(4 いやしのために)
十字架を負う
十字架につける
(ルカ9:23)
「イエスは,みなの者に言われた。
『誰でも私に付いて来たいと思うなら,
自分を捨て,日々自分の十字架を負い,
そしてわたしについて来なさい。』」
パウロは,次のように言います。
(ローマ6:11)
「このように,あなたがたも,
自分は罪に対しては死んだ者であり,
神に対してはキリスト・イエスにあって
生きた者だと,思いなさい。」
パウロの体験と勧めを
わたしたちもしたいものです。
古い考え,裁く思いを悔い改め,
十字架にもって行きます。
古い習慣を十字架につけます。
古い自分を十字架につけます。
古い自分が十字架につけられたのですから,
古い自分に縛られません。
傷つけられたものも,
十字架につけられたのですから,
傷つけたものに縛られません。
ローマ書のこの箇所には,
次の「洗礼」の賛美歌があります。
「我が君イエスよ」(新聖歌43)
1.
我が君イエスよ 罪の身は
暗き旅路に 迷いしを
隈無(くまな)く照らす 御(み)恵みの
光を受くる 嬉(うれ)しさよ
2.
君の血潮に 救われし
我は今より 一筋に
御足の跡(あと)を 慕(した)いつつ
御国の道を 進み行かん
3.
罪のこの身は 今 死にて
君の功(いさお)に 蘇(よみがえ)り
神の僕(しもべ)の 数に入(い)る
清き印の バプテスマ
4.
生まれ変わりし 喜びは
何に擬(なぞら)え 類(たぐ)うべき
我が身も魂(たま)も 皆捧(ささ)げ
御名を称(たた)えて 日を過ごさん
(ローマ6:1-14)
「それでは,どういうことになりますか。
恵みが増し加わるために,
私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
絶対にそんなことはありません。
罪に対して死んだ私たちが,
どうして,
なおもその中に生きていられるでしょう。
それとも,あなたがたは知らないのですか。
キリスト・イエスにつく
バプテスマを受けた私たちはみな,
その死にあずかるバプテスマを
受けたのではありませんか。
私たちは,キリストの死にあずかる
バプテスマによって,
キリストとともに葬られたのです。
それは,キリストが御父の栄光によって
死者の中からよみがえられたように,
私たちも,
いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが,
キリストにつぎ合わされて,
キリストの死と同じようになっているのなら,
必ずキリストの復活とも
同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに
十字架につけられたのは,
罪のからだが滅びて,
私たちがもはやこれからは
罪の奴隷でなくなるためであることを,
私たちは知っています。
死んでしまった者は,
罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに
死んだのであれば,
キリストとともに生きることにもなる,
と信じます。
キリストは死者の中からよみがえって,
もはや死ぬことはなく,
死はもはやキリストを支配しないことを,
私たちは知っています。
なぜなら,キリストが死なれたのは,
ただ一度罪に対して死なれたのであり,
キリストが生きておられるのは,
神に対して生きておられるのだからです。
このように,あなたがたも,
自分は罪に対しては死んだ者であり,
神に対しては
キリスト・イエスにあって生きた者だと,
思いなさい。
ですから,
あなたがたの死ぬべきからだを
罪の支配にゆだねて,
その情欲に従ってはいけません。
また,あなたがたの手足を不義の器として
罪にささげてはいけません。
むしろ,死者の中から生かされた者として,
あなたがた自身とその手足を
義の器として神にささげなさい。
というのは,
罪はあなたがたを
支配することがないからです。
なぜなら,あなたがたは律法の下にはなく,
恵みの下にあるからです。」
2014-06-17