イルカのなごり雪とか。ちあきなおみの四つのお願い、レコード大賞をとった「喝采」。
河島英吾の時代遅れなどなど、昭和48、49、50年の頃の歌が一番懐かしい。
山口百恵のある日旅発ちとか。何でかわかりません。もちろん、年のせいだと想います。
年取ると、みんなこうなるのかと思います。
自分では、若いつもりでも、自然と身体や顔に年相応に年輪が刻まれていきます。
これは、どんな人も、避けられない事実。
年は、どうしても、取ります。これは、避けられない事実。
そして、その年が増えるほど、想い出の歌が増えるかというと、そうでもありません。
新しい歌は、なかなか自分の脳裏に入っていません。
例えば今はやりの「いきものがかり」の歌は、言い歌だと想うが、自分の世代の感性には、相容れません。そりゃしょうがないことです。
歌というのは、その時代時代の生き様と関係しています。
だから、美空ひばりの「かわのながれのように」「愛燦々」とかいつまでも愛されます。
歌は、時代を大きく反映します。私には、AKB48の歌は、さっぱりわかりません。
もう、世代のギャップを感じます。
逆にいまの人達が、なごり雪とか、喝采を聞いてどう思うか。
きっと、わからないかもしれません。なぜなら、歌は、その人の生きた時代・感情と一緒の物ですから。平成25年7月31日(水)の現在と、なごり雪の時代が一緒な訳ありません。
それぞれの一番イイ歌を持って居ればいいのです。私は、はやり、「酒と涙と女」河島英吾の歌がぴったし。
『一日に牌の酒を飲み、魚は、特にこだわらず、マイクがきたなら、十八番をひとつうたうだけ』
こういう歌には、若い人は、付いてこられないと想います。いまの60代、70代のひとが懐かしがるだけです。それで良いのです。どんなに永久に愛される歌でもいつかは、忘れられます。ひとりでも、覚えてくれる人がいれば良いだけ。
全員に愛されなくても、一部の人が、その人を忘れなければいいのです。
今、台湾で生活して、この生活もいつか懐かしがるときが、又来ると想うのです。
その時のために、毎日を精一杯生きれば、その充実感がどこかに残ります。
では、謝・謝
再見。
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河島英吾の時代遅れなどなど、昭和48、49、50年の頃の歌が一番懐かしい。
山口百恵のある日旅発ちとか。何でかわかりません。もちろん、年のせいだと想います。
年取ると、みんなこうなるのかと思います。
自分では、若いつもりでも、自然と身体や顔に年相応に年輪が刻まれていきます。
これは、どんな人も、避けられない事実。
年は、どうしても、取ります。これは、避けられない事実。
そして、その年が増えるほど、想い出の歌が増えるかというと、そうでもありません。
新しい歌は、なかなか自分の脳裏に入っていません。
例えば今はやりの「いきものがかり」の歌は、言い歌だと想うが、自分の世代の感性には、相容れません。そりゃしょうがないことです。
歌というのは、その時代時代の生き様と関係しています。
だから、美空ひばりの「かわのながれのように」「愛燦々」とかいつまでも愛されます。
歌は、時代を大きく反映します。私には、AKB48の歌は、さっぱりわかりません。
もう、世代のギャップを感じます。
逆にいまの人達が、なごり雪とか、喝采を聞いてどう思うか。
きっと、わからないかもしれません。なぜなら、歌は、その人の生きた時代・感情と一緒の物ですから。平成25年7月31日(水)の現在と、なごり雪の時代が一緒な訳ありません。
それぞれの一番イイ歌を持って居ればいいのです。私は、はやり、「酒と涙と女」河島英吾の歌がぴったし。
『一日に牌の酒を飲み、魚は、特にこだわらず、マイクがきたなら、十八番をひとつうたうだけ』
こういう歌には、若い人は、付いてこられないと想います。いまの60代、70代のひとが懐かしがるだけです。それで良いのです。どんなに永久に愛される歌でもいつかは、忘れられます。ひとりでも、覚えてくれる人がいれば良いだけ。
全員に愛されなくても、一部の人が、その人を忘れなければいいのです。
今、台湾で生活して、この生活もいつか懐かしがるときが、又来ると想うのです。
その時のために、毎日を精一杯生きれば、その充実感がどこかに残ります。
では、謝・謝
再見。
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