過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

2023(令和五)年十一月二十五日もうひとつの(土)曜日の初記事ですヨ(=^◇^=)


◆映像◆https://youtu.be/J95uT4OgvaI
【BOØWY】(TV) 1985/11/25 Music Wave'85 日本青年館
 1985(昭和60)年11月25日『Music Wave'85』日本青年館
 1985(昭和60)年12月31日 NHK総合放送
 00:00 DREAMIN'
 04:04 BABY ACTION
 07:08 IMAGE DOWN
 11:12 INSTANT LOVE
◆映像◆BOφWY 日本青年館 俺たちっていったらこの曲だぜ!
‡1985(昭和60)年11月25日(月)
 https://www.pinterest.jp/pin/721138959072130945/

 ♪ダンス・ウィズ・ミー♪
‡1976(昭和51)年11月25日(木) 発売
 作曲:浜田省吾


 映像◆【実話】日本を想い切腹自殺した天才・三島由紀夫…自衛隊本部を占拠し切腹https://youtu.be/pXdWO11rVYc
 2021/06/15に公開済み 伝説の演説を行った男の名は、小説家・三島由紀夫。日本を代表する文学者は、この時、一体何を語ったのか?そこには、たったひとりの男の熱い信念があった…!
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 ┃ 三島由紀夫が語る ボディビルから割腹自殺への道 ┃
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 2012(平成24)年04月03日(火) 制作
 写真◆背起きする三島由紀夫(1956年)
 1967(昭和42)年04月12日(水) 42歳の三島由紀夫は自衛隊に体験入隊します。仕事の都合もあり、3回に分けてでしたが、合計で46日間という本格的なものでした。
 最初に入隊したのは、陸上自衛隊の久留米幹部候補生学校でした。本名・平岡公威として、毎日午前6時起床、6時5分には乾布摩擦をしながら舎外で点呼するという生活を始めます。課業は午前8時から午後5時まで。当時の様子を、『サンデー毎日』に寄せた手記から引用しておきます。
 1967(昭和42)年06月11日(日)号『サンデー毎日』「自衛隊を体験する」《夏の高良山マラソンの練習にいそしむ若い学生の、飛鳥のやうなランニングには追ひつけなかったが、22年ぶりに銃を担って、部隊教練にも加はった。肩は忠実に銃の重みをおぼえてゐた。行動の苦難を共にすると、とたんに人間の間の殻が破れて、文句を云はせない親しみが生ずるのは、ほとんど年齢と関はりがない。私は実に久々に、昼食後の座学の時間の耐へられない眠さを、その古い校舎の窓外の青葉のかがやきを、隣席の友人の居眠りから突然さめて照れくささうにこちらへ向ける微笑を味はった》
 ここで「22年ぶりに銃を」というのは、敗戦直前、三島はほんの少しだけ学徒動員で陸軍に入隊したからです。
 1967(昭和42)年04月19日(水) 写真◆幹部候補生学校の芳名帳に残された三島由紀夫の署名
 1967(昭和42)年04月19日(水) 久留米から帰郷した直後の4月19日から、今度は自衛隊富士学校の滝ケ原分屯地普通科に入隊します。このときの宿舎は、偶然にも22年前の1945年、学生のときの野外演習で泊まった場所でした。ここでは戦車の操縦や特科(砲兵)隊員の行軍訓練に参加しています。過酷なレンジャー部隊の訓練も行い、草むらの蛇を捕まえて、生で食べることもしました。
《満開の姫桜の間を縫って、朝日にあたかも汗をかいた白馬のやうな富士を見上げて、半長靴で駈ける朝の駈足はすばらしかった……山中湖の満目の春のうちをすぎる帰路の行程は佳かった。私はこれほどに春を綿密に味はったことはなかった。別荘地はまだ悉(ことごと)く戸を閉ざし、山桜は満開、こぶしの花は青空にぎっしりと咲き、湖畔の野は若草と菜種の黄に溢れてゐた。あくる日から連休に入ったので、私はこれほどにも濃密な、押絵のなかをゆくやうな春と別れて東京へかへった。そして大都会の荒涼としてゐることにおどろいた。すでに私は、営庭の国旗降下の夕影を孕んだ国旗と、夜10時の消燈喇叭(らっぱ)のリリシズムのとりこになってゐた》(『サンデー毎日』)
 リリシズムとは「叙情性」という意味ですが、何とも詩的な体験記ですな。
 1967(昭和42)年05月25日(木) 三島は1カ月ほど富士山の麓にいて、いったん帰郷、5月25日から陸自最強部隊である習志野の第1空挺団に参加。パラシュート降下訓練は頭を打つ可能性があるので、11mの高塔から空中に飛び出す懸吊(けんちょう)着地訓練を体験しました。三島は「船乗りが海に憑かれるように、空挺団はパラシュートに憑かれていた」という名言を残し、46日間の体験入隊を終えました。
 写真◆現在の空挺団のパラシュート降下(富士演習場)
 それにしても、どうして三島由紀夫は自衛隊に体験入隊したのか?
『サンデー毎日』で三島の入隊をスクープした徳岡孝夫が、取材時に動機を聞いています。
《問 体験入隊の動機は?
 三島 これは、まったくご推察にまかせます。どうとられようとかまいません。
  問 こういう見方はできませんか。作家という“自由業”を中断して、自衛隊のきびしい日課のなかに身を置いてみたのは、あなたが一種マゾヒステックな快感を得るためのぜいたくな遊戯だったという……。
 三島 冗談をいわないでほしい。私ほどふだんからきびしい日課を守っている者はいないでしょう。むしろ自衛隊へ行って??これは「失言」だといわれたんですが??候補生学校の、時間が分断されている窮屈な生活よりも、私の日常の生活のほうがもっと分断され、もっと複雑にオーガナイズされているんだと言ってやりました。ただ、非常にうれしかったことは、文壇では私のストイシズムが“奇癖”ととられているのに反して、自衛隊のなかではそれが“美徳”なのでした》(徳岡孝夫『五衰の人』)有名な話ですが、幼少時の三島由紀夫は「アオジロ」とあだ名がつけられるほど病弱でした。そんな三島ですが、1944年10月に東大に入学した4カ月後、陸軍から入営通知の電報が来ます。ところが、このとき、軍医のミスで誤診され、即日帰郷となります。このときの様子は『仮面の告白』に書かれています。
《薬で抑へられてゐた熱がまた頭をもたげた。入隊検査で獣のやうに丸裸かにされてうろうろしてゐるうちに、私は何度もくしゃみをした。青二才の軍医が私の気管支のゼイゼイいふ音をラッセルとまちがへ、あまつさへこの誤診が私の出たらめの病状報告で確認されたので、血沈がはからされた。風邪の高熱が高い血沈を示した。私は肺浸潤の名で即日帰郷を命ぜられた》三島にとって軍隊に入れなかったのは大きなコンプレックスとなりました。それは人気作家となってからも変わらず、ちょうど30歳のとき、ボディビルを始めます。きっかけはボディビルのコーチだった鈴木智雄と知り合ったことでした。
 1956(昭和31)年02、03月号『ボディ・ビル』「ぼくは銀座のさるところで鈴木さんと初対面、ボディ・ビルを知りました。知る前はあんな重いバーベル担ったら、ぼくなんか参ってしまうだろうと想像していたのですがね。その時、鈴木さんが巻尺持って来て、おたがいの胸を計った。ぼくのは両腕を抱いたグルリ、鈴木さんは胸幅だけ、おどろいたことに、これが同じ寸法なのです。そこでいろいろお話しをきいた。ぼくは理論がおもしろくないと、承知しない男でしてね。鈴木ボディ理論にすっかり感銘しちゃった。そこでまず柔軟体操を教わり、やりはじめた」
 写真◆帆掛け船を行う三島由紀夫。下で支えるのが鈴木智雄
 1955(昭和30)年09月16日(金) ボディビルを始めたのは1955年9月16日。当時31歳。
 1955(昭和30)年09月20日(火) 三島自身の記録によると、9月20日に測定したところ、胸幅が最大で79cm、体重12.9貫(48.4kg)だったのが、3カ月後の正月には胸幅が82.5cm、体重13.8貫(51.8kg)まで太りました。
 この正月時点での三島のインタビューが『ボディ・ビル』誌に掲載されています。
 ─―先生は、いま目方どのくらい。
 「去年の秋からはじめたのですが、その前は平均12貫800、背は5尺4寸5分。
 ─―どのくらいにふとりたいのですか。
 「15貫は、ほしいですね」
 ─―バーベル・マンになられた動機は。
 「外国映画などで、外人のいい身体を見て、うらやましいと思いましたね。この種の外国雑誌も読んだり、ボディ・ビルというのがあることは知っていたが、ぼくがやり出したらマンガものだろうと(笑)覚悟していた。最初はコッソリやるつもりでね」
 ─―学生時代に何かスポーツは。
 「馬に乗ったくらいかな。スケートもようやく手すりなしで滑れる程度……」
 写真◆バーベル運動する三島
 さらに、ボディビルを始めて1年後には次のように書いています。
 1956(昭和31)年09月20日(木)号『漫画読売』「ボディ・ビル哲学」《ボディ・ビルをはじめてからこの9月で1年になる。風邪を引いて3週間ほど休んだことが一度あるほかは、まづ精励して来た。もともと肉体的劣等感を払拭するためにはじめた運動であるが、薄紙を剥ぐやうにこの劣等感は治って、今では全快に近い。人から見たら、まだ大した体ぢゃないといふだらうが、主観的にいい体格ならそれでよろしい。……私は思ふのだが、知性には、どうしても、それとバランスをとるだけの量の肉が必要であるらしい。知性を精神といひかへてもいい。精神と肉体は男と女のやうに、美しく和合しなければならないものらしい》ここで三島は、日大拳闘部の好意で、小島智雄監督の指導の下、ボクシングも始めます。
 1956(昭和31)年10月07日(日)『ボクシングと小説』《トレーニングをまだ4、5回やったばかりで、ボクシングを論じるのも口はばったい次第だが、30秒おきに3分づつ7乃至(ないし)8ラウンドのトレーニングをやってみて、いまさらボディー・ビルのありがたさを味はってゐる。何の訓練も経ずに座業からいきなりここへ飛び込んだら、おそらくついては行けまい。ボディー・ビルは非スポーツマンをスポーツの岸へ渡してくれる渡し舟のやうなものである。なぜボクシングをやりたくなったかといふと、それが激しいスピーディーな運動だからである。ボディー・ビルの静的な世界は、肉体の思索の世界ともいふべきで、そこでは動きとスピードへの欲求が反動的に高まってくる。そして動くもの、スピーディーなものが美しいことは、ソクラテスもいってゐることである》三島はこの2年後(1958年)に川端康成の媒酌で結婚するんですが、それと同時に、今度はボクシングをやめて剣道の稽古に入ります。もはや、三島の肉体鍛錬はとどまることを知りませんでした。
 写真◆東京裁判の会場となった市ヶ谷記念館。このバルコニーで三島が演説した
 自己鍛錬の流れの中で、三島は1961年、「よいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説」として『憂国』を発表します。これは、2・26事件で反乱軍を討たざるをえなくなった武山信二中尉が、死を選んで切腹する話。この作品は1966年、自身が監督・主演を務めて映画化されました。この映画で、三島は凄惨な切腹シーンを演じています。そして、1967年、自衛隊に体験入隊。その直後、三島は『美しい死』(1967年8月)でこう書いています。
《ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、一か八かといふときには、戦って死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉にできてゐる。
 私は自衛官にはならなかったけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは国を守るために馳せ参じたいといふ気持になってゐる》三島由紀夫は、『憂国』の映画制作から4年後の1970年、自衛隊市ヶ谷駐屯地で演説します。「俺は4年待ったんだ。自衛隊が立ちあがる日を」と絶叫しながら改憲を訴えるんですが、自衛官は誰も耳を貸しませんでした。こうして、失意のうちに切腹を果たすことになります。
 写真◆市ヶ谷会館のドアに残った刀の傷
†1970(昭和45)年11月25日(水)。享年45。なぜ11月25日を選んだかは不明ですが、『仮面の告白』を書き始めた日が11月25日だとされています。
 写真◆市ヶ谷会館:左手前が三島が自決した場所。一番左の窓からバルコニーに出た
 <おまけ>
 三島由紀夫が切腹したあと、メディアは大々的に事件を報じました。そのなかに、ボディ・ビルのトレーナーだった鈴木智雄がコメントを出しています。
 1970(昭和45)年12月『週刊現代』増刊・三島由紀夫緊急特集号「自由ヶ丘の私のジムに週2回、通ってこられるようになりました。1回、1時間程度の練習を2年ぐらいつづけられました。私のところをやめたあとも10年間つづけたそうで、その意志の強さには敬服しますが、三島さんの目的は、肉体の表面を美しく見せるにはどうしたらいいかといったものだけで、体育の本質には迫らず、本物を追求する精神はなかったようです」 三島由紀夫は本物ではなかった……それはあまりに痛烈な一言でした。
<おまけ2>
 作家の安部譲二は、三島由紀夫と親交があり、三島にボクシングジムを紹介したと語っています。安部によると、「三島は頭を使う仕事だから、頭は殴らないでくれ」とトレーナーに頼んでいたため、手を抜かれたことに気づいた三島が怒ってボクシングをやめ、ボディビルに転向したことになっています。ですが、実際はボディビルが先です。三島にとって重要なボディビルの話を混乱して語ってるわけで、安部譲二の話はウソとは言わないまでも、話半分で聞いておいた方がいいかもしれませんね。
 https://tanken.com/misima.html
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 ┃三島事件┃
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†1970(昭和45)年11月25日(水) 
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 映像◆https://youtu.be/LiRMStJwOu4
『アナザーストーリーズ』松嶋菜々子
「三島由紀夫 最後の叫び」 [運命の分岐点] 
 2019(令和元)年10月08日(火) 第131回「三島由紀夫 最後の叫び」
 1966(昭和41)年09月02日(金) 43:23『LIFE』
 1966(昭和41)年09月02日(金) 43:29『LIFE』三島腕相撲BODY写真◆
 1968(昭和43)年10月17日(木) 44:54 ノーベル文学賞発表
 1967(昭和42)年06月11日(日) 30:05『サンデー毎日』06月11日号
  特別手記「自衛隊を体験する」 三島由紀夫 46日間のひそかな“入隊”
 1970(昭和42)年12月13日(木) 30:05『サンデー毎日』12月13日号
  特集 三島由紀夫「その朝 死に場所に呼ばれた本誌記者」
†※『檄』文をノーカットで掲載 (本誌 徳岡 孝夫)

 映像◆三島由紀夫 最後の演説https://youtu.be/_oNMABlVRtM
†昭和45年11月25日市ヶ谷駐屯地にて、最後の演説をして、割腹自決しました。ヤジと怒号が飛ぶ中、最後の訴えをした三島由紀夫氏です。
 
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12590017349.html
 映像◆三島由紀夫 森田必勝 憂国忌https://youtu.be/Qr1N17WBY3w
†1990(平成二)年11月25日(日) 憂国忌20年祭 東京・九段
 1990(平成二)年11月26日(月) 放送 筑紫哲也
 
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 ┃ 三島由紀夫 ┃
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 1925(大正14)年01月14日(水) 生誕
†1970(昭和45)年11月25日(水) 逝去
 映像◆三島由紀夫 Yukio Mishima on WWII and Death -Full NHK Interview (1966) https://youtu.be/hLGMm6c_BCA
 
 TransylvaniaBoogie 
●終戦のとき、私は終戦の詔勅を親戚の家で聞きました。と申しますのは、東京都内から離れた所の親戚の家に私どもの家族が疎開をしていまして、そこへたまたま私が勤労動員で行っていた海軍の工場から帰っていたのですが、なぜ帰っていたかというと、ちょうどチブスらしい熱を出しまして、そして帰ってしばらく静養していた時期に当たっております。そして詔勅を聞くとすぐまた自分の職場へ帰って後始末をしたのですが、終戦の詔勅自体については私は不思議な、感動を通り越したような空白感しかありませんでした。それは必ずしも予期されたものではありませんでしたが、今までの自分の生きてきた世界がこのままどこへ向かって変わっていくのか、それが不思議でたまらなかった。そして戦争が済んだら、あるいは戦争が負けたらこの世界が崩壊するはずであるのに、まだ周りの木々の緑が濃い夏の光を浴びている。ことにそれは普通の家庭の中で見たのでありますから、周りに家族の顔もあり、周りに普通のちゃぶ台もあり、日常生活がある。それが実に不思議でならなかったのであります。それから間もなく神奈川県高座の海軍工廠、つまり勤労動員先へ帰りまして、友達といろいろ話し合った。当時はもう残っていた学生もわずかでありましたが、そこで目にした2つのことが非常に印象が深かった。一つは厚木航空隊その他からどんどんどんどん物資やなんかを運んで、兵隊たちがトラックを徴発していってしまう。我われの使うべきトラックも何もない、そういう状態の中で、しかしアカデミズムの連中は非常に意気軒昂としておりました。私どもの周りにおりました法律学関係のアカデミズムの若い学者たちは、「これから自分たちの時代が来るんだ」「これから新しい日本を我々が建設するのだ」と、「今こそ軍閥の悪夢が終わって、新しい知的な再建の時代が始まるんだ」と、いわば誇張して言えば欣喜雀躍という様子でありました。私は今も昔も疑り深い人間でありますから、そう様子を見ていて、「へへえ、そんなもんかな」と思っていた。「いったい知的に再建するって何のことだ」「日本の精神的な再建って何のことだ」と。私がそのとき感じました疑問は20年ずっと尾を引いておりまして、やっぱり彼らは何もしなかったんじゃないか、というようなことを感じるようになりました。私の今までの半生の中で、20歳までの20年は軍部が色々なことをして、軍部のおそらく一部の極端な勢力でありましょうが、それがあそこまで破滅的な敗北へ持って行ってしまった。そのあと20年は一見太平無事な時代が続いているようでありますが、結局これは日本の工業化のおかげでありまして、精神的にはやはり何ら知的再建というに値するほどのものがなかったのではないかと。ちょうど40年、41歳の私はちょうど20歳の時に迎えた終戦は自分の人生の目処として、そこから自分の人生がどういう展開をしたかということが、考える一つの目処になっております。これからも何度も何度もあの8月15日の夏の木々を照らしていた激しい日光、その時点を境に一つも変わらなかった日光は、私の心の中でずっと続いて行くだろうと思います。
●リルケが書いておりますが、現代人というものはもうドラマティックな死ができなくなってしまった。病院の一室で一つの細胞の中の蜂が死ぬように死んでいく、というようなことをどこかに書いていたように記憶しますが、今、現代の死は病気にしろあるいは交通事故にしろ、なんらのドラマがない。英雄的な死というものもない時代に我われは生きております。それにつけて思い出しますのは18世紀頃に書かれた『葉隠』という本で、「武士道とは死ぬことと見つけたり」というので有名になった本ですが、この時代もやっぱり今と似ていた。もう戦国の夢は醒めて、武士は普段から武道の鍛錬はいたしますが、なかなか生半なことでは戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。その中で汚職もあれば社用族(注:斜陽族のもじり。誤記にあらず)もあり、今で言えばアイビー族みたいな者も侍のあいだに出てきた時代でした。その中で『葉隠』の著者はいつでも武士というものは一か八かの選択のときには死ぬ方を先に選ばなきゃいけない、ということを口を酸っぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死ぬのであります。そういうふうに武士でもあっても結局死ぬチャンスが掴めないで、死ということを心の中に描きながら生きていった。しかし今の我々は死を描きながら生きているのかどうか、それさえ疑問であります。私の死と一番親しかった時代は戦争中で、戦争が済んだとき20歳だったので、10代の私どもは「いつ死ぬか」「いつどうやって死ぬか」ということだけしか頭の中にない。そういう中で20代まで行ったのでありますが、それを考えますと今の青年には、それはスリルを求めることもありましょう、あるいは「いつ死ぬか」という恐怖もないではないでしょうが、「死が生の前提になっている」という緊張した状態にはない。そういうことで、仕事をやっていますときに、何か生の倦怠と言いますか、ただ人間が自分のためだけに生きようということには卑しいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。それで、人間の生命というものは不思議なもので、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬっていうほど人間は強くないんです。というのは人間は何か理想なり、「何かのため」ということを考えているので、生きるのも自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると、死ぬのも「何かのため」ということが必ず出てくる。それが昔言われた大義というものです。そして大義のために死ぬっていうことが人間の最も華々しい、あるいは英雄的な、あるいは立派な死に方だというふうに考えられていた。しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態っていうものは大義なんてものはいらない政治形態ですから当然なんですが、それでも心の中に自分を超える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。ことに私、自分に帰って考えてみますと、死を「いつか来るんだ」と、「それも決して遠くない将来に来るんだ」というふうに考えていたときの心理状態は今に比べて幸福だったんです。それは実に不思議なことですが、記憶の中で美しく見えるだけでなく、人間はそういうときに妙に幸福になる。そして今、我われが求めている幸福というものは生きる幸福であり、そして生きるということはあるいは家庭の幸福であり、あるいはレジャーの幸福であり楽しみでありましょうが、しかし、あんな自分が死ぬと決まっている人間の幸福というものは今はちょっとないんじゃないか。そういうことを考えて、死というものを、じゃあお前は恐れないのか。それは私は病気になれば死を恐れます。それから癌になるのも一番いやで、考えるだに恐ろしい。それだけに何か、もっと名誉のある、もっと何かのためになる死に方をしたいと思いながらも、結局『葉隠』の著者のように生まれてきた時代が悪くて、一生そういうことを想い暮らしながら、畳の上で死ぬことになるだろうと思います。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
 https://ameblo.jp/jam512412/entry-12584825987.html
◆映像◆三島由紀夫「愛について~同性愛のことなど」https://youtu.be/zFYoWcsBASM
 2017(平成29)年12月01日(金) YouTube公開
‡2020(令和二)年11月25日(水) 62,984回視聴 49イイネ
 高校生の二人が三島由紀夫にインタビュー.
 TransylvaniaBoogie 4か月前 
 福田さんはあれですか、つまりそういう若い世代のお嬢さんたちが僕の小説を読んだ場合に「いやらしい」と思う?
 ──いえ、そんなことはありません。ただ、私の読んだ範囲でなんですけれどもね、女の人の弱さっていうものがそのまんま肯定されちゃってるような気がして、それでみんなでちょっと…「もっと強いわよね」なんていうような話をしてました。
 たとえば『(美徳の)よろめき』の女主人公なんてのは、僕にとっては非常に女性の理想型みたいに書いてるんだけどもね。女性から見ると「なんだこんなの、だらしがない」つって怒るんだよ。僕は女流批評家にさんざんやられた。
 ──彼女の生き方っていうのが、考える前に行動しちゃって、という感じがするんです。
 ──だけど女って考えるのかしら(笑)。
 大問題が出てきた(笑)。大問題が出てきたね。
 ──女なりに考えてるもんじゃない?
 ──だけどもともとね、考える能力に欠けてて、女性ってのはそれでいいんじゃないかっていうような考え方があるのかな…
 僕もどっちかというとその考えに近い方だけども、つまりね、考えるっていうのは、男が考えるっていうのと女が考えるっていうのは全然違うんじゃないかって僕は思うね。っていうのは、女はそれだけ大地や自然に近いんだっていうような考えだな。で、男の考えっていうのは大地や自然やなんかから遊離しちゃってる考えだよ。だから一見はっきりして論理的で整理がよく行き届くけども、いつの間にか大地の力から置き忘れられてるっていうことだね。
 ──そうすると女の人の本当の生き方っていうのは何ですか?
 それはやっぱり、僕ははっきり言って僕は良妻賢母ね。そしてつまり、人間の母であることだと思うね。結局それしか僕は言えないな。そして何か男がそこから汲み取る源泉のようなものだね。泉だよね。結局そうとしか言えないね。
 ──友達なんですけど、女性ってのは愛情の問題に関して言えばですね、愛なんていうのを考えずにですね、ただ愛されるようにできてるんだっていうふうに言う人がいるんですね。
 でもね、愛する能力っていうのは女の方がありますよ。愛っていうのは、僕は本当は女の……、女こそ愛の天才だっていうふうに思うね。女が愛されるっていうのは普通の、ごく常識的な考えですよね。だけど本当に愛することができるのは女でね、男にはそんな、愛で世界を包むことなんかできやしないんだよ。他のものが、いっぱい夾雑物があって。絶対できないでしょう。僕はいつもその愛の問題が出るときに、リルケの『ポルトガル文』の女主人公のことを書いた文章を思い出すんだけどね、彼女はひどい男に会って、ひどい目に遭って捨てられる。だけどなお愛し続けて止まないんですよ。リルケはそれを説明してね、彼女は愛しているうちにね、もう対象の要らない愛の廣野へ走り出てしまったと書いてるんだよね。それはやっぱり女の愛ってものの最高の形だろうね。
 ──じゃあ僕らは女性的にできているのかなあ。
 愛するっていうこと? いや、それはそうじゃない? それはつまりね、若いときにはね、ごく世間の常識的な考えでね、「男が求愛して女が受け入れる」っていうね。これはあなた方は一つのゲームのルールをやってるんだよ。だけど人間の本質って決してそういうもんじゃないっていうことは、だんだんだんだん分かるよね。
 ──で、まあ愛のことなんですけど、先生はかなり取り上げていらっしゃるように思うんですけど、同性愛ですね。ああいったものを僕たち非常に生理的な嫌悪ってもって臨むんですけど、あそこに先生は愛の一つの完成されたものを見出しているような気がしないでもないんですが。どうなんですか。
 必ずしもそうじゃないけれども、つまり愛の形ってものがね、公認されちゃうと純粋でなくなるってことを僕はいつも考えますね。さっきも言ったように、例えば愛ってものがあんまり今世間で言われて、週刊誌で言われて、女性雑誌で言われてね。そしてその公然とした、公明正大な愛を自分たちが持っていると考えるときにね、自然にその愛ってものはあれでしょ、世間の作った枠の中に嵌ってることがあるでしょ。それはもう既製品ですよね、スーパーマーケットで売ってる愛ですよね。だけど同性愛っていうものは、それが許されないとか世間から嫌悪の目で見られるとか、そういう恐怖感があるから、それだけ人間の愛の形として純粋であり得るっていうような考えで僕は書いてきたわけだ。最近は、だけど必ずしもそう思わなくなった。というのは、同性愛自体も最近はかなりね、普遍化されてきて、そういう風な目で見られなくなってきてるところがあるでしょ。そうすると、同性愛自体にも非常に不純な形も混じればですね、それから孤独感も薄まって、だんだんそうでなくなってくるでしょうね。それは同性愛にとってはいいことだけれども、文学にとってはだんだん面白くなくなることだね。文学はいつもそういう、認められないもの、人から嫌がられるものとか嫌悪されるものとか、除け者にされるものの中に純粋さを見つけ出してやっていって、そこに人間の本当の姿ってのを探そうと思うもんだからね。
 ──確かに多少露悪的ですね。
 うん、それは露悪的です。一般から言えばね。大江君なんかはそれを非常にやってるわけだよね、大江健三郎なんかは。
 ──愛っていうのは、当人たちが一生懸命になったり、自分たちが通俗的なものじゃない、自分たちが例外だって気づいたとき、本物って言っていいんじゃないんですか。
 しかし恋愛だって、思うのには社会的な力がいつも働いてますからね。つまり近松の恋人たちってのは世間から絶対に許されない愛でしょ、あの当時は。恋愛っていうのはもう、それ自体が許されないものでしょ。それで心中しなきゃならないような、ギリギリの愛情ですからね。そうすると、社会と愛ってのはいつも対立する形のときに美しいんでね、たとえ自分たちが恋愛的な愛であると思ってても、例えば二人がどこかのアパートへ逃げてですね、そこで生活ができれば、もうそれは社会の中の愛だよね。だけど文学者ってのは昔からなるたけ社会の中のそういう愛ってのを書きたくないで来たわけだ。僕の作品で一つだけ例外が『潮騒』なんだけども、社会の中で完全に愛がね、包まれた愛の美しさってのがあるかどうかっていうことをあれで書いたわけね。他の、あれ以外の小説で僕は全部、愛ってのはもうつまり孤独な、社会からはじき出されたようなものとしか扱ってないわけだ。『潮騒』の場合は、社会の方が古代みたいなそういう社会で、それは日本の農村に実際あるがどうか、農業村にあるかどうか分からない。そういうものを設定しておいて、それから純粋性ってものをくっつけたわけだ。いつもどっちかのこのバランス・オブ・パワーですよね。
 
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 【三島由紀夫】『文化』を大いに語るhttps://youtu.be/gCOKXdlS0Zc
 2017(平成29)年12月17日(日) 104,412回視聴
‡2020(令和二)年11月25日(水) 62,984回視聴 5イイネ
 高校生の二人が三島由紀夫にインタビュー. 
 美輪明宏・人生を美しくする極意 言葉と人付き合い 三島由紀夫. 高校生の二人が三島由紀夫にインタビュー. Yukio Mishima 武士道.
 TransylvaniaBoogie 4 か月前
 ──先生がお書きになる場合の、一番初めの動機っていうのは何でしたか。
 これは無意識に書き始めたんですよね。非常に無意識に「お話を書こう」とか「綺麗な面白いお話を書こう」ということから始まったんですね。僕の意識的な仕事っていうのは『仮面の告白』から後で、25歳以後の作品ですけどね。それまではほとんどもう自分が何か美しい言葉、自分だけの綺麗な言葉で綺麗なものを作り出そうっていう以上のことはあまり考えなかったですね。その代わり言葉ってものは非常に重んじましたけども。
 ──先生はやっぱり過去の生活から考えたものを作品にお書きにになるんですか?
 それはね、体験っていうのは誰でもあるんですけども、それじゃあ例えば死にそうな体験をしたとか、エベレストに登って落っこちそうになったとか、そういうのばかりが「体験」じゃないわけですよね。体験っていうのは分からないところに隠れてて、道を歩いているときにちょっと石に蹴つまずいて、その石っていうものが人生で大きな意味をもっちゃうこともあるんだよ。小さな石がね。そういう体験が大事なんだが、そういう体験に自分で大きな意味を持たすっていう能力も大事なんだよ。そうするとね、作家なんていうのはその両方が備わってなきゃいけない。体験がもちろんなけりゃ、生まれたときから実験室みたいなところで育てられたら、これは小説家にならないでしょうね、おそらく。同時にその体験を体験たらしめる力がなきゃ駄目なんでしょう。それをみんな才能っていうんだろうと思うね、おそらく。
 ──そうすると、過去の何かの体験や自分がそれについて何か感じたこと、それを作品に書いた場合、もしも読者がその体験がなかったとして、全然つかめないっていう場合……
 それをね、伝えるのが言葉なんだよね。音楽は音で伝えるし、絵は色で伝えるでしょう。文学者はそれを言葉で伝えなきゃならない。というのは言葉ってのはみんなのものだからね。言葉っていうのは、「通じる」っていうことが前提になって言葉ってのができてるんでしょう。もし通じなかったら言葉ってのは意味を成さないわな。だから文学者っていうのは言葉を、一番人に伝えにくいことをどうやってみんなの使っている言葉で伝えるか。それが文学者の難しさですよね。
 ──結局書くことも最終的には言葉に還元されて……
 全部言葉に来ちゃうんです。だから言葉ってものは一番重要で、やっぱり小説家になるんだったら字引き一冊をね、みんなページから1ページ1ページ覚えて食べちゃうのが一番早いかもしれない。(笑)
 ──先生はどんな作家に対して、尊敬の念というと何ですけど、畏敬の念というんですか、そういうものを感じていらっしゃいますか。
 僕はやっぱりね、古いけどもやっぱり外国人ではゲーテ、それから現代文学ではトーマス・マンとかね、そういうのはもうしたたかな作家ですよね。そういうものにとても魅力感じるんですよ。そして非常に純粋でか弱い、ある意味で実に綺麗な作家っていうのはあんまり魅力を感じないんです。ゲーテの肖像画をね、ヘルマン・ヘッセか何かが見たときにね、まあとにかくあんまり感情がないといって呆れたっていうんですよね、その肖像画に。だけどそういうふうに、ゲーテってのはもうひどく、ある意味で冷たい人でね。そりゃあ冷たくってしたたかで、ある意味で非常に嫌なやつだったろうと思うんだけども、それでも自己形成という点じゃあ模範ですからね。あんなに大きくなった。トーマス・マンもそうですよね。
 ──それから、先生の作品を読んで多少感じているんですけど、先生は何だかかなり太宰治に対して批判的な立場を取られてますけども、それはどういうことなんでしょうか。太宰治の非常に女々しい面というんですか……
 ええ、そういうものが嫌いなんですね。それからあのう、色んな太宰と似たところもあると思うんですよ。そしてね、あなたと友達でもね、似てるやつってのは何かこうムラムラ癪に障るでしょう。仲のいい友達っていうのは割りに自分と性格が違う人間でね。似たやつってのはとっても嫌うんですよ。僕もそういうようなものは太宰に対して元にあるんだと思う。だから太宰を見ていつも危険に感じるのは、もし自分がね、太宰を好きで太宰に溺れればね、あんな風になりはしないかって恐怖感もあるわね。だから自分は違うんだっていう立場を堅持しなきゃ危ないと思ったんですね、太宰の作品を読んだときには。ずいぶん太宰の真似して自殺した人がいるでしょ、あの当時も。そりゃ田中英光が一番その例ですけどもね。
 ──ああいうふうに、どうかしたら死に追いやるような小説っていうんですか。小説というのは、そこに書いてあるのは「生きること」だと思うんですよ。それでいて結論的に死に追いやるような小説を、なぜ他人に書かなければならないのかということが非常に気になるんですけど。
 それはね、作品の問題よりも作家の問題でね。例えばゲーテが『ウェルテル』を書いたときにはね、やっぱり自殺しそうな状況にあったわけだ。ところがウェルテルが自殺したことによってゲーテが生き返ったでしょう。だから我われがゲーテってものを見る場合にはね、ゲーテってのはいつも太陽に面を向けてね、だんだん大きく樹木が成長するように伸びていったと思う。ただゲーテの中には何度もそういう危機があったわけだよね。文学でその危機を解決しながら、だんだん生きてったわけだ。僕は文学ってのはそういうもんだと思うんだけどね。太宰の場合に死に誘うってのは、文学が死に誘うことはちっとも構わないんです。文学ってのはお薬じゃなし、栄養剤じゃないんですから。ですけれども、そこから作者が甦らなかったら何のために文学があるかっていうふうなことを考えるね。太宰は結局、作品だけの問題じゃなくて、作家と作品の関係の仕方っていうものが僕には好きでないんですね。でも才能は非常にある人ですよ。やっぱり近代日本文学であんなに才能のある作家ってのはあまりいません。
 
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【今日は何の日?】1970/11/25 三島由紀夫、割腹自殺 ~天才作家・三島由紀夫の生涯~
†2019(令和元)年11月25日(月) 23:55:35 テーマ:ブログ 本日(11/25)は、今から49年前、作家・三島由紀夫が、衝撃的な割腹自殺を遂げた日である。
†1970(昭和45)年11月25日(水)、三島由紀夫は、自らが組織した「縦の会」の会員達と、自衛隊の市ヶ谷駐屯地に乗り込み、益田兼利総監を人質に取った。そして、三島は「憲法改正」を訴える演説をした後、それが自衛隊の隊員達に受け入れられない事を見て取ると、その後、割腹自殺をしてしまった。というわけで、今回は、この衝撃的な「三島事件」と、天才作家として活躍した、三島由紀夫の生涯について、ご紹介させて頂く事としたい。
<平岡公威(後の三島由紀夫)の生い立ち…19251月14日、代々の官僚の家系に生まれる>平岡公威(ひらおか・きみたけ)、後の三島由紀夫は、
 1925(大正14)年01月14日(水)、東京都四谷区(現・新宿区)で、父・平岡梓(当時・30歳)、母・倭文重(しずえ・当時19歳)夫妻の長男として生まれた。公威は、幼少期には祖母・夏子に溺愛されて育てられたが、夏子は倭文重から公威少年を取り上げるようにして、専ら、自分の側に置いていたという(※上の写真は、幼少期の公威と、祖母・夏子)公威の祖父にあたる、平岡定太郎(1863~1942)は、東京帝国大学(東大)を経て、福島県知事、樺太町長官などを歴任した、エリート官僚であり、士族・永井岩之丞の娘・夏子(1876~1939)と結婚した。そして、1894(明治27)年には、長男・梓が誕生した。平岡梓(1894~1976)は、父・定太郎と同じく、東京帝国大学(東大)を経て、農商務省に勤務したという、エリート官僚の道を歩み、開成中学校校長・橋健三の娘・倭文重(1905~1987)と結婚した。そして、前述の通り、1925(大正14)年01月14日に、夫妻の間に長男・公威が誕生した。公威は、このようにエリート官僚の家系に生まれたのであった。
<「昭和の元号=三島由紀夫の年齢」~昭和の申し子・三島由紀夫>ところで、平岡公威(三島由紀夫)は、1925年1月14日生まれであるが、翌1926年、「大正」という元号が終わり、「昭和」が始まった事により、偶然にも、「昭和」という元号の年と、年齢が一致するという事となった。例えば、1926(昭和元)年には「1歳」、1930(昭和5)年には「5歳」というのが、彼の年齢である。そう考えると、三島由紀夫は、まさに「昭和の申し子」と言っても良いであろう。(なお、公威が生まれた3年後に妹・美津子、5年後に弟・千之が誕生している)
<天才少年・平岡公威…幼い頃から、天才的な文才を発揮した三島由紀夫(学習院初等科時代)>公威は、学習院初等科に入ったが、流石は東大卒のエリート官僚の家系に生まれただけあって、幼い頃から、抜群に勉強が得意な、大変賢い少年であった。そして、この学習院初等科時代から、作文では大人顔負けの、物凄く上手い文章を書き、先生や級友を驚かせた。後の天才作家・三島由紀夫の片鱗は、早くもこの頃から見えていたという事であろう。例えば、公威が8歳の時に書いた詩『冬の夜』は、下記の通りである。
 火鉢のそばで猫が眠つてゐる。電灯が一室をすみからすみまでてらしてゐる。けいおう病院から犬の吠えるのがよくきこえる。おぢいさまが、「けふはどうも寒くてならんわ」とおつしやつた。冬至の空はすみのやうにくろい。今は七時だといふのにこんなにくらい。弟が、「こんなに暗らくつちやつまんないや」といつた。そして、これは公威が9歳の時に書いた、『大内先生を想ふ』という作文である。
 ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。どうなさッたのか?とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。その次の図画の時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。それには大内先生のお亡くなりになつた事が書いてあつた。むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみがついてゐるやうに思はれた。いかがであろうか?これが、本当に8歳や9歳の少年が書く文章であろうか。全く、三島由紀夫とは子供の頃から、正真正銘の天才であった。
<1936(昭和11)年02月26日(水)…「二・二六事件」が勃発~後の三島由紀夫に大きな影響を与えた大事件>
 1936(昭和11)年02月26日(水)、陸軍青年将校らが蜂起し、東京を占拠するという、クーデター事件、所謂「二・二六事件」が勃発した。蜂起した部隊は、数日後に全て鎮圧されたが、「二・二六事件」は、当時11歳の公威に強烈なインパクトを与え、後の三島にも、思想的に大きな影響を与えた。
<平岡公威、13歳で初の短編小説『酸模(すかんぽ)-秋彦の幼き思い出』を発表~作家・三島由紀夫の原点>1938(昭和13)年1月頃、学習院中等科1年の公威は、当時13歳にして、初の短編小説『酸模(すかんぽ)-秋彦の幼き思い出』を発表した。以後、公威は、文学を志す仲間達と共に、精力的に文学活動を行ない、同人誌に作品を次々に発表して行った。というわけで、この作品こそ、作家・三島由紀夫の原点であると言って良い。
<1941(昭和16)年…学習院中等科の教師・清水文雄の勧めにより、筆名「三島由紀夫」を名乗り、『花ざかりの森』で作家デビュー!!~1944(昭和19)年、『花ざかりの森』を自費出版>1941(昭和16)年7月頃、公威は小説『花ざかりの森』を書き上げ、学習院中等科の国語教師・清水文雄に献上し、読んでもらったところ、清水文雄は、『花ざかりの森』の、あまりの素晴らしさに衝撃を受けた。そして、自らが参加する文芸雑誌「文藝文化」に、『文藝文化』を掲載したところ、『花ざかりの森』は、読者から大絶賛を受けた。しかし、公威の父・梓は、公威の作家活動には猛反対していた。そこで、清水先生は、公威が本名で作品を発表しては、色々と差し障りが有るという事を慮り、公威に「三島由紀夫」という筆名(ペンネーム)を名付けた。「三島由紀夫」とは、静岡・三島から見える富士山の頂に、雪が積もっている情景をイメージしたものであり、清水先生が、公威に対して、「日本一の作家を目指せ!!」という激励の意味を込めたものであった。以後、公威は終生、「三島由紀夫」という筆名を名乗り続けた。なお、『花ざかりの森』は、戦争が激化していた1944(昭和19)年、自費出版されたが、これは、戦争のために、いつ死ぬかわからないので、「遺書」のつもりで出版されたとも言われている。
<1944(昭和19)年、三島由紀夫、学習院高等科を首席で卒業し、東大進学~1945(昭和20)年、終戦と、妹・平岡美津子の死去>1944年、三島由紀夫は学習院高等科を首席で卒業し、東京帝国大学(東大)法学部に進学した。東大進学後、三島は徴兵検査に合格し、軍隊に入隊したが、幸いにも、三島は最前線に送られる事はなく、
 1945(昭和20)年08月15日(水)、日本は戦争に敗れ、終戦の時を迎えた。三島は、言いようの無い虚脱感に襲われたが、終戦直後、
 1945(昭和20)年10月23日(火)、三島の3歳年下の妹・平岡美津子は、17歳の若さで、腸チフスのために亡くなった。妹と大変仲が良かった三島は衝撃を受け、そして深い悲しみに沈んだ。妹・美津子の早すぎる死は、三島の生涯にとって、忘れようにも忘れられない、痛恨事であった。
<1946(昭和21)年…三島由紀夫、川端康成の知遇を得て、『煙草』を発表~三島由紀夫と川端康成の「師弟関係」の始まり>戦争が終わり、茫然自失としていた上、妹の死の悲しみも癒えない三島ではあったが、東大での学業の傍ら、再び精力的に文学活動を再開した。しかし、当時、三島は文壇では無名の存在であり、いくら作品を書いても、出版社に持ち込んではボツになるという繰り返しであった。そんな時、戦前、三島の『花ざかりの森』を読み、三島に注目し、三島に手紙を送っていた川端康成を、三島は訪ねた。三島は、藁にもすがる思いだったが、この時、三島が書いた『煙草』という短編を読んだ川端康成は、この作品を絶賛した。そして、文芸誌「人間」に、『煙草』を掲載させるよう、川端が強力に働きかけ、『煙草』が無事掲載されると、各方面から大絶賛され、三島は、漸く文壇での足掛かりを築く事が出来た。このように、三島由紀夫にとって、川端康成はまさに「恩人」であり、三島は生涯、川端の事を師として仰いでいた。もし、川端が居なかったら、果たして三島が世に出ていたかどうかはわからず、そういう意味でも、川端との出会いは、三島にとって、大きな分岐点だったと言って良い。
<1946(昭和21)年12月…太宰治VS三島由紀夫のバトルが勃発!!~太宰と三島、生涯ただ一度の出会いで、三島は太宰に「僕は貴方の文学は嫌いです」と言い放つ>1946年、当時、大人気作家だった太宰治と、文壇デビューして間もない三島由紀夫は、当時の編集者の計らいにより、出会いを果たした。当時、太宰は取り巻き達と毎晩のように大酒を飲んでいたのだが、その酒席を三島が訪ねたのである。ところが、三島は太宰に向かって、面と向かって、「僕は、貴方の文学が嫌いなんです」と、言い放った。あまりの物言いに、その場は凍り付き、太宰も「そんなに嫌いなら、来なけりゃいいじゃねえか」と、憮然として言った。実は、三島は「自らの弱さを売りにするような」太宰の文学が、前々から嫌いであり、一言、言ってやりたいと、ずっと思っていたのであった。なお、太宰と三島の「喧嘩」は、現在公開中の映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』でも描かれているが、この2年後(1948年)、太宰は愛人と心中してしまったため、太宰と三島の「出会い」は、この一度きりで終わってしまった。しかし、文学史上の巨人同士が出会っていたという事は、非常に興味深い。※なお、太宰は芥川賞の選考委員だった川端により、芥川賞に選んでもらえず、川端を恨んでいたというのも、三島・川端の関係とは非常に対照的で、これまた面白い
<1947(昭和22)年…三島由紀夫、東大を卒業~高等文官試験に合格し、大蔵省に入省~三島、官僚と作家の「二足の草鞋」を履く>1947年、東大を優秀な成績で卒業した三島由紀夫は、高等文官試験に合格し、同年、大蔵省に入省し、祖父と父に続いて、東大卒業⇒官僚という、エリート官僚の道を歩み始めた。しかし、三島は官僚になったとはいえ、文学の道を諦めたわけではなかった。三島は、大蔵省に務める傍ら、執筆活動を続けた。つまり、官僚と作家という「二足の草鞋」を履いた生活を続けたわけだが、父・梓は、相変わらず三島の作家活動には反対であった。しかし、三島は作家活動を辞めず、睡眠時間を削ってまで、作品を書き続けた。そんな中、1948(昭和23)年夏、三島は駅のホームで睡魔に襲われ、線路に転落するという目に遭った。幸い、電車は来ず、大事には至らなかったが、この事件により、父・梓も漸く三島の作家活動を認め、「わかった、作家になる事を許してやる。そのかわり、日本一の作家になれ」と、言い渡した。そして、三島は大蔵省を辞め、遂に作家専業で生きて行く事を決意した。
<1949(昭和24)年…三島由紀夫、『仮面の告白』を発表、大ベストセラーとなり、文壇の寵児となる!!>1949年、作家一本でやって行く事を決意しら三島由紀夫は、背水の陣のつもりで、長編小説を書き上げた。それが『仮面の告白』であるが『仮面の告白』は、大ベストセラーとなり、文壇でも絶賛され、三島由紀夫は、遂に不動の人気作家としての地位を確立したのであった。
<三島由紀夫『潮騒』1954年『金閣寺』1956年など、ベストセラーを続々発表!!~押しも押されもせぬ大作家に>その後、三島由紀夫は『潮騒』1954年『金閣寺』1956年など、話題作、大ヒット作を次々に発表し、三島は押しも押されもせぬ大作家となって行った。三島の、明晰な文体と、華麗な文章は、まさに余人を以て代え難いものであり、まさに、三島由紀夫は文壇でも唯一無二の作家であり、常に話題の人であり続けた。
<三島由紀夫は同性愛者?~1951年、三島由紀夫と丸山明宏(美輪明宏)の出会い>ところで、三島由紀夫は同性愛者であるとされ、実際、同性愛をテーマにした作品も発表しているが、1951年、三島由紀夫は、美少年・丸山明宏(1935~、後の美輪明宏)と出会った。三島と丸山明宏はすぐに意気投合し、生涯、親しく付き合ったが、二人の間にどのような感情が有ったのかは、よくわからない。なお、三島は、江戸川乱歩が原作の『黒蜥蜴』を、丸山明宏のために、戯曲として仕立て上げ、丸山明宏に提供しているが、『黒蜥蜴』は、美輪明宏のライフワークとなっているのは、ご存知の通りである。
<1956(昭和31)年…三島由紀夫と石原慎太郎の出会い>1956年、『太陽の季節』でデビューしたばかりの石原慎太郎と、三島由紀夫が対談を行なった。最初は和やかだったものの、段々と話が合わなくなり、その内、三島は居合で石原を威嚇(?)しようとしたが、三島が持って来て、エイヤっと振り上げた刀が、鴨居に当たってしまい、刃が欠けてしまったという。石原慎太郎曰く、「あの人は、運動神経が無いからね」との事であった。
<1958(昭和33)年…三島由紀夫、日本画家・平岡寧の娘・平岡遥子と結婚~三島由紀夫は「両性愛者」だった?>1958年、三島由紀夫は、お見合いで知り合った、日本画家・平岡寧の娘・平岡遥子(1937~1995)と結婚した。三島と遥子の間には、長女・紀子、長男・威一郎が誕生し、三島夫妻は仲睦まじく暮らしたが、三島はどうやら「両性愛者」だったと思われる。
<三島由紀夫とボディビル…三島、安部譲二との出会い(1955年頃)により「肉体改造」~後に、安部譲二をモデルに『複雑な彼』1966年を発表>1955年頃、三島は行き着けのゲイバーで、用心棒をしていた安部譲二(1937~2019)と出会った。安部譲二は、用心棒として、タチの悪い酔客を取り鎮めたりしていたが、三島は、安部の腕前を見込んで、安部の紹介によりボクシングジムに通うようになった。そして、ヒョロヒョロだった三島は、この出会いを機に、ボディビルで身体を鍛え、「肉体改造」を行なうようになった。なお、三島は、1966年に、安部譲二をモデルとした小説『複雑な彼』を発表したが、安部譲二は、後に『塀の中の懲りない面々』で作家デビュー、ベストセラー作家となった。そして、三島の「肉体改造」は、見事に成功した。三島は筋肉ムキムキになり、好んで、自らの肉体美をグラビア写真で発表したりしていたが、何事も、とことんやり通す、三島らしいエピソードであると言えよう。しかし、三島の「肉体改造」は、周囲の人を戸惑わせたという。
<1960(昭和35)年…三島由紀夫、映画『からっ風野郎』に主演!!~三島、若尾文子と共演し、ヤクザ役を熱演>1960年、三島由紀夫は大映映画『からっ風野郎』に主演し、若尾文子との共演で、ヤクザ役を熱演した。当時、三島は大人気作家であったが、三島はもはや作家の枠を超え、時代を代表する大スターとなっていた。
<1968(昭和43)年…川端康成、ノーベル文学賞を受賞!!~三島も、師・川端の受賞を喜んだが…>1968年、川端康成が、日本人初のノーベル文学賞を受賞した。師・川端康成の受賞を、勿論、三島も大いに喜んだが、三島も、ノーベル文学賞候補として、度々話題になっており、もしかしたら、三島としては、ちょっと複雑な心境だったかもしれない。
<1968(昭和43)年…三島由紀夫、私設軍隊「楯の会」を結成~しかし、世間の失笑を買う>1968年、憂国の念を深くした三島由紀夫は、私設軍隊である「楯の会」を結成した。三島なりに、日本という国を憂い、日本という国を愛するが故の行動であったが、「楯の会」結成当時、世間の反応は冷ややかであり、「三島さん、一体どうしちゃったんだ」と、世間の失笑を買ってしまった。しかし、この「楯の会」が、後に大事件を引き起こす事となった。
<1969(昭和44)年…三島由紀夫VS東大全共闘>1969年といえば、学生運動の全盛期だったが、同年、三島は母校の東大を訪れ、東大全共闘との討論会に臨んだ。三島と、東大全共闘との考え方の隔たりは大きかったが、三島は彼らに対し「君達の思想は認めないが、その行動力は絶対に認めます」と言っている。何も行動しない知識人よりも、行動する君達はずっと偉いと、三島は述べたのであった。
<1970(昭和45)年11月25日(水)…三島由紀夫と「楯の会」、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、総監を人質に取り、三島は割腹自殺> そして、その2年後の
†1970(昭和45)年11月25日(水)、冒頭で書いた通り、三島は「楯の会」のメンバー達と、市ヶ谷駐屯地に乗り込み、総監を人質に取り、三島は「改憲」を訴える演説を行なった後、三島は割腹自殺し、メンバーに介錯され、壮絶な死を遂げた。三島由紀夫、享年45歳。まさに、時代を駆け抜けた大作家の、あまりにも鮮烈な生涯は、数多くの作品と共に、今もなお、強烈な光を放っている。
 #三島由紀夫#東京大学#川端康成#太宰治#石原慎太郎#安部譲二#若尾文子#美輪明宏#江戸川乱歩#自衛隊
 https://ameblo.jp/hoseiyakyuubukenkyuu/entry-12548851268.html
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 ┃      三島由紀夫とボディビル~      ┃
 ┃天才作家はどうして肉体改造にハマっていったのか?┃
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 2015(平成27)年05月11日(月) トレーニング
 昭和の日本を代表する作家の一人であった三島由紀夫。彼が文学とは対極にあるボディビルにハマっていた事は世間ではあまり知られてませんが、マニアには有名な話。三島由紀夫は生まれつき体が弱く、虚弱体質だったそうで身長は平均ながら、かなりやせ細った外見だったそうです。三島由紀夫とボディビル~天才作家はどうして肉体改造にハマっていったのか?それは世間がイメージする作家像そのままだと思うのですが本人は己の体にかなり強いコンプレックスがあったようです。偶々「誰でもこんな身体になれます」という雑誌広告を見て初めてボディビル競技の存在を知り、そのままジムへ入門ガッツポーズどっぷりと肉体改造の道にはハマり、鍛錬し続けたそうです。きっと生まれつき並外れた集中力を持っていたんでしょうね。三島由紀夫とボディビル~天才作家はどうして肉体改造にハマっていったのか?彼の本は読んだことが無いし、文学的才能はわかりませんがまだトレーニング設備やサプリメント類が整っていない時代にあれだけの肉体改造を果したんですから彼が流した汗の量や努力の度合いは理解することができます。
 https://protein.ti-da.net/e7542204.html

‡遠い昔、1995(平成七)年がこんな不便な時代だったって信じられる?
 2018(平成30)年04月05日 Buzz・公開 by Brian Galindo  BuzzFeed Staff
 20年後は一体どんな世界になるんだ…。
 01. 友人や家族のポケベルに連絡して、折り返しの電話がかかってくるのを電話機の近くで待機!
  携帯電話がある時代に生まれてよかったー!!!
 02. 夏休みには手紙で友人と連絡を取ることも。
  返事をもらうのに一体何日かかるの?
 03. 衣類などはカタログから紙で注文。しかも、それがいつ到着するのかまったくわからない。
  いまなら物によっては今日届くよ…。
 04. 雑誌などはテレビCMで注文することも。到着までに6~8週間待たなければならなかった。
 05. 写真を撮ったら現像されるまでどう映っているか確認できない。
  失敗してたら最悪じゃん。
 06. カメラ、ゲームボーイ、ウォークマンなどのために、出かける時は予備の電池を持っていくことも。
  念には念を。
 07. 休暇中にどれだけ楽しい時間を過ごしているかを皆に知らせるために、友人や家族に絵葉書を送っていた。
 08. 映画館に直接電話して上映リストを聞くか、新聞で上映時間を調べていた。
  スマホで検索、そのまま予約って便利すぎるね。
 09. ファンクラブのメンバーになるための手続きは手紙で!
 10. テレビで何が放送されてるかを知りたいならば、テレビガイドか新聞で調べる必要があった。
  テレビガイドって見なくなったなあ。
 11. …あるいはテレビガイドチャンネルを見る必要があった。
 12. テレビで何かを見たいときは放送が始まる時間にテレビの前にいなければならなかった(そうしなければ再放送まで待つことに)。
 13. あるいはテレビ番組を録画していた(もう一度みたいならば)。
 14. その週にリリースされる映画やアルバムを見つけるだけでなく、価格を比較するためにも新聞の日曜版のチラシに目を通していた。
 15. 金曜の夜遅い時間に行くと、地元のビデオ屋の新作レンタルは品切れ。
 16. 誰かにあなたに電話をかけてもらいたい場合や、何かを知らせたい場合には、実際にボイスメール(当時は「メッセージ」と呼ばれていた)を残す必要があった。
 17. 楽器屋の中にあるTicketmasterで、コンサートのチケットを物理的に買っていた。
 18. ビデオデッキが、お気に入りのVHSの映画やホームビデオを壊すことがよくあった(バタンバタン)。
  マジで最悪...
 19. 何を買うにも現金を持ち歩かなければならなかった。
  小銭が貯まりそう!
 20. 大画面テレビの解像度はひどかった。
 21. コントローラーが有線だったため、ゲーム機の近くに座らなければならなかった。
  ワイヤレスってすごい発明だよね。
 22. 小銭を持っていない時は公衆電話からコレクトコール。
 23. 他に曲を手に入れる方法がなかったので、1曲のためにアルバムを買うことも!
  1曲単位で買う、ましてやストリーミング配信だなんて!
 24. CDをコピーしたければカセットテープに録音する必要があった。
  実家で見たことあるかも。
 25. アドレス帳で電話番号をしょっちゅう探したくなければ、友人や家族の電話番号をすべて覚える必要があった。
 26. 電話帳で電話番号を調べなけれればならなかった。
  プライバシーダダ漏れじゃん...
 27. 電話に出ても誰からかかってきたのかまったくわからなかった(番号通知がなかったため)。
 28. …あるいは、留守番電話に誰がメッセージを残すのかを見てから電話に出るかどうかを決めることで、「かかってきた電話の選別」をしていた。
 29. そして最後に、インターネットがなかった。そう、インターネットはまだ将来性のある高価な技術だった。
 https://www.buzzfeed.com/jp/briangalindo/1895199535

■猪木映像◆プレ日本選手権
‡1978(昭和5)年11月25日 西ドイツ シュツットガルト ギルスベルクホール 世界選手権シリーズ
 アントニオ猪木 VS ローラン・ボック
 https://njpwworld.com/p/s_series_00023_1_1
 映像◆【シュツットガルトの惨劇】アントニオ猪木vsローラン・ボック【西ドイツ遠征】https://youtu.be/IbRowyLsol8
 
 船木映像◆地獄の墓掘人!ローランド・ボック選手を船木誠勝はどう見たのか? https://youtu.be/B6vjHrPitqY
 Q. 船木さん、いつも貴重なお話を聞かせていただきありがとうございます。船木さんはヨーロッパでの試合経験がお有りですが、ローランド・ボック選手についてのエピソードや印象、試合スタイルなどに関してお聞かせ頂ければ幸いです。ローランド・ボック選手は当時、猪木選手が苦戦した相手であったようですし、また日本で試合した時も強烈なダブルアームスープレックスで長州選手や藤波選手からあっさりとピンフォールを取ったことを覚えています。当時としてはシュート的なレスリングスタイルだったのではないかと思います。どうかよろしくお願い致します。
 
 映像◆昭和プロレス事件簿.25 アントニオ猪木、ローラン・ボック、シュツットガルトの惨劇https://youtu.be/0Tt2HYiUMIg
 

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