昨日、ブルースハープを購入した。常時使って居るハープが壊れたからだ。谷口楽器店のハーモニカ売り場から「Old・Standby」と言う機種と「Marin・Band」と言う機種の計2本だ。今日届いた。「Old・Standby」がkeyCで、「Marin・Band」がkeyDです。本当は2本とも「Old・Standby」が欲しかったのですが、本元のドイツのHOHNER社にもkeyDの在庫切れで在庫が無かった為。だから、「Marin・Band」のkeyDにしたのだが、、「Marin・Band」は久々に吹く。この谷口楽器は、日本唯一のハーモニカ専門店で、あらゆる種類のハーモニカがある。海外のハーピストが日本に来ると皆んなこの店に来てハーモニカを購入して行くのです。最近では中古レコード店には海外からレコードマニアが来日して購入して行く。カセットテープ専門店「Waltz」も海外からの客や、アーティストが来て購入して行くとの事だ。日本は結構、海外の音楽通に「音楽の都」として認知されて居る。外人たちに人気がある音楽の都は東京だ。そして新宿、渋谷だ。それから下北沢も穴場で人気があるそうだ。一昔前までは、日本人は音楽を軽く見て居ると言われて居た。しかし、今や、日本は凄い国だと言われて居るのです。確かに中古レコード店は可也な数の店が東京の新宿。渋谷。下北沢。お茶の水などに集結して居る。そしてどの店も入り易く、マニアックな品揃えだ。これでは外国人が来る訳だと思います。まだ中古レコード店を知らない人は一度行って見ましょう。視野が広がりますよ...。
I Remember Hiroshi
山下 伶 / リベルタンゴ
CAT'S EYE(「キャッツ・アイ」)【クロマチックハーモニカ(徳永有生)】
熊蜂の飛行 RKデュオ 山下伶・竹内海人 クロマチックハーモニカ
神業 オーケストラに勝るハーモニカ
M9 Akatsuki Performed by MONSTER大陸
M1 The Call Performed by MONSTER大陸
Same Old Blues (Don Nix) / Five Good Men
kiyasumeの居住スペースです。万年床とテレビとパソコンそしてカセットデッキ。狭いのです。片付けて無いのですが・・・。
クミコ 『身も心も』 2011/01/19
EGO-WRAPIN' - 色彩のブルース
サイコアナルシス - Ego wrappin'
従兄弟の"けんじ"は今、67歳ぐらいだと思うが、白痴だ・・・。飛んだバカ野郎だ。だってね皆さん、今から18年近く前に、私の処にやって来て、こう言うのですよ。「ねぇ〜。プロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントがさあ、リングでさぁ、花束持って来た女の子のスカートめくり上げてさぁ、パンティーの中に手を突っ込んで、でへへと笑ったんだよ、え〜〜〇〇ちゃん!!」と得意げに言うのだ。だ、れ、が!そんな事をする!!アンドレは日本ではヒールだったが、アメリカではスーパー・ヒーローだった。レスラーはバカだと思って居るのだ。思い付いた嘘を、私に言って、自分がどう思われるのかも解らないバカだ。私はそれ以来、ケンジの事を”白痴のけんじ”と読んで居る”白痴のけんじ”は、それ以降、私が会社を辞めてからもその白痴っぷりを遺憾無く発揮したそうだ。有名な話にこんな事がある。或る日、”けんじ”は食事中に社員に向かって胸を張って堂々と言ったそうだ「皆んな!ヤマダ電機駅が出来たんだよ!え〜〜皆んな!!知らないのかい?」その話を聞いた、アルバイトの役者を目指している若者が「駅を作るのって許可が降りるのにどの位の行政の関与があると思うのですか、駅なんかそう簡単には出来ませんよ」と詳しい事を言い出したら”けんじ”は「だって!見たんだもの!ヤマダ電機駅と書いてあったんだもの。」と言ったそうだ。社員たちやら、アルバイトは皆んなして、こんなバカは見た事も無いと呆れ返ってそれ以後、誰も”けんじ”とは話さなく成ったそうだ。すると"けんじ"はそれから3日程して「皆んな、此間は御免なさい。ヤマダ電機駅は私の見間違いでした」と言ったそうだ。皆んなは呆れ返った、「あっ、そう!」と言って、それからもう”けんじ”とは話をしなかったそうだ。
”けんじ”は戦隊モノが好きだった、中でも好きなのはゴレンジャーだ。「「青レンジャ〜、赤レンジャ〜、黄レンジャ〜、緑レンジャ〜」ゴレンジャーだ!!」と言って居た。歳は幾つだ。当時”けんじ”は60歳だ。そして言うのだ。「最近の特撮は凄いんだよ〜〜。え〜〜〜〇〇ちゃん!!」さて、今回は以前に書いた”けんじ"に付いての文です。
私が会社で働いて居た頃、従兄弟のゆきかずとは一緒には極力乗らない様にして居たのだが、イビリが車の中で始まるからだが。ゆきかずの弟のけんじとはよく一緒に乗った。ゆきかずと一緒に乗ると何時もファミリーレストランで食事をするのだが。弟のけんじは、いつも定食屋か、ラーメン屋だった。私が餃子とラーメンのセットで500円の店だが美味い店を探して、そこで食べようと言うと1回は入ったが、次からは定食屋に連れて行かれて、800円のすき焼き定食を食べようと言う。勿論割り勘だ。私は1日千円までで済まそうとしたので、800円も昼に金を掛けてしまうと、残り200円しか残らない。その200円で缶コーヒーを2人分買うのだ。私は幾ら相手が気に喰わない相手でも、相手の分まで買っていた。けんじは当たり前の様に私から毎日缶コーヒーを貰っては飲んでいた。或る日、私は、毎日けんじにすき焼き定食を食べようと言われて。殆困り、ケチャップ・ライス380円を頼む様になった。するとけんじはニヤニヤ楽しそうな顔をして私に「あれ、〇〇ちゃんすき焼き定食、なんで食べないのぉ〜。」と聞いて来るが。私は、もう、その手に乗るかと毎日、ケチャップ・ライスを食べて食べて、食べまくった。けんじは何時も800円のすき焼き定食だ。続く訳が無い。けんじがとうとう根負けして別の店で食べようと言い出した。だから私は「あれ、いいじゃない、この店で!」と言ってまたケチャップ・ライスを注文した。言っちゃあ、何だが。私は毎日同じ食事でも飽きない。普通の人は飽きるらしいが、私は大丈夫なのだ、現に今も朝飯は、もやしとニラを炒めてソースをかけて、それと目玉焼きに、食パン一枚とコーヒーだ。昼は食パン一枚にコーヒー。夜に成ってから要約、宅配弁当を食べる。間食はしても食パン一枚。コーヒーは何倍でも飲むけど。砂糖の代わりに人工甘味料を入れて飲む。もう退院してから1年近くこのメニューは変えない。外で外食の誘惑に取り憑かれるが、入っても、ファースト・フード店でハンバーガーとカフェラテしか食べない。ラーメンは食べたいが食べないのだ。最近はファースト・フードでも金が掛かるので、コンビニでハンバーガ−130円のものと缶コーヒー1本か、冬場は肉まん一つにコンビニで売っている、ジャンボフランク1本かコロッケ1個とコーヒーだ。いつもベンチで食べる。なんだか最近は、外食した覚えが全く無い。そしてけんじはついに頭に来て、私を店の中が床がなく土が剥き出しの、土釜がある「おにぎりや」に連れて行って、薄ら笑いを浮かべながら、「此処はおにぎりが食べられるぞ、ええ〜〇〇ちゃん」と言うので、私は「いいですね〜これからは毎日此処で昼にしましょうよ♪」と言い一個80円のおにぎり二つと味噌をお湯で解いただけの味噌汁50円合わせて210円で済むとばかりに嬉しがって食べたら、けんじは私への嫌がらせで連れて行っただけなので、慌てて、今度はラーメン屋に私を連れて行った。そして私はそれから普通のラーメンを食べられる様に成った。あんなバカにいい様にされる私では無い。私は車に乗るとアメリカの在日米軍向けの放送FENを毎回聞いて居た。1980年代FENはブルースだとかブルース・ロックをよく流して居た。ロバート・ジョンソンなどのデルタ・ブルースからマジック・ディックのハープ・インスト「ワーマー・ジャマー」などが定番でよく掛かって居た。それからBBキング。ルーサー・アリソンらのモダンブルースやら、マイク・ブルームフィールド。スタン・ウェッブなどのブルース・ロックがよく掛かって居た。ちなみに今はFENは別名AFN ( American Forces Network、米軍放送網)と呼ばれている、世界各地の米軍が駐留する地に設けられた基地関係者とその家族向けのラテ兼営放送局(ラジオ部門、テレビ部門、ニュース制作部門の3つから成る)であり、日本でのサービスは、1997年までFEN(Far East Net Work極東放送網)と呼ばれていたのだ。私はタバコを吸いながら、缶コーヒーを飲み、車に乗っている間は迷わずFENを聞いて居た。するとケンジが「タバコとよく言うけどタバコって外国語かなぁ、日本語かなぁ?」と言う。私が当時人気があった。日本のロックバンド「クリエイション」の曲で「タバコ・ロード」と言う曲があると言ったら。「じゃあ、日本語だな」と言う。「タバコ・ロード」とは元はナッシュビルのソングライター、ジョン・D・ラウダーミルクが作曲した曲で。「タバコ・ロード」というとE・コードウェルの小説「タバコ・ロード」や(それを映画化した)ジョン・フォードの映画「タバコ・ロード」が有名だ。”タバコ・ロード”とは、アメリカ南部のジョージア州で、煙草の葉・綿などの農業で発展した街を通る通称であり。自称ギターが弾けると言って居たけんじの割には浅はかだ。何にも知らないのだ。私は「ポルトガル語ですよ。」と言うと。「だって、たばこ屋と言うじゃない。日本語だよ」と言い張る。私は今書いたことを教えようかとも思ったが、けんじがタバコは日本語だと言っているので何も言いはしなかった。教えてやったって損するだけだ。
Sweet Home Chicago
"Whammer Jammer / (Ain't Nothing But A) House Party" "J. Geils Band" Live@Buffalo, NY 2012
B. B. King - The Thrill Is Gone (Live at Montreux 1993)
Low Down and Dirty - Luther Allison (Live)
Al Kooper & Mike Bloomfield "Albert's Shuffle"
Don't Worry About A Thing
Creation - Tobacco Road 1975 タバコロード/クリエイション
そしてけんじに出崎統の「コブラ」の映画版のビデオテープを挙げたら。貸すのでは返えってこないので、コピーした物を挙げたら、観て、「なんで最近のマンガは外人なのかな、眼が青い」と言い出す始末だ。まあ、確かに日本人のアニメは白人が出てくる。と言うか、理想の人間を描くと白人たちは日本人は白人にコンプレックスを持って居ると言うのである。それならばと白人にしてしまったのが、功を成して、海外で売れる要因となったのです。。。コブラの発想は洋画の「007・ジェームスボンド」を意識して居る。毎回、セクシーな美女が出て来るのもそうだ。私はこのアニメ映画「コブラ」は新宿の確か、新宿ピカデリーで1980年代に観に行った。確かドルビーサラウンド上映で音が大きすぎて少し割れていたのが難点だったが。同時期に矢張り出崎統監督の「ゴルゴ13」も見て居る。どちらもお色気シーンとバイオレンスシーンがあってとても子供向けとは言えないが、面白かった。。。客もほぼ30歳以上だった。当時私が20代でけんじが30代、ゆきかずが40代近かった。まあ、ゆきかずよりはケンジの方がまだマシだった。ゆきかずに言わせれば黒澤明の「乱」は「外人向けに作った時代劇で日本人が見てもよく解らないんだよ〇〇ちゃん!」と本気で言っていたからなぁ、要するに黒澤はシェークスピアの「リヤ王」をベースにして作っていると言う事なんだけども、普通の人なら見てみれば成る程、流石は黒澤だと感心する処が、ゆきかずはそれが解らず。「あのね、三郎軍と敵の軍と甲冑が色分けされているのは外人に向けてなんだ」と言い切る。まあねぇ・・・。バカはどうしようもない。・・・いっぺん首でも括れ・・・。
Space Cobra Adventure - Daydream Romance
Golgo 13: Queen Bee (OVA/1998)
Ran 乱 1985 Kurosawa (Star Wars: The Last Jedi Style)
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〜〜懐かし映画館〜〜
さて、映画です。今回は黒澤明の「椿三十郎」です。。。
1962年日本映画。黒澤監督が東宝からの要請により、「用心棒」の続編として作ったアクション時代劇。「用心棒」で初めて使った刀で切る際の効果音をさらに大きくし、のちのテレビ時代劇に強い影響を与えた。残酷時代劇のブームを招いた事でも有名。
監督:黒澤明 出演:三船敏郎(椿三十郎)、仲代達矢(室戸半兵衛)、小林桂樹(見張りの侍(木村))、加山雄三(井坂伊織)、団令子(千鳥)、ほか
この映画以降、「ドビュ!」とか「ドシュ!」とか言う人を切る際の効果音がTV時代に定着して仕舞った。この映画は確かTV放映で、高島忠夫の「木曜洋画劇場」で小学生の頃、初めて観たと思う。今は効果音は昔ほど大げさなものは無くなったが。時代劇ではないけどチョン・ユンファの「狼・男たちの挽歌」をDVDで買ったらそれまでのビデオやらレーザーディスクでの迫力がある拳銃の発砲音が、今時の「パン、パン、パン」と言う発砲音に差し替えられて居て買うんじゃなかったとガッカリしたものだ。特にチョン・ユンファ演じる孤独な殺し屋が銃撃戦に巻き込んでしまった女の子を救うために相手の殺し屋たちと凄まじい銃撃戦をして、その死体を刑事が見ながら、チョン・ユンファが座ったソファに座り拳銃を構えて、追われる者と追う者との悲哀を体現する重要なシーンに掛かるサニー・イップの歌が物悲しい歌でムードがあったのに、DVDではなんと陽気なポップな歌に変わっていた。それで大いに腹が立ったのだけども。最近はブルースとか演歌とかエレジーだとかはダサいものと言う方向に音楽業界が動いて居る様で嫌ですねぇ。今はブルースぽい曲は殆ど無いしね。だから情緒的な感情が子供達にだんだん無くなって居る。いじめが辛辣になって相手を自殺まで追い込むまで追い詰めて相手が死んでも、どうとも思わない。大体が親からしてパニック映画が好きだ、「ジョーズ」だとか「ジェラシックパーク」だとか。私は大っ嫌いだ!。何時頃からだろうか1990年代に入る頃から時代劇も無くなってしまったし、唯一アニメが、「進撃の巨人」だとか「ワンピース」だとか、あれは言わば浪花節なんだから、ブルースなんですよね。作り手が上手い事、過去の任侠映画だとかバイオレンス映画だとかを取り入れて居るから面白いのですよね。アメリカ人たちも1960年代から1970にかけては情緒的でいい映画を量産していたけど。もはや今の映画は・・・・と嘆いて居ても仕方が無いのですが。
Sally Yeh/The Killer -隨緣 /葉倩文
「椿三十郎」
あらすじ。
夜の神社、薄暗い社殿で、九人の若侍が腐敗した藩の改革に熱い議論を交わして居る。
その時、物陰で寝ていた、薄汚れた中年の浪人者(三船敏郎)が表れ、若侍たちは色めき立つ。それを制して、話を聞いていた浪人が言うには、若侍達が頼りにしている大目付の菊井(清水将夫)が藩の不正の黒幕だと言った。
若者達は怒りだすが、社殿は大目付の配下によって包囲されていた。
この上は斬り死にするという9人を制して、その浪人一人が外に出た。たちまち数人を叩き伏せ、これ以上まだ続けるかと啖呵をきった。
それを見た大目付側の懐刀、室戸半兵衛(仲代達矢)は捕り方を下がらせ、浪人の腕をほめ仕官がしたければ訪ねて来いと言い残して去った。
浪人は、意気消沈している若侍を見て、「危なくて見てられねぇ」と助太刀をする事にした。
藩では大目付が不正を糊塗するために城代家老を拉致し行方がわからない。
その家老の夫人(入江たか子)と娘・千鳥(団令子)が監禁されていたのを救い出し、若侍・寺田(平田昭彦)の家に庇護した。寺田の家の隣家は椿屋敷の別名を持つ、黒幕の黒藤のものだった。
浪人は家老夫人に名を尋ねられ、椿を眺め
椿三十郎と名乗った。
一同は、捕らわれの城代家老の居場所を探し、黒藤(志村喬)か菊井か竹林(藤原釜足)の家のいずれかに監禁されていると目星を付けた。
しかし意見が割れてるのを見て、三十郎は敵の参謀・室戸を直接訪ね、情報を得ようと酒を酌み交わす。
室戸は三十郎を味方につけようと、菊井、黒藤の汚職の実態を話し、自分の相棒になればこの藩を好きに出来ると誘った。
そんな時、若侍の保川(田中邦衛)、河原(太刀川寛)は、三十郎を信用できず、三十郎の後をつけ、またその保川、河原が何をするか心配だと、井坂(加山雄三)ともう一人とともに出かけた。
しかし、室戸に見つけられた若侍は捕縛された。
三十郎は四人を救うため、隙をみて番人を斬り殺し、自分を縛らせ四人を逃がした。
室戸は怒り三十郎の仕官を白紙に戻す。
若侍の元に帰った三十郎は、いらぬ殺生をしたと怒鳴りつけた。
家老探しが振り出しに戻り困っていると、椿屋敷から通じる川の流れに家老母娘が証拠の紙片を見つけ、家老は黒藤の家にいると思われた。
しかし黒藤の警備が厳重で手を出せない。
三十郎は一計を案じ、光明寺の山門で寝ていると若侍と反対勢力が集って来るのを見たと、黒藤家に嘘を言い警固の一隊は光明寺に向わせた。
上手く事が運んだと、合図の赤い椿を流そうとした。
しかし、光明寺には門が無いと気付いた黒藤家の者がいて、三十郎は捕われの身となる・・・・・・・・
処で最近の若者10代から30代は何にも映画の事を知りませんね。話して居ても本当に知識がない。10代とか20代はともかく30代まで何も知らない。この間、押井守が自身の映画撮影で役者になった高校生の女の子たちに「君たち、ブレードランナーと言う映画見たことある?」と言ったら全く知らなくてがっかりしていた。何と中には押井監督のことも知らなくてネットで調べたと言う子まで居た始末だ。一体、彼女らは何映画とかアニメ見て居るのだろうか?私もそう言う子にDVDを貸そうとするが興味が無いらしいし........姪っ子に昔、「黒澤明の映画ぐらい見ときなよ」と言ったら「あんな古い監督の映画なんか嫌いだ」と見ても居なくて言っている。そして20代も後半なってから「わーくん。黒澤明の映画って何観ればいいの」と要約聞いてくる始末だった。みんな勉強をしろと言いたいです。。。何生きてるんだ!世の中には君たちが知らない為に成る事が一杯あるのに!!。
だから、黒澤明監督のオリジナル版「椿三十郎」を是非観て欲しい…、もし観られるのなら、その前に前作であり姉妹編の「用心棒」も、出来たら先に観ておく事をお奨めする。
“三十郎”のキャラクターは、この作品で確立したものであり、また此方を先に観て於くと、さらに「椿三十郎」が楽しめる仕掛けもあるからである。
用心棒(プレビュー)
「用心棒」の中で、次のような場面がある。ヤクザの清兵衛に、「旦那のお名前は?」と聞かれた用心棒、おもむろに戸外を見ると、一面の桑畑が眼下に見える。
そこで答えるセリフが「俺の名は、桑畑三十郎…、もっとも、もうじき四十郎だがな」。
「椿三十郎」の中で睦田夫人に名前を聞かれて「私の名前は…椿三十郎。もっとも、もうじき四十郎ですが」と答えるセリフは、この「用心棒」の、名前を名乗るくだりの反復ギャグであり、パロディとも言える楽しいセリフなのである。だから、「用心棒」を先に観ておれば、ここはもっと楽しめるシーンである。そう言う訳だから、他にもいくつか反復ギャグ的なシーンを探す事が出来る。
「椿」の方で、三十郎が、菊井の手の者をアッと言う間に斬り伏せて「いけねえ、あの3人、もう斬られてるぜ」と室戸半兵衛を騙すシーンは、「用心棒」にもそっくりなシーンがある(「用心棒」の方は、「もう斬られてるぜ」と亥之吉(加東大介)に言って仲間を呼びに行かせてる間に斬り捨てる…という違いはあるが)。
仲代達矢扮する卯之助に、とうとう騙した事がバレるシーン、此処でもやっぱり、三船は仲代に、刀を取り上げられる。
役者も面白い取り合わせがある。ヤクザたちのパトロンとなって背後で糸を引く2人の悪人(大店の主人)が、志村喬と藤原釜足。この2人が、「椿三十郎」でも、茶室の2悪人として再登場。従って「用心棒」を観ていると、此処でも笑えて仕舞うはずである。
ラストの決闘では、血しぶきこそ噴出しないが、やはり仲代達矢が奇策で倒され、そしてその体の下に血の海が出来ている。
そして三十郎は、やはり、「あばよ」と一声、見送る人々に背を向けて去って行くのである。
俗に、時代劇映画の歴史では、“三十郎以前、三十郎以後”と呼ばれる、大きな転換期がある。それは、「椿三十郎」以前の時代劇では、主人公がいくら大勢の悪人を斬り倒しても、一切血は吹き出ない…何十人叩き斬っても、刀は刃こぼれしないし、主人公の衣服には一滴の血もかからない…これが常識だったのである。
従って当時の観客は、三十郎が17人を切り倒した後、衣服に返り血が付いていなくても、それが当然の事として、まったく疑問に思わなかったのである…ラストの大量の血しぶきシーンでは、ただただビックリして、前述シーンとの矛盾なんてどっかにすっ飛んで仕舞ったのである。
そして「椿三十郎」以後は、刀で相手を斬れば、バシャーっと血糊を盛大に噴出させるのが逆の常識として定着してしまったのである(おかげで、優雅に悪人をバッタバッタと斬り倒しても、キンキラキンの衣装に一滴の血も付かなかった旗本退屈男シリーズの市川右太衛門や若さま侍の大川橋蔵らのチャンバラ・スターは、以後映画界からの引退を余儀なくされて仕舞う事となる)。
高倉健主演の東映ヤクザ映画では、健サンが敵を斬る度に返り血を浴び、全身が赤く染まって行く事となる。
黒澤は、映画の歴史を大きく変えてしまったのである(黒澤本人は、血糊が吹き出る映画が流行した事を大変悔やんで、以後人間の体から血が吹き出るシーンは撮らなくなったと言う)。
「椿三十郎」における、菊井邸でのチャンバラ・シーン後における三十郎の騙しのトリックは、斬られても血が出ない、その当時の約束事が守られていたからこそ成立する、そのギリギリでのフェイクなのである。
黒澤版では、一気に17人を目にも止まらない早業で斬り、刀も取り替えない。
1本の刀では、刃こぼれと血脂で数人しか斬れない…ぐらいの事は、黒澤は「七人の侍」においてとっくに描いている(三船扮する菊千代が「1本の刀じゃ5人と斬れん」と言っている)。
その黒澤が、このシーンでは(返り血を浴びない事も含めて)リアリズムを徹底的に無視する演出をほどこしているのは、この映画を、荒唐無稽なマンガである…というスタンスで統一させているからに他ならない。ラストの、水道管が破裂したような大げさな血しぶきも含めて・・・・
Tsubaki Sanjuro - Duelo final
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Markus Gabriel in Japan
マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, )は、ドイツの哲学者。現在、ボン大学教授。専門書だけでなく、哲学に関する一般書も執筆して居る。
哲学、古典文献学、近代ドイツ文学、ドイツ学をハーゲン大学、ボン大学、ハイデルベルク大学で学んだ。2005年、イェンス・ハルフヴァッセンの指導のもと、後期シェリングの研究によりハイデルベルク大学から博士号を取得した。2005年にリスボン大学の客員研究員、2006年から2008年にかけてドイツ研究振興協会の研究員としてハイデルベルクに滞在した。2008年には古代哲学における懐疑主義と観念論についての研究によりハイデルベルクにてハビリタチオン(大学教授資格試験)に合格する。2008年から2009年にかけて、ニューヨークのニュースクール大学哲学部で助教を務めた。2009年7月にボン大学に着任し、認識論・近現代哲学講座を担当すると同時に、同大学国際哲学センターのディレクターも務めて居る。過去にはカルフォルニア大学バークレー校の客員教授も務めた。
複数の言語(ドイツ語、英語、イタリア語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語、中国語)を自在に操り、また古典語(古代ギリシャ語、ラテン語、聖書ヘブライ語)にも習熟して居る。
『世界は存在しない』
本書は2013年に刊行されるやいなや哲学書としては異例のベストセラーを記録し全世界を驚愕させた、哲学界の新星マルクス・ガブリエル(当時33歳)の出世作である。
本書の内容を一言で言えば、それは現代に巣喰う「無意味」の底をぶちぬいて「意味」へと突破しようとする哲学的思索の努力と要約しうるであろう。ガブリエルによると、私たちは二重の無意味にとりつかれている。第一に、自然科学的世界像が唯一正しいとされるものの、そこには人間の居場所がどこにもない。このような状況に面してポストモダンは、科学的世界像も含め「あらゆるものは幻想である」と主張した。しかし第二に、このように言う事によってこの立場そのものも一個の幻想と化して仕舞う。こうした二重の無意味に囲まれながら、私たちは意気消沈し、なす術を知らず相変わらず自然主義の抑圧に屈して居る。この二重の無意味からの脱却の切り札をガブリエルは「世界は存在しない」という洞察に求める。これは「あらゆるものは幻想である」と言うポストモダンの主張を「世界は存在する」と言う「唯一の幻想」へと縮減する事である。しかし「世界は存在しない」ならば、世界にかんする像もありえない。それゆえ、自然科学的な世界像もなく、自然科学は世界についての理論である事を止めて、単なる科学的探求へと引き戻せされる。
「もっとも自然科学は世界像である限りは間違って居るが、事実そのものを捉えていないのではない。それどころかあらゆる場面に於いて私たちは事実そのものに触れて居る。自然科学のみならず、あらゆる人間の営みは実在への通路なのである。これがガブリエルの「新しい実在論」である。それは「存在する」と言う事を「意味の場に現象する」事と捉える一方で、これら無限の意味の場を包摂する最後の意味の場(世界)はないとするのである。「あらゆるものが存在する、ただし世界をのぞいて」。
究極の審級をもたない、多次元的で重層的な意味の場から意味の場への不断の移行が、私たちの生きている現実であり、しかもその一つ一つが実在そのものとの接触である。この観点からすると自然科学はたった一つの意味の場でしかない。これによってそれ以外の意味の場が、自然科学と平等の権利をもって息を吹きかえしてくる。ガブリエルが言うように、私たちの日常の些細な感情や他愛ない空想までもが、実在との関係においては自然科学の営みと同等のものである。それどころかそうした意味の場こそが圧倒的な数的優位を占めているのである。ガブリエルによれば、私たちの人生は、あらゆるものを唯一の観点から一元的に判定するための拠り所がそもそもないなかで、無数の意味の場をくぐりぬけながら自己自身を探求しつづける事である。
ガブリエルはこの様な人間のあり方を「精神」と呼び、その概念把握を試みているが、少なくとも本書においては十分にそれに成功しているとは言いがたい。それにもかかわらず本書の主旨は明白である。決定的とも見える単独支配と絶望に抗して、それからの脱出口を思考によって切り開き、多数の抑圧されたものどもにその内部にひそむ本来の力への自覚をうながしながら、ゆるやかな連帯を呼びかけるというのが、本書全体をつらぬく思考の運動の主旋律である。しかもそこに哲学的思考そのものの新生というもう一つの旋律が重ねあわされる。実際これは他に類をみない哲学と現実の架橋の試みである。本書は平易な語り口のゆえに非専門家向きの哲学書と言われている。しかし要点はそこにはない。「新しい実在論」は思想そのものも、あらゆる事物と同じように現実に存在すると主張するのである。
ガブリエルの「新しい実在論」とは、如何なるものなのか。ひとまず、「世界は存在しない」というキャッチーな主張は脇に置くことにする。それは実は、二次的なことだからだ。ガブリエルの言わんとする事の本体は、「本質主義vs.相対主義」と言う対立から抜け出す第三の道を開く事である。本質主義vs.相対主義と言うのは、極端に単純化すれば、次のような対立だ。
富士山を、別の場所からAさんとBさんが見て居るとする。本質主義によれば、富士山「自体」が唯一の実在であり、AとBはそれを異なる見方で見ているが、「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」は、単なる見方にすぎず、実在的ではない。自然科学によれば、富士山の実在は物質的・数理的に説明されるべきものであり、そしてその説明だけが真である。
相対主義によれば、我々はつねに何らかのパースペクティヴから見た富士山の見方しか知る事が出来ない。「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」がそれぞれにあるだけだ。そしてそれはどちらも「主観的な構築」であり、我々に問題にできるのはそれだけである―実在的な富士山にはアクセス出来ない。
こうした対立が、大ざっぱではあるが、「ポストモダン」思想以後、解決できない問題としてくすぶり続けてきた。特に人文学においては、「ポストモダン」以後に相対主義的傾向が強まり、それへの批判がたびたびなされて来た。
ガブリエルはこう論じる。「Aのパースペクティヴにおける富士山」と「Bのパースペクティヴにおける富士山」があるのは確かなのだが、それはたんに主観的な構築なのではない、それぞれに実在的なのだ。と言うのは、物事の実在はそもそも、特定の「意味の場」と切り離せない。
以上の場合では、「Aから見る」、「Bから見る」と言うのが「意味の場」の形成であり、富士山の実在性はそれに依存している。では、富士山「自体」はどうかと言うと、富士山「自体」とは、諸々の実在的なパースペクティヴの交差のことなのである―「意味の場」から完全に孤立しているような富士山「自体」は考えようもない。
非常に民主的な哲学ではないだろうか。これは、複数の「意味の場」を共存させるオントロジー(存在論)だ。此処で、「世界は存在しない」というテーゼの意味が明らかになる。「世界」とは、実在のすべてを包括する最大の集合であるが、その様な包括は今や出来ないのだ。実在的パースペクティヴは際限なく増加するからである。
ガブリエルは、自然科学こそが唯一実在にアクセス可能だと言う(広く支持されている)立場に否を突きつける。そうした科学主義は、特定の「意味の場」を特権化して居るからだ。非科学的な実在性もあるし、ファンタジー的な実在性もある……しかしこの主張には少なからぬ人々が反発するのではなかろうか。
見方はいろいろだと言う相対主義ならばまだ「認識論的」だったわけだが、ガブリエルはさらに「存在論的」に相対主義を徹底して居る、
ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護すると言う意味に於いて。それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示して居るとも言えるかも知れない。
「日本のベストロックバンド10選」に世界中に称賛の声続出「あの伝説のバンドが入っていない!」【海外の反応】
カナダで活躍するブルース・ハーピスト。ケン吉岡さんです。メールと掲示板でやり取りした事があります。連絡を取って、カナダで販売していたCDを送って貰いました。購入したのですが。今もカナダのバンドで吹いて居ます。
ハーモニカは近くて遠い楽器だ。誰しも見たことがあり、その音色にも親しみがある。しかし、ハーモニカを演奏した事がある人は一体何人いるのだろう? ハーモニカと聞くと、横に長く、穴がたくさん開いている小さな楽器を思い浮かべるが、その中でも穴が10個しかないものは『ブルース・ハープ』と呼ばれて居る。近年、ブルースやフォーク、ロックには欠かせない楽器の一つとなって来て居るそのブルース・ハープを自由自在に操り、トロントで活躍する日本人ハーピスト(ブルース・ハープ・プレイヤー)のケン吉岡氏は、取材の要請に応えて私達を快く自宅に招き入れてくれた。CDが積み上げられ、アンプやギターが置かれたミュージシャンらしい吉岡氏の部屋の中央には、小さいながら存在感のあるハーモニカたちがずらりと並ぶ。「ハーモニカは、沢山ある穴を舌で塞いだり、(その舌を)外したりして音を調節するんだ。ひとつのハーモニカでは3オクターブまでの音階が出るんだよ」机に並べられたハーモニカは約10体。どれも同じに見えてしまうが、キーがそれぞれ違うと言う。「こっちは低いキーのハーモニカで、こっちは高いキー(のハーモニカ)。吹いてみると…ほら、違うでしょ?大体、曲のキーは決まって居るから、1曲で使うハーモニカは1本のことが多いかな。でも、一晩で大体36曲ぐらい弾くんだよね。そうすると、曲にあわせてキーの違うハーモニカが必要になるんだ」時には実際に演奏しながら説明してくれた吉岡氏。彼にとって、ハーモニカの魅力とは何なのか。「一番の魅力は、どこでも持ち歩く事が出来ること。それに、よく言われるんだけど、ハーモニカは一番人間の声に近い楽器なんだ。人が歌う時の声に似てるんだね。だから、いろんなことを表現しやすい。あと、ハーモニカの面白いところは、音の並びが不規則な処だね。ハーモニカには吹く音と吸う音があって、例えば、ひとつの穴を吹くと『ド』の音、でも、同じ穴を吸うと『レ』の音が出る。処が、ドレミ…と順に音階を踏んでいこうとすると、吹いて、吸ってだけの繰り返しじゃなく、吹いて、吸って、吸って、吹いてと、イレギュラーになるんだ」ハーモニカをマスターするのは大変そうに聞こえるが、驚く事に、吉岡氏がハーモニカに出会ったのは大学生の時だったと言う。「ハーモニカを始めたのは結構遅いよね。大学では軽音楽部だった。高校までは野球部。(笑)母校の野球部の監督もした事あるよ。(爆笑)野球部っぽく見えない? 今、野球部の生徒にミュージシャンをしてるって言ったら驚くだろうね。野球部の同期たちの中には、僕がトロントに居る事を知ってるのも居るけど。トロントに来たのは10年前。始めはワーホリで来たんだ。ミュージシャンとして食べて行く為の修行だと思って来たんだけどね。トロントはブルースの本場シカゴに近いし、カナダの中ではロック、ブルースが盛んな場所なんだ。日本で出されているレコードなどにも、トロントで録音されたものが多いんだよ。トロントで1年間過ごした後は、シカゴを回って帰ろうかなと思ってね。トロントに来た始めの頃は、経験の為にトロントのブルースクラブでのジャムセッションに参加したんだ。ホストがオープンステージで演奏しながら、お客さんを次々に舞台に上げてパフォーマンスをさせるんだけど、そこで演奏した後、声を掛けられたりしてたね。そしてある時、初めてバンドからメンバーに、って電話が掛かってきた。それからだよ」現在はトロントを中心に活動している吉岡氏。機会があればアメリカ、日本にも行きたいと語るが、拠点であるトロントの魅力は何だろう。「トロントは、ルーツ音楽が根付いて居る処がいいね。普段あんまりスポットライトが当てられないもの、たとえばブルースとか、流行でもそうでなくてもいいものには目が行かないことが多いけど、トロントでは、みんな普通に受け入れてくれる。だから、いい演奏をすれば、それだけいいリアクションがある。そこがやりがいのある処だね」1週間に4夜ほどライブ活動をこなすという吉岡氏。今晩も吉岡氏の、ハープ・サウンドが、しっとりとしたブルースやグルーヴィーなロックに、ひと味もふた味も深みを加える事だろう。
ブルースハープ (Ten Holes Diatonic Harmonica) は恐らくもっともハーモニカの原型に近い楽器だと思われる。長さ10cmほどの掌におさまる大きさで、正面から見ると10個の穴が一列に並んでいる。ブルースで使われることが多い事からブルースハープと呼ばれるが、この名称はホーナー社のモデル名および登録商標である。最近ではテンホールズと言う呼称も定着して来た。
一つの穴の上面と下面に互いに逆向きにリードが取りつけてあり、吹いたときと吸ったときで違う音が出る。音の配列はメジャー・スケールに沿ったもので主要なモデルにはGからF#まで各調が用意されている。10穴で3オクターブをカバーするため実際の音配列は少し変則的であり、C調を例にとれば以下の様である。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | |
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吹音 | C | E | G | C | E | G | C | E | G | C |
吸音 | D | G | B | D | F | A | B | D | F | A |
つまり3オクターブといっても完全な音階が吹ける訳ではない。その代わり3つの穴をまとめて吹けばトニック・コード、2-4番(1-3番)をまとめて吸えばドミナント・コード、4-6番(8-10番)をまとめて吸えばサブドミナント・コードとなる。
ダイアトニック・ハーモニカのバリエーションとして少し小さめのポケットモデルや12穴や14穴に拡張した大型のモデルもある。また4穴のミニハーモニカはアクセサリーとしても人気があり各種発売されている。
マイナー・キー配列の10穴ハーモニカの代表的なモデルとして、トンボの、「メジャー・ボーイ」の Minor Key 版がある。以前は「マイナー・ボーイ」という機種名だったが、統合された。海外では、この「メジャー・ボーイ」と「マイナー・ボーイ」の名称自体、スラングに起因する性的侮辱的な名称として捉えられ、商品に対する印象として非常に良く無い為、 【ウォー】 のハーモニカ奏者であるリーオスカー が彼のソロ・アルバムで「マイナー・ボーイ」を使って脚光を浴びたのをきっかけに、トンボは リー・オスカー と契約を結び、リー・オスカー・ブランド をトレードマークとして使用することで海外進出を図った。 「リー・オスカー」と「メジャー・ボーイ」はケースと表面プレートは異なるが中身は「メジャー・ボーイ・シリーズ」と全く同一のリード・プレート、同一素材同一形状のコームを使用している。日本で一般的な「マイナー配列」(Minor Key Harmonica / Harmonic Minor Key Harmonica)の他に、「ナチュラル・マイナー配列」(Natural Minor Key Harmonica)もあり、海外では「ナチュラル・マイナー配列」の方が一般的に使われて居る。
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Boogie'n With George
George "Harmonica" Smith - Blowin' The Blues
Little Walter - Hound Dog Taylor - Odie Payne ( Walter's Blues Live )
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下は日本のロックとブルースです。
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