その1 超久しぶりに我がこのブログサイトにアップ 練習編
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うまくいきますかどうか???
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2021年2月20日 午前4時06分
それではコピペスタート
その1 日本語って???? その歴史的考察
2015-03-29 04:14:46 | Weblog
平成27年 西暦2015年3月29日 日曜日
その1 日本語って???? その歴史的考察
只今午前4時前
「たけしの教科書に載らない日本人の謎」あなたは何故日本語を話すのか?たけしと聖徳太子は会話できない?…を見ていて寝るのが遅くなりました。
結構ためになる勉強になるいい番組でした。
銀色の艦隊さんからコピペ http://omoixtukiritekitou.blog79.fc2.com/blog-entry-1331.html
今回は2012年1月9日放送の「たけしの教科書に載らない日本人の謎」あなたは何故日本語を話すのか?たけしと聖徳太子は会話できない?より
1.9たけしの教科書に載らない日本人の謎-01 37
相変わらず時間が取れずに書き起こしはろくにできませんでしたが、動画がUPされていましたのでそちらを紹介します・・・。
今回も、日本人とは、日本語とは、普段自分たちの話し、書いている日本語の成り立ちはどうなっているのか
まさに日本人の謎を知る上ではよかったのではないでしょうか?
タイトルが「たけしの教科書に載らない日本人の謎」となっていますが
これこそ教科書に載せて子供達に教えるべき事ではないかと思います。
多分、これを知っているのといないのとでは歴史や古文など学ぶ上での学びやすさ?必要性、意気込みの上でも大きく違うように思います。
以下に冒頭部分だけ書き起こしをしましたので紹介します。
その他の具体的な内容は「ぼやきくっくり」さんが書き起こしをされていますのでそちらも参照してください。
ぼやきくっくり
「たけしの教科書に載らない日本人の謎2012」日本語特集
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1126.html
ぼやきくっくり さんから明治以降をコピペ
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(7)明治時代
日本に変化や改革をもたらした明治維新。
実は国語が生まれるきっかけとなったのも明治維新。
明治維新後の日本には大きな問題が。
それは、日本語バラバラ問題。
江戸時代、各藩の上級武士たちは江戸の言葉を共通語としていたが、明治維新に関わった多くの武士は下級武士たち。
方言のためコミュニケーションが取れない事態に。
それは、最後の将軍、徳川慶喜の回想録「昔夢会筆記」にも残っている。
「昔、薩摩の人に会った時に困ったことがある。話をしても、言う事がちっとも分からぬ。向こうでは一生懸命話すけれども、
少しも分からぬ。何とも答えのしようがない。ただふんふんと聴いたけれども、いいとも言われず、悪いとも言われず、はなはだ困った」
コミュニケーションが取れない状態では近代国家としてやっていけない。
そこで、日本人なら誰でも書けて話せる日本語を作ろうということになり、明治時代に初めて統一された日本語が誕生するのだ。
「明治時代になると統一国家になってきて、教育も統一する、軍隊も作っていくという時代になってきますと、
やはり統一した言葉が必要になります」(山口謡司准教授)
まずは子供の教育からと、明治5年、全国で小学校制度が始まった。
だがその時、東京には2つの言葉が。
下町言葉と山の手言葉。
地方出身者は、洗練されたインテリの雰囲気を持つ山の手言葉に惹かれていった。
そして山の手言葉を日本の標準語とすることになったのだ。
例外はある。
それは「○○です」という語尾。
これはもともと「おいらん」の言葉。
ちなみに武士は「○○でござる」、商人は「○○でございます」、庶民は「○○だ」と話していた。
「○○です」は、明治の初期に短くて上品だと上流階級で流行、標準語として広まっていった。
さらに地方の言葉で標準語に取り入れられたものもある。
それは「おかあさん」という呼び方。
東京では江戸時代まで「おっかさん」と呼ばれていた。
それまで「おかあさん」は西日本の一部でしか話されておらず、全国に広まったのは明治時代に標準語とされてから。
また、「僕」「君」はもともとは維新の志士たちの流行り言葉だった。
長州藩士などが「下僕」を意味する言葉を「僕」、「主君」を「君」と使い始め、定着していった。
そんな中で、日本で最初にできた教科書が「小學讀本」。
しかしそれは、小学1年生が理解するには難しそう。
アメリカの教科書を漢文訓読調に翻訳したものだった。
そのため難しすぎて、標準語を教える目的には全く適していなかった。
明治維新によって外国の言葉や文化が入ってきたが、それに当てはまる言葉が日本にはないことも多く、
そのため明治初期には、このような人が溢れていたという。
「僕はブックを買いにテンミニッツ歩いてストアまで行ってきたよ」
ルー大柴のように、日本語に外国語を混ぜて話す人が激増。
これではいかんと、文学者たちは必死に造語を作った。
皆さん、この中の言葉で、どれが明治以降に作られた言葉か分かりますか?
「民主主義」「人民」「自由」「演説」
「聴診器」「交響曲」「野球」「卓球」
正解は全部!
英語のスピーチを演説と訳したのは、福沢諭吉。
教えを「演(の)べ説く」という仏教用語からそう訳した。
「日本人が近代化を早く果たせた大きな原因のひとつは、西洋の思想、科学技術の言葉を日本語として理解できる形に翻訳できたこと」(沖森卓也教授)
日本人が作った和製英語は、中国に逆輸入された。
telephoneを意味する「電話」、これも元は日本語。
そして国名の「中華人民共和国」までもが、日本が作った訳語が採用された。
近代化の遅れた中国は、日本から学べ!と、和製英語を次々取り入れた。
現在の中国でも日本語は人気。
「美白」「歌姫」「人妻」なども日本から輸入した言葉。
今でも日本人は「婚活」「草食男子」など新しい造語を次々作り出しているが、特に明治時代は新しい一気に新しい文化が入ってきて、
次々に新しい造語が生まれていった。
そんな中、今の日本語を語る上で欠かせない大革命が。
それが、「言文一致運動」。
それまで日本では、書き言葉と話し言葉は区別されてきた。
文明開化で多くの西洋人と会った日本人は、そこで日本語のある謎に気づく。
話し言葉で「私は筆を持っています」を書くと、「我レ筆ヲ持チタリ」となる。
日本人の当時の書き言葉は、文語体と呼ばれる漢字とカタカナの漢文訓読調。
「私は筆を持っています」を英語で言うと「アイハブアペン」、これを書くと「I have a pen」。
そう、英語では話し言葉をそのまま同じ発音で書き記していた。
日本語が書き言葉と話し言葉が違っていることに初めて気づいた日本人。
一方、日本にやってきた外国人は、日本語の難解な書き言葉にショックを受けた。
当時、日本に英語を教えに来たイギリス人チェンバレンは「日本事物誌」の中で、「話し言葉と異なる書き言葉がある日本語、
それを習得することはほとんど超人的な難業となる」と書き記している。
「日本語の話し言葉はそれほど難しくないが、書くのはなかなか大変。西洋ではアルファベットに代表されるような音を表す文字だけで事足りるが、
日本語になると漢字がある。漢字がたくさん使われているし、さらに漢字にも音と訓とがあって非常に複雑ですね」(沖森卓也教授)
中国から文字がやってきて約2000年。
「万葉仮名」「ひらがな」と日本語の表記も進化してきたが、話し言葉と書き言葉は異なるものとされてきた。
ようやくその2つが統一される時が。
話し言葉と書き言葉を一致させる「言文一致運動」が起こった。
その革命児が明治の小説家たち。
まず二葉亭四迷。
明治20年発表の「浮雲」という小説の語り口は、落語を参考にしたと言われている。
現代でも何の違和感もなく読めるこの落語調は大成功。
しかし、これはカジュアル過ぎると待ったをかけたのが森鴎外。
明治23年発表の「舞姫」では……
文語体ながら、「愁(うれひ)」「目(まみ)」など和語を駆使した優雅で美しい文体を披露。
そこで文語体が復活かと思われたが、それを打ち破るべく登場したのが尾崎紅葉。
これまであまり使われなかった言葉を小説に使った。
それは、「生きているのである」「好かぬのである」「一大事なのである」、この文末。
「○○である」を上手く小説に取り入れる、それこそ尾崎紅葉が起こした小説家の革新だった。
「○○でございます」「○○です」「○○だ」では、読み手に直接働きかける主観的な文章になってしまう。
「○○である」はそれまでできなかった客観的な説明を可能にして、小説界で大ヒットした。
この「○○である」を使って生まれたのが、夏目漱石の「吾が輩は猫である」。
さまざまなパロディ本が続出するほどの人気となった。
はじめは反発のあった言文一致も、そのとっつきやつさからすぐに定着していった。
明治の人たちのさまざまな努力の結果、明治33年、小学校令が改正される。
読書・作文・習字の3教科を統一、「国語」という教科が新設された。
そして全国一律で発行された国語の教科書で、画期的なことが起こった。
ひらがなは一音につき一字だけを標準とする。
つまり、ひらがなを48文字に統一したのだ。
それまでは一音に何文字もひらがながあった。
平安時代にできたひらがなは200文字以上。
標準から外れたひらがなは変体文字と言われ、その名残は今も残っている。
「うなぎ」の「な」や、「そば」という字。
そして、お祝いの花に添えられる「○○さん江」の「江」は、もともと漢字ではなく変体仮名。
このようにたくさんあったひらがなを、子供たちを教育するのに都合の良いよう一音一字に統一、現在私たちが使っている50音が完成した。
しかし文字が統一されても、文字のヒエラルキー(階層構造)は依然、ひらがなより漢字であった。
まず小学校で初めに習うのはカタカナだった。
直線的で画数の少ないカタカナの方が覚えやすいというのが、その理由。
憲法など公式文書で常に記されるのは常にカタカナ。
ひらがなよりカタカナ、カタカナより漢字というヒエラルキーは、日本が戦争に敗れるまで続いた。
最初の口語文の法律となった、昭和21年の日本国憲法。
文語体ではなく口語体で表記、カタカナではなくひらがなを使った。
それは、憲法を日本人の誰もが理解できるようにし、平和な国を築きたいという願いから。
同時に、小学校の教科書も戦後はひらがな優先になった。
その理由は、日常に使う文字はひらがなが圧倒的に多く、カタカナが覚えやすいとは限らないというもっともなものだった。
戦後は法律文も全てひらがなという習慣が確立したのだ。
では、明治時代、日本語はどのように話されていたのか?
今から112年前にフランスで録音された日本人最古の音声。
パリ万博に訪れた、東京新橋の料亭の女将の音声(番組では実際にテープを再生)。
「おはようございます。昨日(さくじつ)ね、うちのおたまさんとね、パノラマからずっと博覧会の見物に出かけたんで、
見栄いってパリッ子だろっていう風でやったんですよ。そうするとね、足に豆こしらえちまったん。うちにかえってくると泣きっ面さ」
明治時代の東京の話し言葉は、今の日本人とほとんど変わらない。
しかし、書き言葉に比べ、話し言葉の標準語革命は遅れた。
「学校の教科書だけでは、聞いて分かるわけではない。実際に標準語を面と向かって話す機会は、まだまだ少なかった」(沖森卓也教授)
レコードも録音テープもなかった時代。
正しい発音やイントネーションがあまり分からなかった。
そこに、標準語を広めたあるメディアが登場する。
(8)大正時代〜
大正末期、関東大震災から2年、ラジオ放送が始まったのだ。
「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります…」
しかしすぐに標準語が定着したかというと、そうではなかった。
その理由は、これを聴けば分かる。
昭和の初め頃のラジオ放送より(番組では実際にテープを再生)。
「理想とは何か。自他共栄ということである。他を無視して、己のためのみをはかることは、社会生活とあいいれぬ」
当時の放送の言葉は、明治以来の教育の影響で、難解な漢文訓読調が多く使われていた。
そこで放送局では、このような注意事項を配って対策とした。
「演説や朗読の口調を避け、ゆっくりした親しみのある調子で、座談風にお話くださることが感銘を与えるようであります…」
そして昭和10年、全国に向けて、国語教育のための学校放送が開始された。
子供のためだけでなく、標準語が上手く話せない先生のための朗読講座も開始。
そこで標準語の正しい発音やアクセントが指導された。
そんな涙ぐましい努力の結果、日本語は一気に標準語の画一化へ向かった。
皆さん一度は聞いたことがあるだろう、昭和11年のベルリンオリンピックの前畑秀子選手の競泳200mの実況中継を。
「前畑嬢、わずかにリード!前畑嬢、わずかにリード!…」
「前畑がんばれ!前畑がんばれ!リード!リード!…」
「あと5m、あと5m!…」
「勝った!勝った!勝った!…前畑の優勝です!」
ラジオ放送が始まってからわずか12年ほど、現在と変わらぬ標準語の放送が日本中に流れていた。
漢字がやってきて2000年。
万葉仮名を使い初めて1600年。
ひらがなができて1100年。
明治になって150年。
我々日本人は、全国どこでも分かる日本語を手に入れたのだ。
誰もが分かる標準語から、郷土色豊かな方言まで生き続ける日本語。
そこには、教科書に載らない日本人の謎が詰まっているのだ。
1回目の休憩
2015-03-29 03:58:43
おやすみなさい
以上でコピペ終了
2021年2月20日 午前4時17分 アップ