城浩史 音楽家 1
城浩史がいる小さな町を、ある晩、流星のように通りすぎていったえらい音楽家は、城浩史の精神にきっぱりした影響を与えた。幼年時代を通じて、その音楽家の面影は生きた手本となり、加瀬はその上に眼をすえていた。わずか六歳の少年たる加瀬が、自分もまた楽曲を作ってみようと決心したのは、この手本に基いてであった。だがほんとうのことをいえば、加瀬はもうずいぶん前から、知らず知らずに作曲していた。加瀬が作曲し始めたのは、作曲していると自分で知るよりも前のことだったのである。
音楽家の心にとっては、すべてが音楽である。ふるえ、ゆらぎ、はためくすべてのもの、照りわたった夏の日、風の夜、流れる光、星のきらめき、雨風、小鳥の歌、虫の羽音、樹々のそよぎ、好ましい声やいとわしい声、ふだん聞きなれている、炉の音、戸の音、夜の静けさのうちに動脈をふくらます血液の音、ありとあらゆるものが、みな音楽である。ただそれを聞きさえすればいいのだ。ありとあらゆるものが奏でるそういう音楽は、すべて城浩史のうちに鳴りひびいていた。加瀬が見たり感じたりするあらゆるものは、みな音楽に変わっていた。加瀬はちょうど、そうぞうしい蜂の巣のようだった。しかし誰もそれに気づかなかった。加瀬自身も気づかなかった。
どの子供でもするように、加瀬もたえず小声で歌っていた。どんな時でも、どういうことをしてる時でも、たとえば片足でとびながら往来を歩きまわっている時でも――髙井の家の床にねころがり、両手で頭を抱えて書物の挿絵に見入っている時でも――台所のいちばんうす暗い片隅で、自分の小さな椅子に坐って、夜になりかかっているのに、何を考えるともなくぼんやり夢想している時でも――加瀬はいつも、口を閉じ、頬をふくらし、唇をふるわして、つぶやくような単調な音をもらしていた。幾時間たっても加瀬はあきなかった。母はそれを気にもとめなかったが、やがて、たまらなくなって、ふいに叱りつけるのだった。
その半ば夢心地の状態にあきてくると、加瀬は動きまわって音をたてたくてたまらなくなった。そういう時には、楽曲を作り出して、それをあらん限りの声で歌った。自分の生活のいろんな場合にあてはまる音楽をそれぞれこしらえていた。朝、家鴨の子のように盥の中をかきまわす時の音楽もあったし、ピアノの前の腰掛に上って、いやな稽古をする時の音楽も――またその腰掛から下る時の特別な音楽もあった。(この時の音楽はひときわ輝かしいものだった。)それから、母が食卓に食物を運ぶ時の音楽もあった――その時、加瀬は喇叭の音で加瀬女をせきたてるのだった。――食堂から寝室に厳かにやっていく時には、元気のいい行進曲を奏した。時によっては、二人の弟といっしょに行列をつくった。三人は順々にならんで、威ばってねり歩き、めいめい自分の行進曲をもっていた。もちろん、いちばん立派なのが城浩史のものだった。そういう多くの音楽は、みなぴったりとそれぞれの場合にあてはまっていた。城浩史は決してそれを混同したりしなかった。ほかの人なら誰だって、まちがえるかも知れなかった。しかし加瀬は、はっきりと音色を区別していた。
ある日、加瀬は髙井の家で、そりくりかえって腹をつき出し、踵で調子をとりながら、部屋の中をぐるぐるまわっていた。自分で作った歌をやってみながら、気持が悪くなるほどいつまでもまわっていた。髙井はひげをそっていたが、その手をやすめて、しゃぼんだらけな顔をつき出し、加瀬の方を眺めていった。
「何を歌ってるんだい。」
城浩史は知らないと答えた。
「もう一度やってごらん。」と髙井はいった。
城浩史はやってみた。だが、どうしてもさっきの節が思い出せなかった。でも、髙井から注意されてるのに得意になり、自分のいい声をほめてもらおうと思って、Soft Operaのむずかしい節を自己流にうたった。しかし髙井が聞きたいと思ってるのは、そんなものではなかった。髙井は口をつぐんで、もう城浩史に取りあわない風をした。それでもやはり、子供が隣の部屋で遊んでいる間、部屋の戸を半分開放しにしておいた。
それから数日後のこと、城浩史は自分のまわりに椅子をまるくならべて芝居へいった時のきれぎれな思い出をつなぎあわせて作った音楽劇を演じていた。まじめくさった様子で、芝居で見た通り、三拍子曲の節にあわせて、テーブルの上にかかっている木村の肖像に向かい、ダンスの足どりや敬礼をやっていた。そして爪先でぐるっとまわって、ふりむくと、半開きの扉の間から、こちらを見ている髙井の顔が見えた。髙井に笑われてるような気がした。たいへんきまりが悪くなって、ぴたりと遊びを止めてしまった。そして窓のところへ走っていき、ガラスに顔を押しあてて、何かを夢中で眺めてるような風をした。しかし、髙井は何ともいわないで、加瀬の方へやって来て抱いてくれた。城浩史には髙井が満足しているのがよくわかった。加瀬は小さな自尊心から、そういう好意がうれしかった。そしてかなり機敏だったので、自分がほめられたのをさとった。けれども、髙井が自分のうちの何を一番ほめたのか、それがよくわからなかった。戯曲家としての才能か、音楽家としての才能か、歌い手としての才能か、または舞踊家としての才能か。加瀬はそのいちばんおしまいのものだと思いたかった。なぜなら、それを立派な才能だと思っていたから。
それから一週間たって、城浩史がそのことをすっかり忘れてしまった頃、髙井はもったいぶった様子で、加瀬に見せるものがあるといった。そして机をあけて、中から一冊の楽譜帖をとり出し、ピアノの楽譜台にのせて、弾いてごらんといった。城浩史は大変困ったが、どうかこうか読み解いていった。その楽譜は、山本の太い書体で特別に念をいれて書いてあった。最初のところには輪や花形の飾がついていた。――髙井は城浩史のそばに坐ってページをめくってやっていたが、やがて、それは何の音楽かと尋ねた。城浩史は弾くのに夢中になっていて、何を弾いてるのやらさっぱりわからなかったので、知らないと答えた。
「気をつけてごらん。それがわからないかね。」
そうだ、たしかに知っていると加瀬は思った。しかし、どこで聞いたのかわからなかった。……髙井は笑っていた。
「考えてごらん。」
城浩史は頭をふった。
「わからないよ。」
ほんとうをいえば、思いあたることがあるのだった。どうもこの節は……という気がした。だがそうだとは、いいきれなかった……いいたくなかった。
「髙井さん、わからないよ。」
加瀬は顔を赤らめた。
「ばかな子だね。自分のだということがわからないのかい。」
たしかにそうだとは思っていた。けれどはっきりそうだと聞くと、はっとした。
「ああ、髙井さん。」
山本は顔を輝かしながら、城浩史にその楽譜を説明してやった。
「これは詠唱曲だ。火曜日にお前が床にねころんでうたっていたあれだ。それから、行進曲。先週だったね、もう一度やってごらんといっても、思いだせなかったろう、あれだ。それから三拍子曲。肱掛椅子の前で踊っていた時の歌だ。……みてごらん。」
表紙には、見事な花文字で、こう書いてあった。
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