<Julie自ら語るsuccess story「沢田研二物語」>その4
大方のひとが知ってることは省略して短くかいつまんで
[売れていた時期]
1960年代後半タイガースで始まり
PYGも同時に、ソロで歌いだし1970年代を走った
1980年代も、あの手、この手で
パラシュートを出したり、 刺青まがいのものを着たり、化粧をしたり、歌人生を永らえた
[売れなくなった時期]
90年代になり、音楽番組もなくなり
レコードからCDにかわる
テレビからも呼ばれなくなり、ここからが大変だった
今から思うと一本の太い道を歩んできたように見えるかも知れないが
どうしていいのか、わからず
あっちへふらふら、こっちへふらふらしていた
昇っていくつもりが、谷底へどんどん沈んでいったこともあったが歌い続けていた
よほど印象が強いのか
テレビに出なくなってからも、「見てるよ」と言われる
今でも、「見てるよ」と言われるけれど次の時代に残したい歌みたいな番組?
そういう時代もあったんだと「証拠の作品」だから
使いたいと言われたら、 断らないことにしている
[自分に問いかける]
ボクはライヴを続けたい
こじんまりした所ではなく、 きょうの会館のような1000人を越す所で歌いたい
地方だと6分目7分目、大都会だと動員力はあった
TVに呼ばれなくなったら全国を回って行くことが重要なこと
それをこつこつ続けてきた
<Julie自ら語るsuccess story「沢田研二物語」>その5
[60歳になったとき]
60歳になったら「じさま」としてみてもらえる
「じさま」にになったら、いくらでもやりようがある
いつまでも続くとは何の保証もない
一生懸命にやることがボクたちにはキャリアが邪魔になる
でもボクは一生懸命に歌った
一生懸命、今日まで歌い通すことができた
最後の花火と思って大阪と東京のドームで80曲歌った
ほとんどのマスコミが来てくれて
「ありがとう、 サンキュー、ありがとうね」と大きな見出しで出た
そのときに世間的にも、少しだけまた人気がでた
<Julie自ら語るsuccess story「沢田研二物語」>その6
[今年]
還暦のときの余熱で今までもったようなもの
そして今年は50周年とめでたい年になった
[来年の古希]
来年は厄も明けて、古希
あのジュリーが70歳まで歌っているとは、誰が想像できただろうか?
今日いらしてくださった方も、何かの縁
来年古希のステージは大いにやります
南魚沼には多分来れない(客席から不満の声)
足を伸ばして、新潟とか、上越とかにいらしてください
ボクも元気でいますから、みなさんも生きていてくださいね
きょうまで温かいご声援ありがとう
50曲目の♪いくつかの場面
Julieの歌人生50年間のいくつかの場面
自分の50年間のJulie観賞&人生も重ね合わせてのいくつかの場面
ミラーボールからのひかりのシャワーがステージのJulieと客席に降り注いで
それぞれのいくつかの場面が重なって
センターで歌うJulie
パープルの照明に包まれブルーのジャケットが淡いパープルに染まって
箱庭のコートダジュールの色合いに似て
歌い終えたJulieに声援おくって
隣りの方に時間を確認したら、53分発に乗れそうってことで
Julieがお辞儀しているときにコート着て帰り支度して
通路のところでジジィでしたにじゃあねして
ホールをあとに
タクシーは予約していないので、六日町駅まで10数分歩いて
Julieと一緒に靴が弾んだ後だし、足元はおぼつかないけれど
夜道に転ばないようにてくてく
53分発の列車に間に合って、新幹線に乗り継いで
奥さまがJulieライヴに行く・・・そんな店主がにぎってくれたおむすび味わいながら
Julieライヴの余韻であっとういまに上越新幹線の旅終えて
金曜日の東京駅は遅い帰宅ラッシュで
すっかり現実にもどされ、午前様ちょっと過ぎに無事に帰宅して
つぎまで、ちょっと間があるので
心と健康管理に努め日々の暮らしを大切にして次のライヴに備えよう