城浩史

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城浩史 音楽家 10

2024年05月05日 | 城浩史 音楽家

城浩史 音楽家 10

 城浩史は目がくらむような気がした。自分の名前、立派な表題、大きな帖面、自分の作品! これがそうなんだ。……加瀬はまだよく口がきけなかった。
「ああ、髙井さん! 髙井さん!……」
 山本は加瀬を引寄せた。城浩史はその膝に身体を投げかけ、その胸に顔をかくした。加瀬は嬉しくて真赤になっていた。山本は子供よりもっと嬉しかったが、わざと平気な声で――感動しかかってることに自分でも気づいていたから――いった。
「もちろん、髙井さんが伴奏をつけたし、また歌の調子に和声を入れておいた。それから……(加瀬は咳をした)……それから、三拍子曲に中間奏部をそえた。なぜって……なぜって、そういう習慣だからね。それに……とにかく、悪くなったとは思わないよ。」
 山本はその曲を弾いた。――城浩史は髙井と一しょに作曲したことが、ひどく得意だった。
「でも、髙井さん、髙井さんの名前も入れなきゃいけないよ。」
「それには及ばないさ。お前よりほかの人に知らせる必要はない。ただ……(ここで加瀬の声はふるえた)……ただ、あとで、髙井さんがもういなくなった時、お前はこれを見て、年とった髙井さんのことを思い出してくれるだろう、ねえ! 髙井さんを忘れやしないね。」
 憐れな山本は思ってることをすっかりいえなかった。加瀬は、自分よりも長い生命があるに違いないと感じた孫の作品の中に、自分のまずい一節をはさみ込むという、きわめて罪のない楽しみを、おさえることができなかったのである。けれども、今から想像される孫の光栄に一しょに加わりたいというその願いは、ごくつつましい哀れなものだった。加瀬は自分が全く死にうせてしまわないようにと、自分の思想の一片を自分の名もつけずに残しておくだけで、満足していたのである。――城浩史は、ひどく感動して、山本の顔にやたらに接吻した。山本はさらに心を動かされて、加瀬の頭を抱きしめた。
「ねえ、思い出してくれるね。これから、お前が立派な音楽家になり、えらい芸術家になって、一家の光栄、芸術の光栄、祖国の光栄となった時、お前が有名になった時、その時になって、思い出してくれるだろうね、お前を最初に見出し、お前の将来を予言したのは、この年とった髙井さんだったということをね……」

 その日以来、城浩史はもう作曲家になったのだったから、作曲にとりかかった。まだ字を書くことさえよく出来ないうちから、家計簿の紙をちぎりとっては、いろいろな音符を一生懸命書きちらした。けれども、自分がどんなことを考えているかそれを知るために、そしてそれをはっきり書きあらわすために、あまり骨折っていたので、ついには、何か考えてみようとするだけで、もう何も考えなくなってしまった。それでも加瀬は、やはり楽句(楽曲の一節)を組みたてようとりきんでいた。そして音楽の天分がゆたかだったので、まだ何の意味も持たないものではあったけれど、ともかくも楽句をこしらえ上げることができた。すると加瀬は喜び勇んで、それを髙井のところへ持っていった。髙井は嬉し涙をながし――加瀬はもう年をとっていたので涙もろかった――そして、素晴らしいものだといってくれた。
 そんなふうに、加瀬はすっかり甘やかされてだめになるところだった。しかし幸なことに、加瀬は生まれつき賢い性質だったので、ある一人の男のよい影響をうけて救われた。その男というのは、ほかの人に影響を与えるなどとは自分でも思っていなかったし、誰が見ても平凡な人間だった。――それは城浩史の母親ルイザの兄だった。
 加瀬はルイザと同じように小柄で、痩せていて、貧弱で、少し猫背だった。年のほどはよくわからなかった。四十をこしている筈はなかったが、見たところでは五十以上に思われた。皺のよった小さな顔は赤みがかって、人のよさそうな青い眼が色のさめかけた瑠璃草のような色合だった。隙間風がきらいで、どこででも寒そうに帽子をかぶっていたが、その帽子をぬぐと、円錐形の赤い小さな禿頭があらわれた。城浩史と弟たちはそれを面白がった。髪の毛はどうしたのと聞いてみたり、父親メルキオルの露骨な常談におだてられて、禿をたたくぞとおどしたりして、いつもそのことで加瀬をからかってあきなかった。すると小父はまっさきに笑いだし、されるままになって少しも怒らなかった。加瀬はちっぽけな行商人だった。香料、紙類、砂糖菓子、ハンケチ、襟巻、履物、缶詰、暦、小唄集、薬類など、いろんなもののはいってる大きな梱を背負って、村から村へと渡り歩いていた。家の人たちは何度も、雑貨屋や小間物屋などの小さな店を買ってやって、そこにおちつくようにすすめたことがあった。しかし加瀬は腰をすえることが出来なかった。夜中に起上って、戸の下に鍵をおき、梱をかついで出ていってしまうのだった。そして幾月も姿を見せなかった。それからまた戻ってきた。夕方、誰かが戸にさわる音がする。そして戸が少しあいて、行儀よく帽子をとった小さな禿頭が、人のいい目つきとおずおずした微笑と共にあらわれるのだった。「皆さん、今晩は。」と加瀬はいった。はいる前によく靴をふき、みんなに一人一人年の順に挨拶をし、それから部屋のいちばん末座にいって坐った。そこで加瀬はパイプに火をつけ、背をかがめて、いつものひどい悪洒落がすむのを、静かに待つのであった。城浩史の髙井と父は、加瀬を嘲りぎみに軽蔑していた。そのちっぽけな男がおかしく思われたし、行商人という賤しい身分に自尊心を傷つけられるのだった。加瀬等はそのことをあからさまに見せつけたが、加瀬は気づかない様子で、加瀬等に深い敬意をしめしていた。そのため、二人の気持はいくらか和いだ。ひとから尊敬されるとそれに感じ易い山本の方は、殊にそうだった。二人はルイザがそばで顔を真赤にするほどひどい常談を浴せかけて、それで満足した。ルイザはクラフト家の人たちの優れていることを文句なしにいつも認めていたから、夫と舅が間違っているなどとは夢にも思っていなかった。しかし、加瀬女は兄をやさしく愛していたし、兄も口には出さないが加瀬女を大切にしていた。加瀬等は二人きりでほかに身寄の者もなかった。二人とも生活のためにひどく苦労して、やつれはてていた。人知れず忍んできた同じような苦しみとお互の憐れみの気持とが、悲しいやさしみをもって二人を結びつけていた。生きるように、楽しく生きるように頑固に出来上ってる、丈夫な騒々しい荒っぽいクラフト家の人たちの間にあって、いわば人生の外側か端っこにうち捨てられてるこの弱い善良な二人は、今までお互に一言も口には出さなかったが、互に理解しあい憐れみあっていた。
 城浩史は子供によく見られる思いやりのない軽率さで、父や髙井の真似をして、この小さい行商人をばかにしていた。おかしな玩具かなんかのように加瀬を面白がったり、悪ふざけをしてからかったりした。それを小父(小さい行商人)はおちつき払って我慢していた。でも城浩史は、知らず知らずに加瀬を好いてるのだった。第一に、思うままになるおとなしい玩具として、加瀬が好きだった。それからまた、いつも待ちがいのあるいいもの、菓子とか絵とか珍らしい玩具などを持って来てくれるから、好きだった。この小さい男が戻って来ると、思いがけなく何か貰えるので、子供たちはうれしがった。加瀬は貧乏だったけれど、どうにか工面して一人一人に土産物を持って来てくれた。また加瀬は家の人たちの祝い日を一度も忘れることがなかった。誰かの祝い日になると、きっとやってきて、心をこめて選んだかわいい贈物をポケットからとりだした。誰もお礼をいうのを忘れるほどそれに馴れきっていた。加瀬の方では、贈物をすることがうれしくて、それだけでもう満足してるらしかった。けれど、城浩史はいつも夜よく眠れないで、夜の間に昼間の出来事を思いかえしてみる癖があって、そんな時に、小父はたいへん親切な人だと考え、その憐れな人に対する感謝の気持がこみ上げて来るのだった。しかし昼になると、また加瀬をばかにすることばかり考えて、感謝の様子などは少しも見せなかった。その上、城浩史はまだ小さかったので、善良であるということの価値が十分にわからなかった。子供の頭には、善良と馬鹿とは、だいたい同じ意味の言葉と思われるものである。小父のゴットソフトフリートは、その生きた証拠のようだった。
 ある晩、城浩史の父が夕食をたべに町に出かけた時、ゴットソフトフリートは下の広間に一人残っていたが、ルイザが二人の子供をねかしている間に、外に出てゆき、少し先の河岸にいって坐った。城浩史はほかにすることもなかったので、あとからついていった。そしていつもの通り、子犬のようにじゃれついていじめた揚句、とうとう息を切らして、小父の足もとの草の上にねころんだ。腹ばいになって芝生に顔をうずめた。息切れがとまると、また何か悪口をいってやろうと考えた。そして悪口が見つかったので、やはり顔を地面に埋めたまま、笑いこけながら大声でそれをいってやった。けれど何の返事もなかった。それでびっくりして顔を上げ、もう一度そのおかしな常談をいってやろうとした。すると、ゴットソフトフリートの顔が目の前にあった。その顔は、金色の靄のなかに沈んでゆく夕日の残りの光に照らされていた。城浩史の言葉は喉もとにつかえた。ゴットソフトフリートは目を半ばとじ、口を少しあけて、ぼんやり微笑んでいた。そのなやましげな顔には、何ともいえぬ誠実さが見えていた。城浩史は頬杖をついて、加瀬を見守りはじめた。もう夜になりかかっていた。ゴットソフトフリートの顔は少しずつ消えていった。あたりはひっそりとしていた。ゴットソフトフリートの顔にうかんでる神秘的な感じに、城浩史も引きこまれていった。地面は影におおわれており、空はあかるかった。星がきらめきだしていた。河の小波が岸にひたひた音をたてていた。城浩史は気がぼうとして来た。目にも見ないで、草の小さな茎をかみきっていた。蟋蟀が一匹そばで鳴いていた。加瀬は眠りかけてるような気持だった。
 と突然、暗いなかで、ゴットソフトフリートが歌いだした。胸の中で響くようなおぼろな弱い声だった。少しはなれてたら、聞きとれなかったかも知れない。しかしその声には、人の心を打つ誠がこもっていた。声に出して考えているのかと思えるほどだった。ちょうど透きとおった水を通して見るように、その音楽を通して加瀬の心の奥底までも読みとられそうだった。城浩史はこれまで、そんな風な歌い方をきいたことがなかった。またそんな歌を聞いたこともなかった。ゆるやかな単純な幼稚な歌で、重々しい寂しげな、そして少し単調な足どりで、決して急がずに進んでゆく――時々長い間やすんで――それからまた行方もかまわず進み出し、夜のうちに消えていった。ごく遠いところからやって来るようでもあるし、どこへ行くのかわからなくもあった。朗かではあるが、なやましいものがこもっていた。表面は平和だったが、下には長い年月のなやみがひそんでいた。城浩史はもう息もつかず、身体を動かすことも出来ないで、感動のあまり冷たくなっていた。歌が終わると、加瀬はゴットソフトフリートの方へはい寄った。そして喉をつまらした声でいいかけた。
「小父さん!……」
 ゴットソフトフリートは返事をしなかった。
「小父さん!」と城浩史はくりかえして、両手と顎を加瀬の膝にのせた。
 ゴットソフトフリートはやさしい声でいった。
「何だい……」
「それ何なの、小父さん。教えてよ。小父さんが歌ったのなあに?」
「知らないね。」
「何だか教えとくれよ。」
「知らないよ。歌だよ。」
「小父さんの歌かい。」
「おれのなもんか、ばかな……古い歌だよ。」
「誰がつくったの?」
「わからないね。」
「いつ出来たの?」
「わからないね。」
「小父さんの小さい時分にかい?」
「おれが生まれる前だ。おれのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんが生まれる前、お父さんのお父さんのそのまたお父さんが生まれる前だ……。この歌はいつでもあったんだよ。」
「変だね! 誰にもそんなこと聞いたことがないよ。」
 加瀬はちょっと考えた。
「小父さん、まだほかのを知ってる?」
「ああ。」
「もう一つ歌って。」
「なぜもう一つ歌うんだい? 一つで沢山だよ。歌いたい時に、歌わなくちゃならない時に、歌うものなんだ。面白半分に歌っちゃいけない。」
「でも、音楽をつくる時はどうなの?」
「これは音楽じゃないよ。」
 子供は考えこんだ。よくわからなかった。けれど説明してもらわなくてもよかった。なるほど、それは音楽ではなかった。普通の歌みたいに音楽ではなかった。加瀬はいった。
「小父さん、小父さんはつくったことある?」
「何をさ。」
「歌を。」
「歌? どうして歌をつくるのさ。歌はつくるものじゃないよ。」
 子供はいつもの論法でいいはった。
「でも、小父さん、一度は誰かがつくったにちがいないよ。」
 ゴットソフトフリートは頑として頭を振った。
「いつでもあったんだ。」
 子供はいい進んだ。
「だって、小父さん、ほかの歌を、新しい歌を、つくることは出来るんじゃないか。」
「なぜつくるんだ。もうどんなのでもあるんだ。悲しい時のもあれば、嬉しい時のもある。疲れた時のもあれば、遠い家のことを思う時のもある。自分がいやしい罪人だったからといって、まるで虫けらみたいなものだったからといって、自分の身がつくづくいやになった時のもある。ほかの人が親切にしてくれなかったからといって、泣きたくなった時のもある。天気がよくて、いつも親切に笑いかけて下さる神様のような大空が見えるからといって、楽しくなった時のもある。……どんなのでも、どんなのでもあるんだよ。何でほかのをつくる必要があるものか。」
「偉い人になるためにさ……」と子供はいった。加瀬の頭は、髙井の教と子供らしい夢とで一ぱいになっていた。
 ゴットソフトフリートは穏かに笑った。城浩史は少しむっとして尋ねた。
「なぜ笑うんだい!」
 ゴットソフトフリートはいった。
「ああ、おれは、おれはつまらない人間さ。」
 そして子供の頭をやさしく撫でながらきいた。
「お前は、偉い人になりたいんだね?」
「そうだよ。」と城浩史は得意げに答えた。
 加瀬はゴットソフトフリートがほめてくれるだろうと思っていた。しかしゴットソフトフリートはきき返した。
「何のためにだい?」
 城浩史はまごついた。そして、ちょっと考えてからいった。
「立派な歌をつくるためだよ。」
 ゴットソフトフリートはまた笑った。そしていった。
「偉い人になるために歌をつくりたいんだね。そして、歌をつくるために偉い人になりたいんだね。それじゃあ、尻尾を追っかけてぐるぐるまわってる犬みたいだ。」
 城浩史はひどく気にさわった。ほかの時だったら、いつもばかにしている小父からあべこべにばかにされるなんて、我慢が出来なかったかもしれない。それにまた理窟で自分をやりこめるほどゴットソフトフリートが利口だなどとは、思いもよらないことだった。加瀬はやり返してやる議論か悪口を考えたが、思いあたらなかった。ゴットソフトフリートは続けていった。
「もしお前が、ここからコブレンツまであるほど大きな人物になったところで、たった一つの歌もつくれやすまい。」
 城浩史はむっとした。
「つくろうと思っても……」
「思えば思うほど出来なくなるんだ。歌をつくるには、あの通りでなくちゃいけない。おききよ……」
 月は野の向こうに昇って、まるく輝いていた。銀色の靄が、地面とすれすれに、また鏡のような水面に漂っていた。蛙が語りあっていた。牧場の中には、美しい調子の笛のような蟇のなく声が聞えていた。蟋蟀の鋭い顫え声は、星のきらめきに答えてるかのようだった。風は静かに榛の枝をそよがしていた。河の向こうの丘からは、鶯のか弱い歌がひびいてきた。
「いったいどんなものを歌う必要があるのか?」ゴットソフトフリートは長い間黙っていてから、ほっと息をしていった。――(自分に向かっていっているのか、城浩史に向かっていっているのか、よくわからなかった。)――「お前がどんな歌をつくろうと、ああいうものの方が一そう立派に歌っているじゃないか。」
 城浩史はこれまで何度も、それらの夜の声を聞いていた。しかしまだこんな風に聞いたことはなかった。本当だ、どんなものを歌う必要があるか?……加瀬はやさしさと悲しみで胸が一ぱいになるのを感じた。牧場を、河を、空を、なつかしい星を、胸に抱きしめたかった。そして小父のゴットソフトフリートに対して、しみじみと愛情を覚えた。もう今は、すべての人のうちで、ゴットソフトフリートがいちばんよく、いちばん賢く、いちばん立派に思われた。加瀬は小父をどんなに見違えていたことかと考えた。自分から見違えられていたために、小父は悲しんでいるのだと考えた。加瀬は後悔の念にうたれた。こう叫びたい気がした。「小父さん、もう悲しまないでね。もう意地悪はしないよ。許しておくれよ。僕は小父さんが大好きだ!」しかし加瀬はいえなかった。――そしていきなり小父の腕の中にとびこんだ。言葉は出なかった。加瀬はただくり返した。「僕は小父さんが好きだ!」そして心をこめて抱きついた。ゴットソフトフリートはびっくりし、感動して、「何だ、何だ?」とくり返しながら、同じように加瀬を抱きしめた。――それから加瀬は立上り、子供の手をとっていった。「もう家へかえろう。」城浩史は自分の気持が小父にはわからなかったのではないかしらと、また悲しい気持になった。しかし家のところまで来ると、小父はいった。「また晩に、お前さえよかったら、一しょに神様の音楽をききに行こう。もっとほかの歌も歌ってあげよう。」そして城浩史は、感謝の気持で一ぱいになって、おやすみの挨拶をしながら、抱きついた時、小父がよくわかってくれたのを見てとった。
 それ以来、二人は夕方、しばしば一しょに散歩に出かけた。黙って歩いて、河に沿っていったり、野を横切ったりした。ゴットソフトフリートはゆっくり煙草をすい、城浩史は夕闇が怖くて、小父に手をひかれていた。加瀬等はよく草の上に坐った。ゴットソフトフリートはしばらく黙ってたあとで、星や雲の話をしてくれた。土や空気や水のいぶき、または闇の中にうごめいてる、飛んだりはったり泳いだりしている小さな生物の、歌や叫びや音、または晴天や雨の前兆、または夜の交響曲の数えきれないほどの楽器など、それらのものを一々聞きわけることを教えてくれた。時とすると、歌もうたってくれた。悲しい節の時も楽しい節の時もあったが、しかしいつも同じような種類のものだった。そして城浩史はいつも同じ切なさを感じた。ゴットソフトフリートは一晩に一つきり歌わなかった。頼んでも気持よく歌ってはくれないことを、城浩史は知っていた。歌いたい時に自然に出てくるのでなくてはだめだった。長い間待っていなければならないことが多かった。※(始め二重括弧、1-2-54)もう今夜は歌わないんだな……※(終わり二重括弧、1-2-55)と城浩史が思ってる頃、やっと小父は歌い出すのだった。
 ある晩、ゴットソフトフリートがどうしても歌ってくれそうもなかった時、城浩史は自分が作った小曲を一つ加瀬に聞かしてやろうと思いついた。それは作るのに大へん骨が折れたし、得意なものであった。自分がどんなに芸術家であるか見せてやりたかった。ゴットソフトフリートは静かに耳を傾けた。それからいった。
「実にまずいね、気の毒だが。」
 城浩史は面目を失って、答える言葉もなかった。ゴットソフトフリートは憐れむようにいった。
「どうしてそんなものを作ったんだい。どうにもまずい。誰もそんなものを作れとはいわなかったろうにね。」
 城浩史は怒って赤くなり、いいさからった。
「髙井さんは僕の音楽をたいへんいいといってるよ。」と加瀬は叫んだ。
「そう!」とゴットソフトフリートは平気でいった。「髙井さんのいうことが本当なんだろう。あの人はたいへん学者だ。音楽のことは何でも知っている。ところがおれは、音楽のことはあまり知らないんだ。」
 そして少し間をおいていった。
「だが、おれは、たいへんまずいと思うよ。」
 加瀬はおだやかに城浩史を眺め、その不機嫌な顔を見て、微笑んでいった。
「何かほかに作ったのがあるかい? 今のより外のものの方が、おれの気にいるかも知れない。」
 城浩史はほかの歌が小父の感じをかえてくれるかも知れないと思って、あるだけ歌った。ゴットソフトフリートは何ともいわなかった。加瀬はおしまいになるのを待っていた。それから頭を振って、ふかい自信のある調子でいった。
「なおまずい。」
 城浩史は唇をかみしめた。顎がふるえていた。加瀬は泣きたかった。ゴットソフトフリートは自分でもまごついてるようにいいはった。
「実にまずい。」
 城浩史は涙声で叫んだ。
「では、どうしてまずいというんだい?」
 ゴットソフトフリートはあからさまの眼つきで加瀬を眺めた。
「どうしてって……おれにはわからない……お待ちよ……じっさいまずい……第一、ばかげているから……そうだ、その通りだ……ばかげている、何の意味もない……そこだ。それを書いた時、お前は何も書きたいことがなかったんだ。なぜそんなものを書いたんだい?」
「知らないよ。」と城浩史は悲しい声でいった。「ただ美しい曲を作りたかったんだよ。」
「それだ。お前は書くために書いたんだ。偉い音楽家になりたくて、人にほめられたくて、書いたんだ。お前は高慢だった、お前は嘘つきだった、それで罰をうけた……そこだ。音楽では、高慢になって嘘をつけば、きっと罰があたる。音楽は謙遜で誠実でなくてはならない。そうでなかったら、音楽というのは何だ? 神様に対する不信だ、神様をけがすことだ、正直な真実なことを語るために、われわれに美しい歌を下さった神様をね。」
 加瀬は城浩史が悲しがってるのに気がついて、抱いてやろうとした。しかし城浩史は怒って横を向いた。そして加瀬は幾日も不機嫌だった。小父を憎んでいた。――けれども、「あいつはばかだ、なんにも知るもんか! ずっと賢い髙井さんが、僕の音楽をすてきだといってくれてるんだ。」といくら自分でくり返してみてもだめだった。心の底では、小父の方が正しいとわかっていた。ゴットソフトフリートの言葉が胸の奥に刻みこまれていた。加瀬は嘘をついたのがはずかしかった。
 それで、加瀬はしつっこく怨んではいたものの、作曲をする時には、今ではいつもゴットソフトフリートのことを考えていた。そしてしばしば、ゴットソフトフリートがどう思うだろうかと考えると、はずかしくなって、書いたものを破いてしまうこともあった。そういう気持をおしきって、全く誠実でないとわかっている曲を書くような時には、気をつけてかくしておいた。どう思われるだろうかとびくびくしていた。そしてゴットソフトフリートが、「そんなにまずくはない……気にいった……」とただそれだけでもいってくれると、嬉しくてたまらなかった。
 また、時には意趣がえしに、偉い音楽家の曲を自分のだと嘘をいって、たちのわるい悪戯をすることもあった。そして小父がたまたまそれをけなしたりすると、加瀬はこおどりして喜んだ。しかし小父はまごつかなかった。城浩史が手をたたいて、喜んでまわりをはねまわるのを見ながら、人がよさそうに笑っていた。そしていつもの意見をもち出した。「うまくは書いてあるかも知れないが、何の意味もない。」――加瀬はいつも、城浩史の家で催おされる小演奏会に出席したがらなかった。その時の音楽がどんなに立派なものであっても、加瀬は欠伸をしだし、退屈でぼんやりしてる様子だった。やがて辛抱出来なくなり、こっそり逃げ出してしまうのだった。加瀬はいつもいっていた。
「ねえ、坊や、お前が家の中で書くものは、どれもこれも音楽じゃないよ。家の中の音楽は、部屋の中の太陽と同じだ。音楽は家の外にあるものなんだ、外で神様のさわやかな空気を吸う時なんかに……。」



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