私は、今まで生きてきて本当に肉親と言える人を初めて亡くしました。
父と母は農家で、朝早くから働き夜も遅くで
私たち兄弟は、いつも祖母といっしょに居ました。
雷が鳴ると、四人で丸くなり仏壇に線香を立て
「桑原桑原・・」と唱えます。
雷は、桑原が嫌いだそうで桑原には絶対に落ちないとの言い伝え。
そんな時でも父と母は、雨の中野菜を取っていました。
祖母の一生は゛幸せ゛と言えるものではありませんでした。
30歳で夫を戦争で亡くし、たった一人の娘が背中で生き絶え・・
3人の子供と、弟の子供1人を貧しい中で育て・・・
それでも、必死になって生き晩年はいつも病気との闘いでした。
幸せだった時があるならば、やっぱりそれは私たち孫が生まれた頃かも
しれません。
私は、高校まで祖母と一緒に寝起きしていました。
高校生の私に祖母は呼びます。
「おーい、10時になったで寝るに~」と。
私も素直なもので「はーい」と、一緒に寝てました。
小さな頃の私は、祖母の手の皮をつまんでは
「おばあちゃの手伸びるよー」と喜んでいました。
祖母は「いてぇな~」と、怒ります。
そして、時たま歌います♪ちんちん電車が通ります♪と・・
♪京の五条の橋の上・・♪と、歌ってくれたのも祖母だったかなあ・・
私が25歳の時、失明の危機に合います。
脳外科で、CTを取り家に「脳腫瘍でなかったこと」を告げようと
電話すると電話に出たのは祖母でした。
「おばあちゃなあ、もう長く生きたできんたに゛目゛をやりてぇよ」
電話口で、祖母は泣き私も泣いてました。
そんな祖母も実は、いつでも一番大事なのは父!!
私が5年の時、結膜炎になり父に病気を移したのです。
思いのほか父の病は重く、なかなか治りません。
祖母は私を責めました。
「おとうちゃの目が治らなかったらどうする」
子供ながらもとっても悲しかったです・・
10年くらい前から、いよいよ動けなくなり
いつもベットで過ごす様になりました。
母の介護生活はとっても大変だったと思います。
頑固な祖母、そしてマザコンの父・・・
私は、祖母は好きでしたが祖母にきつい言葉を言う母は
ちょっと嫌でした。
だけど、今なら判ります。
祖母にとっては母は赤の他人なんです、いつまでも・・
何をしてあげても「御礼」を絶対言わない祖母。
段々弱っていく祖母を見ていると、
早く楽になってくれた方が良い・・と、思うようになりました。
が、実際に現実にその場が来るとやっぱり悲しいものです。
先週の金曜・・・
延命装置をつけた祖母を見るのは、とてもつらいものでした。
96歳にもなって、延命装置がなんで必要なんだ・・・
理由は、遠くにいる祖母の息子達が゛死に間に合う様に゛との
父の配慮と、父の少しでも長く・・との気持ちでしょう。
確かに、祖母の心臓は強かったので、今まで何度も死に直面しながら
天国までは行けなかったのです。
が、酸素が十分に行き渡らない脳は当然死んでしまいます。
脳が働かなければ、自然に心臓も弱くなります。
血圧が40に下がり、そして私は骨と皮だけになった手を握りました。
おでこをつついても「いてぇなあ~」と言う、怒りの声もありません。
細い手は、私の手の温度でかろうじて温いだけです。
おばさんが言います。
「もう、駄目みたい・・」
その時、ドアがガラと開きました。
私は、手を離しました。
「1時27分、ご臨終です。」
結局、叔父達は間に合いませんでした。
96年間の祖母の生涯は終わりを告げました。
温かい、春の光の様な祖母はもう永遠に居ないのです。
それから、お葬式の写真があまりにも良いので泣け、
お通夜のお経で泣け、永久の旅支度で泣け、火葬で泣け・・・
絞る涙も無いほど泣けました。
だけど、お葬式の喪主の挨拶で父が言った言葉・・
「家内には、10年間母の介護をしてくれ本当に感謝しています」
おばあちゃは本当に可愛くない、おばあちゃだったけど
父が代わりにお礼を言ってくれました。
これで、母の苦労も救われた気がしました。
「おい、きんたやこの坊の頭をなんとかしないよ」
チビボウの1ヵ月検診の時の祖母の言葉です。
キューピーさんもみたいな、チビボウの頭の毛が気に食わなくて
祖母は言いました。
今思い出せる限りの祖母の形のある言葉です。
もう、10年も前の言葉ですが・・・
父と母は農家で、朝早くから働き夜も遅くで
私たち兄弟は、いつも祖母といっしょに居ました。
雷が鳴ると、四人で丸くなり仏壇に線香を立て
「桑原桑原・・」と唱えます。
雷は、桑原が嫌いだそうで桑原には絶対に落ちないとの言い伝え。
そんな時でも父と母は、雨の中野菜を取っていました。
祖母の一生は゛幸せ゛と言えるものではありませんでした。
30歳で夫を戦争で亡くし、たった一人の娘が背中で生き絶え・・
3人の子供と、弟の子供1人を貧しい中で育て・・・
それでも、必死になって生き晩年はいつも病気との闘いでした。
幸せだった時があるならば、やっぱりそれは私たち孫が生まれた頃かも
しれません。
私は、高校まで祖母と一緒に寝起きしていました。
高校生の私に祖母は呼びます。
「おーい、10時になったで寝るに~」と。
私も素直なもので「はーい」と、一緒に寝てました。
小さな頃の私は、祖母の手の皮をつまんでは
「おばあちゃの手伸びるよー」と喜んでいました。
祖母は「いてぇな~」と、怒ります。
そして、時たま歌います♪ちんちん電車が通ります♪と・・
♪京の五条の橋の上・・♪と、歌ってくれたのも祖母だったかなあ・・
私が25歳の時、失明の危機に合います。
脳外科で、CTを取り家に「脳腫瘍でなかったこと」を告げようと
電話すると電話に出たのは祖母でした。
「おばあちゃなあ、もう長く生きたできんたに゛目゛をやりてぇよ」
電話口で、祖母は泣き私も泣いてました。
そんな祖母も実は、いつでも一番大事なのは父!!
私が5年の時、結膜炎になり父に病気を移したのです。
思いのほか父の病は重く、なかなか治りません。
祖母は私を責めました。
「おとうちゃの目が治らなかったらどうする」
子供ながらもとっても悲しかったです・・
10年くらい前から、いよいよ動けなくなり
いつもベットで過ごす様になりました。
母の介護生活はとっても大変だったと思います。
頑固な祖母、そしてマザコンの父・・・
私は、祖母は好きでしたが祖母にきつい言葉を言う母は
ちょっと嫌でした。
だけど、今なら判ります。
祖母にとっては母は赤の他人なんです、いつまでも・・
何をしてあげても「御礼」を絶対言わない祖母。
段々弱っていく祖母を見ていると、
早く楽になってくれた方が良い・・と、思うようになりました。
が、実際に現実にその場が来るとやっぱり悲しいものです。
先週の金曜・・・
延命装置をつけた祖母を見るのは、とてもつらいものでした。
96歳にもなって、延命装置がなんで必要なんだ・・・
理由は、遠くにいる祖母の息子達が゛死に間に合う様に゛との
父の配慮と、父の少しでも長く・・との気持ちでしょう。
確かに、祖母の心臓は強かったので、今まで何度も死に直面しながら
天国までは行けなかったのです。
が、酸素が十分に行き渡らない脳は当然死んでしまいます。
脳が働かなければ、自然に心臓も弱くなります。
血圧が40に下がり、そして私は骨と皮だけになった手を握りました。
おでこをつついても「いてぇなあ~」と言う、怒りの声もありません。
細い手は、私の手の温度でかろうじて温いだけです。
おばさんが言います。
「もう、駄目みたい・・」
その時、ドアがガラと開きました。
私は、手を離しました。
「1時27分、ご臨終です。」
結局、叔父達は間に合いませんでした。
96年間の祖母の生涯は終わりを告げました。
温かい、春の光の様な祖母はもう永遠に居ないのです。
それから、お葬式の写真があまりにも良いので泣け、
お通夜のお経で泣け、永久の旅支度で泣け、火葬で泣け・・・
絞る涙も無いほど泣けました。
だけど、お葬式の喪主の挨拶で父が言った言葉・・
「家内には、10年間母の介護をしてくれ本当に感謝しています」
おばあちゃは本当に可愛くない、おばあちゃだったけど
父が代わりにお礼を言ってくれました。
これで、母の苦労も救われた気がしました。
「おい、きんたやこの坊の頭をなんとかしないよ」
チビボウの1ヵ月検診の時の祖母の言葉です。
キューピーさんもみたいな、チビボウの頭の毛が気に食わなくて
祖母は言いました。
今思い出せる限りの祖母の形のある言葉です。
もう、10年も前の言葉ですが・・・
生まれた時から祖父母のいなかった私には
きんちゃんがとても羨ましいです。
初孫として生まれた我が家の旦那さんも
私に話さないけど、思い出が沢山あるんだろうと思います。
大切な人と別れた後、思い出が一番悲しく泣けますが、時間と共にその思い出が自分を支えてくれることも経験しています。
いっぱい泣けたきんちゃんは「幸せ者」ですよ。
お母さんにやさしくしてあげてね。
長いこと大変だったから。
きんちゃんもお疲れ様でした。
休んでね。
実は、家のおばあちゃは゛母の愛゛も
ほとんど知らないんですよ。
私も゛祖母の母゛の話は聞いたことが
ありません。
が、母の言うには
「神経病で自殺したと・・」
多分、本当のことでしょう。
祖母はそのことは一切言いませんでしたが・・
なんでも、まだ祖母が十代の時の様です。
本当に色々と苦労した祖母です。
だけど、私には本当に優しいあったかい
祖母でした。
なので、色々と思い出すだけで
涙がやっぱり出ます。
だけど、これが両親なら私はいったいどうなる
のでしょうか・・・
今から考えると恐ろしくなります。
お祖母さまの思い出、たくさんおありなんですね。
私は祖父母と父を亡くしています。
転勤族だった両親と離れて、祖父母の家から高校へ通っていたので、祖母にはとても可愛がってもらいました。
だから、祖母が亡くなったときにはいっぱい泣きましたよ。
無邪気で楽しい祖母だったので、今でもよく話題に上ります。
きんたさんのお母さま、介護たいへんでしたね。お父さまが感謝の言葉を言ってくださり本当によかった。
きんたさん、お疲れ様でした。
silent-hollyさんもおばあさまとの
思い出がいっぱいなんですね。
実家に行っても、おばちゃが居ないのは
なんだか寂しいです。
だけど、いつかまた私が天国に行く時には
迎えに来てくれる様な気がします。
まだまだ行かないけどね。
おばあちゃが使っていた、昔のタンスは
私が形見にもらうことにしてます。
取っ手は、鉄砲の弾にする様に取られてしまって無いんだけど・・
何しろ、戦時中の代物なので・・