「おい、マスクはどうした」…
2020(令和二)年06月06日(土) 12:30 西日本新聞 ふくおか都市圏版 山下真 記者コラム
‡2020(令和二)年06月09日(火) 更新「おい、マスクはどうした」。マスクの品切れが続いていたころ、商店街を歩いていると突然、がなり声が聞こえた。振り向くと、初老の男性が道端で、幼い女の子をとがめている。その口元にマスクはない。のどかな昼下がりに、不穏な空気が流れた▼正体不明の新型コロナは、社会の不安と不信を増幅させた。感染への恐怖心がとげとげしい言葉となって飛び交い、休業しない店や外出する人を過剰に非難する動きがある。見えないウイルスが人の心までむしばんでいるようだ▼すごむ男性に私まで身構えていると、女の子は「忘れちゃった」とにっこり。緊迫はとたんに緩み、男性も「うちに100枚ある。やろうか」と力の抜けた様子。子どもの笑顔には、コロナですさんだ心を包み込む不思議な力がある。 (山下真)
【関連】「お届け物です」。玄関の扉が開き、宅配の荷物を渡そうとしたら…
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/614603/
┏━━━━━━┓
①┃ 石井妙子 ┃‡1969(昭和44)年生誕
┗━━━━━━┛
┏━━━━━━━━━━━┓
②┃ 『女帝 小池百合子』 ┃石井妙子:著
┗━━━━━━━━━━━┛
1952(昭和27)年07月15日(火) 女帝性誕
2020(令和二)年05月29日(金) 文藝春秋 P.440
2020(令和二)年05月30日(土) Amazonカスタマー 凄いです 小池百合子の本質にここまで迫った記事、本は無いと思います。ノンフィクションを超えてます。告発本ともいえます。しかし、それは綿密な取材に裏打ちされたものです。都知事という総理に次いで二番目と言われる権力者に対して恐れを抱きながらも書かれた著者の勇気に敬服します。大袈裟な意味でなく命を賭して執筆されたと思います。取材も細かく資料も膨大で浅い内容の週刊誌的な記事とは全く違います。当たり前ですが…読み進めて最初の方は、丁寧な取材を感じつつも著者の主観が強いなと思いましたが、それは逆に先述した綿密な取材に裏打ちされたものだと納得します。引き込まれます。小池都知事について政治に近いTVコメンテーターが「あの人はね…」とよく嘆息する、意味がとても分かります。何となく今まで彼女に違和感を覚えていた人はそれは何故かがよく理解出来ます。小池の恐ろしさが本当に分かります。しかしそれを利用してきた政財界の要人たち、マスコミ、多くの人たちにも責任があります。著者はそこも訴えています。都知事選に併せて出したただの暴露本だと揶揄されそうですが、そんな三面記事的ものではないです。これは警告だと思います。本当に更に4年間この人に知事を任せて良いのか、その為に本に書かれている築地の人たちを始め多くの人たちをもっと不幸にしてしまうのではないか。学歴詐称疑惑についてもこの本で多くのページが割かれていますが、学歴が政治家の実力とは関係ないと著者も認めています。そのことが問題でなく嘘を重ねてその嘘を利用して今の地位や名声を手にしてきたこと、そういった人間のありようが問題なのだと指摘しています。そして、嘘がいかに罪深いものであるか、周りの人を苦しめ、人生を歪ませるか…こんな小学生でも理解できるようなことを諭され、大の大人が恥ずかしく情けなく思います。著者の石井さん、取材を受けられた小池とかつて同居していた方には改めて心から敬意を表します。同居されていた方にも石井さんは語られていますが、どんなにか長年異国の地で恐怖を感じ良心の呵責に悩んでこられたか、察するに余りあります。それでも、小池に本当の人生を歩んで欲しい、一緒にカイロ大学に通ってもいいと言ってくれる優しい友人が身近にいることを本人が気付くことはやはり難しいのか。彼女の生い立ちや境遇が今を作ったとしても、だから他の人、本に書かれていた水俣病やアスベストに苦しんでいる人を更に悲しませて良いことにはならない。読了した後、著者の言うように戦後の女性解放の結果がこの小池の躍進なのか、もしかしすると女性宰相へ繋がるのかと重く塞ぐ気持ちにはなったが、著者と取材された方の誠実さと勇気にまだ希望があると感じます。まだ終わっていない、そう思いたいです。出来れば、小池に違和感のない、寧ろこのコロナ対策で小池は頑張ってる、都のリーダーとしてふさわしいと思っている人たちにこの本を読んで欲しいです。拙い乱文ですが、素人の感想でした。963人のお客様がこれが役に立ったと考えています
③2020(令和二)年06月06日 健 非常に素晴らしい本。多くの人に読んでほしい 結論から言うと、非常に素晴らしい本だった。制作に3年かかったと書いていたが、それくらいの時間と労力をかけて書かれただけの価値がある傑作である。ちなみに、私は学生だったとき、1年半ほど、小池百合子事務所でインターンをしていた。その時いろいろ思うことがあり、インターンをやめてからも小池氏については個人的に調べていた。本書に書いてある小池氏の実像や人間性、考え方などは、私の知る限り、実際の小池氏本人の姿にかなり近い。見た目はよく、美人である。弁舌さわやかで、PRも上手い。チャンスを見極め勝負をかけるのも得意。一見魅力的な人物にみえる。ただ権力欲が異常に強すぎる。あと豊洲問題やオリンピック問題で明らかな通り、組織を動かし政策を実現する実務能力は極端に低い(この点は本書によく書かれているので割愛するが、無能といっても過言ではない。アニメキャラに例えると銀河英雄伝説に出てくるトリューニヒトが近いと思う。)そして何より、本書に書かれている通り、嘘が多い。悪気なくウソをつく。カイロ大学の件を筆頭に、嘘で塗り固められた人生だと言ってよいと思う。おそらく本物のサイコパスなのだろう。政治家としてというより、人として重要な何かが、彼女は決定的に欠落している。個人的に印象に残ったのは、本書の後半に出てくる「謎の秘書」であるM氏の記述である。彼は、私がインターンをしていたときに事務所にいた(本書で人柄や雰囲気が描かれている通りのような感じの人だった)。本書で書かれている通り、M氏がどういう人なのかは事務所内でも謎だった。政治家事務所は情報の管理上、事務所に関わる人の経歴は、事務所内ではだいたい共有されていることが多い。しかしM氏については秘書の人たちもほとんど知らなかった。私とよく話してくれた秘書の方も「小池さんの親戚らしいけど、Mさんのことはよくわからないんだよね…」と言っていたのを覚えている。本書でも、著者は彼が何者なのかかなり丹念に調べているが、突き止められていない。個人的には、このあたりにいろいろ小池氏にまつわる何かカギがあるような気がしている。ちなみに2009年の総選挙のとき、小池氏は小選挙区で落選している。小池氏はこの時「秘書のせいで負けた」と勘違いしたのか、とにかく激怒した。その結果、本書に書かれている通り、古くから献身的に仕えてきた秘書たちを、秘書本人には会わず、M氏を通した伝言という形で、ほぼ全員クビにしてしまった。私が知る限り、この秘書の方々は(中には変な人もいたものの)、皆とても職務熱心で人柄もよい、真面目で善い人ばかりだった。あのときは民主党に強い追い風が吹いており、小池氏が小選挙区で落選したのはどう見ても秘書のせいではなかった。それヒステリー起こして秘書のせいにし解雇するのは、筋違いだったと思う。長年献身的に仕えた秘書をもゴミのように扱い切り捨てる小池氏の人間性を、私は深く軽蔑した。なお、私自身は小池氏に特に何かをされたということもないし、個人的な恨みもない。ただ、本書に書かれている通り、客観的に見て、彼女は政治家という国家の進路を任せる職務にふさわしい器ではないと思う。できることならば、小池氏に対し、政治というものを本音ではどう思っているのか尋ねてみたいと思っている。あわせて
・本当に国のためになりたい、国益を追求したいという気持ちで政治家をやってきたのか。
・特にやりたいこともなく、ただ自分の虚栄心と功名心を満たし、政治的地位を向上させることだけが目的だったのか。
・建設的で本質的なことをせず、PRとパフォーマンスばかり行い、政治をゲームや玩具のようにもてあそぶことに罪悪感はないのか。
・もし本当に虚栄心と功名心だけを追い求めてきたのだとしたら、振り返って、それは虚しいことだったと思うことはないか。などのことも聞いてみたい。長くなったが、東京都に住んでいる方は、どうか本書を読んでほしい。とても良い本である。 767人のお客様がこれが役に立ったと考えています
2020(令和二)年05月31日(日) kichirika 都知事選前に一人でも多く読んで欲しい。3年半にも及ぶ緻密な取材と、カイロでの同居人女性の勇気ある証言に、小池氏本人はどう向き合うのだろうかと、読了後まず思ったが、この本の読者が飛躍的に増えてくれない限り、各メデイアの書評にも取り上げらず、ワイドショーなども素通りであれば、やすやすと都知事選挙に圧勝するのであろう。国内外を問わず現代の政治のリーダーの資質は虚言癖かサイコパスが多いことは実感しているが、小池氏はさらに特筆すべき底知れない怖さを併せ持っていると思う。ジジ殺しの才能で権力者に取り入ってきた成功体験は、今後どういう形で終焉を迎えるのか、老境に差し掛かり、過去を恥じ入り後悔することはないのかを、小池氏本人に聞いてみたいところだ。人類史に残るコロナ禍も、彼女にとっては好機到来で、大好物のメデイア露出と選挙キャンペーンを楽しんでいるように思える。著者の石井妙子氏の筆力、時系列に沿って冷静に証言を積み上げていく圧倒的な事実。ノンフィクションの金字塔だと感服した。一人でも多くの方に読んでいただきたいと切に願う。632人のお客様がこれが役に立ったと考えています
2020(令和二)年05月31日(日) テレビ屋 批判的人物伝の傑作 ノンフィクション作家が、ある人物の評伝をなぜ書きたいと思うのか?「共感」が最も大きなモチベーションであろう。著者のかつての作品、「おそめ」にも「原節子」にもそれは感じられた。ところが「女帝」にはそれがない。「こんな人間を放置していいのか」というジャーナリスティックな思いが溢れている。この類の人物伝で優れたものは日本ではあまりないように思う。わずかに魚住昭氏の「メディアと権力」佐々木実氏の「市場と権力」が思い浮かぶくらいだ。(佐野真一氏の「ハシシタ」が完成していたらおそらくそうなっていたであろうが)小池百合子というテレビが育てたモンスターのありようを著者は的確にとらえている。小泉純一郎元首相がテレビを巧みに利用したと言われているが、彼の場合は持って生まれた資質がたまたま「テレビ的」であったにすぎないように思う。彼女は竹村健一氏のアシスタントから始まってテレ東のニュースキャスターまでの間に、テレビ的とは何か、大衆とは何かを学んでいったに違いない。おそらくはそのマイナーなキャリアゆえの屈辱感も抱えながら。学歴詐称の検証は多少エビデンスが弱いが、それが瑕疵に感じないほど、小池百合子という人物の人生そのものが嘘に塗り固められていることが十分に取材されている。その背景に、右頬の赤い「痣」と破天荒な「父親」の存在があるのではという指摘は、なんともうら悲しい説得力がある。まぎれもなくこの本は「批判的人物伝」の傑作であろう。505人のお客様がこれが役に立ったと考えています
****************************************
①https://ja.wikipedia.org/wiki/石井妙子_(ノンフィクション作家)
②https://www.amazon.co.jp/dp/B0873YLSWN
③https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2O5B1HCL15JT
https://ja.wikipedia.org/wiki/小池百合子
****************************************
小泉元首相らが会合、小池氏応援を確認
2020(令和二)年06月10日(水) 05:51配信 TBS系(JNN)Copyright(C) Japan News Network. All rights reserved.
小泉元総理や自民党の二階幹事長が9日夜、会合を開き、来月予定される東京都知事選挙で小池知事を応援することを確認しました。
‡2020(令和二)年06月09日(火)夜、都内の日本料理店で行われた会合には、小泉元総理の他、自民党の二階幹事長、山崎元副総裁、武部元幹事長らが出席しました。この会合は定期的に行われているもので、メンバーの1人、東京都の小池知事は9日は欠席しましたが、電話で出席者に都知事選挙に立候補する意向を伝えたということです。
「(小池都知事は) 頑張ってるなって話」小泉純一郎元首相
「小池さんを皆で応援しようと」自民党 武部勤元幹事長 また、会合には、武部氏に呼ばれたという杉村太蔵元衆議院議員も飛び入りで参加しました。報道各社の世論調査で安倍内閣の支持率が低下する中、会合では、政府の新型コロナウイルスへの対応や政権運営のあり方についても意見が交わされたものとみられます。(10日00:41)
◎杉村さんが違和感のある発言を度々する事に納得できました。これだけの重鎮に媚びているのか、むしろ利用しあっているのでしょうね。色のついたコメンテーターですね。
◎この写真を見る限り、とても密な状態で食事をしているように見えます。一方で、多くの飲食店が密を避けるために様々な工夫をしています。利用者も気を付けています。このメンバーのご見解はどうなんでしょうか?
◎二階議員誰に聞いているのかな?過去の議員に小池さん支援だなんて小泉元総理や山崎氏や武部氏は過去の人そんな人に聞くこと自体おかしい?もう過去の人は過去人
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20200610-00000017-jnn-pol
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
偽造私文書行使で刑事告発までされた小池都知事
2020(令和二)年06月11日(木) 07:00 黒木 亮:作家
2020(令和二)年06月02日(火)写真◆東京都は新型コロナウィルス対策本部会議にて「東京アラート」発令を正式決定。対策本部会議後に報道陣のぶら下がり取材に応じる小池百合子都知事(写真:Pasya/アフロ)
小池百合子東京都知事の学歴詐称疑惑に関し、去る
‡2020(令和二)年06月09日(火)、東京都の男性が、告発状を東京地検に郵送した。
2016(平成28)年06月30日(木)放送のフジテレビの報道番組「とくダネ!」で公開された小池氏の卒業証書と卒業証明書が偽造されたもの(偽造有印私文書行使罪)である可能性があるとの内容だ。告発は、文書の形式が整っていて、告発事実が具体的に特定されていれば、告発人が自主的に取り下げない限り、不受理にはできず、捜査が始まる。
小池氏の卒業証書類に関しては、筆者も従来から不審な点があることを指摘してきた。スクリーンショットで見る限り、卒業証明書は最重要要件のスタンプが3つとも不鮮明で、エジプトの国家機関を表す鷲のマークも、その周囲の文字も読み取ることができない。また文章が男性形で書かれ、4つある署名者欄のうち署名が確実にあると言えるのは2つだけ、収入印紙が逆さまで、写真もピンでとめてある。これらは筆者が比較対照のために集めた20通ほどのカイロ大学の卒業証明書にはない特徴だ。卒業証書に関しては、さらに疑わしく、明らかにいくつかの要件を欠いている。
筆者はこれらに関し、2018年11月に文書で小池氏に質問をしたが、回答はなかった。また小池氏は、これら不審点についてこれまで説明することもなく、都議会で再三にわたって卒業証書類を提出するよう求められたが、ことごとく拒んでいる。正規のルートで堂々と卒業したのなら、50回でも100回でも卒業証書類を開示できるはずで、こうした態度をとっている限り、疑惑が晴れないのは当然だ。
検察の捜査が開始された場合、筆者はまだ公開していないものも含め、手元にある資料はすべて提供し、必要があれば裁判で証言するつもりだ。『女帝 小池百合子』(文藝春秋)で学歴詐称の実態を解明した石井妙子氏も捜査に協力するはずだ。また、これまで口を閉ざしてきた小池百合子氏の元夫も捜査に協力するかもしれない。
■カイロ大学側は「卒業した」と言うが■一方、
2020(令和二)年06月08日(月)にカイロ大学は、学長名で以下のような声明を発表した。
「カイロ大学は、1952年生まれのコイケユリコ氏が、1976年10月にカイロ大学文学部社会学科を卒業したことを証明する。卒業証書はカイロ大学の正式な手続きにより発行された。遺憾なことに、日本のジャーナリストが幾度もカイロ大学の証書類の信憑性に疑義を呈している。これはカイロ大学及びカイロ大学卒業生への名誉棄損であり、看過することはできない。本声明は、一連の言動に対する警告であり、我々はかかる言動を精査し、エジプトの法令に則り、適切な対応策を講じることを検討している」都知事選告示前のこの時期に、唐突にカイロ大学が横槍を入れてきたのは奇妙である。しかもその内容は、小池氏の卒業証書類に特にこだわっており、あたかもそれらの提示を拒んでいる小池氏を擁護しているかのようだ。さらにどの卒業証書類に言及しているのかも明確ではなく、小池氏の証書類のすべてが真正なものであるという内容になっている。しかし、すでに石井妙子氏が文春オンラインで指摘しているとおり、小池氏はロゴの異なる2つの卒業証書を持っており、小池氏の「卒業証書は1枚しかない」という言葉に従うなら、論理的に言って、そのうち一つは偽物だ。
‡2020(令和二)年06月09日(火)、筆者の黒木亮氏と弁護士の郷原信郎氏は、小池都知事の学歴問題について記者会見を開いた。黒木氏は英国からビデオ中継で参加した。その様子はこちらで視聴できる。https://www.youtube.com/watch?v=iwwcwcfH3Ac
カイロ大学の声明の背景には、日本のメディアによる卒業証書類の追及を断ち切るのに協力してほしいという小池氏側からの、文面も含めた要請があったのではないか? もし小池氏が今後「カイロ大学の声明があるので、卒業証書類は出さない」と言えば、この推測が裏付けられることになる。
■カイロ大学の声明では、疑惑は何一つ解消しない■小池氏のカイロ大学“お友達人脈”については、すでにこのJBpressで<「カイロ大卒業」を取り繕うエジプトの小池人脈>に書いたとおりで、彼らがこういった声明を出すことは予想がついていた。残念ながら、こんな声明では、これまで指摘してきた学歴詐称疑惑は何一つ解消しない。
参考URL◆「カイロ大卒業」を取り繕うエジプトの小池人脈https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60763
筆者が小池氏の学歴詐称を疑う理由は、同じくJBpress<卒業が本当ならなぜ都知事は卒業証書提示を拒むのか>で列挙したとおりである。すなわち、
(1)小池氏は卒業していないという物的証拠のある同居女性の証言
(2)卒業証書類の提出を頑なに拒む態度
(3)卒論に関する嘘
(4)「首席で卒業した」「トップの成績と言われた」「1年目で落第したが4年で卒業した」「1971年(存在しない)カイロ・アメリカ大学・東洋学科入学(翌年終了)」、「何度も卒業証書を公開した」(都議会答弁)「卒業証書類を、複数のアラブの専門家が判読し、本物と認めた」(同)等、卒業や証書に関する小池氏の様々な嘘
(5)「お使い」レベルのアラビア語
(6)有効性に疑義のある卒業証書類、である。
参考URL◆卒業が本当ならなぜ都知事は卒業証書提示を拒むのかhttps://jbpress.ismedia.jp/articles/-/60762
■組織防衛に走るカイロ大学■法律が比較的守られ、大学が政治から独立している日本では、大学が言うのだから間違いないと単純に考える人が多い。しかし、エジプトは腐敗認識指数世界180カ国中105位(ランキングが低いほど腐敗が深刻)という不正が横行する国なのである。しかも、カイロ大学は独立しておらず、軍事政権がコントロールする国家機関だ。政府や国家機関の言うことなど、あてにならないのはエジプトを知る人間の常識だ。筆者の知人で長年中近東に住んでいるビジネスマンも、「石井妙子氏の本は読んでいませんが、これとカイロ大学の声明は恐らく相反するものでしょう。自分としては、カイロ大学の声明を単純に信ずるほどエジプトを信用していないので、どうってことないのですが」とメールを送ってきた。筆者もエジプトに約2年間留学し、その後、銀行のロンドン支店でエジプト航空向け融資(航空機担保付)などを手がけたので、友人のコメントには全面的に同意する。今般の声明を仕組んだのは、小池氏がカイロ大学で最も頼りにしているアーデル・アミン・サーレハ文学部日本語学科長だと思われる。4年前に筆者がカイロでサーレハ氏に会った際には「小池さんはすごい! 度胸がある! 次の総理大臣になるかもしれない!」とはしゃいでいた。カイロ大学では、小池氏は「日本の総理大臣になるかもしれない人」と認識されているようだ。エジプトは昔から経済が極めて脆弱で、国の長期格付けは、シングルBという投機的等級の中でも低い部類である。商業ベースでファイナンスを調達することはほぼ不可能で、社会的インフラの建設をもっぱら外国からのODA(経済開発援助)に頼っている。ODAがなくなれば、道路、橋、港、発電所、学校、病院等の建設ができなくなり、社会生活は支障をきたし、建設労働者は仕事にあぶれ、暴動が起きる。エジプトにとってODA獲得は国家の至上命題の一つなのである。日本は巨額のODAをエジプトに供与しており、2016年までの総額は約9139億円に達する。そうした巨額のODAを提供している国の「総理大臣になるかもしれない人」が実は自分のところの大学を卒業していないなどと言えば、学長、文学部長、日本語学科長は確実にクビが飛ぶ。カイロ大学の現文学部長アフメド・シェルビーニ氏は「カイロ大学では2年前から小池氏に関する書類を出す場合は学長の承諾が必要になった」と言い、カイロ大学の職員の1人は「小池氏の件は、政府の上層部が関与しているのではないかと思う」と話す。エジプトではサダト・ムバラク時代(1970~2011年)以来、カネやコネで不正な卒業証書の発行が行われており、2015年にはカイロ大学のナッサール前学長もテレビのインタビューでこれを認め、2017年にはダリヤ・シェブルという女性ジャーナリストが、大学内部の記録まで書き換えて偽の卒業証書を発行する業者との接触に成功している。もし同居人女性の証言が正しければ、カイロ大学内の小池氏の記録は1976年から現在までのどこかの時点で書き換えられている。サーレハ氏や現学長は、万一小池氏の卒業が虚偽だと発覚しても、「大学内の記録を見て声明を出しただけ」と言えば責任を免れる。今般のカイロ大学の声明は、こうした文脈の中で読む必要がある。
■カイロ大学の声明の2つの嘘■カイロ大学の声明は小池氏の入学年度については、何も述べていない。しかし、従来からサーレハ氏は日本のメディアに対し、「小池氏は1972年にカイロ大学に入学し、1976年に4年間で卒業した」と回答している。この回答は嘘である。なぜなら、同居人女性が、当時のメモや手紙という物的証拠にもとづき、小池氏は1973年10月に2年に編入したと証言しているからだ。さらに石井妙子氏は、当時エジプトの別の大学に留学していた女性から裏付け証言をとっており、筆者も当時をよく知る別の日本人から裏付け証言をとっている。さらにカイロ大学の声明の「1976年10月に卒業した」という記述は、小池氏自身の本の記述とも矛盾している。小池氏は自著『振り袖、ピラミッドを登る』の中で、1年目に落第したと明記しており、そうであればエジプトの国立大学の制度上、卒業は早くても1977年になる。カイロ大学は、小池氏が言っているとおりに回答したつもりだろうが、小池氏が日本で書いたり話したりしていることまでは調べていないようで、嘘の声明になっている。カイロ大学の声明などというのは、この程度の代物であり、真に受けると騙されるだけだ。
■「カイロ大学卒業」のまま立候補すれば、さらに告発の可能性あり■今般、検察庁に郵送された告発状は、偽造有印私文書行使罪に関するものだ。なお小池氏がカイロ大学を卒業していないことが明らかになれば、公職選挙法の虚偽事項公表罪に該当するが、こちらは公訴時効が3年で、前回の都知事選に関しては、時効が成立している。しかし来る都知事選で再び「カイロ大学卒業」という経歴のまま立候補すれば、別の刑事告発を受け、捜査が始まる可能性がある。筆者は同居女性の物的証拠のある証言や、小池氏の著書や議会発言に重大かつ非常に多くの矛盾があることに照らし、学歴詐称はすでに立証されていると考える。小池氏は、来る都知事選にどのような学歴で出馬するのか、慎重に考える必要があるだろう。
◎もはや小池氏が実際に卒業したかどうかという問題ではない、カイロ大が卒業したというならそうなんだろう。問題は小池氏の卒業証書が本物かどうかということだ。仮に卒業証書を無くしたなら、「無くした」といって必要なら大学から卒業証明書を取り寄せればいいわけだ。ところが小池氏は過去に卒業証書らしきものをマスコミにさらしている。ならばその卒業証書を公にすれば全て済むのになぜかしない。ゆえに刑事告発された。
◎なぜ、最近の政治家たちは、学歴を捏造したり、ロンダリングするのか不思議です。田中角栄さんだって尋常高等小学校卒でも堂々としていたではないですか。近代においても、例えは悪いにせよ、ヒトラーだって実科学校を半ば中退してドイツの首相になったではないですか。「時代は変わった」の一言では済まないと思います。学歴の捏造・ロンダリングは、政治指導者としての人格的根源に疑義を持たせるものではないでしょうか?
◎今度の都知事選で経歴からカイロ大学卒業が無くなっていたら現在は時効の告訴を恐れた嘘だったことになるし、載せていればずっとこの疑惑は続くだろう。卒業していなくても政治手腕があればどうでもいいのにはくをつけるためなら無駄なことだ。
【関連記事】
議会答弁でさらに深まった小池都知事の「学歴疑惑」
徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈1〉
徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈2〉
徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈3〉
徹底研究!小池百合子「カイロ大卒」の真偽〈4〉
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ed5f6428c6a4235c4c99fc69ee255201b975879
撃たれた父、畑に埋めた「沖縄戦10月も終わらず」 オリオンビール会長・嘉手苅義男さん語る
2020(令和二)年06月21日(日) 5:34配信 琉球新報社<特集・沖縄戦75年>経済部長・与那嶺松一郎
‡2020(令和二)年06月09日(火)◆写真◆マラリアの治療で腕に負った傷痕を示す嘉手苅義男会長=9日、浦添市のオリオン会館
オリオンビール会長の嘉手苅義男さん(81)は沖縄戦で父・松吉さん=当時37歳=を失った。
1945(昭和20)年10月、嘉津宇岳で米兵に撃たれた松吉さんの遺体が見つかり、まだ7歳だった義男さんは自らの手で父親を一家の畑に埋めた。やんばるの山中には沖縄の女性を襲う米兵や日本軍の敗残兵がいて、地上戦を生き延びた住民が犠牲になった。嘉手苅さんは「6月23日、8月15日で終戦と言うけれど、それは間違い。沖縄の山の中は10月まで戦争だった」と語った。慰霊の日を前に、本紙の松元剛編集局長が話を聞いた。嘉手苅さんは自身の戦争体験について初めて取材に語った。嘉手苅さんは屋部村(現名護市)旭川の出身。嘉津宇岳の山裾に家があった。嘉津宇岳と並ぶ八重岳には日本軍第32軍の国頭支隊(宇土部隊)が陣地を築き、家族の生活にも戦争が影を落とした。軍から食料や鍋、農具などの供出が命じられ、松吉さんは防衛隊員として伊江島に駆り出された。
1945(昭和20)年3月下旬に名護への空襲が始まり、名護湾に集まった米艦船が本部半島に艦砲射撃を繰り返した。嘉手苅家も空爆の直撃弾に遭い、旭川に避難しに来ていた、いとこたち5人が犠牲になった。空襲を免れた嘉手苅さんは母・芳子さんと4人の姉妹とともに山中のガマ(自然壕)に身を潜めた。激しい艦砲射撃で、山に逃れた多くの住民が犠牲になった。本部半島を制圧した米軍は
1945(昭和20)年4月16日(月)に松吉さんのいる伊江島に上陸する。伊江島は「沖縄戦の縮図」と言われるほど激しい地上戦となった。だが、松吉さんは仲間と舟を作り夜中に島を脱出し、家族と合流した。羽地村に設けられた米軍の収容所に家族でたどり着いた。戦後の生活が始まるはずだったが、10月、松吉さんは地元の友人の妹を米兵から守るために、収容地区を抜けて嘉津宇岳の集落を目指して山に入っていった。松吉さんは戻らず、嘉手苅さんは叔父たちに連れられて父を探しに出た。山中で銃に撃たれた松吉さんの遺体が見つかった。自宅の畑まで遺体を運び、穴を掘って埋葬した。嘉手苅さんは「せっかく伊江島から生きて帰ってきたのに。あんなに悲しい思いはその後の人生でもない」と唇をかんだ。大黒柱を奪った戦争は一家の境遇を一変させた。芳子さんは戦後、女手一つで5人の子を育てるため那覇に出て、平和通りかいわいの市場で商売を始めた。嘉手苅さんは学校に通いながら働き、母親を支えた。
「おやじを土に埋めた話なんて、今までなかなか身内にもしなかった。やはり戦争はあってはならない。私は一番の戦争反対者だ」
【関連記事】
母と姉に手りゅう弾、投げたのは日本兵だった 戦死ではない戦争死とは<「戦争死」に向き合う>①
家族10人失った8歳に日本兵が銃を…「神様、助けて」 一人で生きた沖縄戦体験を初証言 金城節子さん(83)
「あの日、私は一度死んだ」 背後から首を絞められ… 沖縄・渡嘉敷「集団自決」75年
まんがで伝える沖縄戦 「震える少女」の物語(前編)
3分で知る沖縄戦
◎“宇土部隊”・約400名は、いわゆる「ボカチン食らった生き残り」(撃沈された輸送船から何とか助けられた者)であり、装備はその輸送船ごと沈んでしまい、小銃を持ってない兵士も居た程であった。(だからこそ、米軍の上陸が予想されない国頭方面に「行かされた」訳だが)そんなこんなで、宇土部隊将兵の“士気”は最初から低く、米軍との『組織的な“防衛戦”』も無い(=出来ない)。その為、“敗戦”も知らず(知れず?)、多くがこの記事の様に本部半島の山中を彷徨った。当該の松吉さんはその様な敗残兵と「間違えられて」撃たれたのだろうが、気の毒と言うしかない。ないけれど、米軍の収容所から「逃げ出す」必要はあったのか? 29 97
◎基地が無くなったら、中国が入ってきますよ。だから、基地反対と言っているのは、本当に分かってない人とその国の人。返信 6件 129 178
◎親しい人を守るために、戦後も苦労されたようだが、それも70年以上も昔の話。当時は県民が米兵に教われても泣き寝入りだったが、今はいくらでも文句が言えて、コロナ禍でも日本の国家元首が実質自由の自粛要請しか出せないのに、沖縄は米軍基地に外出禁止令を要求し、それを強いる事ができた。いつまでも、大昔の事を基準に置かないで、今を見るべきだ。 返信 2件 62 232
https://news.yahoo.co.jp/articles/ee7ca4763e3ede76758362b5abab430377757583
┏━━━━━━━━━┓
┃ 刑事裁判 原審 ┃
┗━━━━━━━━━┛
2002(平成14)年10月25日(金) 事件
2002(平成14)年11月18日(月)起訴
2003(平成15)年01月21日(火)10:00~12:00 第01回公判(425号法廷)
2003(平成15)年02月20日(木)15:00~17:00 第02回公判(425号法廷)
2003(平成15)年04月22日(火)10:00~12:00 第03回公判(425号法廷) 秘書1への尋問
2003(平成15)年05月13日(火)13:30~16:30 第04回公判(425号法廷) 秘書2、被告人が住んでいた賃貸人への尋問
‡2003(平成15)年06月09日(月)10:00~12:00 第05回公判(425号法廷)
2003(平成15)年06月26日(木)13:30~16:30 第06回公判(425号法廷)
2003(平成15)年07月18日(金)13:30~16:30 第07回公判(425号法廷) 警察官への尋問、被告人質問
2003(平成15)年09月01日(月)13:30~16:30 第08回公判(425号法廷) 被告人質問
2003(平成15)年09月22日(月)13:30~16:30 第09回公判(425号法廷) 被告人質問(検察側)
2003(平成15)年10月29日(水)10:00~12:00 第10回公判(425号法廷) 被告人質問
2003(平成15)年11月14日(金)13:30~16:30 第11回公判(425号法廷) 取調検事への尋問、被告人質問
2003(平成15)年12月24日(水)10:00~12:00 第12回公判(425号法廷) 被告人質問(弁護側)
2004(平成16)年02月06日(金)10:00~12:00 第13回公判(425号法廷) 証拠物(ビデオテープ)の取調べ、被告人質問(双方)
2004(平成16)年03月05日(金)15:00~15:30 第14回公判(425号法廷) 証拠の取調べ
2004(平成16)年03月24日(水)13:30~16:30 第15回公判(425号法廷) 遺族の意見陳述と、論告求刑(無期懲役が求刑)
2004(平成16)年04月27日(火)13:30~16:30 第16回公判(425号法廷) 弁護側弁論と被告人の意見陳述(結審)
2004(平成16)年06月18日(水) 10:00~10:30 第17回公判(425号法廷) 判決(104号法廷) -無期懲役の実刑判決が出ました。
2004(平成16)年06月18日(水) UP 衆議院議員石井こうき氏の刺殺事件に関し、本日、判決が出されました。2年前の10月25日の事件から1年8ヶ月がたとうとしています。期日も17回を数えました。求刑が無期懲役のところ、判決も無期懲役という判決です。日本の現状の実務を前提とすると、もっとも重い判決と言ってよいと思います。朝日新聞:読売新聞:毎日新聞:東京新聞:産経新聞
*******************************************
http://masakikito.com/ishii/ito-kohan.htm
https://www.uta-net.com/song/11684/
https://matome.naver.jp/odai/2147997226852760901
*******************************************
映像◆日本崩壊まであと〇年 殺された石井紘基議員が調べていた日本を蝕む特別会計の闇の話https://youtu.be/dpq-_e0Og4Y
2019(令和元)年08月11日(日) 公開 説明どうも削除されたみたいですが、基礎知識としてこの程度のことは必要と思いますので再掲します。じっくりご覧ください。官僚、公僕?とは名ばかりで陰でいかにえげつないことをしているかよくわかります。一度徹底的に懲らしめないとだめね。
2019(令和元)年12月29日(日) 347,725回視聴 良6,579 悪291
┏━━━━━━━━━┓
┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
┗━━━━━━━━━┛
1993(平成五)年06月09日(水) 皇太子さま、雅子さま「結婚の儀」 ⇒ 皇太子さまと、小和田恒外務事務次官の長女で元外交官の雅子さまの「結婚の儀」が皇居・賢所で厳かに行われた。皇太子ご結婚は34年ぶり。パレードの沿道には約19万人もの人々が詰め掛け、ご夫妻の門出を祝った。写真は、パレードで沿道の人々に手を振って応えられる皇太子ご夫妻【時事通信社】
1995(平成七)年06月09日(金) 衆議院で「戦後50年決議」を採択
2002(平成14)年06月09日(日) サッカーのワールドカップ日韓大会で日本がロシアを破ってW杯初勝利
https://www.jiji.com/jc/daily
┏━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1979(昭和54)年06月09日(土) 赤鬼マニエルがアゴに死球で大流血!
‡2017(平成29)年06月09日(金) 11:10 プロ野球の歴史の中で、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は6月9日だ。
写真◆死球を受けたアゴを抑えるマニエル
阪神・鳥谷敬が顔面に死球を受け、翌日から顔の上半分を覆うフェースガードを着けて出場。すぐに外してしまったが、一部からは「似合っていた。もう一度着けて」と待望論もチラホラある。ヤクルトのバレンティンもアゴをガードするような“携帯電話つきヘルメット”(byやくみつるさん)をかぶった。
フェースガードを最初に着けた日本球界の選手となると、1979年、近鉄のチャーリー・マニエルに突き当たる。190センチ超の巨体から「赤鬼」とも言われた男だ。
この年、ヤクルトから移籍したマニエルは、すさまじい勢いで打ちまくり、チームをけん引。5月の月間MVPにもなった。しかし近鉄に前期Vのマジックナンバーがついていた6月9日、悲劇が訪れる(当時は前後期制)。
日生球場でのロッテ戦だった。5回裏。八木沢荘六の投球をまともにアゴに受け、右下アゴ粉砕骨折。アゴから血をしたたらせながらマウンドに向かうが、チームメートに止められた。この時点で打率.371、24本塁打、60打点を稼いでいただけに痛い、痛い離脱だったが、チームは貯金を生かし、そのまま前期Vのゴールを切った。
当初、復帰は早くても9月と言われたが、マニエルは8月3日にはフェースガードつきヘルメットをかぶってベンチ入り。離脱前ほどのハイペースではなかったが、37本塁打でホームラン王にも輝いた。チームも後期は落とすが、プレーオフを制し、球団創設以来初優勝。マニエルはシーズンMVPにも輝いている。
なお特製ヘルメットはアメフト用を改造したものだが、「ガード部分が上下に動き、本当は非常に打ちづらかった」と後日、語っている。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1992(平成十)年06月09日(火) ついについに阪神が首位に!
‡2018(平成30)年06月09日(土) 7:00 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は6月9日だ。
写真◆この年の葛西は最終的には6勝8敗。後ろは野田浩司
暗黒時代真っ只中で、大きな期待もなくスタートした1992年だったが、開幕から意外や意外の大健闘。ヤクルト、広島と首位争いを演じていた。
6月9日は、中日戦(甲子園)に6対0と勝利し、阪神が優勝&日本一の85年以来、7年ぶりに単独首位に立った日だ。この間、
1989(平成元)年の開幕日と3日目、
1990(平成二)年の開幕戦、さらにこの
1992(平成十)年の4月11日(土)と同率首位はあったが、単独首位には届かなかった。
まさに、ついについに、の単独首位だ。
立役者は、被安打2でプロ初完封の葛西稔。プロ3年目のサイドハンドだ。完封について聞かれ、「8回ぐらいから意識しました。これまで1対0で負けた試合があったでしょ。今度は自分が完投してやろうと思いました」と笑顔で語った。
打では、この年、ケガで離脱したオマリーの代役でブレーク中の新庄剛志が3打点。
「ストライクゾーンに来た球を思い切ってたたいています。自分の前にランナーが出てるから、出ていないときより充実しているんですよ」
と声を弾ませていた。この新庄に加え、亀山努ら若き選手たちが躍動し、優勝は逃すも2位に食い込んだシーズンの出来事だ。
┏━━━━━━━━━━━━━┓
③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
1979(昭和54)年10月16日(火) 近鉄12球団で最後の初優勝
2017(平成29)年10月16日(月) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月16日だ。
写真◆選手たちが作った騎馬に乗る西本監督。感無量の表情だった
そのとき、西宮球場が揺れた。ビジターながら客席は半分以上が近鉄ファンだったという。
就任6年目、59歳の西本幸雄監督が、いつもの渋い表情を崩し、笑顔で、しかもボロボロと涙を流した。マウンドには20歳の山口哲治だ。色とりどりの紙テープが投げ込まれる中、近鉄ナインが一斉に山口へ駆け寄り、歓喜の輪ができる……。
1979(昭和54)年10月16日(火)、近鉄バファローズが当時の12球団の一番最後で、リーグ優勝を手にした瞬間だ。
この年の優勝の原動力は、赤鬼と言われた助っ人大砲チャーリー・マニエル。「守れない、走れない」と、ヤクルト・広岡達朗監督に放出されての近鉄入りだったが、パのDH制に加え、西本監督の人柄もあった。2人はときに親子のようにも見え、マニエルはその潜在能力を爆発させる。
開幕からすさまじい勢いで打ちまくり、チームを前期のV軌道に乗せたが(当時は前後期制)、
‡1979(昭和54)年6月9日(土)に死球を受け、離脱。結局、優勝を決めたのは、前期の最終戦、平野光泰の“魂のバックホーム”だった。この試合も名勝負だが、今回は触れずにおく。
後期は阪急に続く2位に終わり、迎えた3勝勝ち抜けのプレーオフだった。1戦目5対1、2戦目7対4と近鉄が連勝スタート。このときの立役者は、この年、最優秀防御率も手にしている山口だった。2試合ともヒットも四死球も許さず、セーブを挙げている。
迎えた西宮球場での第3戦は投手戦となり、1対1のまま延長10回に進む。表の攻撃では、近鉄が無死満塁とすると、阪急・梶本隆夫監督が送り出したのが、エースの山田久志だった。まずは平野を一飛、さらに小川亨も遊撃ゴロでチェンジと思われたが、阪急のショートが球を弾き、その隙にセンター前ヒットで出塁していた三走の梨田昌孝がホームに駆け込み、1点勝ち越し。その裏のマウンドに立っていたのは、7回途中から登板していた3連投の山口だった。
二死の後、福本豊にプレーオフ初ヒットを浴び、迎えた打者が巧打者・簑田浩二。ここで山口─梨田バッテリーは徹底したストレート勝負を選択する。7球連続で真っすぐ。簑田もファウルで粘り、1球はさんだカーブで福本が盗塁。二死二塁となった。
9球目、山口は真っすぐのつもりだったが、指に少しおかしなかかり方をした分、沈み、簑田のバットが空を切った。三振で山口は勝利投手となった。
のちの記事だが、西本監督が当時を振り返った言葉があった。大毎で1回、阪急で5回、近鉄で2回と、監督時代、何度となく、リーグ優勝を飾りながら一度も日本一には届いておらず、いつしか“悲運の名将”と呼ばれていたことに対してだ。
「長年、努力してきた若者たちが、目的に向かってわき目もふらず直進していく中で、パーッと輝いてくる時期がある。それがいまの近鉄だ。その場に立ち会えたワシは本当に幸せやと思う。ワシを悲運の男という人がいるが、そんなことない。こんな幸せを味わえる悲運の男がどこにおるんや」
┏━━━━━━━━━━━━━┓
④┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
┗━━━━━━━━━━━━━┛
‡1993(平成五)年06月09日(水) 伊藤智仁が16奪三振の熱投も痛恨の1球でサヨナラ負け
‡2019(令和元)年06月09日(日) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわってその日に何があったのか紹介していく。今回は1993年6月9日だ。
写真◆ハイペースで三振を奪っていたが、篠塚への1球に泣いた伊藤
金田正一(国鉄)、江夏豊(阪神)らに並ぶセ・リーグ記録となる16個目の三振を奪いながら、マウンドのヤクルトの伊藤智仁はそのことにまったく気づいていなかったという。
この日、行われた巨人戦(石川県立)に先発したルーキーの伊藤は圧巻のピッチングを見せた。5回までに6者連続を含む12奪三振。7回に1つ、8回にも2つを加えてセ・リーグ記録まであと「1」に迫っていた。
両軍無得点のまま9回裏も一死から八番の吉原孝介を伝家の宝刀、スライダーで三振させ、タイ記録達成。しかし、伊藤の頭の中に記録のことは一切なかった。あったのは――。
「篠塚さんならホームランはないなっていう勝手な思い込みです。とりあえずゾーン内でどんどん勝負していこうと思ったのが高めに抜けてしまって……。軽率というか、意識が足りなかったですね」
その高めに抜けた直球に、途中から九番に入っていた篠塚和典がバットを一振すると、打球は巨人ファンで埋まるライトスタンドに飛び込んでいった。プレーボールから150球目の悲劇に、伊藤はグラブを思い切り叩きつけて悔しがった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170609-01
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180608-01
③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171016-04
④https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190609-10
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.582 ┃ 80円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
※増大号のタガタメ20円値上ですヨ(=^◇^=)♂
‡1969(昭和44)年06月09日(月)特大号 崩壊前夜? 西鉄ライオンズの異常事態
2019(令和元)年11月05日(火) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
ジムタイルの珍記録
表紙は巨人・長嶋茂雄
今回は『1969年6月9日特大号』。定価は80円。
5月23日、西鉄・中西太監督の休養が発表された。理由は「湿疹と肝臓病、糖尿病」。本人は会見に姿を見せず、球団側は「本人はショックを受けておりますので、自宅の取材などせず、そっとしておいてください」と言っていた。
休養というと、事実上解任のことが多いが、今回はそうではなかったようだ。
ただ、西鉄の低迷が深刻な状態にあったことも事実。「このまま退任するのでは」とも言われた。
中西監督は後日、自ら「自宅で報道陣に会いたい」と連絡して行った会見で、こう発言している。
「ファンの中に過激な人がいて、わたしも安心してゲームがやれんようになった。あんなことがあっては野球界の損失だし、とんでもない迷惑をかけるようになる」
あんなこと……5月22日、平和台での近鉄戦だった。敗色が濃い中、背広の男がバットを持ってグラウンドに降り、バッターボックスで素振り。試合再開後にはビンが次々投げ込まれ、近鉄の選手がケガをした。三原脩監督は「こんな危険な状態で野球ができるか」としばらく試合再開に応じなかったという。
それ以前から西鉄へのヤジは熾烈を極め、座布団や空き缶が投げ込まれるのは普通になっていた。
のちに発覚する、あの“事件”があるだけに怖いが、試合中のベンチに入り込み、文句を言うファン(と言えるか?)もいたという。
この22日は近鉄3連戦で3連敗目だったが、その前は東京球場でロッテに連勝。
「東京で勝って、なぜ近鉄に負ける。おかしいぞ」とヤジが飛んだ。
この3連敗の敗戦投手は、永易将之、益田昭雄、与田順欣だった……。
三原監督の抗議で試合が中断したとき、中西監督はベンチに座り込み、
「もうあかん」
と言ったという。たぶん、チーム内ではわかっていたはずだ……。
ひとつ珍記録があった。
5月18日、西宮球場での近鉄戦。左足アキレス腱の痛みがようやくやわらぎ、久々にスタメンに入った近鉄のジムタイルが2回、3号ホームランを放った。
しかし、その後、一塁ベース前でばたりと倒れ、左足を押さえ、動けなくなった。
結局、伊勢孝夫が代走でホームイン。
近くの医院に運ばれたジムタイルは左ふくらはぎ肉離れで全治1カ月の診断を受け、
「骨にはなにもなくてよかったが、久ぶりのスタメンで張り切っていたら、またケガとは。今年はアンラッキーイヤーだ」
とがっかりした表情で話した。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20191103-02
************************************************************
┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
①┃ プロ野球仰天伝説 No.168 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
投手ゴロで一塁にゴロで送球した白木義一郎のおちょくり投法
‡2018(平成30)年6月9日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
のちに国会議員になった右腕
東急・白木義一郎
長いアゴが印象的な頭脳派投手・白木義一郎(東急ほか)。多彩な変化球と「無理をしないとボール球を投げられない」とまで言われた抜群の制球力を武器に、1946年のルーキーイヤーにいきなり30勝を挙げ最多勝を手にすると、翌47年も26勝、今度は防御率1.74で最優秀防御率に輝いた。
47年になると、白木は平凡な投手ゴロで打者が本気で走らないとき、ギリギリになりそうなタイミングで一塁にゴロで転がしたり、一度、捕手や二塁、三塁に投げたりする“おちょくり”を始めた。
普通なら監督に怒られそうだが、東急は「プロはファンを喜ばせてナンボ」と考える名人・苅田久徳が兼任監督だ。逆に面白がってドンドンやらせた。
なお、白木は熱心な創価学会の信者でもあり、ピンチになるとマウンドでお経を唱えることもあったという。52年阪急に移籍し、同年限りで引退。その後、公明党から選挙に出て、参議院議員にもなっている。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
②┃ プロ野球仰天伝説 No.073 ┃ ONLINE
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ 写真=BBM
【助っ人トンデモ話 No.24】
ヘッドギアをつけながら打ちまくった“赤鬼”【助っ人トンデモ話】
2018(平成30)年3月6日(火) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
マニエル[1976-78ヤクルト→79-80近鉄→81ヤクルト/外野手]
近鉄・チャーリー・マニエル
もはや止めようがなかった。
1979(昭和54)年6月08日(金)時点、まだ51試合しか出場していない段階ながら(130試合制)24本塁打、60打点。長打だけではない。打率は.371、直前の
1979(昭和54)年6月07日(木)まで24試合連続安打。
1979(昭和54)年5月23日(水)から27日(日)、
1979(昭和54)年6月03日(日)から07日(木)と
2度の5試合連続本塁打もあった。まさに、バッティングに関する、すべての日本記録を塗り替えんばかりの勢いで打ちまくっていた。
勢いが止まったのが、
‡1979(昭和54)年6月09日(土)だった。日生球場でのロッテ戦で、投手・八木沢荘六の球がまともに右アゴに激突。マニエルはアゴから血をしたたらせながらマウンドに向かおうとしたが、西本幸雄監督らが必死に抑えた。すぐ入院。アゴの骨はグチャグチャに砕け、「シーズン絶望か」と言われた。
それまで「近鉄特急」と言われ、首位を快走していたチームは、この死球を境に一気に勢いを失い「鈍行」に。それでも「マニエルおじさんの遺産を食いつぶしながら」(西本監督)なんとか前期優勝。プレーオフでは後期優勝の阪急を破り、歓喜の球団初Vを飾った。
マニエルも1979(昭和54)年8月4日(土)にはアゴをガードするヘッドギアをつけ、復帰。ふたたび打ちまくって最終的には97試合の出場ながら37本塁打でホームラン王、打点94、打率も.324をマークし、MVPとなっている。
メジャー出場はあるが、ほぼ控えだったマニエルは、大きな期待をされることもなく、76年ヤクルトに入団。2年目に42本塁打、97打点、打率.316、3年目、78年のVイヤーにも38本塁打、103打点をマークしたが、広岡達朗監督は「走れない、守れない選手はいらない」と近鉄に放出した。西本、広岡両監督が電話で決めてしまったというが、パにはDHがあるから守る必要もなく、打撃のみに集中できるのは大きなプラスだった。
さらにマニエルにとって幸運だったのが西本監督との出会いだ。リラックスしたマニエルの構えとタイミングの取り方は西本監督の打撃理論とピタリと合った。性格的にも、いつも気難しい顔をしているが、意外と冗談好きな西本監督と気が合い、向こうは日本語、マニエルは英語なのだが、通訳も介さず、30分でも1時間でも話し続け、互いに腹を抱えてゲラゲラ笑っている姿がよく見られた。
マニエルは翌年も48本塁打、129打点で打撃2冠、打率も.325を残したが、契約でもめ退団。1年だけ古巣ヤクルトでプレーし、同年限りでアメリカに戻った。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180609-12
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20180306-10
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
************************************************************
映像◆末次利光 劇的!!逆転サヨナラ満塁ホームラン (1976.6.8) https://youtu.be/ejI1BfIbxi4
1976(昭和51)年06月08日(火) 末次起死回生の一発! 巨人4-2阪神
1976(昭和51)年06月08日(火)の阪神タイガース戦では、山本和行から劇的な逆転満塁サヨナラ本塁打を放った。
‡1976(昭和51)年06月09日(水) 巨人4-2阪神 翌日の読売新聞朝刊スポーツ欄には、末次でなく、破顔一笑の表情で末次を出迎える長嶋茂雄監督を写した写真が掲載されていたほどであった[3]。ただ、同球団の歴史では特筆されているヨ(=^◇^=)
https://ja.wikipedia.org/wiki/末次利光