佐藤錦の生みの親は、東根市の篤農家、佐藤栄助(1869~1950)です。栄助は醸造業の長男として生まれましたが、時間をみつけてはりんご、さくらんぼ、桃、ぶどうなど果物の栽培をしていました。明治40年、父が亡くなると家業をやめ、自分の好きな農家の道へ進むことになったのです。そして、さくらんぼの品種改良に夢をかけていました。明治時代は、「日の出」、「珊瑚」、「若紫」などの品種を 栽培していました。せっかく収穫したさくらんぼを東京方面へ出荷も始めましたが、明治末期から大正にかけては、交通事情から輸送に多くの時間を要するためなかなかうまくいかず、そして、さくらんほは甘くないといわれ悩みが多かったのです。
こうした背景から、長い試練が大正元年から始まったのです。栄助は、日持ちはよくないが味のよい「黄玉(きだま)」という品種と、酸味は多いが固くて日持ちのよい「ナポレオン」の品種をかけ合わせたのです。やがて実を結びました。まさに栄助の夢はかなったのです。実った実から種をとり、それを翌年にまいて50本ほどの苗を作りました。さらにその中から葉が大きく質のよさそうな苗 だけを選び抜いて移植し、約20本を育てたのです。さらに根気強い研究が続きました。それから10年後の大正11年に初めて新しい木に実がなりました。これこそ世紀の大発見でした。風味も日持ちもよく、そして育てやすいさくらんぼの夢に手が届きそうな実だったのです。さらによいものを選び抜き、最終的に1本にしぼりこれを原木に決定しました。
この時までずっと栄助とともに情熱を傾けてきた友人であり、苗木商を営んでいた岡田東作がいました。東作は、このすぐれた新品種の将来性をいち早く見抜き、昭和3年「佐藤錦」と命名してくれました。最初、佐藤栄助は「出羽錦」という名前をつけようとしたのですが、岡田東作は反対し、発見者の名前を入れた「佐藤錦」がいいということで、その名前になったという心あたたまるエピソードが残っているのです。また、東作は「佐藤錦」という新品種の登録を栄助にすすめましたが、栄助は「さくらんぼを植えたい農家に安くわけてやることができれば、それで本望だ」といって自分の利益だけを考えることはしなかったのです。このように苗木は未登録だったので、だれでも気軽に栽培するようになりました。それが「佐藤錦」として山形を代表する大人気の果物となり、小さな恋人「さくらんぼ」として多くの人たちから愛されるようになったのです。
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送っておくれよん