台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

770 ブログ770 亡くなられたひとへ

2013-10-13 04:23:26 | 台湾
わたしは、61年間でたくさんの人の死に出会った。たくさんいます。
人生は、生きて居た長さではありません。例え十五年の命だとしても、それは、それは。
たくさん意味があることです。15×365日=5475分の想い出一杯詰まっています。
その一日。一日が長さが違うだけです。蝉の寿命は、七日間と言われています。
何年も何年も地下に戻り、生まれる日を楽しみに生きて、鳴いています。
 生きて居る長さが意味あるのではなく、その日その日をいかに充実したものにしたか。
それが大切です。
 わたしは、半年に一回。葬式をしたときがありました。
もちろん。その前にもたくさんの人の死に出会いました。
おばあちゃん。おじいちゃん。 教え子。 母親。 息子。 親父。 同僚。
いろんな死があります。

 なんと言っても、親より早く死んだ人のことは、忘れません。
忘れてはいけないのです。

最近気づいたのです。亡くなられた人の笑顔をどれだけ記憶しているか?
それが大切であると。
 笑顔は、幸せの象徴です。
私は、37年も妻と居るのは、その笑顔が忘れられないからです。
この人だけは、幸せにする務めがあります。
それは、当然です。
わたしは、男。子供を産むことは、できません。子供を産むと言うことは、どういう事でしょうか。それは、その子に責任を持つと言うことです。もちろん、生んでくれた彼女にも・・・。
 男と女は、生理が違います。男は、辛い時、酒を飲んだり、ギャンブルに逃げることができます。女の人は、ただこのつらいことが嵐のように通り過ぎるのを待つだけです。
待つことは、つらいです。なぜなら、先が見えないから。
人間先が見えないことは、とても不安です。
灯りが欲しいのです。希望が・・・。その時一緒に苦しんでくれる旦那がいれば、苦しみは、半減します。4分の1になるかもしれません。

 先になくなった人は、それなりの意味があるのです。
その意味をわかること+悟ことができた時、まだ別の人生を歩むことができます。
それは、なくられた人に恥じない生き方をすると言うことです。
神様・仏様・亡くなられた方。
いつでもみんな見ています。その後の生き方を。
治郎がどう生きて居るか。彼女が幸せであるか。
亡くなった息子が見ている。
 そういつでもどこでも。
亡くなると言うことは、そう言うことです。
だから。私は、私の教え子や亡くなった母親・親父・息子に恥じない生き方をしなくては、成らない。
 生きる意味を・・・・・・・・・・・・・。
 最近掴めました。
再見。
 

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