自分の敬語に自信ない4割 文化庁の国語世論調査 (朝日新聞) - goo ニュース
「古文」は高校受験や大学受験(特に文系)に必ず含まれる教化かと思います。その問題の中に、
必ずといっても良いほどあるのが「棒線の動詞の主語は誰か」というものです。特に平安時代の書物、
それも宮中に仕えていた人たちの日記や物語を題材とした書物から出題される問題では欠かせません。
その問題の中にある敬語の動詞に線が引いてあり、これの主語は誰かと言うのを問う問題です。
そうなのです、敬語と言うのは主語と非常に関係があるのです。これは、実を言うと若干の例外を除いて
(例えば天皇が自分自身に対して尊敬語を使う場合など)清少納言の時代から現代まで同じです。
ただし日本語はやはり清少納言の時代から現代にいたるまで、「省略の言語」という点も同じなので、
予め書物のバックグラウンドがないと誰が「仰せられ」たのかはわからないという点があります
(平安時代の書物が一般庶民を目的として書かれたとは考えられないので、著者の役職がわかれば
誰が「仰せられ」たのかは、当時の貴族には理解できたのでしょう)。
敬語は主語または目的語で決まるというかなり単純なことを知ったのは、予備校時代のことでした。
そのときの古文の先生曰く、主語を敬うのが尊敬語、目的語(部)を敬うのが謙譲語、ということなのです。
これはいわゆる受験テクニックの1つかもしれませんが、同時に現代の一般生活においても、十分に活用が
可能だと思います。
しかし、ふつう学校で敬語を習う場合、尊敬語や謙譲語の説明については、ここで記すには複雑なくらいに
なにやら難しいことを言っていたと思います。敬語表現をはじめとした古文の文法は、古文を読みこなすには
どうしても避けられない点ですが、これで「古文はイヤダイヤダ!」と音を上げた人は多いことでしょう。
文法で音を上げるといえば、英語も同じです。日本の英語教育は文法重視だから日本人の英語能力は
上がらないのであって、英会話重視にしろという日本人は非常に多いです。しかしこれは大いなる
勘違いまたは負け惜しみだと思います。決して英会話軽視が良いというわけではありません。
むしろ英会話も文法も同じくらい重要なのです。日本語は省略や倒置表現が当たり前です。
しかし英語をはじめとした西ヨーロッパ系の言語は、スラング表現や通常の会話を含めても、
文法を大きく逸脱することはほとんどないと思います(中国語も文型の面では西洋言語と通じる
ものがあると思います)。
一部の学校では、英語教育に小学生の段階から慣れさせたり英語だけの授業をしたりするという方針を
とっているところもあります。個人的にはこれが子供たちの英語能力に役に立つのであれば、
決して悪いことではないでしょう。ただし、英語ならば英語を学ぶことを通じて、逆に日本語との
相違点を考えさせ、「わかりやすい日本語」、つまり主語・目的語・動詞がすぐ見たり聞いたりしてわかる
使い方とは何かを考えさせるこそ大事だと思います。(現に、大学時代に論文を書いたとき、
指導教授が草稿に赤を入れて返した部分は、「主語は?」「目的語は?」という日本語の表現方法として
最も基本的な部分でした)。そう考えれば、英語の文法が決して無駄なものではないこと、
そして日本語の文法も重要だということが理解できることでしょう。
ちなみに「をにどば」とは、予備校の先生が常に言っていたことですが、古文の文章中で主語が変わる
助詞を指します(これは100%通用するわけではなく、副詞句が挿入される前にこれらの助詞が使われる
こともあるのでご注意を)。助詞も敬語と同じくらいに日本語の特殊性を表しているのです。
「古文」は高校受験や大学受験(特に文系)に必ず含まれる教化かと思います。その問題の中に、
必ずといっても良いほどあるのが「棒線の動詞の主語は誰か」というものです。特に平安時代の書物、
それも宮中に仕えていた人たちの日記や物語を題材とした書物から出題される問題では欠かせません。
その問題の中にある敬語の動詞に線が引いてあり、これの主語は誰かと言うのを問う問題です。
そうなのです、敬語と言うのは主語と非常に関係があるのです。これは、実を言うと若干の例外を除いて
(例えば天皇が自分自身に対して尊敬語を使う場合など)清少納言の時代から現代まで同じです。
ただし日本語はやはり清少納言の時代から現代にいたるまで、「省略の言語」という点も同じなので、
予め書物のバックグラウンドがないと誰が「仰せられ」たのかはわからないという点があります
(平安時代の書物が一般庶民を目的として書かれたとは考えられないので、著者の役職がわかれば
誰が「仰せられ」たのかは、当時の貴族には理解できたのでしょう)。
敬語は主語または目的語で決まるというかなり単純なことを知ったのは、予備校時代のことでした。
そのときの古文の先生曰く、主語を敬うのが尊敬語、目的語(部)を敬うのが謙譲語、ということなのです。
これはいわゆる受験テクニックの1つかもしれませんが、同時に現代の一般生活においても、十分に活用が
可能だと思います。
しかし、ふつう学校で敬語を習う場合、尊敬語や謙譲語の説明については、ここで記すには複雑なくらいに
なにやら難しいことを言っていたと思います。敬語表現をはじめとした古文の文法は、古文を読みこなすには
どうしても避けられない点ですが、これで「古文はイヤダイヤダ!」と音を上げた人は多いことでしょう。
文法で音を上げるといえば、英語も同じです。日本の英語教育は文法重視だから日本人の英語能力は
上がらないのであって、英会話重視にしろという日本人は非常に多いです。しかしこれは大いなる
勘違いまたは負け惜しみだと思います。決して英会話軽視が良いというわけではありません。
むしろ英会話も文法も同じくらい重要なのです。日本語は省略や倒置表現が当たり前です。
しかし英語をはじめとした西ヨーロッパ系の言語は、スラング表現や通常の会話を含めても、
文法を大きく逸脱することはほとんどないと思います(中国語も文型の面では西洋言語と通じる
ものがあると思います)。
一部の学校では、英語教育に小学生の段階から慣れさせたり英語だけの授業をしたりするという方針を
とっているところもあります。個人的にはこれが子供たちの英語能力に役に立つのであれば、
決して悪いことではないでしょう。ただし、英語ならば英語を学ぶことを通じて、逆に日本語との
相違点を考えさせ、「わかりやすい日本語」、つまり主語・目的語・動詞がすぐ見たり聞いたりしてわかる
使い方とは何かを考えさせるこそ大事だと思います。(現に、大学時代に論文を書いたとき、
指導教授が草稿に赤を入れて返した部分は、「主語は?」「目的語は?」という日本語の表現方法として
最も基本的な部分でした)。そう考えれば、英語の文法が決して無駄なものではないこと、
そして日本語の文法も重要だということが理解できることでしょう。
ちなみに「をにどば」とは、予備校の先生が常に言っていたことですが、古文の文章中で主語が変わる
助詞を指します(これは100%通用するわけではなく、副詞句が挿入される前にこれらの助詞が使われる
こともあるのでご注意を)。助詞も敬語と同じくらいに日本語の特殊性を表しているのです。