。これがフォアマンの心に火を点けたんだろうと思います。長い長い回り道を経て、若いころよりも人間的にはるかに「BIG」になったフォアマン。強打を振り回せば相手が勝手に倒れてくれるというような第一期フォアマンより、苦しいときには守り、出るべき時に出ることを覚えた第二期フォアマン(つまりこのころ)の方が、うp主は好きです。王座陥落から返り咲きまで20年というような記録は、今後しばらく出ないでしょう。気がつけば、うp主はこのときのフォアマンと同じ歳になってました。でも彼のおかげで「年齢が年齢だから」というのは諦める理由になっていないと学び、感謝しています。世界一多くの人に希望を与えた伝道師フォアマンに神のご加護があらんことを願います。
 
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 ┃    George Edward Foreman   ┃
 ┃ ジョージ・エドワード・フォアマン ┃
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 1949(昭和24)年01月10日(月) Born
 1974(昭和49)年10月30日(水) キンシャサの奇跡:ザイールのキンシャサで、元王者モハメド・アリと3度目の防衛戦を行う。序盤から圧倒的に攻め続けながら、ロープ際で防御を固めるアリの戦法(ロープ・ア・ドープ)にはまり体力を消耗。8Rに逆転KOされ王座から陥落、41戦目キャリア初黒星。1年以上休養した後、
 1976(昭和51)年01月24日(土) Ron LyleとNABFヘビー級決定戦を行い、ダウンの応酬の末5RKO勝利する。その後、フレージャーとの再戦(5RTKO)を含めて4連勝
 1977(昭和52)年03月17日(木) 勝てばアリへの再挑戦権を得る試合にこぎつける。場所はプエルトリコ・サンファン、相手は格下のJimmy Youngだった。一方的にヤングを攻めたが、その日は異常に暑く、試合中盤に失速し、最終ラウンドにダウンを喫して判定負け。ヤング戦の試合後ロッカールームで昏倒し、イエス・キリストの存在を感じる神秘的な体験をしたことを契機に、キリスト教に目覚める。28歳でボクサーを引退し、キリスト教の牧師に転身する
  THE CHURCH OF THE LORD JESUS CHRIST
 1987(昭和62)年03月09日(月) スチーブ・ゾースキーを4RKOし復帰戦を飾る。現役復帰を発表した時は、10年のブランクに加え、体型も明らかに肥満していたため、多くの人々は「正気か?w」と嘲笑したが、復帰後24連勝してヘビー級タイトル戦線に再浮上する(マイク・タイソンとの対決もされたが実現せず)
 1991(平成三)年04月19日(金) 'The Battle of Ages'(世代の対決)と題された一戦でイベンダー・ホリフィールドの持つWBA・WBC・IBF世界ヘビー級王座に挑戦。14歳年下の王者を相手に激しい打ち合いを展開し、判定負けするも称賛を受ける
 1993(平成五)年06月07日(月) トミー・モリソンと空位だったWBO世界ヘビー級王座を争うが、大差の判定負け。その後1年以上ブランクが続き、引退も囁かれる
‡1994(平成六)年11月05日(土) WBA・IBF世界ヘビー級王者マイケル・モーラーに逆指名され、復帰後3度目のタイトルマッチに臨む。劣勢の中で10Rに逆転の右ストレートでモーラーをKOし、20年ぶりにヘビー級タイトルへの返り咲きを果たした。45歳9カ月での戴冠はボブ・フィッシモンズ(ライトヘビー級)の40歳3カ月を上回る最年長王座獲得記録となった(2011年にバーナード・ホプキンス(ライトヘビー級)が46歳4カ月で更新)。勝利の瞬間、フォアマンはコーナーポストの前で跪き、神に感謝したヨ(=^◇^=)
 1996(平成八)年11月03日(日) 東京ベイNKホールでクロウフォード・グリムスリーと対戦し(JBC非公認試合・日本IBF協力)WBU王座防衛とともにIBA世界ヘビー級タイトルを獲得(その後、IBAタイトルを返上)
 1997(平成九)年04月26日(土) ルー・サバレーセを破りWBU王座を防衛するがこれも返上
 1997(平成九)年11月22日(土) WBC世界ヘビー級王者レノックス・ルイスへの挑戦権をかけてシャノン・ブリッグスと対戦し、12R判定負け。以後、リングから遠ざかるが、正式な引退表明はしていない。また、自らの名を冠したバーベキューグリル「George Foreman Grill」をヒットさせ、TVドラマやCMに出演するなど、ビジネスでも成功を収めているヨ(=^◇^=)
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョージ・フォアマン
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 「昭和の通勤電車」今では信じられない地獄絵図
 「失神者」や「ガラスの破損」は日常茶飯事
‡2019(平成31)年02月19日(火) 5:00 服部淳:コラムニスト
 写真◆昭和の通勤ラッシュは「地獄」とまで言われていた(写真は1962(昭和37)年のものです=写真:Everett Collection/アフロ)
「タクシーは乱暴運転が当たり前」「自分の血液が売り物になった」など、昭和の時代は今では信じられない常識が多くありました。昭和の「通勤ラッシュ」もその1つ。今よりもはるかに混雑していた通勤ラッシュの実情について、コラムニストの服部淳氏が解説します。この原稿を執筆中に、2017(平成29)年度の都市部の鉄道混雑率が国土交通省より発表された。それによると、東京圏の混雑率は163%まで下がったそうだ。この混雑率とは、ピーク時(ラッシュアワー)1時間平均の混雑度の割合で、現在のところ、ほぼ目視で測定しているらしい。目安としては、混雑率100%が、座ることができない人もいるが、他人に触れることなく乗っていられる状態のようで、150%になると「広げて楽に新聞を読める」状態(最近は新聞を読んでいる人の姿もぐっと少なくなっているので、新たな基準が必要かもしれない)、200%が「体がふれあい相当圧迫感があるが、週刊誌程度なら何とか読める」状態、250%になると「電車がゆれるたびに体が斜めになって身動きができず、手も動かせない」状態とのことだ(混雑率100%以外は国土交通省の資料より)。
■「通勤地獄はマンガだ」東京で通勤、通学していて混雑路線を利用しているなら、毎朝200%から250%の状態だよ、とケチもつけたくなるが、あくまでも東京圏主要31区間の平均であり、混雑する車両から比較的空いている車両までの平均であり、混雑する急行や快速列車と、若干空いている各駅停車との平均でもある。この調査が始まった1975(昭和50)年度の混雑率を見ると、東京圏で223%となっているので、それでも東京近郊の通勤ラッシュはだいぶ緩和されているのである。さらに調査開始以前の昭和30年代から40年代後半の高度経済成長期には、通勤ラッシュの混雑率は300%を超えていたともいう。混雑率300%超えとは、いったいどれだけの混雑なのだろうか。当時の新聞を調べてみると、
 1965(昭和40)年06月07日(月)の読売新聞夕刊に“通勤地獄はマンガだ”というセンセーショナルな見出しが紙面を飾っていた。東京の新宿駅のあまりにもひどい朝のラッシュを、運輸省(現・国土交通省)の大臣が視察したというニュースなのだが、この大臣が視察後の会見で述べた「あえて“マンガ”だといおう。すさまじいマンガだ」が、この見出しのもととなっている。
→次ページ「地獄」とまで言われた当時のラッシュ
 https://toyokeizai.net/articles/-/265054
 添えられた写真には、4、5人の駅係員(いわゆる「押し屋」)が乗客を中央線の上り列車に押し込んでいる様子を運輸大臣が視察する姿を捉えている。
■毎日1人は失神する通勤地獄 ⇒ その視察が混雑をさらにひどくしているのではないだろうかとも思えるが、押し込まれている人は、まるで拷問でも受けているような悲痛の表情だ。この日は2人の女性が失神したそうだが、駅員の話によると毎日1人は失神するのだとか。
 1965(昭和40)年06月07日(月)の読売新聞夕刊より写真◆朝の通勤ラッシュのひどさを伝える新聞記事
 日本国有鉄道(国鉄、現・JRグループ)の通勤電車に冷房車が登場したのは1970(昭和45)年なので、当然クーラーはない。この混雑に梅雨入り前の蒸し暑さが加われば、そりゃ失神する人も頻発するだろう。だが、単純に混雑だけでいえば、この視察があった6月より、乗客が厚着して“着ぶくれ”になる冬場のほうがひどくなる。視察以前の冬の新聞を探ってみると、
 1963(昭和38)年12月12日(木)には、国鉄常磐線の松戸駅で〈ギュウ詰めの乗客のゆり返しでガラスが破れた〉(同日付の朝日新聞夕刊より)という事故が、翌
 1964(昭和39)年01月11日(土)には、国鉄中央線において1本故障が出たためにダイヤが大幅に乱れ大混雑、〈新宿駅では、電車のガラス五枚が割れ、電車のドアが七カ所もはずれる〉(同日付の朝日新聞夕刊より)という事故が起きていた。当時のガラスは現在のものより強度がなかったので、ラッシュで割れることもたびたびあり、ドアもよく壊れた。ケガの恐れもあるし、混みすぎてキツイというだけではすまなかったのだ。電車に押し込まれた際に靴が脱げてしまう人も多かったようで、国鉄ではサンダルの貸し出しも行っていたり、新橋駅ではラッシュでちぎれたボタンをつける商売をする店も出現したりした。いずれもこの時代の通勤地獄を物語るエピソードである。
→次ページ「混雑率ワーストの区間」はどこ?
 https://toyokeizai.net/articles/-/265054?page=2
 再び国土交通省の鉄道混雑率の調査に戻ろう。全体の混雑率のほかにも混雑率が高い11の区間が紹介されていた。見事(?)ワーストに輝いたのは、すっかり常連となっている東京地下鉄(東京メトロ)東西線の木場駅から門前仲町駅に向かう区間で、1時間平均の混雑率は199%だった。東京のベッドタウンである千葉県船橋市から、集合住宅も多い東京都江戸川区を経て、オフィスビルが林立する大手町方面を結ぶ混雑必至の路線なので(東京圏在住者なら特に)納得の順位である。
■地道に改善されていった混雑事情 ⇒ 全体の混雑率が下がってきた現代に、199%もの混雑率である東西線だが、ラッシュがさらにひどかった時代には、どんな恐ろしい状態だったのだろうか。新聞をさかのぼっていくと、
 1966(昭和41)年10月12日(水)の朝日新聞(東京版)に、東西線に関するこんな意外な見出しが載っていた。「相変らずガラ空き?都心乗入れの地下鉄東西線」。見出しの上にはガラガラの車内の写真が掲載されていて、新聞には〈中野駅で
 1966(昭和41)年10月11日(火)午前10時うつす〉と撮影時間が併記されている。当該新聞の発行日は水曜なので、撮影日は平日の午前中ということになる。通勤ピークは過ぎているとはいえ、1人も座っていないロングシート(横向きの長椅子)があるというのは、都心の平日の日中にはまず見ない光景だ(始発駅なので、発車までまだ時間があったのかもしれないが)。実は地下鉄東西線は、この記事の2年前になる1964年に高田馬場駅と九段下駅の間で開業した新路線で、
 1966(昭和41)年03月に中野駅と高田馬場駅間、九段下駅と竹橋駅間が開業。この記事の11日前に竹橋駅と大手町駅間が開業したばかりのときだった。中野から大手町(東京駅とほぼ同位置)を結ぶ路線でしかないため、国鉄中央線とルートはさほど変わらず、利用メリットがまだ少なかったころだったのだ。その後、1967(昭和42)年に東陽町駅まで延伸、
 1969(昭和44)年03月に東陽町駅と西船橋駅(千葉県)間が開業し、現在のような利用価値の高い(混雑しやすい)路線へと成長していったのだった。このような地下鉄を中心とした新路線が次々と開業し、地下鉄と私鉄の相互乗り入れや、路線の複線化などさまざまな策が施され、東京圏をはじめとする混雑は地道に緩和されていったのである。
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 写真◆『#平成生まれは知らない 昭和の常識 』書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします
 https://toyokeizai.net/articles/-/265054?page=3

 映像◆『懐かしの芸能グラフイテイ 戦後を飾った100大スター』https://youtu.be/WzJs1t2JdZQ
 1983 土曜トップスペシャル
 25:54 力道山
 
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 ┃ 『力道山からピンク・レディーまで ┃
 ┃        テレビ25年総集編』 ┃
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 1978(昭和53)年10月05日(木) 19:00~20:54『木曜スペシャル』
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 ┃  『かくし芸なんかじゃない! ┃
 ┃  なつかしの爆笑VTR傑作選 ┃
 ┃      テレビ25年総集編』 ┃
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 1979(昭和54)年01月01日(月) 19:00~20:54
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 1953(昭和28)年08月29日(土) 巨人×阪神戦 初のプロ野球ナイター中継
‡1954(昭和29)年02月19日(金)『力道山・木村政彦対シャープ兄弟』蔵前国技館
 1954(昭和29)年02月20日(土)『力道山・木村政彦対シャープ兄弟』蔵前国技館
 1954(昭和29)年02月21日(日)『力道山・木村政彦対シャープ兄弟』蔵前国技館
 1965(昭和40)年05月09日(日)『ベトナム海兵大隊戦記・第1部』ノンフィクション劇場
 1966(昭和41)年06月30日(木) ザ・ビートルズ日本公演
 1977(昭和52)年09月03日(土) 王貞治の756号ホームラン
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/力道山からピンク・レディーまで_テレビ25年総集編
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%AC%E6%BC%94_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E7%95%AA%E7%B5%84)
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 Sports Graphic Number 70号 力道山の真実
‡1983(昭和58)年2月19日(土)発売 文藝春秋
 約 30ページに渡り力道山の特集記事があります。
 希少な写真と知られざるエピソード満載の文章は読み応えがあります。
 https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/x548663105

 古舘伊知郎の生年月日が
 1954(昭和29)年12月7日(火)であるが、その約10か月前の
‡1954(昭和29)年2月19日(金)は「力道山・木村政彦VSシャープ兄弟」の試合が街頭テレビで放送され、日本中が熱狂した日であった。そのため古舘は父親に「親父はこの日にやったのか?」と訪ねたところ「試合を見たのははっきり覚えてるが、その日にやったかは覚えてない」と言われたという。そのため確定はしていないが、古舘は一応この日を「自分が受精した日」としている
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%88%98%E4%BC%8A%E7%9F%A5%E9%83%8E#経歴

‡1970(昭和45)年02月19日(木)に行われたジョン・ベスターとの対談(テープが「放送禁止」としてTBS局内で2013年まで放擲され、2017年に公開されたもの)でも、きちんと法改正せず「憲法違反」を続けることで人間のモラルが蝕まれるとし、平和憲法は「偽善のもと」、「憲法は、日本人に死ねと言っているんですよ」と語っている
 https://ja.wikipedia.org/wiki/三島由紀夫#憲法改正論
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 ┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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 1997(平成九)年02月19日(水) 中国の最高実力者、鄧小平氏が死去 ⇒ 中国の最高実力者、鄧小平氏が死去。中国共産党の政治闘争で3回も失脚しながら復活を重ね、改革・開放政策を推し進めた。写真は、安置された鄧氏の遺体を放映した中国中央テレビの映像【AFP時事】
 1946(昭和21)年02月19日(火) 昭和天皇が地方巡幸を開始
 2008(平成20)年02月19日(火) 南房総沖で海上自衛隊のイージス艦が漁船と衝突
 https://www.jiji.com/jc/daily
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 ┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=荒川ユウジ
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‡2012(平成24)年02月19日(日) キヨシ、初白星! 
‡2018(平成30)年02月19日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は2月19日だ。 
 写真◆試合後、ウイニングボールを手に報道陣に笑みを見せた中畑監督だが、すぐにスタンドのファンへ
 DeNA初代監督、中畑清監督の「初白星」、つまりはDeNAとしての「初白星」が2012年2月19日だった。 
 チームにとって3つめの対外試合となるオリックスとの練習試合(宜野湾)で、DeNAは6対5で初白星。1回、復活を期す吉村裕基が先制タイムリーを放つと、3回には森本稀哲のソロ、5回には石川雄洋の適時打で追加点。6回に逆転を許したものの、8回にルーキー捕手・高城俊人が二塁後方に決勝適時打となるポテンヒット。そのまま1点差で逃げ切った。ウイニングボールを受け取った中畑監督だが、記念球はさっさとスタンドのファンへ。「本番(シーズン)で、家の倉庫にいっぱいためたいね」と笑った。 
 勝利が薬になる、とはいえ、課題は山積み。第一の懸案材料は投手陣だが、対外試合初戦の日本ハムとの練習試合(名護)では、打線が相手先発・斎藤佑樹から4点を奪いながら最終的には7対9で逆転負け。このオリックス戦も同様、序盤に打線が順調にリードを広げながら、6回の藤井秀悟の乱調で最後は接戦に持ち込まれた。中畑監督は自ら音頭を取ってチームで戦う姿勢を築こうとしているが、まず投手陣と野手陣の信頼関係がなければ、「和」をつくることもままならない。 
 宜野湾球場で行われた、このオリックス戦と前日の楽天との練習試合は、中畑監督の発案で大震災支援のチャリティーゲームとして開催。指揮官や選手たちが試合前、来場者に義援金を呼び掛けた。故郷・福島は、いまも原発事故の影響を受けており、「風化させてはいけない」と中畑監督。被災地に勇気を与える戦いをするためにも、指揮官がやるべきことはまだまだ、たくさんありそうだ。 
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 http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180219-12
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓※最初の40円
①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.203 ┃  40円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1962(昭和37)年2月19日(月)号 4000万円男・尾崎行雄の20勝は確実
 2018(平成30)年5月19日(土) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。 
◎金田正一の享栄商高時代の猛練習
 写真◆表紙は左から巨人・王貞治、長嶋茂雄
 今回は『1962年2月12日号』。定価は40円。増ページもないので、創刊以来初、ついに10円の値上げが行われたようだ。グラビアでは巻頭が巨人・長嶋茂雄、センターグラビアでは西鉄・中西太兼任監督、南海・杉浦忠らのキャンプ風景が掲載されている。 
 本文巻頭記事も長嶋特集。かなり調子はいいようだ。三冠王について聞かれ、 
「昨年は本当にもう少しだったもんね。後半ちょっとばてちゃって。1年目は首位打者になれなくて三冠王を逃したし、三度目の正直というから最初から狙っていきますよ。なんだか5年目あたりが一番調子がいいそうですね」 
 と語っている。 
 浪商高を中退し東映入りした17歳の怪童・尾崎行雄の記事もあった。契約金4000万円とも伝えられる大物新人だ。球種は速球と落ちるカーブ、シュートで高校時代は、ほとんどストレートしか投げなかったという。サイド気味からの球は速いだけでなく、制球もいい。周囲は1年目から20勝もと期待を寄せているが、本人は「なるべく多くの試合に出たいということを、いまは念じているだけです」と謙虚だ。 
 連載『ぼくの球歴』では国鉄の金田正一が登場。享栄商高時代の猛練習について書いてあるので抜粋する。彼も尾崎同様、高校中退プロ入団だ。 
「僕は中学時代まったく野球はやったことがありません。野球のボールを握ったのが高校に入っての5月だから大変でした。一番きつい練習は2人でできるだけ接近してボールをほうり合うんです。それも自分の出せる限りのスピードで。手のひらは真っ赤に腫れあがってエンピツはもちろん、食事のときは箸も持てない。重いものを持つと痛くて涙が出てきましたよ。プロに入ってからもつらかったことはいろいろありましたが、あのときほどつらかったことはありませんね」 
 昔の強豪野球部ではよくある練習だったが、これで骨折したり、目に当たり失明し、野球を断念した人もいたりしたという話を聞いたこともある。この練習で鍛えられるのは……たぶん、度胸くらいか。 
 以下、宣伝。週べ60年記念シリーズ『巨人編』『日本ハム編』『阪神編』が好評発売中、『ロッテ編』を鋭意制作中です。 
 では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.510 ┃  60円
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1968(昭和43)年02月19日(月)号 プロゴルファー尾崎への最初の一歩
 2019(令和元)年07月22日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 
◎大リーグ並みのセックス管理?
 写真◆表紙は阪神・村山実
 今回は『1968年2月19日号』。定価は60円。 
 西鉄で池永正明とともにエース候補と期待された尾崎正司。途中、投手から野手に転向したが芽が出ず、退団となった。 
 クビではなく、自分からだった。67年の契約更改の席で突然、 
「やめさせてください」 
 と言った。理由を聞くと、「プロゴルファーになりたい」という。 
 尾崎がゴルフを覚えたのは66年冬からだという。すぐ夢中になり、練習をすっぽかしてゴルフ場に出かけるようになったのが球団にばれ、「勝手なことをしたらトレードに出すぞ」としかられ、9月にはゴルフ禁止令が出されたという(松坂に似てる?)。 
 球団からは「高い契約金をもらいながらやめるのは契約違反だ、金を返せ」と怒鳴られたらしいが、意思は変わらず。ついに球団も認め、任意引退となった。 
 尾崎は言う。 
「なんといわれても野球は嫌だった。いやなものを続けていてもうまくなるわけないもんね。これからが僕の本当の人生のような気がしているんだ」 
 東映・大下弘監督がキャンプへの夫人同伴を許可したという記事があった。日本初の試みとされているが、その記事の見出しが、 
「やっと始まる! 大リーグなみのセックス管理」 
 大先輩編集者の仕事とはいえ、正直、なんのこっちゃ、だ。 
 では、またあした。<次回に続く> 
 備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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 ②https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190719-01
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
 ┃ プロ野球仰天伝説 No.058 ┃ ONLINE
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   【助っ人トンデモ話 No.09】
 犬の来日費用も請求した究極のダメ助っ人
‡2018(平成30)年2月19日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。 
 ペピトーン[1973ヤクルト/内野手]
 ヤクルト・ペピトーン
 この手の企画では常連となっている史上最悪の助っ人だ。 
 1973(昭和48)年、ヤクルトが契約金20万ドルで契約したペピトーンである。メジャー通算1315安打の大物だけに球団も大張り切り。6月末のダブルヘッダーを「ペピトーン・デー」とし、大々的に宣伝したが、いきなり「かもいに頭をぶつけて痛いから」と休んでしまった。 
 その後、離婚問題を理由に7月に帰国。ようやく再来日したと思ったら「手にマメができたから」など、いろいろな理由をつけて“さぼり”、8月末には右アキレス腱痛を理由に無断で帰国してしまった。 
 2年契約だったが、翌1974(昭和49)年は来日すらせず、球団が連絡すると飼い犬の空輸代を出さなければ日本に行かないなど、いろいろな条件を出して、またゴネた。球団もさすがにあきらめ、開幕前に解雇となっている。
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