*** june typhoon tokyo ***

m.E.y.@aco-studio

Mey2008 会社の同僚であるスマートなレディが参加している、m.E.y.による年に一度の演奏会、“m.E.y. +α in harajyuku Recital 2008”へ行ってきた。所用で開演時間から10分ちょっと遅れてしまい、2演目途中からになってしまったのが残念だったけれど。

 今年の演奏者は女性オンリー。会場は60席あるところという予備知識だけでいったのだが、スタディオという名の通りの部屋で、ステージ段差などはなく、演奏者と客席の距離がかなり近かった。自主コンサートという形式ながら、緊迫感を覚えるフロアだった。

 ピアノ演奏が中心だが、ヴォーカルやヴァイオリンもありと、こじんまりとしながらも飽きさせない工夫も。自分の同僚のレディはオープニングとトリに出演。昨年同様演奏は素晴らしいものだったけれど、本人的には満足してないんじゃないか、そんな気がした。
 音楽に限らずスポーツでも演劇でも、思っていること考えていることが思うとおりに表現出来た時に、人は納得し満足する。そういう意味では、事前の準備もままならず、ただ時が過ぎていくジレンマが、葛藤を続けていた日々があったはず。しかしながら、このステージまでには時間が限られている。そういったなかで、いかに表現出来るか…それを考えた時、実際の演奏の出来いかんではなく、表現者の心象としてはやや物足りないものを自身で感じてしまったのではないか、と。もちろん、それは彼女にとってはそうなんだろうなぁということであって、単にド素人の一客からすれば、文句のつけることなどないのだけれど。

 彼女だけでなく、他の出演者も同じようなジレンマや葛藤があってこの日を迎えたはずだ。それぞれ表現方法は異なってはいるけれど、技巧などではなく、いかに自身の心持ちを演奏に焚きつけていくことが出来るか。それが表現者としての一つの生命線であり、それがどれほど達成できたのかが重要なことではないだろうか。メジャーで活躍するプロであろうが、一般的には無名な人であろうが、それは同じである。数値化された評価では計れない音楽、表現者というステージにおいては、アーティスティックな評価はあっという間に上下する。そのあたりを突き詰められるか否か、それがもしかしたらトップ・レヴェルへの壁なのかもしれないし、それは案外紙一重なものなのかもしれない…そんなことを考えながら、順調に進んでいくプログラムと演奏に耳を傾けていたのだった。

 4演目に鮮やかなピンク系のロング・ドレスの女性がヴォーカルを披露してくれたのだが、足元を見るとシルバーのヒールを履いていた。注視すると、足を肩幅に広げて歌っている。足首まで隠れるロング・ドレスだったので最初は意識しなかったのだが、よりよく発声するにはその態勢が必要になる……。何が言いたいのかというと、その安定した態勢、つまり腰を据えるということが何事も基本なんだということをふと思ったのだ。
 ピアノの演奏者たちは、あのピアノ・チェアに浅く座って演奏する。普段椅子に深く、姿勢悪く座っている自分には到底維持出来ない格好だ。ヴァイオリニストは自身のソロ・パートを終え、ピアノによる間奏部に入る際、顎でヴァイオリンを挟んだままで譜面をめくった。これらはしっかりと身体に芯が通っている証拠だろう。身体の芯が安定せず、軸がぶれていたら、演奏も精神もぶれたものになってしまう。「浮き足立つ」という言葉があるけれど、芯がしっかりと通っている状態であれば、浮き足立つことはない。多少の衝撃にも柔軟に対応出来る土台が構築されているからだ。それは演奏にも通じていて、しっかりとした軸や土台、それを体躯と精神の両面で持たなければ、素晴らしい演奏や表現は難しいものになってしまう。彼女たちを観ながら、頭の中でそんなことがループしていた。

 今回はフリー・ライヴだったのだけれど、個人的には少額でもミュージック・フィーを課せばいいのに、と思った。それは、出演者たちが楽曲やライヴ、また演奏することの魅力を伝えるのに不足することは全くなかったというのと、アンケートに「音楽を学ぶ過程で、『人前で演奏する』ということをとても意義のあるものと考えており、日々練習を重ねております…」とあったように、人前での演奏をより意義あるものにするために、ミュージック・フィーに足る演奏をしなければという意識や緊張感を芽生えさせるのにいいと思ったからだ。

 こういうステージを目に耳にするといつも、自分も演奏したいと思う衝動と演奏が実際にはいかに難しいかを知る。そして、出演者たちの凄さに気づかされるのだ。その上、少ない時間ながらも演奏を続けていることが尊敬に値する。継続は力というけれど、このイヴェントは出演者たちの力にしっかりとなっているのは間違いない。わずかな時間でのこじんまりとしたライヴだったけれど、非常に有意義な時間と空間だった。

◇◇◇

 昔、ピアノが弾きたくて、「ピアノを弾くには薬指も他の指と同じように力を入れられるように動かさなければダメ」というのをどこかから聞いて、薬指だけが伸ばせる手袋を作って(勝手にピアニスト養成ギブスとか名づけていた…苦笑)それをはめて、薬指だけを机に叩きつけてたら、筋を痛めて腱鞘炎になりかけました。(笑) でも、その前に、指が短いので、指の股を切除する手術を受けようかと思いました。(爆) しかも、それは一度だけじゃなく、投球の幅を広げるため、フォークボールの取得には手術が不可欠だ!と真剣に考えました。バカですな。

 「念願のロシア旅行へ行き、ロシアへの想いを…」こめた3演目の方の演奏は、ロシアの重くダークな質感のなかにある美しさが感じられたし、洋邦の“恋”をテーマにしたヴォーカルを披露していた4演目では初々しさと温かさ、ヴァイオリンとピアノのデュエットではお互いをコンタクトする感度の大切さが伝わってきました。それぞれによってピアノへの向き合い方も違うなぁと思いながら、ラスト3演目のピアノ演奏、水面に映る月のような緊迫感を備えたソナタ、音楽の楽しさを体現したジョイフルなジャズ・アレンジ曲、刃で喉元を突きつけてくるような切迫感のある高速な鍵盤と、波乱を駆け抜けた人生と冷酷な運命を想起させるようなズシリとくる雰囲気を持ったメロディが肝のトッカータ、を聴いていましたよ。寝てないですよ。(笑)

 一般のクラシック・コンサートだとかなり寝ちゃう危険性がある自分ですが(汗;)、今回くらいの尺だと飽きないし入り込める時間が出来ていいですよ。うん。クラシック・コンサートっぽく、ちゃんと途中で15分休憩もあったしね。

 ああ、オレも楽器出来たらなぁー。モテルかなぁー。モテルよなぁ。でも、やる楽器にもよるよなぁ。でも、みんなやってるギターとかだと目立たないし。ピアノは指短いし、ドラムなんて一度にいろんなことやるなんて無理だし、ホーン系は肺活量ないからダメだし。
 だから、小さい時家にあったオカリナを手にして「誰もやってないのはこれだ!」なんて思ったけど、結局思い通りに吹けなくて頭きて投げたらパカッと2つに割れちゃったし…父ちゃん、ゴメン。って、だいたいオカリナって吹けてたとしてもモテルのか?ってか、指つるし。じゃあ、もうヴォーカルだ。って、それは単にカラオケしたいだけじゃねぇか…。

 結論。楽器出来る人はやっぱり凄い。
とりあえず、オレはヒューマン・ビートボクサーを目指してみるか。(指笛とか巻き舌も出来ないのに、無理無理無理。ホント> o(゜Д゜)っ <ムリ!)
 だいたい、モテルのか?とかそういう基準でしか考えてないのが、間違ってると……( ´△`)アァ-

◇◇◇ 

<SET LIST>

01 オペラ「トゥーランドット」より “誰も寝てはならぬ” ≪プッチーニ≫
  (佐野なほ子 pf /中村まり子 pf)
02 星に願いを
  (秋本京子 Vo/三谷麻弥 pf)
03 前奏曲 Op.3 No.2、Op.23 No.4 ≪ラフマニノフ≫ 
  アディオス・ノニーノ≪ピアソラ≫
  (須賀聡子 pf)
04 オペラ「フィガロの結婚」より “恋とはどんなものかしら” ≪モーツァルト≫     
  落葉松 ≪野上彰/小林秀雄≫
  (山崎真理子 Vo/足立由紀子 pf)
05 バイオリン協奏曲 No.1 ≪ブルッフ≫
  (大上智代 Vn/佐野なほ子 pf)
06 ソナタ 月光Op27-2
  第1楽章、第2楽章、第3楽章≪ベートーヴェン≫
  (足立由紀子 pf)
07 Miuet in G major, BWV. Anh. 114
  "Jesus, Joy of Man's Desiring" Cantata, BWV. 147
  Air~Orchestral Suite No.3 in D major, BWV. 1054 ≪バッハ≫
  (佐野なほ子 pf)
08 「クープランの墓」より トッカータ ≪ラヴェル≫
  (中村まり子 pf)

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