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┃ kurkku < << news ┃<br /> ┗━━━━━━━━━━┛
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|2014(平成26)年 1月22日(水)|「LA SORA SEED」のメニューを更新しました
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*********************** http://ja.wikipedia.org/wiki/Ap_bank
http://www.kurkku.jp/lasoraseed/
http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=73968 2008
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┃ 今日は何の日!? ┃|1月22日|
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http://www.cdjournal.com/main/calendar/20140122/todays/
おしゃれイズム 12 01 22(日)「布袋寅泰」1 http://youtu.be/2YDxwZjD7Hw
おしゃれイズム 12 01 22「布袋寅泰」2 http://youtu.be/ttL1hbk_-vQ
おしゃれイズム 12 01 22「布袋寅泰」3 http://youtu.be/2hAsRuGaxYs
おしゃれイズム 12 01 22「布袋寅泰」4 http://youtu.be/Zvh67xR6VFs
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┃ 『坂本龍一のサウンドストリート』 ┃NHK-FM
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛22:00~22:45
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|1985(昭和60)年 1月22日(火)|ゲスト・岩合光昭
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http://www.chokai.ne.jp/mimori/198501.html http://www.chokai.ne.jp/mimori/radio.html
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┃ 『ピュア』 ┃フジテレビ系列
┗━━━━━━━┛ 21:00~21:54
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|1996(平成八)年 1月22日(月) 第03話「秘密のデートに仕組まれた罠」|
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主題歌・・・♪名もなき詩♪ Mr.Children(ドラマ主題歌3回目) フジテレビ系ドラマ主題歌2回目
視聴率・・・22.5%
平均視聴率・・・23.5% 視聴率は関東地区・ビデオリサーチ社調べ
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主題歌http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=8944
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A5%E3%82%A2_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)
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┃ 『恋のバカンス』 ┃日本テレビ系列
┗━━━━━━━━━━┛ 22:00~22:54
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|1997(平成九)年 1月22日(水) 第03話「悪夢…ついにベットイン!?」|
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主題歌・・・♪Everything (It's you)♪ Mr.Children(ドラマ主題歌4回目) 日本テレビ系ドラマ主題歌2回目
視聴率・・・17.9%
備考・・・主演を務めた明石家さんまの同枠への出演は『恋も2度目なら』に続いて2度目となり、前作と同様に本作も高視聴率を記録した。さんまは『ヤングタウン土曜日』(2011年9月10日放送分)において、自身が出演したドラマの中で最も好きな作品として挙げている。また、本作の後も本作の単発SP「星に願いを」を挟んで、1999年の『甘い生活。』まで、さんま主演と両作の主要スタッフ起用の布陣で製作されているヨ(=^◇^=)
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主題歌http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=9562
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E3%81%AE%E3%83%90%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%82%B9_(%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%93%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)
http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=1833 (=^◇^=)
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┃ 『ap bank radio NEO RESONANCE』 ┃TOKYO FM&JFN 38 STATIONS
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛23:30~23:55
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|2012(平成24)年 1月22日(日)|小林武史×エリイ「音楽の新しい形」
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スキンケア。30年以上アノンを使っている。
プールに入って髪を洗ってその後アノン。
使ってなかったら全然違ってたって言われた。
男の子も塗るべきだと思う。自分を大事にしてると思うから。
短時間で済むのがいい。男はやる事が一杯あるから。
木更津の”耕す”に行った時に、若い連中が沢山居て元々農業の人達じゃないけど、
どういうものを作るとみんなが喜ぶのか、社会が変わって行くのかを考える事は沢山まだやれることがあるし、共感出来る若者もいる。
だからどんどんプランが立つ。
でもミュージックになるとどんなバンドも今はミスチルのように成長する場が誰も作れないと思う。
隣が広がって自由な競争が生まれて行くからもっとやって行こうという気持ちになる。
アートに対してはやっとそういう時代がやって来たのかなと思う。
ある趣味の中にちゃんと収まって行く音楽ならこれからも新しさを表現出来るかもしれないけど、
メインストリームを牽引するような音楽のやり方はもう出尽くしている。
無くなる事もないし出尽くす事もないと思うけど、何かに付随して来ているけど、
それ以上の音楽の形。新しいメインストリームの形がここ何年か無い。
************* http://www.tfm.co.jp/apradio/guest120122.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/Ap_bank_radio!_THE_LAST_WAVE
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┃ クリシュナムルティ ボンベイ・トーク ┃『はからない精神(MIND WITHOUT MEASURE)』
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①|1983(昭和58)年 1月22日(土)|1 原因があるとその消滅もあります
②|1983(昭和58)年 1月23日(日)|2 善い精神
③|1983(昭和58)年 1月29日(土)|3 心理的な進化があるのでしょうか
④|1983(昭和58)年 1月30日(日)|4 宗教的精神とは何でしょうか
└─――――――――――――┘中野多一郎 訳
もし宜しければ指摘したいのですが、これは何らかの特別なテーマについて教授しようとする或いは何らかの見方から伝えようとする、教授しようとする、教えようとする講話ではありません、我々は、あなたと話し手は、我々の日常生活の様々な問題を検討して、それらに何らかの解決があるのかどうかを見ていこうとしています。そのように、一緒に考えることは、我々が互いに向き合っているかどうかを我々一人ひとりが自分自身で発見し、明らかにすることは、あなたの責任でもあるし話し手の責任でもあります、それは単に知的なレベルあるいは感情的、観念的なレベルなだけではなく、問うている、疑問に思っている関係性の中で我々が向き合っているのかどうかです。疑問に思うことや問うためには、人は偏った見方から自由でなければなりません。そうでないなら、問うことには何の価値もありません。ほとんどの我々がすでにとても沢山の理想、結論、意見などに献身的であるので、我々は決して向き合うことをしません。話し手には何の信念も、何の理想も、何の権威もないので、彼は容易に、自由に、喜々として探究できます、そしてもしあなたも自由なら、あなたも我々の社会の、我々の政府の様々な分野での争いを見ていくことができます、なぜこの地球上に恐らく四、五万年以上生きてきた人間が現にあるとおりの人間―鈍くて、暴力的で、迷信的―なのかを検討し、見ていくことができます。我々が社会です、我々が我々の生きるこの社会を作り上げてきました、そしてそのような社会の中に秩序をもたらすためには、我々自身の家が秩序正しくなければなりません、しかしそれはそうなっていません。我々の家は、我々が住むその家は、物理的な家のことではなく、それは我々が戦う、争う家であり、惨めな、混乱した、悲しみの家のことです。それが我々の家です、そして我々はその中に秩序をもたらしていません。単に外面的な秩序を求めるだけでは僅かの意味しかありません。
我々が深く感心を持つのは、なぜ人間は現にあるとおりの人間なのか、なぜ人間はこのようになっているのかということです。未来とは今の人間のことです。もし今人間が変わらなければ、未来は今あるとおりのままでしょう、恐らくある程度の修正や変化はあるでしょうが。もし人間が徹底的に、根本的に人間自身の態度、人間自身の生の中に変化をもたらさないなら、それは秩序をもたらすことですが、このような全てのトークに参加しても非常に僅かの意味しかありません。もしそのことが非常に明瞭であるなら、我々は同じ次元で、同じ熱気で、同じ時を共有して互いに向き合っています、そうするとコミュニケーションが非常に単純になります。なぜなら、明らかに話し手は何かを言うためにここにいます、何かをあなたと探究するためにここにいます。もしあなたがあなたの献身しているものに、あなたの信念に、あなたのグルやそれらにしがみつくなら、我々は互いに向き合うことは決してできません。ですから、どうか、これは二人の人間のトークであり会話です、それぞれの個人的な生だけではなく、世界に、世界で起こっていること―世界的な秩序の乱れ、戦争の恐怖、貧困、暴力そして正に世界中で進行している破壊―に関心を持っている二人の友人の対話です。我々はそれら全てに責任があります。
問題は何ですか? なぜ我々は、我々の一生を通じて―はじめから、我々が日の目を見てから我々が死ぬまで―問題を抱えるのですか? なぜ我々は問題を抱えるのですか―社会的な問題、経済的な問題、機械的な問題、コンピューターの問題そして我々の日常生活の中の、我々の関係性の中の我々自身の問題です。問題を持つ必要があるのですか? 一つの問題も抱えることなく生きることは可能ですか? もしあなたが問題を抱えるなら、明らかにそれらの問題が摩擦として働いて頭脳を疲弊させ、人は老いていくなどします。世界中の人間が多くの多くの問題を抱えています。人々は問題の中を生きています。人々の全生活が問題の織りなす活動です。そこで我々は問うています、問題を抱えないことは可能かと。我々はその問いを探究していくのであって、「はい、問題を抱えないで生きることは可能です」と言うことではありません、それは的外れです。我々が問題とする点は、なぜ我々はそれを抱えるのか、問題とは何か、なぜ頭脳はいつも問題を解決しようとしているのかということです。機械的な問題があります、数学的な問題、デザインの問題、建築や物理学の問題があります。技術的な領域の中には多くの多くの問題があります。それは避けられません。しかしなぜ我々は、我々の生の中に、我々の関係性の中に、我々自身の生き方の中に、我々の家族の中に問題を抱えるのでしょうか? 我々は技術的な世界の中に問題が存在するに違いないのは分かります。我々は機械的な世界の中に住んでいます。我々はビジネス人間であり、我々は医者であり、外科医であり、物理学者であり、生物学者であり、熟練したコンピューターの専門家です。そして我々の頭脳は、問題を解決するように、訓練され、教育され、条件づけされています。我々はそれと同じ考え方を我々の日常生活の中に持ち込みます。あなたは私の言っていることが分かりますか? 仮に人がコンピューターの専門家だとします。彼はいくつかの問題をそこで抱えます、そして機械的に彼はそれらの問題を解決しなければなりません、それは彼の頭脳が、問題を解決するように訓練され、条件づけされ、教育されていることを意味します。そして我々はその同じ問題の解決の仕方を心理的な領域の中に持ち込みます。
心理的な領域は我々の関係性や我々の恐れ、不安などその他の全ての領域です。我々はそれらが解決されなければならないという同じ考え方を持っています、それらは解決されなければならない問題だということであり、それは我々が生を、我々の日常生活を我々の問題という観点から見ることを意味します。あなたは問題を解決するように訓練されています、あるいは教育されています。我々は一つの問題を解決しようと努めます。その一つの問題の解決の中で我々は更に問題を増やします。そのように我々は問題と共に生きています。我々は全く異なることを言っています、つまり、問題を解決するように訓練されている精神で生を観察することではなく、なぜ頭脳が問題を解決するように条件づけされ、訓練され、教育されているのかを理解することです、そしてなぜそれと同じ仕方で我々は生に相対するのかということです。
それでは我々は、問題を解決するように訓練されている頭脳で見るのではなく、我々の生の様々な問題を見ていきます、答えや解決を求めるのではなく、問題を観察していきます、なぜなら一つの問題も抱えない生を生きることはこの上もなく途方もない生だからです。それには計り知れない能力があります。それは途轍もないエネルギーを秘めています。それはいつもそれ自身を新たにしています、しかしもしあなたがいつも問題の領域やそれらの問題の解決に囚われているなら、あなたはそれらの問題から決して抜け出せません。この点は宜しいですか? 我々はいかなる問題もそれを問題と呼ばずにそれを見ることができるかどうか、我々の日常生活のいかなる問題もそれを問題というレッテルを張らないで見ることができるかどうか、それをただ観察することができるかどうか、そのような問題の全性質、そのような問題の内容に気づけるかどうかを明らかにしようとしています、しかしもしあなたがそれを問題として取り組むと、従ってその答えを見つけようとすると、あなたはその問題を増大するでしょう。例えば、何ものにも塞がれていない精神を持つことが重要です。何ものにも占められていない頭脳だけが新しい何かを受け取ることができます、それは自由な頭脳であり、それは途轍もない活力を秘めています。非常に静かな精神を持つことが重要です、なぜなら静かな精神だけが、何ものにも塞がれていない精神や頭脳だけが物事を明瞭に見ることができるからです、実際に全く異なるように考えることができるからです。宜しいですか、あなたは静かな、穏やかな精神を持つことが重要であると聞きます、そうすると、あなたは「どのようにして私はそれを手に入れたらよいのでしょうか」と聞きます。そうするとあなたはそれを問題にしています―「私には静かな精神が必要です。私の精神は何かに塞がれていて、落着きがなく、いつもお喋りしています、それを止めるには私はどうすればよいのでしょうか」と。それを止めようとする欲望が問題を引き起こします。それを行うには私はどうしたらよいのでしょかが問題となります。あなたはこのことを理解しましたか? しかしもしあなたがそのような塞がれている精神の問題に“どのようにして”ということとは無縁に取り組むなら、あなたは何かに塞がれていることの性質を、なぜそれが塞がれているのかを、なぜそれが絶えず何らかのものにこだわっているのかを自分自身で見始めるでしょう。あなたがそれを観察すると、あなたがそれに気づくと、それはあなたにあなたがなぜそうなるのかを語っていきます。あなたはこのことが分かりますか?
最初に、我々はあなたと話し手が生を問題としてではなく途轍もない活動として扱っていることを非常にはっきりさせていなければなりません。もしあなたの頭脳が問題を解決するように訓練されているなら、あなたはこの活動を解決されるべき問題として扱うでしょう。あらゆる疑問、あらゆる問題を抱えた生を、それは途轍もなく複雑ですが、問題として見ないで、何らかの偏見を持たずに、あなたの観察を指図することになる何らかの結論に至ることなく、それを非常に明瞭に観察することができますか? あなたはこの生の壮大な活動を観察する必要があります、あなた自身の個別の生だけではなく、人間の生を、地球の生を、樹木の生を、全世界の生命の生を観察する必要があります―それを見て、それを観察して、それと共に歩むのです、しかしもしあなたがそれを問題として扱うと、あなたは更なる問題を作り出すでしょう。このことは宜しいですか?
生の中で我々が最初に相対するものとは何ですか、我々の生の中の、人間の生の中の最初の活動とは何ですか? 我々はあなたが送る取るに足らない小さな生―我々はまもなくそこに至ります―について話しているのではなく、我々の周りの生について、壮大で、計り知れない、存在の複雑な活動について話しています。最初にあなたに迫るのは何ですか? その背後に意味を持ち、深さを持ち、活力を感じさせるそれは何ですか? あなたが最初に観察するもの、あなたが最初に反応するもの、あなたが最初に即座に問うものは何ですか? 恐らくあなたはこのような問いかけを決してしません。もしあなたがこの生の、人がその一部である壮大で途方もない活動を見るなら、あなたが最初に相対するものは何ですか? それは関係性でしょうか、それは自分自身についてのあなた自身の個別の関心でしょうか、それはあなた自身の恐れ、あなた自身の不安、あなた自身の個別の、狭い、限られた問いかけ、あなた自身の神の探究でしょうか? 何があなたの最初の自然な接触、自然な求めでしょうか? 我々はこの生の壮大な活動を狭い小さな窓から、あなた自身の小さな自己であるそのような窓―あなた自身の心配事、あなた自身の不安、あなた自身の性的な要求―から見ていませんか? あなたはこの壮大な活動を、いかなる観点とも無縁に、どのような窓からも見ることなく、あらゆる献身事をやり過ごして見ていますか、それともあなたは、システムに、伝統にとても囚われているのですか、教授として、哲学者として、物書きとして、戦士として或いは専門家として知ることにとても囚われているのですか? それともあなたはそれを人間として、とても沢山の疑問、悲しみ、痛み、不安を抱えた人間として見るのですか? あなたはこれら全てをどのように見ますか?
あなたがそのような質問をとても大勢の人たちに問いかけると、当然にも、それぞれが異なった反応を示します。しかし我々がみな人間であるように、我々は他の全ての人間です。我々は何らかの背景を持っているかもしれませんし、何らかの伝統、何らかの長い歴史を持っているかもしれません。しかし、最初にあなたは人間です、キリスト教徒でもなければ、医者でもないし、仏教徒でもないし、ヒンズー教徒でもありません、あなたは最初に他の全ての人間と関係している人間です。従って、あなたは他の全ての人間です。あなたの身体は他の人の身体と異なるかもしれませんし、その身体組織は他の身体組織と異なるかもしれませんが、その身体は決して「私です」と言いません、その身体は決して「私は特別です」と言いません、その身体は決して「私の発展、私の成功、私は神を探さなければならない」などそれらのことを言いません。その身体はそれが他の誰かから分離していると決して意識しません。私は違うと言うのは思考です。思考がどのように分断するのかを見て取ることは重要なことです。そのように、それが、あなたがこの生の壮大な活動を見るときにあなたの気づく最初のことです、人がどのようにして自分自身を他の人から分断してきたのか、他の人から自分自身を分離してきて、自分自身をアメリカ人、ユダヤ人、ロシア人、アラブ人、ヒンズー人などその他の全てと呼んできたのかということです。あなたはこの途方もなくバラバラにされた人間の実体を観察することはありませんか? あなたはそのことに気づきますか? その中に、あなたが最初に見るものは世界が地理的に、国別に、人種的に、宗教的にいかに分断されているのかです。この分断が計り知れない争いの原因をなしています、この分断が戦争の原因をなしています―ヒンズー教徒とイスラム教徒、ロシアとアフガンなどです。それがあなたのこの世界の中で最初に見るもの―人がいかにこの分断を作り出してきたのか―ですか? この分断は存在するに違いありません、なぜなら思考がこの分断を作り出してきたからです。
宜しいでしょうか、もしあなたが気を抜かずに注意していて、気づくなら、人は人間が自分自身にしてきたことや人が他の人たちにしてきたことを見て取ります。それが人の観察する最初のものです―この分断による破壊であり、ナショナリズムが生み出す戦争です。戦争の原因の一つがナショナリズムです、そして人はこの生の壮大な活動を一つのユニットとして決して扱いません。我々はそのように何千年も生きてきて、神の名の下に、平和の名の下に、国の名の下に、旗の名の下に、互いに殺し合ってきました、そして我々は依然としてこのことを何千年を経てもなお行っています。そこで人は問います、人のどこが悪いのですかと。なぜ人はこのようにしているのですか? 人は技術的な世界では途方もなく賢く、人はこの上もなく途方もない繊細な装置を発明してきました。しかし我々は依然としてこの上もなく途方もないほど我々自身の生を継続しています。そのようにそれが我々の気づく最初のものです。そして人は問います、その原因は何かと。
これら全ての原因は何ですか―この分断、それらの戦争、あらゆる国の中の、宗教的世界の中の、政治的世界の中の、科学的世界の中の序列階層的権威の構造です。それは全て序列的階層的原理に基づいています―知識の権威、経験の権威などです。それでは、これら全ての原因は何ですか? 誰に責任があるのですか? どうか問うてください。なぜなら原因があると、その原因は消滅するからです。もし人に痛みがあり、その原因が癌か何かなら、その痛みは消滅させられるか、あなたが死ぬかのいずれかです。そのように、何らかの原因があるなら、その消滅も起こります。それは摂理であり、それは原理です。そこで我々は問うています、これら全ての原因は何ですかと―この広範囲な悲惨、不幸、その途轍もない不確かさです。
我々は一緒にこのことを検討できますか、私が説明して、あなたが受け入れるのではなく、一緒に、ゆっくりと、注意深く、これら全てのルーツは何かを自分自身で明らかにできますか? もし我々がそれを今見つけないなら、未来は正に同じことでしょう、今のあなたと同じでしょう―戦争、分断、悲しみ、痛み、不安、不確かさです。ですから一緒にこの分断の原因は何かを明らかにしましょう。この分断は戦争を、口論を、絶え間ない争いを生み出します―男と女の争い、性的な争いなどを生み出します。これら全てのルーツは何ですか、これら全ての原因は何ですか? もし私に問わせていただくなら、あなたはどのようにそのような問いに取り組みますか? どのようにあなたはそれに近づきますか? 取り組むということは近づくこと、触れることを意味します。これがあなたに課せられた質問です、あなたはそれを解決されるべき問題として見ますか、それともあなたはそれに非常に近づきますか? もしあなたがそうするなら、あなたはその問いに対して開いています、しかしもしあなたがその問いから距離を置くなら、あなたは開いていなくて、その問いに対して生き生きとしていません。
そのように我々はこの問いに何の方向性も持たずに、何の動機も持たずに一緒に取り組んでいきます、なぜならもし何らかの動機があると、その動機が答えを指示するからです、それが知覚を歪めるからです。仮にこれが私の問いかけだとします、私はこの問いを私自身に課しています、「これら全てのルーツとは何ですか」と。私には答えはありません。私は知りません、しかし私は明らかにしようと思います。しかし明らかにするためには、私が自由でなければなりません、いかなる種類の方向性からも完全に自由でなければなりません。なぜなら、もし私が何らかの方向性を持っていると、何らかの動機を持っていると、何らかの種類の見返りを望んでいると、そのような動機、そのような見返りが私の探究を指示します。そのように人はこの問いかけを自由に観察しなければなりません―これら全てのルーツとは何ですかと。この美しい地球上に生きる人間にとっては、人が争って生きなければならないことは、人が不安や恐れを抱いて生きなければならないことは避けられないことですか? もしあなたがそれを避けられないこととして受け入れるなら、探求というものはありえません。あなたは何らかの結論に達して、あなたはドアを閉めました。結論は探究の終わりを意味します。正に“結論”という言葉が閉めること、終わることを意味します。もしあなたが何らかの結論に至ると、あなたは恐らく答えられません。そのように人はどのようにあなたがこの問いかけに取り組むのかに気づいていなければなりません。我々は問うています、それは思考ですかと。思考とは何ですか? 思考はあなたのものですか、思考は個人的なものですか? あなたの考えることは他の誰かの考えることと分離していますか? 誰もが考えます―最も愚かで、無知で、虐げられた村の人間から偉大な科学者まで。そのように考えることは我々みなに共通しています。それは私の思考から分離しているあなたの思考ではありません。そのように思考は全ての人類の活動であり、それは個人的な思考ではありません。我々はそのことが分かりますか? それを受け入れたり、それを見て取ったりすることはかなり難しいことです、なぜなら私の考えることはあなたの考えることとは分離していて、私の意見はあなたのものとは異なると考えるように我々がそのように条件づけられ、我々がそのように教育され、そのように訓練されているからです。しかし意見は意見であり、それはあなたの意見でも私の意見でもありません。
そうすると、思考がこれら全ての悲惨、この破壊、この堕落、この腐敗、この崩壊のルーツですか? もしそれがそうなら、世界のそのような大混乱を作り出してきた思考のそうした活動は消滅しえますか? この上もなく途方もない技術的世界、途轍もない戦争兵器、途方もない潜水艦などを作り出してきたのが思考です。そしてまたそれは世界の全宗教をも作り出してきました。それは途方もない大聖堂、モスク、寺院を築き上げ、そして寺院やモスクや教会の中にあるあらゆるものを作り出してきました。思考はあらゆる儀式を発明してきました、キリスト教世界での救世主を発明してきました、この国での解放あるいは解脱あるいはあなたの好きなように何とでも呼べるものを発明してきました。そしてまたそれは神々をも発明してきました。あなたが不確かになればなるほど世界は更に危険になります。ですから思考は何らかの安全を、安心感を、確かな感じを見つけなければなりません。そしてそれは神々を作り出します―あなたの神や私の神であり、私の神はあなたの神より良い、私のグルはあなたのグルより良いなどです。思考はこれら全てに責任を持っています。もしそれが原因なら、もし思考がこれら全ての原因―我々の悲惨、我々の迷信、我々の計り知れない安全性や確かさの欠如、そしてまた思考はこの上もなく途方もないものを、通信手段、外科手術、医学などを作り出してきた―なら、それが消滅することはあるのですか? あなたは私の質問が分かりますか? 思考が消滅することはありますか? つまり、もし思考がこれら全ての技術的な世界と悲惨や不幸、不安の人間世界に責任があるなら、もし思考がこれら全ての原因であるなら、それは消滅しなければなりません。つまり、もし人が様々な出来事によってもたらされた何らかの種類の病気を患っているなら、そのような病気には原因があり、そしてそれが発見されているのなら、それは処置されて消滅させられます。同様に、もし思考がこれら全てに責任があるなら、我々の日常生活の混乱、悲惨、不確かさ、悲しみ、そして我々の周りに思考が作り出してきたそれら全ての迷信に責任があるなら、もし思考がその原因なら、それは消滅します。
もしあなたが、どのように思考を消滅させるのか私に言ってくださいと言うなら、あなたはそれを問題にしています、なぜならあなたの頭脳は問題を解決するように訓練され、教育されているからです。コンピューターの専門家がその分野の問題を解決するように訓練されているように、それと同じ活動が心理的な世界にまで拡大されます。もし思考がこのことの原因なら、問われるのはそれをどのように消滅させるのかではなく、思考の全活動を理解することです。もしあなたがそれをあなたの考えることとして扱うなら、そして他の誰かがそれをその人の考えることとして扱うなら、問題は全く異なります。それはあらゆる種類の幻想に至ります。迷信には何の現実性もありませんが、思考はあらゆる人間―黒い人、白い人、ピンクの人、イスラム教徒、ヒンズー教徒、村びと、教育を受けていない人々―が寄って立つ土台です。そうするとあなたは、それは私の考えであるという観念から立ち去ります、そうするとあなたはグローバルな思考に関心を抱きます、インド人的な考え方ではありません。あなたは本当に世界に関心を持ちます、全人間に、あなたがその一部である全人間に関心を持ちます。あなたは一個人ではありません。英語の“個人”という言葉は“一つになる”、“分断されていない”という意味に由来します。あなたは一つになっていません、あなたは全く分断され、あなた自身の中で断片化されています、あなたは過去の全ての世代がもたらした成果です。あなたの頭脳はあなたのものではありません。それは何千年もの間に進化させられています。しかしあなたの宗教、あなたの経典、あなたの日常生活が語ります、あなたは他のみんなと分離していると、そしてあなたはそれを受け入れるように訓練されています。あなたはそれを決して検討してきませんでした、あなたはそれを決して問題にしてきませんでした、疑ってきませんでした、あなたは受け入れます、そしてそのように受け入れる中に問題が潜んでいます。しかしもしあなたがそれら全てをあなたがその一部である生の壮大な活動として見るなら、限りのない、始まりも終わりもないこの活動として見るなら、あなたは思考の性質を問い始めます。
それでは、思考の源とは何ですか? なぜ思考はその正に性質上、その正にそれ自身の思考活動の中で分断されるのですか、なぜそれは分断的で、断片的で、限られているのですか? 恐らく思考がその原因であるので、「どうかその原因を消滅させる仕方を私に語ってください」と言わないでください、そうするとあなたはあなたの古い問題の領域の中へ戻っています。もしあなたがこの問題を解決しようとすると、あなたは他の問題を抱えます。思考は問題を作り出しています。そこであなたは言います、それらを止める方法を、思考を止める方法を私に語ってくださいと、そうするとあなたに思考を止める方法を語る沢山の人たちが現れます。そしてそれらの人々はそれぞれがまちまちに言います―瞑想しなさい、瞑想するな、この方法を試みなさい、あなたはそれら全てを知っています。そのように我々は問題を次から次へと増幅します。それでは、人が何千年にもわたってそれと共に生きてきたこの思考の活動を見てください、そして思考を消滅させる仕方を問うのではなく、その性質を、なぜ思考がそれほど重要になっているのかを問うてください。なぜなら、思考は知識を意味するからです。知識が生の中でどのような位置を占めるのかを問うてください。我々はここで止めなければなりません、我々は明夕続けます。しかし、どうか、あなたがここを離れるとき、それを見てください、明らかにしてください、それは活動的な頭脳を意味します、活動的で、考えていて、議論している頭脳で、何らかのシステムの伝統の狭い窮屈な深みに陥らない頭脳です。世界の不幸の一つは我々がみな老いていくことです、身体が老いることだけではなく、精神的に老いることです。衰えは最初にその内面から始まります、なぜなら我々が機械的になるからです。我々は明らかにするエネルギー、活力、熱気を決して持っていません。我々みなが何をすべきかを言われてきています、我々はみな教えられてきています。ここは教えの場でもなければ、ここであなたが何をすべきかを言われているのでもありません。ここでは我々は異なる生き方を見つけ出そうと真剣です、そしてあなたが思考の性質と思考が全く重要ではない生き方を理解するときに、あなたはそれを明らかにすることができるだけです。
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①http://www1.icnet.ne.jp/abelia-2/end.html
②http://www1.icnet.ne.jp/abelia-2/good.html
③http://www1.icnet.ne.jp/abelia-2/evolution.html
④http://www1.icnet.ne.jp/abelia-2/religious.html
http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/archive?word=%2A%5B%A5%AF%A5%EA%A5%B7%A5%E5%A5%CA%A5%E0%A5%EB%A5%C6%A5%A3%5D
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3
http://blog.goo.ne.jp/beatle-lennon/e/aeae62427309fe0d6030fef7acf0b426
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