過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんとetSETOraだヨ(=^◇^=)

 


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 ┃  『SHOGO HAMADA 25 HOURS A DAY』 ┃
 ┃    浜田省吾フォト&ワーズ集    ┃
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 PHOTOGRAPHSーー大川装一郎
 WORDS─────浜田省吾
 ART DERECTION─染谷純一:HEAD BUTT
 PRODUCE────岩崎恵子
 発行人─────功刀良吉
 発行所─────株式会社CBS・ソニー出版
 発行日─────1984(昭和59)年5月21日(月) 第1刷発行
 発行日─────1984(昭和59)年6月06日(水) 第2刷発行
 製作──────GB編集部
この本が僕の手元にあるのは、幸運以外のなにものでもないんです。あれは、忘れもしない19才のある晴れた日の昼下がり。平塚の駅前商店街を歩いていた僕は、なにげにあるレコード店に立ち寄りました。いつものように買うわけでもないのに、“ニューミュージック・は行”の棚をチェック。“浜田金吾”の後に、“浜田省吾”のアルバムが何枚揃っているかを確認して、このお店の浜省度をチェックします(笑)。全作は揃ってないものの、最新作以外にも3,4枚あったので、「まぁ、よしとするか。」と、ひとりごちて、帰ろうとしたところ、レジの横にこの本が平積みされていました。しかも、その上には手書きのポップで、“ご自由にお取り下さい。”の文字が!!
思わず手に取った僕は、パラパラと中身を確認しつつ、裏を見ました。定価1300円。
 僕 「あのぉ~、この本、貰っていいですか?」
店員A「はい、どうぞ。」
 僕 「ここに定価1300円って書いてありますけど…。」
店員A「あ~ぁ、いいんです。古いやつで、売れ残りですから。差し上げます。」
 僕 「はぁ~、では、1冊頂きます。」
僕が19才ということは、1987年です。出版してから3年しか経っていないのに、古いやつとは…。しかも、売れ残りって、これ、1984年6月6日発行の第2刷ですよ。初版が好評だったから、次を仕入れ過ぎたってこと?どういう経緯にしろ、なにも、無料で配らなくても…。
あまりの驚きに一冊しか貰ってこなかったのですが、後で友達に「なんでオレの分も貰ってくれなかったんだよ。」と怒られてしまいました(汗)。今となっては、浜省ファンの間でもレア・アイテムとして知られるこの写真集ですが、もう、運命の出会いとしか言いようがないです(涙)。
この写真集は全編モノクロの写真で、それぞれに浜省自身の言葉が添えられています。とてもウイットに富んだユーモアのあるコメントです*1。また、写真の間には、ライブでのMCや雑誌でのインタビューの内容が、数ページに渡って引用されています。
アパートに持ち帰った僕は、何度も何度もその写真を眺め、文章を読み、僕が出会う前の、1980年から1984年の浜省を追体験したものでした。
僕の好きなコメントと、ライブのMCを抜粋してみましょう。
 『ロッキー』を観たとき、なんて単純なストーリーなんだ、と思ったけど、本当はすごく感動したんだ。シルベスター・スタローンってヤツは、きっとセンチメンタルなヤツなんだろうな。内気で何も持たない男が、頑張って自分の存在を証明しようとする。そんなお話は世間じゃもう、クサイとかダサイとかいわれている時代にさ。男のかっこよさって、今も昔も同じ。頑張って、何かをものにする。それはやっぱり、いかしてる男の姿なんだ。
 1983(昭和58)年1月24日(月) 郡山市民会館
 (中略)
 「『E.T.』も『愛と青春の旅立ち』も、非常に、昔からよくあるパターンの物語で、ひとつはディズニー・タッチの映画、おとぎ話、もうひとつは典型的なハリウッド的ラブ・ストーリー。だけど、どっちも僕はすごく胸が熱くなっちまって。アメリカでも、その2つの映画が去年、ものすごくヒットした。で、日本でも同じようにヒットして、なぜだろうと思った。
 その底辺に流れてるのが、どちらとも、すごく純粋な愛と、人を信じる、信頼、絆っていう、そういうテーマがあって、それが人の心をうつのは、たぶん、裏返してみると、今の世の中、愛と信頼が失われている、そういうことなんじゃないかな、と思いました。--たぶん、そういうところから、みんなせめて映画の中とか、そういう物語の中に、そういうものを求めてるんだろうな、と思う。
 僕の今度のアルバムは“Gate of the Promised Land”っていうタイトルをつけたんだけど、直訳すると“約束の地の門”。ちょうど僕らは、神か自然かわからない、約束の地を与えられて、その門の下に今、立ってて、そっから今、出て行こうとしてるのか、これからその中に入ろうとしているのか、そういう時代にあるような気がします。」
 1983(昭和58)年8月13日(土) 海の中道公園
 (中略)
 「ただひとりの人を見つけて、その人を愛し、そして、また子どもが生まれ、ふたりができなかったことや、やれなかったこと、そして、やり残したこと、それを子供に託していく。そんな単純で素朴な人生が、僕はいい。それがいい。だけど、僕をとりまくいろんなこと、それはときにあまりに複雑で、そして、すれ違ってしまって。
 そんなとき、僕は自分にこんなふうに語りかける。おい、省吾、あんまりまわりのことを気にするなよ。疲れ果てて、何もかも嫌になったとき、帰って行く、帰って行ける場所を、ただひとつだけ、探しておくんだ。--それは、きっと、陽のあたる場所」
まだまだ、好きなコメントやMCはいっぱいあるのですが、あげればきりがないので、この辺でやめときます。
あんまり見過ぎて、少し手垢で汚れてしまっているけれど、ページをめくると若き日の浜省とともに、僕の19才の思い出が甦る、そんな一冊です。
 http://d.hatena.ne.jp/tk1968/touch/20110824/1314201353
 

 


ON THE ROAD'84
“Keep body and soul in your town over the pourring rain”
自:1984/08/17 岩手県民会館
1985/01/24 倉敷市民会館
至:1985/02/09 京都会館
http://ameblo.jp/bar-flashandshadow/entry-10709676986.html
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 ┃ 浜田省吾 #17 1983年1月24日 郡山市民会館 ┃
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 2016(平成28)年05月01日(日)
 現在に至るまでぼくはおそらく千回以上のライブに出演してきましたが、今まで一度も穴を空けたことはありません。賞とはあまり縁の無い音楽人生ですが、これだけはぼくの矜持です。しかし時には這うようにしてステージに出たこともあります。今回はそんな話を。
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 浜田省吾1982(昭和57)年秋のツアーは年を跨いで、翌
 1983(昭和58)年2月22日(火)の大阪フェスティバルホールまで続いた。
 1983(昭和58)年1月20日(木)から始まった上越~東北の旅は、
 1983(昭和58)年1月20日(木)長岡市立劇場、
 1983(昭和58)年1月21日(金)新潟県民会館、
 1983(昭和58)年1月22日(土)宮城県民会館、
‡1983(昭和58)年1月24日(月)郡山市民会館と続く5泊6日の旅だった。
 1983(昭和58)年1月22日(土)の仙台公演のあたりから何となく風邪っぽいなと思っていたぼくは、これ以上悪化させないように細心の注意をはらっていた。オフだった
 1983(昭和58)年1月23日(日)は極力ホテルで安静にしていた。冬のホテルの部屋はとても乾燥するため、加湿器を全開にしてバスタブにもお湯をはり、部屋が乾燥しないようにし、市販の風邪薬を飲んで一日中寝ていた。しかし深夜にひどい悪寒に襲われた。悪寒でほとんど眠れずに朝を迎えた。朝になってベッドから起きようとすると、身体が震え全身の関節が痛む。身体を暖めなければと思い入浴してみるも、悪寒が酷くて浴槽に入っていられない。入浴することをあきらめ、フロントで体温計を借りて熱を測ってみた。みるみる温度があがって行く。39度近い熱があった。この日は郡山市民会館でのコンサートがある。会場入りまではまだ少し時間があったので、病院に行くことにした。ひとまず浜田さんのマネージャーに事情を説明して、フロントで教えてもらった病院に駆け込んだ。ホテルから病院までは歩いて数分の距離だったが、高熱のためふらふらして歩けない。病院までの距離が数十倍にも感じた。ようやく病院に着いて受付を済ませるも、院内は診察待ちの患者で超満員。いくら待てども一向に順番が回ってくる気配がない。あまりにしんどいので待合室の長椅子に横たわらせてもらってひたすら順番を待った。待つこと約3時間、ようやくぼくの番になった。この時すでに時間はお昼を回っていた。会場入りまであまり時間が無い。診察の結果はやはり風邪の症状とのこと。とにかく薬を飲んで安静にしているようにと言われた。しかしこの後コンサートが行われる。バックのミュージシャンが風邪で発熱したぐらいでは、コンサートを中止するわけにはいかないのである。ぼくはドクターに事情を話して懇願した。
「先生、そんなわけでコンサートに穴を空けるわけにはいかないんです。お願いですから本番の二時間の間だけ生かして下さい!」ドクターはあきれた顔で言った。
「そんな無茶言って貰っちゃ困るよ。コンサートなんてやったら肺炎になりますよ。無理だから休ませて貰いなさい。」ぼくは藁をもすがる気持ちでお願いした。
「先生、それは無理です。お願いですから二時間だけ!」
「しようがないなぁ。では一応解熱の座薬と頓服、あと注射を打っておきます。但し無理をして肺炎になっても責任持ちませんよ。」ぼくは注射二本と点滴を受け、薬を貰ってホテルに戻った。しかし高熱が下がる気配はなく、とてもじゃないがリハーサルをやれる状態ではなかった。マネージャーに連絡して、本番ギリギリまでホテルの部屋で休ませてもらうことにした。それから少しの間、ぼくは座薬と薬を飲んで泥のように眠った。開場時刻の6時を過ぎた頃、イベンターが用意してくれた車に乗って会場入りした。時刻はすでに6時30分近くになっていた。薬のおかげで熱は38度前半に下がっていたが悪寒は続いていた。楽屋に着くと代わる代わるメンバーが心配してくれた。どうにか衣装に着替え横たわっていると、浜田さんが心配そうな顔で寄って来た。「板さん、大丈夫?熱は?」ぼくはリハーサルをキャンセルしてしまったことをまず詫びた。
「リハ出られなくてすみませんでした。何とか大丈夫です。」
「そう、でも無理しないようにね。コーラスとか辛かったら町支に任せてくれていいから。」
「はい、でも大丈夫です。何とか歌えると思います。」「分かった。じゃ本番よろしく。」実は全然大丈夫じゃなかった。熱と薬で朦朧としていたぼくは、本番が始まってからも何をやっているのかよく分からないほど最悪の体調だった。コーラスのパートを歌おうとするたびに、吐き気が襲って来て気が遠くなりそうになる。リハーサルが出来なかったため、PAチームがぼくのモニターを最適の状態に調整してくれていた。ピアノはスタッフが代わりに弾いてバランスを整えていたくれた。そんなスタッフの心遣いも無駄になるほど、ぼくは本番中に何をやっているか分からないような状態だった。それでも何とかコンサート終え、楽屋に戻ってくるなりぼくはその場に倒れ込んだ。しかしこの日は終演後、新幹線で帰京の予定だったため、倒れ込んでいる暇は無かった。すぐに支度をして出なければならなかったため、急いで着替えを済ませ楽屋口で待機していたタクシーに乗り込んだ。郡山の駅に着いて新幹線に乗り込むとぼくはすぐに目を閉じた。当時は新幹線が大宮止まりで、そこから上野駅まではリレー号という列車に乗り換える必要があった。大宮駅でリレー号に乗り換え、やっと深夜の上野駅に到着した。するとずっとぼくの様子を見ていた浜田さんが、今夜は俺の家に泊まれと言った。ぼくは家に帰っても一人なので申し訳ないと思いつつも、浜田さんの家に泊めてもらうことにした。この頃、プライベートなことで沈み込んでいたぼくを見かねた、浜田さんなりの優しさだった。浜田さんの家に到着するなり、またしてもぼくは泥のように眠った。次の朝、目が覚めると体調はだいぶ良くなっていた。朝食をごちそうになり、もう大丈夫なのでお暇しようとすると、ちょっと出かけるが程なく戻るので、それまで犬を看ていて欲しいと言われた。ぼくはしばらくの間、浜田家の犬と一緒に暖かな部屋でまどろんでいた。やがて戻って来た浜田さんに丁重にお礼を言い、日も暮れた頃自宅に帰った。家に戻ったぼくは空腹な事に気がついた。近所の定食屋でサンマの塩焼き定食を食べた。ちょっとしょっぱいサンマの塩焼きを食べながら、なんだかぼくは急に泣けて来た。
 写真◆1982(昭和57)年頃。どこかの楽屋にて。 
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/05/17-1983124.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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