先日牛丼屋で晩飯を食べていると、知っている曲が流れてきました。卒業式の定番、「旅立ちの日に」です。卒業シーズンを迎えたこの時期、私「くりぼう」より5~6歳あるいはそれ以上若い世代、いわば「R30世代」の方にとって、小中学校時代を懐かしむ思い出の一曲という方も多いでしょう。私の学童期にはまだこの曲は作曲されていませんでしたので現役で歌ったことはありませんが、この手の歌が好きな私にとっては、たとえ腹が減って牛丼を頬張っているときであっても、箸を休めて聴き入ってしまう名曲であります。
しかし私にとっての卒業式の歌といえば、何と言っても「仰げば尊し」と「巣立ちの歌」であり、体育館の澄み切った空気に響き渡った歌声は一生モノの記憶です。ただ最近は、この「仰げば尊し」も時代にそぐわないとの理由で敬遠されることが多いようで、地元の地方紙の記事によると、現在は中学校で2割程度、小学校ではわずか数%程度の学校でしか歌われていないそうです。
「仰げば尊し」のように、まあ平たく言えば「先生ありがとうございました」という内容を歌うことに何の抵抗も疑問も感じなかった我々の世代ですが、これが敬遠される理由の一つには、教師自身が師、すなわち自分らへの感謝を生徒に歌わせているという構図そのものがおかしい、という理屈があるのでしょう。そういう歌なんだから別にいいじゃないのと思いますし、何とも味気ない話ではありますが、現代はそんなことすら言われそうな時代ですので、これはもう仕方ありません。
もうひとつの考えが、かつて何の疑問もなく「ありがたい」とされた行為が、現代においては「ありがたくない」行為、下手すると越権行為やパワハラといった迷惑行為にさえ解釈されかねないという、これもまた寂しい話ではありますが、現代の風潮によるものだということです。
「旅立ちの日に」は、ある公立中学校の教員が作詞・作曲したものです(作詞者と作曲者は異なります)。教員が自ら作詞したものですので、「先生ありがとうございました」的な詞が含まれないのはある意味当然で、この名曲に対して穿った見方をするつもりはありません。
しかし、最近の卒業式で好んで歌われるこれ以外の曲についても、やはり「先生ありがとう」と歌われているものは皆無に等しく、そこに作詞者の思惑があるのかどうか分かりませんが、「先生ありがとう」というフレーズそのものが稀有で「在り難い」存在となってしまったというのは皮肉な話です。
ご存知のように、「ありがとう」の語源は「有り難し」。「有る」のが「難い」から、ありにくい、めったにない。そのくらい貴重なことだという意味ですね。で、かつて当たり前のように歌われた「先生ありがとう」ですが、「ありがとう」の語源からすれば、
「それをしなくても教員としての務めは一応果たしたことになるような、それくらい当たり前ではない、簡単にはできないこと」
に対する言葉と言えそうです。
具体的には何かということになりますが、そのヒントが、これもこの時期よく耳にした「ありがとうさようなら」という曲の歌詞にありました。「ありがとう・さようなら先生」の出だしで、「叱られたことさえあたたかい」と続き、先生に対する思い出は何と叱られたことだけ。
しかし、自分の小中学時代を振り返って思い出すのは、確かにおっかない担任の熱血指導ばかり。一列に並ばされて思いっきり頬を引っぱたかれ、それが耳を直撃してしばらく耳が聞こえなくなり耳鼻科に連れて行かれたことなど、今後何があっても一生忘れません。いや、忘れまい。
生徒を引っぱたくときは、頬を狙うと反射的に顔をそむけて耳に当たり鼓膜を痛めることがあるので、顎を狙うようにするとか。他の生徒は顎で済んだのに、クラスで2番目に背の低かった私は平手を頬にくらい、しかもご多分に漏れず顔をそむけて耳を直撃。現代ならヤフーのトップニュースになっていそうなこの「指導」、20年前の当時は「とてもこわい先生」という生徒間の評判以外には何の騒ぎにもなりませんでした。悪いところを叱るばかりではなく、良いところを褒めて伸ばすというのが現代の姿とすれば、もはや隔世の感があります。
ただ、事の是非はともかく、恨まれたり嫌われたりすることを厭わず、ダメもなのはダメと厳しく教えるというのは簡単にできることではありません。そういう意味においては、かつての師の「仕打ち」もまた、ありがたし。
しかし、「ありがたし」の在り難い所以は、ありがたいことを為す側のみでは成立しないことにあります。為される側にも「ありがたき」を受け入れる器が必要で、この器が著しく小さいと何をやってもありがた迷惑、ちょっと度を超すとパワハラ、下手すると警察沙汰となりかねません。ところが、繰り返しになりますが「ありがたし」は「在り難し」。そして目の前にあるものは「在り難い」とは思いにくいので、ありがたさはすぐに伝わらないことの方が多く、相手次第ではありがた迷惑~パワハラと紙一重です。
それを承知の上で為されるからこその「ありがたさ」でもあるのですが、先ほどの病院送りの件、極端な例ではありましたが、自分の娘が同じ仕打ちにあっていたら黙ってはいられません。偉そうなことを書いている私自身も、一世代前の親とは違う哲学で以って生きており、卒業式に歌われる歌詞の変遷は生徒やその親が自然に受け入れられる価値観の変遷でもあると気付かされます。
現代において、かつての「ありがたき」を実践することはかように難しく、ならばと他人にはつい無関心になりがちで、ドラえもんに出てくるような近所のカミナリおやじは空想上の人物になってしまいました。
ただ幸いなことに、医療は目の前の患者さんを治療して治すという結果のはっきりした世界ですので、患者さんのためと思えば多少厳しく指導されてもそれに疑問を感じることはほとんどありません(私情が混じると別ですが)。教育現場とは異なり、「ありがたき」を実践することに何の迷いもいらないこと。そして、医学の内容は日々進歩しているので必ずしもそうではないですが、少なくとも医師としての生き様は先輩から教えられたとおりに後輩に教えていけばよいこと。これこそが医師の上下関係における「ありがたさ」にほかなりません。
牛丼屋で偶然聞いたBGMですが、年度末にあたり、後輩に嫌われたりうっとおしいと思われたりしないかと少々言葉を選びながらの指導になりがちな自分を省みる、良い機会にもなったのでした。
ただ、今回の内容で「ありがたい」と言わしむる先生のスケールには正直脱帽です。
・・・と、今回も強がっておきます。涙。
「くりぼう」が大阪から帰ったら,いっしょに「i刺身LITE」やろうね.
僕は結構厳しくしつけあれたほうなので少し今の風潮には違和感はあるのですが・・
厳しく叱られて良かったこともたまにあるので。
先生も見習って、時代に合わせつつ自分もしっかり後輩や子供のしつけをしていけるように頑張ろうと思います!
担任の先生に心から感謝してるからこそ、その気持ちを伝えたいという思いから涙しながら生徒全員が歌い、さすがの鬼教師も目に涙を浮かべながら堪えている姿がなんとも感動的でした。
「生徒に好かれることが先生の仕事ではない」
というセリフが、今になって心に響きます。
そうすることで初めて、許される行為も徐々に拡がってくると思うのですが、とっかかりの人間関係をつくることには多少の努力が必要ですよね。
対患者さんでも同様のことがいえるので、こういうのは手を抜かずにしっかり実践しておきたいところです。