昨日は、板橋のワーナーマイカルまで映画春の居場所を見てきました。舞台挨拶については別途書くとして、
まずは映画の感想などでも:
主人公のような高校生くらいの年頃にとって、「頭がいい」とはどういうことを指して言うのでしょう?
恐らくは、中間テストや期末テストで「いい点」を取って、通知表でも好評かを得ることなのでしょう。
主人公の「柏尾芽衣子」は確かに学校でも優秀な成績を収めていました。しかし芽衣子はその現実には
決して満足していませんでした。それは自分が通う高校がいわゆる「レベルの高くない」学校だから、
ではなくて、その成績の良さは要領よくテスト勉強した結果だからです。同時にそうしたことでしか
特徴を見出すことができない自分に満足できず、それでも周囲からは「良い子」として見られるという
矛盾にも耐えられなかったからです。
それをよく表したシーンのひとつに、親友の「牧田泰子」が将来の進路について聞きたいという
メモが芽衣子のところに回ってくるところです。「ケーキ屋を目指している自分に良きアドバイスを!」と
書かれた泰子からのメモを見て、「目指す進路がある親友と目指す進路がわからない自分」という対比を、
芽衣子は感じざるを得ず、「そんな泰子に何をアドバイスすればいいのか」と思ってしまうのです。
そんな芽衣子が恋心抱いたのが、"danger"という単語すら読むことができない同じクラスの「伊藤善行」です。
理詰めな芽衣子には、ポジティブ思考とも言えそうな善行がうらやましく思えてきます。ある日、ふとした一言を
きっかけにして、芽衣子は善行に恋しているという気持ちが強まります。そこで、思い切ってバレンタインデーに
チョコを渡して告白しますが・・・恋愛はテスト勉強のように要領だけではやっていけるわけでありません。
それからは、「何があったか覚えていないけど」、離婚も一度して、「春」つまり自分にとっての幸せが
何なのかわからないまま、10数年後のある日を迎えることになるわけです。
実を言うと、自分も学生の頃はどちらかと言うと芽衣子のように要領で学校の勉強を切り抜けたところが
かなり多かったです。ただ芽衣子のようなまじめな生徒ではなく、ある意味「ヤマを張る」的要素が
かなり強かったのですが。それでいて、バリバリの進学校ではなく、この映画の高校ほどでもないけど、
まぁそこそこ優秀だけど進学校ではない中途半端なレベルの高校に通っていました。
だからといって、芽衣子のような悩みを持ったことはありませんでした。それは、芽衣子は要領だけで
やっていってはいけないという直感が備わっていて、自分はバカの一つ覚えでそうしたところまで
脳みそが働かなかったからだと、かつてを振り返り、この映画を見て感じたところです。当然ながら、
要領を全否定するわけではないですが、芽衣子は高校生の段階で、結果や数字より超えた部分に
人の価値があるということを心得ていたのでしょう。しかし、芽衣子はそうした理詰めな部分に固まりすぎて、
「春の居場所」というものがどこにあるのかわからないまま過ごしたのだと思います。
と、自分の感想を書いてきましたが、この映画最大の特徴は、未完の作品の映画化ということです。
映画内では、ここまでは原作として書かれていたけど、ここから先は関係者への取材を通じて加筆されたと
思われる部分の境界は恐らくわかりやすい形で描かれています。しかしながら、未完ゆえ映画全般を通じて、
結論めいたことを求めても無理でしょう。芽衣子がどういう女の子で何を考えていたのか、10数年後の芽衣子は
どう思うだろうか、だけのお話です。この映画の製作サイドはこう考えたのだけど、もしかしたら違う人たちが
この映画を作ったら、また違う形になったと思います。
まずは映画の感想などでも:
主人公のような高校生くらいの年頃にとって、「頭がいい」とはどういうことを指して言うのでしょう?
恐らくは、中間テストや期末テストで「いい点」を取って、通知表でも好評かを得ることなのでしょう。
主人公の「柏尾芽衣子」は確かに学校でも優秀な成績を収めていました。しかし芽衣子はその現実には
決して満足していませんでした。それは自分が通う高校がいわゆる「レベルの高くない」学校だから、
ではなくて、その成績の良さは要領よくテスト勉強した結果だからです。同時にそうしたことでしか
特徴を見出すことができない自分に満足できず、それでも周囲からは「良い子」として見られるという
矛盾にも耐えられなかったからです。
それをよく表したシーンのひとつに、親友の「牧田泰子」が将来の進路について聞きたいという
メモが芽衣子のところに回ってくるところです。「ケーキ屋を目指している自分に良きアドバイスを!」と
書かれた泰子からのメモを見て、「目指す進路がある親友と目指す進路がわからない自分」という対比を、
芽衣子は感じざるを得ず、「そんな泰子に何をアドバイスすればいいのか」と思ってしまうのです。
そんな芽衣子が恋心抱いたのが、"danger"という単語すら読むことができない同じクラスの「伊藤善行」です。
理詰めな芽衣子には、ポジティブ思考とも言えそうな善行がうらやましく思えてきます。ある日、ふとした一言を
きっかけにして、芽衣子は善行に恋しているという気持ちが強まります。そこで、思い切ってバレンタインデーに
チョコを渡して告白しますが・・・恋愛はテスト勉強のように要領だけではやっていけるわけでありません。
それからは、「何があったか覚えていないけど」、離婚も一度して、「春」つまり自分にとっての幸せが
何なのかわからないまま、10数年後のある日を迎えることになるわけです。
実を言うと、自分も学生の頃はどちらかと言うと芽衣子のように要領で学校の勉強を切り抜けたところが
かなり多かったです。ただ芽衣子のようなまじめな生徒ではなく、ある意味「ヤマを張る」的要素が
かなり強かったのですが。それでいて、バリバリの進学校ではなく、この映画の高校ほどでもないけど、
まぁそこそこ優秀だけど進学校ではない中途半端なレベルの高校に通っていました。
だからといって、芽衣子のような悩みを持ったことはありませんでした。それは、芽衣子は要領だけで
やっていってはいけないという直感が備わっていて、自分はバカの一つ覚えでそうしたところまで
脳みそが働かなかったからだと、かつてを振り返り、この映画を見て感じたところです。当然ながら、
要領を全否定するわけではないですが、芽衣子は高校生の段階で、結果や数字より超えた部分に
人の価値があるということを心得ていたのでしょう。しかし、芽衣子はそうした理詰めな部分に固まりすぎて、
「春の居場所」というものがどこにあるのかわからないまま過ごしたのだと思います。
と、自分の感想を書いてきましたが、この映画最大の特徴は、未完の作品の映画化ということです。
映画内では、ここまでは原作として書かれていたけど、ここから先は関係者への取材を通じて加筆されたと
思われる部分の境界は恐らくわかりやすい形で描かれています。しかしながら、未完ゆえ映画全般を通じて、
結論めいたことを求めても無理でしょう。芽衣子がどういう女の子で何を考えていたのか、10数年後の芽衣子は
どう思うだろうか、だけのお話です。この映画の製作サイドはこう考えたのだけど、もしかしたら違う人たちが
この映画を作ったら、また違う形になったと思います。