過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

2024(令和六)年壱拾弐月弐拾五日(水)曜日の初記事ですヨ(=^◇^=)

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 ┃ 三島由紀夫が語る ボディビルから割腹自殺への道 ┃
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 2012(平成24)年04月03日(火) 制作
 写真◆背起きする三島由紀夫(1956年)
 1967(昭和42)年04月12日(水) 42歳の三島由紀夫は自衛隊に体験入隊します。仕事の都合もあり、3回に分けてでしたが、合計で46日間という本格的なものでした。
 最初に入隊したのは、陸上自衛隊の久留米幹部候補生学校でした。本名・平岡公威として、毎日午前6時起床、6時5分には乾布摩擦をしながら舎外で点呼するという生活を始めます。課業は午前8時から午後5時まで。当時の様子を、『サンデー毎日』に寄せた手記から引用しておきます。
 1967(昭和42)年06月11日(日)号『サンデー毎日』「自衛隊を体験する」《夏の高良山マラソンの練習にいそしむ若い学生の、飛鳥のやうなランニングには追ひつけなかったが、22年ぶりに銃を担って、部隊教練にも加はった。肩は忠実に銃の重みをおぼえてゐた。行動の苦難を共にすると、とたんに人間の間の殻が破れて、文句を云はせない親しみが生ずるのは、ほとんど年齢と関はりがない。私は実に久々に、昼食後の座学の時間の耐へられない眠さを、その古い校舎の窓外の青葉のかがやきを、隣席の友人の居眠りから突然さめて照れくささうにこちらへ向ける微笑を味はった》
 ここで「22年ぶりに銃を」というのは、敗戦直前、三島はほんの少しだけ学徒動員で陸軍に入隊したからです。
 1967(昭和42)年04月19日(水) 写真◆幹部候補生学校の芳名帳に残された三島由紀夫の署名
 1967(昭和42)年04月19日(水) 久留米から帰郷した直後の4月19日から、今度は自衛隊富士学校の滝ケ原分屯地普通科に入隊します。このときの宿舎は、偶然にも22年前の1945年、学生のときの野外演習で泊まった場所でした。ここでは戦車の操縦や特科(砲兵)隊員の行軍訓練に参加しています。過酷なレンジャー部隊の訓練も行い、草むらの蛇を捕まえて、生で食べることもしました。
《満開の姫桜の間を縫って、朝日にあたかも汗をかいた白馬のやうな富士を見上げて、半長靴で駈ける朝の駈足はすばらしかった……山中湖の満目の春のうちをすぎる帰路の行程は佳かった。私はこれほどに春を綿密に味はったことはなかった。別荘地はまだ悉(ことごと)く戸を閉ざし、山桜は満開、こぶしの花は青空にぎっしりと咲き、湖畔の野は若草と菜種の黄に溢れてゐた。あくる日から連休に入ったので、私はこれほどにも濃密な、押絵のなかをゆくやうな春と別れて東京へかへった。そして大都会の荒涼としてゐることにおどろいた。すでに私は、営庭の国旗降下の夕影を孕んだ国旗と、夜10時の消燈喇叭(らっぱ)のリリシズムのとりこになってゐた》(『サンデー毎日』)
 リリシズムとは「叙情性」という意味ですが、何とも詩的な体験記ですな。
 1967(昭和42)年05月25日(木) 三島は1カ月ほど富士山の麓にいて、いったん帰郷、5月25日から陸自最強部隊である習志野の第1空挺団に参加。パラシュート降下訓練は頭を打つ可能性があるので、11mの高塔から空中に飛び出す懸吊(けんちょう)着地訓練を体験しました。三島は「船乗りが海に憑かれるように、空挺団はパラシュートに憑かれていた」という名言を残し、46日間の体験入隊を終えました。
 写真◆現在の空挺団のパラシュート降下(富士演習場)
 それにしても、どうして三島由紀夫は自衛隊に体験入隊したのか?
『サンデー毎日』で三島の入隊をスクープした徳岡孝夫が、取材時に動機を聞いています。
《問 体験入隊の動機は?
 三島 これは、まったくご推察にまかせます。どうとられようとかまいません。
  問 こういう見方はできませんか。作家という“自由業”を中断して、自衛隊のきびしい日課のなかに身を置いてみたのは、あなたが一種マゾヒステックな快感を得るためのぜいたくな遊戯だったという……。
 三島 冗談をいわないでほしい。私ほどふだんからきびしい日課を守っている者はいないでしょう。むしろ自衛隊へ行って??これは「失言」だといわれたんですが??候補生学校の、時間が分断されている窮屈な生活よりも、私の日常の生活のほうがもっと分断され、もっと複雑にオーガナイズされているんだと言ってやりました。ただ、非常にうれしかったことは、文壇では私のストイシズムが“奇癖”ととられているのに反して、自衛隊のなかではそれが“美徳”なのでした》(徳岡孝夫『五衰の人』)有名な話ですが、幼少時の三島由紀夫は「アオジロ」とあだ名がつけられるほど病弱でした。そんな三島ですが、1944年10月に東大に入学した4カ月後、陸軍から入営通知の電報が来ます。ところが、このとき、軍医のミスで誤診され、即日帰郷となります。このときの様子は『仮面の告白』に書かれています。
《薬で抑へられてゐた熱がまた頭をもたげた。入隊検査で獣のやうに丸裸かにされてうろうろしてゐるうちに、私は何度もくしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいふ音をラッセルとまちがへ、あまつさへこの誤診が私の出たらめの病状報告で確認されたので、血沈がはからされた。風邪の高熱が高い血沈を示した。私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた》三島にとって軍隊に入れなかったのは大きなコンプレックスとなりました。それは人気作家となってからも変わらず、ちょうど30歳のとき、ボディビルを始めます。きっかけはボディビルのコーチだった鈴木智雄と知り合ったことでした。
 1956(昭和31)年02、03月号『ボディ・ビル』「ぼくは銀座のさるところで鈴木さんと初対面、ボディ・ビルを知りました。知る前はあんな重いバーベル担ったら、ぼくなんか参ってしまうだろうと想像していたのですがね。その時、鈴木さんが巻尺持って来て、おたがいの胸を計った。ぼくのは両腕を抱いたグルリ、鈴木さんは胸幅だけ、おどろいたことに、これが同じ寸法なのです。そこでいろいろお話しをきいた。ぼくは理論がおもしろくないと、承知しない男でしてね。鈴木ボディ理論にすっかり感銘しちゃった。そこでまず柔軟体操を教わり、やりはじめた」
 写真◆帆掛け船を行う三島由紀夫。下で支えるのが鈴木智雄
 1955(昭和30)年09月16日(金) ボディビルを始めたのは1955年9月16日。当時31歳。
 1955(昭和30)年09月20日(火) 三島自身の記録によると、9月20日に測定したところ、胸幅が最大で79cm、体重12.9貫(48.4kg)だったのが、3カ月後の正月には胸幅が82.5cm、体重13.8貫(51.8kg)まで太りました。
 この正月時点での三島のインタビューが『ボディ・ビル』誌に掲載されています。
 ─―先生は、いま目方どのくらい。
 「去年の秋からはじめたのですが、その前は平均12貫800、背は5尺4寸5分。
 ─―どのくらいにふとりたいのですか。
 「15貫は、ほしいですね」
 ─―バーベル・マンになられた動機は。
 「外国映画などで、外人のいい身体を見て、うらやましいと思いましたね。この種の外国雑誌も読んだり、ボディ・ビルというのがあることは知っていたが、ぼくがやり出したらマンガものだろうと(笑)覚悟していた。最初はコッソリやるつもりでね」
 ─―学生時代に何かスポーツは。
 「馬に乗ったくらいかな。スケートもようやく手すりなしで滑れる程度……」
 写真◆バーベル運動する三島
 さらに、ボディビルを始めて1年後には次のように書いています。
 1956(昭和31)年09月20日(木)号『漫画読売』「ボディ・ビル哲学」《ボディ・ビルをはじめてからこの9月で1年になる。風邪を引いて3週間ほど休んだことが一度あるほかは、まづ精励して来た。もともと肉体的劣等感を払拭するためにはじめた運動であるが、薄紙を剥ぐやうにこの劣等感は治って、今では全快に近い。人から見たら、まだ大した体ぢゃないといふだらうが、主観的にいい体格ならそれでよろしい。……私は思ふのだが、知性には、どうしても、それとバランスをとるだけの量の肉が必要であるらしい。知性を精神といひかへてもいい。精神と肉体は男と女のやうに、美しく和合しなければならないものらしい》ここで三島は、日大拳闘部の好意で、小島智雄監督の指導の下、ボクシングも始めます。
 1956(昭和31)年10月07日(日)『ボクシングと小説』《トレーニングをまだ4、5回やったばかりで、ボクシングを論じるのも口はばったい次第だが、30秒おきに3分づつ7乃至(ないし)8ラウンドのトレーニングをやってみて、いまさらボディー・ビルのありがたさを味はってゐる。何の訓練も経ずに座業からいきなりここへ飛び込んだら、おそらくついては行けまい。ボディー・ビルは非スポーツマンをスポーツの岸へ渡してくれる渡し舟のやうなものである。なぜボクシングをやりたくなったかといふと、それが激しいスピーディーな運動だからである。ボディー・ビルの静的な世界は、肉体の思索の世界ともいふべきで、そこでは動きとスピードへの欲求が反動的に高まってくる。そして動くもの、スピーディーなものが美しいことは、ソクラテスもいってゐることである》三島はこの2年後(1958年)に川端康成の媒酌で結婚するんですが、それと同時に、今度はボクシングをやめて剣道の稽古に入ります。もはや、三島の肉体鍛錬はとどまることを知りませんでした。
 写真◆東京裁判の会場となった市ヶ谷記念館。このバルコニーで三島が演説した
 自己鍛錬の流れの中で、三島は1961年、「よいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説」として『憂国』を発表します。これは、2・26事件で反乱軍を討たざるをえなくなった武山信二中尉が、死を選んで切腹する話。この作品は1966年、自身が監督・主演を務めて映画化されました。この映画で、三島は凄惨な切腹シーンを演じています。そして、1967年、自衛隊に体験入隊。その直後、三島は『美しい死』(1967年8月)でこう書いています。
《ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、一か八かといふときには、戦って死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉にできてゐる。
 私は自衛官にはならなかったけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは国を守るために馳せ参じたいといふ気持になってゐる》三島由紀夫は、『憂国』の映画制作から4年後の1970年、自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説します。「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を」と絶叫しながら改憲を訴えるんですが、自衛官は誰も耳を貸しませんでした。こうして、失意のうちに切腹を果たすことになります。
 写真◆市ヶ谷会館のドアに残った刀の傷
 1970(昭和45)年11月25日(水)。享年45。なぜ11月25日を選んだかは不明ですが、『仮面の告白』を書き始めた日が11月25日だとされています。
 写真◆市ヶ谷会館:左手前が三島が自決した場所。一番左の窓からバルコニーに出た
 <おまけ>
 三島由紀夫が切腹したあと、メディアは大々的に事件を報じました。そのなかに、ボディ・ビルのトレーナーだった鈴木智雄がコメントを出しています。
‡1970(昭和45)年12月『週刊現代』増刊・三島由紀夫緊急特集号「自由ヶ丘の私のジムに週2回、通ってこられるようになりました。1回、1時間程度の練習を2年ぐらいつづけられました。私のところをやめたあとも10年間つづけたそうで、その意志の強さには敬服しますが、三島さんの目的は、肉体の表面を美しく見せるにはどうしたらいいかといったものだけで、体育の本質には迫らず、本物を追求する精神はなかったようです」 三島由紀夫は本物ではなかった……それはあまりに痛烈な一言でした。
<おまけ2>
 作家の安部譲二は、三島由紀夫と親交があり、三島にボクシングジムを紹介したと語っています。安部によると、「三島は頭を使う仕事だから、頭は殴らないでくれ」とトレーナーに頼んでいたため、手を抜かれたことに気づいた三島が怒ってボクシングをやめ、ボディビルに転向したことになっています。ですが、実際はボディビルが先です。三島にとって重要なボディビルの話を混乱して語ってるわけで、安部譲二の話はウソとは言わないまでも、話半分で聞いておいた方がいいかもしれませんね。
 https://tanken.com/misima.html
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 ┃ 三島事件 ┃
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 1970(昭和45)年11月25日(水) 
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 映像◆アナザーストーリーズ 松嶋菜々子「三島由紀夫 最後の叫び」 [運命の分岐点] https://youtu.be/HOx5_GEx4YM
 2019(令和元)年10月08日(火) 第131回「三島由紀夫 最後の叫び」
 1966(昭和41)年09月02日(金) 43:23『LIFE』
 1966(昭和41)年09月02日(金) 43:29『LIFE』三島腕相撲BODY写真◆
 1968(昭和43)年10月17日(木) 44:54 ノーベル文学賞発表
 

 映像◆三島由紀夫 最後の演説https://youtu.be/_oNMABlVRtM
 昭和45年11月25日市ヶ谷駐屯地にて、最後の演説をして、割腹自決しました。ヤジと怒号が飛ぶ中、最後の訴えをした三島由紀夫氏です。
 
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12590017349.html
 映像◆三島由紀夫 森田必勝 憂国忌https://youtu.be/Qr1N17WBY3w
 1990(平成二)年11月25日(日) 憂国忌20年祭 東京・九段
 1990(平成二)年11月26日(月) 放送 筑紫哲也
 
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 ┃ 三島由紀夫 ┃
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 1925(大正14)年01月14日(水) 生誕
 1970(昭和45)年11月25日(水) 逝去
 映像◆三島由紀夫 Yukio Mishima on WWII and Death -Full NHK Interview (1966) https://youtu.be/hLGMm6c_BCA
 
 TransylvaniaBoogie 
●終戦のとき、私は終戦の詔勅を親戚の家で聞きました。と申しますのは、東京都内から離れた所の親戚の家に私どもの家族が疎開をしていまして、そこへたまたま私が勤労動員で行っていた海軍の工場から帰っていたのですが、なぜ帰っていたかというと、ちょうどチブスらしい熱を出しまして、そして帰ってしばらく静養していた時期に当たっております。そして詔勅を聞くとすぐまた自分の職場へ帰って後始末をしたのですが、終戦の詔勅自体については私は不思議な、感動を通り越したような空白感しかありませんでした。それは必ずしも予期されたものではありませんでしたが、今までの自分の生きてきた世界がこのままどこへ向かって変わっていくのか、それが不思議でたまらなかった。そして戦争が済んだら、あるいは戦争が負けたらこの世界が崩壊するはずであるのに、まだ周りの木々の緑が濃い夏の光を浴びている。ことにそれは普通の家庭の中で見たのでありますから、周りに家族の顔もあり、周りに普通のちゃぶ台もあり、日常生活がある。それが実に不思議でならなかったのであります。それから間もなく神奈川県高座の海軍工廠、つまり勤労動員先へ帰りまして、友達といろいろ話し合った。当時はもう残っていた学生もわずかでありましたが、そこで目にした2つのことが非常に印象が深かった。一つは厚木航空隊その他からどんどんどんどん物資やなんかを運んで、兵隊たちがトラックを徴発していってしまう。我われの使うべきトラックも何もない、そういう状態の中で、しかしアカデミズムの連中は非常に意気軒昂としておりました。私どもの周りにおりました法律学関係のアカデミズムの若い学者たちは、「これから自分たちの時代が来るんだ」「これから新しい日本を我々が建設するのだ」と、「今こそ軍閥の悪夢が終わって、新しい知的な再建の時代が始まるんだ」と、いわば誇張して言えば欣喜雀躍という様子でありました。私は今も昔も疑り深い人間でありますから、そう様子を見ていて、「へへえ、そんなもんかな」と思っていた。「いったい知的に再建するって何のことだ」「日本の精神的な再建って何のことだ」と。私がそのとき感じました疑問は20年ずっと尾を引いておりまして、やっぱり彼らは何もしなかったんじゃないか、というようなことを感じるようになりました。私の今までの半生の中で、20歳までの20年は軍部が色々なことをして、軍部のおそらく一部の極端な勢力でありましょうが、それがあそこまで破滅的な敗北へ持って行ってしまった。そのあと20年は一見太平無事な時代が続いているようでありますが、結局これは日本の工業化のおかげでありまして、精神的にはやはり何ら知的再建というに値するほどのものがなかったのではないかと。ちょうど40年、41歳の私はちょうど20歳の時に迎えた終戦は自分の人生の目処として、そこから自分の人生がどういう展開をしたかということが、考える一つの目処になっております。これからも何度も何度もあの8月15日の夏の木々を照らしていた激しい日光、その時点を境に一つも変わらなかった日光は、私の心の中でずっと続いて行くだろうと思います。
●リルケが書いておりますが、現代人というものはもうドラマティックな死ができなくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいく、というようなことをどこかに書いていたように記憶しますが、今、現代の死は病気にしろあるいは交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものもない時代に我われは生きております。それにつけて思い出しますのは18世紀頃に書かれた『葉隠』という本で、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というので有名になった本ですが、この時代もやっぱり今と似ていた。もう戦国の夢は醒めて、武士は普段から武道の鍛錬はいたしますが、なかなか生半なことでは戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。その中で汚職もあれば社用族(注:斜陽族のもじり。誤記にあらず)もあり、今で言えばアイビー族みたいな者も侍のあいだに出てきた時代でした。その中で『葉隠』の著者はいつでも武士というものは一か八かの選択のときには死ぬ方を先に選ばなきゃいけない、ということを口を酸っぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死ぬのであります。そういうふうに武士でもあっても結局死ぬチャンスが掴めないで、死ということを心の中に描きながら生きていった。しかし今の我々は死を描きながら生きているのかどうか、それさえ疑問であります。私の死と一番親しかった時代は戦争中で、戦争が済んだとき20歳だったので、10代の私どもは「いつ死ぬか」「いつどうやって死ぬか」ということだけしか頭の中にない。そういう中で20代まで行ったのでありますが、それを考えますと今の青年には、それはスリルを求めることもありましょう、あるいは「いつ死ぬか」という恐怖もないではないでしょうが、「死が生の前提になっている」という緊張した状態にはない。そういうことで、仕事をやっていますときに、何か生の倦怠と言いますか、ただ人間が自分のためだけに生きようということには卑しいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。それで、人間の生命というものは不思議なもので、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬっていうほど人間は強くないんです。というのは人間は何か理想なり、「何かのため」ということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると、死ぬのも「何かのため」ということが必ず出てくる。それが昔言われた大義というものです。そして大義のために死ぬっていうことが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられていた。しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態っていうものは大義なんてものはいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。ことに私、自分に帰って考えてみますと、死を「いつか来るんだ」と、「それも決して遠くない将来に来るんだ」というふうに考えていたときの心理状態は今に比べて幸福だったんです。それは実に不思議なことですが、記憶の中で美しく見えるだけでなく、人間はそういうときに妙に幸福になる。そして今、我われが求めている幸福というものは生きる幸福であり、そして生きるということはあるいは家庭の幸福であり、あるいはレジャーの幸福であり楽しみでありましょうが、しかし、あんな自分が死ぬと決まっている人間の幸福というものは今はちょっとないんじゃないか。そういうことを考えて、死というものを、じゃあお前は恐れないのか。それは私は病気になれば死を恐れます。それから癌になるのも一番いやで、考えるだに恐ろしい。それだけに何か、もっと名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局『葉隠』の著者のように生まれてきた時代が悪くて、一生そういうことを想い暮らしながら、畳の上で死ぬことになるだろうと思います。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12584825987.html
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①┃ 星一 ┃1873(明治六)年12月25日(木) 誕生
 ┗━━━━┛1951(昭和26)年 1月19日(金) 満77歳没
②:ショートスリーパーの発言 『健康への道』二木謙三著 致知出版社 P296より
 星一がエジソンに会った時の会話
 星「あなたはどうしてそんなに発明が出来るのでしょうか?」
 エジソン「考えれば誰でも出来る」
 星「考える時間をどうして生み出しているのですか?」
 エジソン「寝なければ8時間あるじゃないか」
 星「どうして寝ないことが出来るのですか?」
 エジソン「それは食物を少なくすれば出来る」
 ①http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E4%B8%80
 ②http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC
 1日3食を作ったのはエジソン ⇒ http://youtu.be/wgH2RavN2j0


 映像◆世界ランク1位が解説する握力の鍛え方とは?https://youtu.be/8jUjejHDPdk
‡2020(令和二)年12月25日(金)現在、GM150という握力計にて、体重別(Class66)と相対比(体重50kgで握力100kgなら200%)の2つのカテゴリにて世界ランク1位の私が、簡単な範囲ではありますが握力の鍛え方の基礎について解説してみました。
 こんにちは。およカトと申します。是非参考にしていただければ幸いです。
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「年賀状ショック」の日本郵便 大企業で相次ぐ廃止表明も…環境配慮とデジタル化で対応
‡2021(令和三)年12月25日(土) 10:00
 2021(令和三)年12月15日(水) zakzak写真◆提供2022年用年賀状の受付開始セレモニー 東京都千代田区 
 環境意識の高まりやコロナ禍での働き方の変化を背景に、2022年用の年賀状を廃止する企業が相次いでいる。同年の年賀はがきの当初発行枚数は04年以降で最少となる18億2536万枚にとどまった。日本郵便は環境に配慮した紙を使うなど巻き返しを図っている。通信大手のKDDIは、22年用から年賀状送付を廃止する。広報担当者によると、環境保全を主な目的とした取り組みだという。別の大手通信会社も22年用から会社として年賀状を送らないことを決めた。担当者は「今後の送付は個人の判断に基づき、ケース・バイ・ケースで実施するようにする」と話す。システム開発大手のTISも環境負荷の低減やデジタル環境への移行推進を背景に22年用から年賀状を廃止する。同社が19年に送付した年賀状は約1万枚だったという。生活用品大手のライオンは21年用から年賀状送付を見送っている。その理由について広報担当者は「コロナ禍でリモートワークが浸透し、年賀状のために出勤する必要性や、送付しても相手が出社していない可能性などを考慮し、現在は取りやめている」と語る。23年用以降は状況を見つつ判断するとした。社員個人の対応は制限しない動きもある。21年用から年賀状を廃止した大手広告代理店、大広の広報担当者は「あくまで会社として年賀状を廃止するもので、社員の年賀状送付を禁止するものではない。付き合いのある取引先には今後も年賀状を送るケースもある」と説明する。会社としては企業ホームページや業界誌などに新年のあいさつを掲載するという。急速に浸透する環境意識に日本郵便も年賀はがきの原料を見直した。22年用の年賀はがきから森林保全や人権への配慮を示す「FSC認証」を受けた紙を使用している。また、LINE上でデジタル年賀状を送れる有料サービス「スマートねんが」を始めた。来年
 2022(令和四)年1月1日(土)から
 2022(令和四)年2月4日(金)まで送り放題の定額制で、最低200円から利用できる。登録者は
 2021(令和三)年12月22日(水)までに約12万人に上っているといい、「日に日に登録者は増えている」と広報担当者は語った。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/e6f08894d7af74d7156273ab1873fa4a09498617

★あなた毒食べてます★世界一危険なパンと麺類を主食に食べる日本人の末路は!?
 2022(令和四)年07月31日(日) 15:17:00NEW !テーマ:■病気とダイエットの関係
 いつもありがとうございます。ハッピーダイエットの船田です。
 世界一危険な小麦粉。日本はそれを主食にしているんですよ!以前も紹介していましたが、今年になって小麦不足の問題が出てきたので新たな論点も加えて紹介します。もはや日本は世界の毒薬処理施設!これならコロワク無しでも日本人は全滅すると思います。元記事はこちら。まずは危険性を訴える記事を引用しますね。
 東洋経済オンライン記事より
 「リスクのある小麦」の輸入を続ける日本の末路 | 食品アメリカの穀物農家は、発がん性に加え、腸内細菌を殺してしまうことで、さまざまな疾患を誘発する懸念が指摘されているグリホサートを、雑草ではなく麦に直接散布している。収穫時に雨に降られると小麦が発芽して…
 「リスクのある小麦」の輸入を続ける日本の末路~発がん性指摘される農薬を効率重視で直接散布~「日本産にないリスクのある食べ物」が送られているアメリカの穀物農家は、発がん性に加え、腸内細菌を殺してしまうことで、さまざまな疾患を誘発する懸念が指摘されているグリホサートを、雑草ではなく麦に直接散布している。
(船田注:ここが最重要ポイントです、収穫直前の麦の穂に直接散布している!!)収穫時に雨に降られると小麦が発芽してしまうので、先に除草剤で枯らせて収穫するのだ。枯らして収穫し、輸送するときには、日本では使用されていない防カビ剤*を噴霧する。
※グリホサートはベトナム戦争で枯葉剤として使われた薬品です。*日本では使用禁止の収穫後農薬であったが、米国からの日本への輸送時に散布可能なように食品添加物に分類変更された。「これはジャップが食べる分だからいいのだ」とアメリカの穀物農家が言っていた、との証言が、アメリカへ研修に行った日本の農家の複数の方から得られている。グリホサートについては、日本の農家も使っているではないか、という批判もあろう。だが、日本の農家はそれを雑草にかける。農家の皆さんが雑草にかけるときも慎重にする必要はあるが、いま、問題なのは、アメリカからの輸入穀物に残留したグリホサートを、日本人が世界で一番たくさん摂取しているという現実である。しかも、アメリカで使用量が増えているので、日本人には小麦のグリホサートの摂取限界値を6倍に緩めるよう要請され、日本政府は
‡2017(平成29)年12月25日(月)に、米政府にクリスマス・プレゼントと称して緩めてしまったのだ。残念ながら、日本人の命の基準値はアメリカの必要使用量から計算されているのであろうか。
「日本の食パンほとんどから検出」農民連食品分析センターの検査によれば、日本で売られているほとんどの食パンからグリホサートが検出されているが、当然ながら、国産や十勝産と書いてある食パンからは検出されていない。「しょうゆからも検出」また、大豆製品では、Rubio ほかがフィラデルフィアで購入した醤油中のグリホサート分析をし、検査した醤油の36パーセントで定量下限より多いグリホサートが検出された。有機醤油からグリホサートは検出されなかった。日本国内の醤油についての検査も不可欠と考えられる。日本人の毛髪検査からの輸入穀物由来とみられるグリホサート検出率も高い(28人中19人に検出、検出率68パーセント)。世界的にはグリホサートへの消費者の懸念が高まり、規制が強化されるなかで、日本は逆に規制を緩和しているので、日本での儲けに期待が高まることになる。2018年3月末に、消費者庁から「消費者の遺伝子組み換え表示の厳格化を求める声に対応した」として、GM(遺伝子組み換え)食品の表示厳格化の方向性が示された。アメリカからは、日本に対してGM表示を認めないとの圧力が強まると懸念されていたなかで、私はGM表示の厳格化を検討するとの発表を聞いたときから、アメリカからの要請に逆行するような決定が本当に可能なのか疑念を抱いていた。特にアメリカが問題視しているのは、「遺伝子組み換えでない」(non-GM)という任意表示についてである。すなわち、「日本のGM食品に対する義務表示は、対象品目が少なく、混入率も緩いから、まあよい。問題はnon-GM表示を認めていることだ」と日本のGM研究の専門家の一人から聞いていたからなのだ。「GM食品は安全だと世界的にされているのに、そのような表示を認めるとGMが安全でないかのように消費者を誤認させるからやめるべきだ。続けるならばGMが安全でないという科学的証拠を示せ」という主張であった。そもそも緩かった「遺伝子組み換え表示義務」日本のGM食品に関する表示義務は、
①混入率については、おもな原材料(重量で上位3位、重量比5パーセント以上の成分)についての5パーセント以上の混入に対して表示義務(注1)を課し、
②対象品目は、加工度の低い、生に近いもの(注2)に限られ、加工度の高い(=組み換えDNAが残存しない)油・醤油をはじめとする多くの加工食品(注3)、
また遺伝子組み換え飼料による畜産物は除外とされている。
(注1):GM原材料が分別管理されていないとみなし、
「遺伝子組み換え不分別」といった表示が義務となる。
(注2):トウモロコシ、大豆、じゃがいも、アルファルファ、パパイヤ、コーンスナック菓子、ポップコーン、コーンスターチ、味噌、豆腐、豆乳、納豆、ポテトスナック菓子など。
(注3):サラダ油、植物油、マーガリン、ショートニング、マヨネーズ、醤油、甘味料類(コーンシロップ、液糖、異性化糖、果糖、ブドウ糖、水飴、みりん風調味料など)、コーンフレーク、醸造酢、醸造用アルコール、デキストリン(粘着剤などに使われる多糖類)など。これは、0.9パーセント以上の混入があるすべての食品に、GM表示を義務付けているEUに比べて、混入率、対象品目ともに極めて緩い。これに対する厳格化として、決定された内容を見て驚いたのは、①と②はまったくそのままなのである。厳格化されたのは、「遺伝子組み換えでない」(non-GM)という任意表示についてだけで、現在は5パーセント未満の「意図せざる混入」であれば、「遺伝子組み換えでない」と表示できたのを、「不検出」(実質的に0パーセント)の場合のみにしか表示できないと、そこだけ厳格化したのである(違反すると社名も公表される)。この表示義務の厳格化が、2023年4月から施行されれば、表示義務の非対象食品が非常に多いなかで、可能な限りnon-GMの原材料を追求し、それを「遺伝子組み換えでない」と表示して、消費者にnon-GM食品を提供しようとしてきた、GMとnon-GMの分別管理の努力へのインセンティブが削がれてしまう。そして、小売店の店頭から、「遺伝子組み換えでない」という表示の食品は、一掃される可能性が出てくるだろう。例えば、豆腐の原材料欄には、「大豆(遺伝子組み換えでない)」といった表示が多いが、国産大豆を使っていれば、GMでないから、今後も「遺伝子組み換えでない」と表示できそうに思うが、流通業者の多くは輸入大豆も扱っているので、微量混入の可能性は拭えない。実際、農民連食品分析センターの分析では、「遺伝子組み換えでない」大豆製品26製品のうち11製品は「不検出」だったが、15製品に0.17パーセントから0.01パーセントの混入があり、今後は、これらは「遺伝子組み換えでない」と表示できなくなる。「GM原材料の混入を防ぐために、分別管理された大豆を使用していますが、GMのものが含まれる可能性があります」といった任意表示は可能としているが、これではわかりづらくて、消費者に効果的な表示は難しい。そこで、多くの業者が違反の懸念から、表示をやめてしまう可能性もある。すでにnon-GM表示をした豆腐などからの撤退が始まっている。割を食うのは消費者 GM表示義務食品の対象を広げないで、かつ、GM表示義務の混入率は緩いままで、このようなnon-GM表示だけ極端に厳格化したら、non-GMに努力している食品がわからなくなり、GM食品ばかりのなかから、いったい、消費者は何を選べばよいことになるのだろうか。消費者の商品選択の幅は大きく狭まることになり、わからないから、GM食品でも何でも買わざるを得ない状況に追いやられてしまうだろう。これでは「GM非表示法」である
厳格化といいながら、アメリカの要求をピッタリと受け入れただけになってしまっている。
 以下は、船田の文章です。日本人の主食は小麦です。お米の消費量は2010年に小麦に抜かれて第二位です。小麦は「パン」「麺類」「菓子」「粉もの食材」「調味料」に姿を変えて、日本人が主食として食べているのです。以前は、健康ダイエット的に問題のある高カロリー小麦粉食品でしたが、いまは、食材そのものに問題がある、とても危険な食材になってしまいました。上記の記事を読んで戦慄しませんでしたか?私が衝撃を受けたのは「収穫まじかの小麦に直接グリホサートを噴霧して枯らす」こと。まさにベトナム戦争で使われた枯葉剤を思い出します。このグリホサートという除草剤はベトナム戦争の枯葉剤から作られたのです。そのあと、ベトナムでは奇形児が多く生まれましたよね。下半身が繋がっている双子兄弟の写真を見たこともある方も多いと思います。その枯葉剤由来の除草剤がグリホサートです。これを可食部である小麦に直接かけて乾燥させている!?それはヤバいでしょう。日本だったら逮捕されるレベルの問題だと農家の関係者が言っています。それだけヤバい除草剤を噴霧して枯らした後に、さらに収穫後も防虫剤と防カビ剤を噴霧している小麦って・・・絶対に食べたくない。海外からの生鮮食品は、魚は冷凍されてきますが、穀物やフルーツは防カビ剤と防虫剤が昔から使われています。私が勤めていた生活協同組合ではオレンジやグレープフルーツなど、防カビ剤と防虫剤を使っていない柑橘類を販売していましたのでよく知っています。最近は防虫剤など使っていない柑橘類も普通のスーパーで売っていますが、やはりカビが出やすいので、いまでもバリバリに防虫剤を使っている店が多いです。防カビ剤だけでもヤバいのに、収穫前にグリホサートを噴霧しているとは驚愕ですよ。日本の農家はグリホサートを雑草に噴霧して除草する。アメリカの農家はグリホサートを小麦に噴霧して小麦を乾燥させる。これを知っていないとマズイです。こんな小麦粉食品を食べていたらあらゆる病気になります。この秋から小麦がさらに不足すると言いますので、もう日本人は小麦を食べるのをいったん諦めた方がいいんじゃないでしょうか?私はコロワクの危険性について2020年からずっと記事にしてきましたが、やはり北米小麦の危険性も無視するわけにはいかないでしょう。国産の小麦や野菜が安全というつもりはありませんが、すくなくともグリホサートを直接噴霧などしていないと思います。このような毒薬の入った食材は、腸内環境を破壊して、アレルギーと自己免疫疾患と癌を促進します。特に小麦粉食品は依存性も強いですから、食べないと中毒症状が出る方もいるので「みんな大好き」です。しかし、これほどの危険性があるなら、食べるのは一時中断した方がいいのではないかと思います。食べるのはまともな小麦粉が流通してからですね。欧州産の小麦粉はそんな危険性は無いのですが日本には入ってきません。日本の小麦はアメリカ産が圧倒的に多いです。同じく遺伝子組み換えトウモロコシもね・・。健康でありたいなら、もう小麦粉食品は避けた方がいいです。船田の作った「最高に免疫力を上げるダイエット法」は、小麦粉食品を減らして、米を中心にした食生活のマニュアルのような物。日本が目指すべきは
「脱炭素」ではなく、
「脱小麦」ではないかと思うので危険性を紹介しました。詳しくは「最高に免疫力を上げるダイエット法」5冊セットに書いてあります。
【船田が作成したお勧めテキスト】以下のテキストを購入された方には「補足情報」として、個別対応メールにて「超古代日本文明の健康法さわりの部分」をお送りします。詳しくはこの記事でどうぞ。
「超古代日本文明の健康法がすごすぎて感動しています!」
『★重要★闇権力に葬られた古代日本の超健康法がすごすぎて感動です!』いつもありがとうございます。ハッピーダイエットライフの船田です。 ただいま薬草の健康効果と、ある種の治療法を書いた「自然の力で健康になる方法」テキストを作成中…医療マフィアが利権のために、本当に効果がある健康法や治療法を隠して封印した150年。しかし闇権力の存在が明らかになった今、封印されていた「最高に免疫力を上げる方法」を知る必要がある。そう考えて1年かけて作ったテキスト、「最高に免疫力を上げるダイエット法」テキストを紹介します。ただ体重を減らすダイエットだけではなく、これからの時代を生き抜く必須の「健康法テキスト」だと自負しています。
 https://ameblo.jp/diet-joy/entry-12751381529.html

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