鷹守イサヤ💞上主沙夜のブログ

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『戦国花嫁』での真田幸村の年齢設定について。

2016-04-29 | おしごと
『戦国花嫁』の登場人物、真田弁丸は後の真田信繁(幸村)なわけですが、年齢を定説とは異なる設定にした理由を一応解説しておきます。
別にショタが好きで12歳にしたわけじゃないんですよー(笑)

※以下、知名度の高い「幸村」と表記します。

さて、定説では幸村は永禄10年(1567年)生まれとされていますので、1584年に設定してある『戦国花嫁』では、定説に従えば18歳です。
実は初期設定では定説どおり18歳にしてありました。

しかし、いろいろな本を読み合せていくうちに、どうも腑に落ちなくなったのです。
いくら次男といっても、18歳で元服してないのは変じゃないか?

しかも19歳で上杉に人質に出てるのですが、この時まだ幼名の弁丸呼ばわりされてるのです。父・昌幸が上杉家に宛てた手紙に「次男弁丸」と書かれています。

また、上杉家から到着を知らせる手紙には、「御幼若之方」確かに受け取りました、みたいなことが書かれています。
19歳で「御幼若之方」はいくらなんでもひどい。たとえどんなに小柄で童顔だったとしてもw

幸村の元服は記録がなく、上杉では弁丸、豊臣に移ってからは信繁、左衛門佐と名乗ったそうなので、おそらく豊臣に移る直前辺りに元服を済ませたものと思われます。1585年10月頃??

そして初陣は24歳、小田原攻めに関連した松井田城の戦いとされています。これまたえらく遅いです。
※第一次上田合戦(1585年)が初陣という説もあります。このとき幸村は上杉に人質出仕中ですが、景勝の許しを得て帰郷し、代わりに母の山手殿が人質として赴いたのではないかとのこと。当時、山手殿が上杉家の海津城にいたのは資料から確実だそうです。

そもそも幸村の生年を1567年とするのは、1615年5月7日に49歳で戦死したという記述から逆算したもので、生年の確実な記録はありません。

この49歳というのも確実ではなく、『長澤聞書』には大坂の陣のとき幸村は44、5歳に見えた、と書かれています。
また、これより以前、九度山での蟄居中に幸村は姉婿に宛てた手紙で「急に老け込んで歯も抜け髭も真っ白で老人みたいになってしまいました」と愚痴をこぼしており、見た目よりも実年齢はずっと若かった可能性があります。

余談ですが、九度山から幸村はお兄ちゃんや家臣におねだりの手紙をいくつも出しており、「つぼを送りますので口いっぱいまで焼酎を詰めてしっかり封をして送り返してね(意訳)」などと無心しており、ちゃっかりしてるというか、無邪気というか。可愛い。
お兄ちゃんの信之(信幸から改名)もさぞ弟が可愛かったろうと、これは妄想ですが^^;
余談終わり~。

話は前後しますが、武田氏が落ち目になったとき、「人質から解放するから上田に戻れ」と勝頼に言われてしまい、母と兄とで峠越えをして野盗に襲われたりして、17歳の兄・信幸と母・山手殿の間で悲壮な会話が交わされるのですが、幸村は会話に加わっていません。16歳なら兄と一緒になって母を励ますなり、何か言ってもよさそうなものなのにねぇ。

以上のことから、実際はもっと若かったんじゃないかな~と悶々としてたところ、平山優氏の『大いなる謎 真田一族』を読みまして、氏の提唱する、天正元年(1573年)頃の生まれではないかとする説が非常にしっくりきたわけです。※ちなみに平山氏は大河ドラマ『真田丸』の時代考証担当者。

この説に従いまして、『戦国花嫁』では1584年で12歳という設定にいたしました。

しかし平山先生、TV番組(1/4放送のBS-TBS『にっぽん!歴史鑑定 真田幸村の半生』)では元亀2年(1571年)生まれではないかと仰ってましたね
この根拠は、天正13年(1585年)に幸村が家臣に宛てた書状に幼名の弁丸を示す「弁」の文字と花押が添えられていることで、武家で花押を初めて書くのは15歳の判初めの後なので、このときギリギリ元服前の15歳だったのではないか、とのことでした。

そう言われるとそっちのほうが信憑性あるな~と思うのですが、執筆中は花押のことは知らなかったもので、本を参考に1573年生まれとしましました。

話的には当時14歳でもいいかな~と思いますが、その辺はお好みで脳内変換してください^^;

繰り返しますが、ショタ幸村を狙ったわけではないですよ~(笑)。

以上、マニアックな裏話にお付き合いくださってありがとうございました!

物書きは学者じゃありませんので、不明な部分や不確かな箇所は好きなように解釈し、より好みで面白いと思うほうの説を選びますので悪しからずw


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