寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

今回の記事は色々な事に対する愚痴を言って居ます...。それと日本の前衛漫画雑誌「ガロ」の歴史を書いて居ます。呼んで下さい。宜しく...。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾

 

 

 

 

風『あの唄はもう唄わないのですか』cover 2023.3.5(sun)

 

 

 

〜〜{エッセイ}〜〜

今日テレビを見て居たら。清掃作業で70歳の老人が月7万で働いて居る。歳を取ると、働き口が無い。他人事では無い。だから私は生活保護受給者となった。私は月に7万円の清掃の仕事すら出来ない。体の具合が悪くて、とてもでは無いが働け無いからだ。私は今月で64歳だ。会社で働いて居た頃は月に30万は貰って居た。しかし母に全額渡して居た。と言っても居住区は親元出し。食費は親に持って貰って居た。思えば会社を辞めて早20数年、此の間、入退院を繰り返し。認知症の母の面倒を見て来た。そして15年前に心身症に成り。姉弟から一人で生きて行けと言われ実家を追い出された。当時外科医だった弟からデザイナーズ・マンションの家賃11万だけは毎月見て貰って居たが。その弟も6年前に亡くなって仕舞った。認知症の母を見て居た時に、嫌な思い出だが。姉さんから月に6万円のお金を援助して貰った事があった、、姉さんの家に行ったら。「あんた、ちゃんと旦那にお礼を言ってね!!」とつっけんどうに言われて、義理の兄にお礼を言ったら「いやいや、◯くん。」と言うので。それでお礼は言ったつもりだったが、、

或日、姉さんが運転するジャガーに乗ったら、突然姉さんが「◯!!おばあちゃんに旦那からお金貰って居る事!!ちゃんと話してね!!」と怒鳴り気味に言われた。その時もお礼を言ったが、その時も一緒に居た姉さんの旦那は「いやいや、◯くん」と言う。そのまま姉さんたちが自宅に来たので、私は認知症が当時まだ其れ程酷く無かった母と姉が話している間、義理の兄貴を自分の部屋に連れて行き。パソコンで当時やって居たHPを見せて、此れからはインターネットが主流に成ると言って色々と見せて居たら、義理の兄が「◯くん...ほら言わないの?」と言うのです。それで礼だろうと思い「お金有難う御座いました、、」とまた言うと黙って居る。そして20分が経過したら、また「◯くん。お礼は?」と聞く、私はまた礼を言ったら。黙って居て、また20分経ったら「ほら、お礼は?」と聞いて来る。結局1時間に4回礼を言えと言われた。しかし私は耐えて居た。其れから1ヶ月程立って、急に認知症が重くなった母を看病して居たら。突然、姉から怒りの電話が掛かって来た。そして「◯!!旦那が怒って居るよ!!」と言うので、この母がおかしくなっている時にと思い。「すみませんね。今、母さんが調子が悪いのでして・・・」と言ったら怒声で「旦那が怒ってるんだバカヤロー!!」と姉が大声で怒鳴りまくる。私はついに切れた、「バカヤローは!!、こっちの言う事だバカヤロー!!」と怒鳴り電話を叩き切った。次の月からお金は送られて来なくなった.....。

姉さんの旦那は医者だ。しかも私は援助を仕手貰いたいとは、一度も言っては居なかった。あくまで好意のはずだと思って居た。だから私は此れで良かったと思った。援助のお金だと言えども、言われの無いお金は貰え無いからだ。それ以来、義理の兄は姉に私からの電話には出るなと言って居るらしい。此の間、電話を6年振りに掛けて見たら「あんたなんかより!!私が死ぬわよ!!おばあちゃんの施設代に40万も掛かって居るのよ?毎日旦那と大喧嘩よ!!」と言う。私は絶望した。なんで月40万も掛かるんだと思った。そして「あんた食事ちゃんと食べて居るの???、栄養失調で倒れたのよ?」と言う。そして、「ちゃんと自炊ぐらいしなさいよね。あんたの面倒を見て居る人たちは心配してるわよ!?」と見当外れの事を言う。倒れたのは貧血でだ。栄養失調では無かった....。私は電話を掛ける前に、姉さんと旦那宛にワインを楽天から贈って居たが、その事に付いては何も言われなかった。もし。私が栄養失調だとしたら普通だったら、「お前、食べるものも食べられて居ないのかい?大丈夫???」と言うはずです。私は姉さんに「6年ぶりに話が出来て良かったよ....。」と言い電話を静かに切った。そして2度と掛けまいと思った。その姉から以前、私のケア・マネージャー宛に電話が掛かって来た。母が入院したと言うのだ。ケア・マネージャーは私と入院先に近い駅で待ち合わせをして、私に付き添って病院に向かった。母は病院で寝て居た。私が「母さん。来たよ・・・」と言っても寝て居て。私が話し掛けると、一言「バカヤロー」と言った。そしてまた目を閉じて仕舞った。

その時にケア・マネージャーが。姉は大変だと言って居た。何が大変なのだろうか?成程、施設代は大変だろう。月に40万も掛かって居るのだから。しかし、お金はある姉さん達なのですよね。3億円の豪邸で暮らせて居るのだから。姉さんの旦那はパソコンを1週間開かなくて、メールを見たら来て居たので、電話を掛けたら。相手から怒られたと大分前に言って居た。医者だから医院のパソコンのソフトは動かせるらしいが、パソコンは苦手らしい。姉さんもキーボード・アレルギーでタイピングが一切出来ない。ただインターネットは見て居るらしい。要するにローマ字打ちが出来ない見たいだ。でもスマホは出来て居る。姉さん達には一人娘が居る。彼女はシンガーソング・ライターとしてCDを出し。ネット配信でも曲を配信して居た。倉木麻衣やら愛内里菜にも楽曲を提供して居たが、10年程前に、IT企業で社長をして居た男性と結婚をし。今は音楽業界を引退して暮らして居る。暮らし振りはいい様だ。何しろ旦那は、数億と言う資産を持って居る資産家だからだ。処で母が認知症で薬を貰って居る最中、母の姉妹から電話が良く掛かって来た。その叔母さんは材建屋をして居て。何時も時間が無いと言っては夜12時を回ると電話を掛けて来た。そして「私は、今しかないの!!今しかないの!!」と喚く。私が何時も電話に出て居たが。母はアルツハイマーの薬を飲まされて居て、もうその時間帯は寝て居る。何遍言っても叔母さんは夜中に電話を掛けて来る。

そして私が、母を起こして出させると、いかに自分が大変かと愚痴を延々に溢す。母は薬を飲んで居るので寝ながら電話を聞いて居る始末だ。私は叔母さんに「すみませんが?母は調子が悪くて、寝ていますので!!」と言って毎回電話を切って居た。彼女には淳也と恵と言う二人の子供が居る。恵ちゃんはアメリカとイギリスに留学して居た。まあ、学校に通って居たのでは無く。彼の地で4年間ぐらい暮らして居たのだが。今は結婚をして娘が生まれて生活をして居るが、弟の淳也は何かと私に突っ掛かって来て居た。なんでも彼に言わせると、自分は実家で育つのが嫌だったので叔母さんに小学校から東京で面倒を見て貰って暮らしたかったのに。それを仕手貰え無かったと言って居た。そうすれば私と一緒に大学まで行けたのにと言う。どんな根性をして居る。母は何遍も言うが下宿屋をして。学生を置いて家計を助けて居たのだ。甘えるのも程々にしろと言いたかった。父が死んだ時に葬式で「前厄!!後厄どっち〜!!」と叫んだ男だ。私は許せないと今でも怒って居る、、

そして叔母は或日、「お姉ちゃん、私、末期ガンに成って仕舞って、治療代に大金が必要なのすぐに送って!!」と電話を掛けて来た。母は驚き大変だと、なけなしのお金700万円を工面して。銀行から送金した。その後、電話を掛けたら旦那が出て「いや〜この間の金で、会社が潤った」と抜かした。私は許すつもりは無い。会社が苦しくてお金が必要なら、なぜそう言わなかった!!。末期ガンなどと言う丸嘘を吐いて!!、、700万だぞ。娘の恵ちゃんは私からこのblogを聞いた時に「此れでそっちの家の事情が手に取るように解るわ。丸見えだわ!!」と喜んで居た。恥を知れ!!このblogを読んで楽しんで居るのか?アドレスなぞ教えるのでは無かった。。。何時もうちの生活を良く思って。自分らに何もしてくれないとふざけた事を言う。まあ、もう10年間音沙汰は無い。実家は失く成って居る。連絡も取れまい。母の妹はもう1人居る。その叔母さんには2人の子供が居るが、彼女は2人の娘を短大まで出した。処が貧乏暮らしを仕手居る。しかし2人の娘は嫁にも行かずに両親の面倒を見て居るらしい。

しかし私は思う。母たち3人の姉妹はまだ未成年で両親に死なれて、父親の莫大な財産を養子に仕手居た男に取られた。そういう意味では3人とも苦労をして居るとは思う。ただ、どの姉妹も母に頼って来るなと言いたいのだ。まあ、下の叔母さんは自分の暮らしが大変だが一度も頼って来る事は無かったし、娘2人に助けられて生きて居る。私の母が前に言って居た。一番上の妹がお父さんの聴診器やら、医者としての形見を持って居るので、「一度見せて」と言ったら「嫌だ!!お姉ちゃんは息子が医者じゃないか。私には何もない!!」と言ったそうだ。あの世まで持って行く気らしい。私は、10年程前に叔母さんと話して居て「私は病気だから、、頭もね、ほら、末期癌だからカツラなのよ...。」と白々しい嘘を吐くので「淳也が父の葬式の時、前厄!後厄どっち〜!と言ってましたよね?」「末期癌は嘘だと聞きましたよ!?」と言ったら「えっ・・・」と声を失って居たけど。もう親戚の縁は切れて居ると思って居ます。恵さんは私のblogを読んでどう思って居るのかと思う。もしこのblogを読んで居て言いたい事でもあったら、掲示板に書き込むが良い。話は聞きますよ。あなたの都合の良い話をね・・・・・・・。私の事はこのblogを読んでさぞかし色々と知れて面白いはずです。

私は姉に頼ろうとは思っては居ない。私は1人で生きて行く。幸いにも、生活保護受給者にも成れた。僅かな生活費しか、貰えないが、毎月掛かる医療費は全てタダだ。私にはこうした暮らし方しか出来なかった。嫌、こうするしか、生活保護に頼るしか生きる方法は無かったのです。私にはもう身内は誰も居ない。生きて居れば母が居るが、もう今年で94歳になるはずだ。姉さんたちは何も知らせては来ないが、死んで居る可能性だってある。そして今言って来た叔母さんたちももう歳です。亡くなって居る可能性もある。あれから10数年の時が流れて居る.....。だから、たとえ母が亡くなって居たとしても。あの姉は私には知らせては来ないだろう・・・。私は最近に成って女性の知り合いが出来た。恋人だ、、歳が離れて居るので「妹」と呼んで居る。彼女は可愛く優しく、そして頭がいい人です。私の愚痴なども嫌がらずに聞いてくれる。私に取っては掛けがいの無い女性です。私は彼女を身内だと思って居ます。血は繋がっては居ませんけどね、だから「妹」なんですよ。彼女とは、メールで交際をして居ます。彼女は体が弱い事もあって今は、自宅療養をして居るので会えませんが。いづれは会おうとは、お互いに考えては居ますが、、此の儘でも良いんです。私は4月で64歳になるのだから.......。毎日妹とメールで話が出来て。此の儘、何事もなく暮らせたら、私はそれで良いのですよ。多くは望みません。もう歳ですからね.....。╰(*´︶`*)╯♡

 

https://youtube.com/shorts/jkCL5tAEnn8?feature=share

 

そして、もう姉を姉弟とは思っては居ません。姉は私と縁切りをしました。姉は今年で67歳に成ります。姉がたとえ亡く成っても。姉の旦那から私には連絡は来ないでしょう。悲しいかな。だからもう親族では、無いのですよ。姉さん。もうあなたを姉と呼ぶ事も無いでしょう。。。。

 

 

恋のマジックポーションLIVE SCANCH 

最後の本音 / 石田長生展 Happiness!! 

1999

 

恋の1,000,000$マン/すかんち 

 

 

〜〜『道徳の教科書に載った清掃婦』〜〜

此間は、ケア・マネージャーがモニタリングで来てくれた。最近ケア・マネージャーは人が変わったのです、前の人は他の事業所に移動になったのです。そうしたら。新しいケア・マネージャーさんから。「まあ、アパートに付いては随分と値段の割にはいい物件を見つけてますね」と言われました。東京の京王線沿線で「新宿に近くて月5万円のアパートで6畳1間と5畳半のお勝手の物件は無い」と言って居た。街も私が前に住んで居た、不便な処に比べたら、開けて居るし、大体が今は横に6畳間があるアパートは無くて今は縦にあるらしい。建蔽率の関係でそうすれば横に6畳間を作るよりも縦にワンルームの部屋が3部屋ぐらい作れるらしい。そうすれば部屋は小さいが大家は部屋数が多いのでその分家賃が入って来ると言う。しかし、このアパートも古くて後2年で取り壊しになる。だから2年後にはまたアパートを探さなくては成らない。2年後どうしようかと思って居たが。

幸いにも次に住む物件のアパートは、生活保護課で探してくれると言います。不動産も探してくれるし、引越しの時には、手伝いの人たちを寄越してくれるらしいです。だから次の部屋探しは楽に成れるのかな???と思って居ます。処で私が、今のアパートを紹介した不動産屋にはガッカリしたと言ったら。「何故?」と聞くので仲介手数料でお釣り6千円の処を、4千円だと言われたと言ったら「1万円とか誤魔化さられるならともかく、それは不動産屋のキャラからして単に間違えただけですよ」と言うけど。私は疑って居る。まあ、間違えたふりをして言われれば残りを払うし、言われなかったら、そのまま儲けだと言う気が見え隠れして居たからだ。まあ、でもいいのです。私もお金が間違えて居るとは言わなかったし。呆れた気持ちの方が強くてね。ただ、歯医者でも同じよう様な事があったので、殆、嫌に成って居る。

まあ、その気が無かったにしろ。お釣りの金額を間違えるのはおかしいだろう。大体が私が6万円を渡したらお札を扇型に広げて数を数えて、5万4千円だからお釣り4千円ですと言い切ったのだから。いい親父がそんな計算を間違えるとは思えない。何遍も言うけど電気屋を呼んで。来てくれるついでに、単2の電池を2つ持って来てくれと言ったら、「4千円です」だ。どうしたら2百円2つの電池で、10倍の4千円に成るのだ。いい加減にしろと言いたい。皆んな、アコギな真似をして居るから、儲から無いのでしょう?良心的な事を仕手居る店ならば、仕事依頼は幾らでも来るだろうに....。前に、ドキュメンタリーの「プロフェッショナル」で空港で働いて居た誠実な清掃婦の話をして居た。彼女は残留日本人と中国人の間に生まれた人で。中国では日本人とバカにされて差別を受け。両親と日本に来たら、今度は中国人とバカにされて差別を受けたそうだ。両親が日本で仕事が上手く行かなかったので、高校生の頃から清掃婦の仕事を仕手家計を助けて居て、19歳の頃に成田空港で清掃婦を仕始めたらしい。

しかし彼女はこの職が天職と思い。如何に綺麗にするかと言う事を肝に据えて働いて来たらしい。20歳を超える頃には清掃師の全国大会に出て1位に輝き。今や中国本土からも大金を積まれて引き合いがあると言う。ただ彼女は自分は仕事師、職人だと言って日本に留まって、今は空港の清掃職員として働く他に、小さなハウス・クリーニングの清掃会社を立ち上げて。清掃の事全てに取り組んで仕事をして居る。日本の中学の道徳の教科書にも、紹介される程の人物になったが、おごることは一切ない。今日も一人静かに成田で清掃の仕事を仕手居るだろう。救いはそんな彼女の働く姿を見て、空港に来た日本人が彼女によくプレゼントをする事だ。こんな話を何かで読んだ記憶がある。ある有名な企業で入社の面接があったそうだ。その時に来た若い新入社員がトイレを使った処。そのトイレを掃除して居るおばちゃんをバカにして「俺だったら、男子トイレなんかの清掃婦なんかのサイテーな仕事はしねえよなぁ」と言ってトイレで仲間と話して居た処、その会社の社長が入って来て。「そう思うのなら。会社に来るのを辞めなさい...。」と言ってせっかく決まって居た内定をチャラにしたと言う話だ。かのマイクロ・ソフト社のビル・ゲイツも清掃婦をたいそう大切にしたらしい。人がやらない仕事を喜んでやる人は今や貴重な存在だ。最近の世の中は世知辛い。誰もが人を騙そうとするし。人を嘲り馬鹿にしようとする。私はこの番組を観て居て、心から此の女の人が幸せになる事を祈った。

ゆきかずは道路工事の警備員を「あんな女がやるような仕事をして情けないねぇ〜」と馬鹿にした。私はゆきかずをその場でぶん殴ってやろうかと思ったものだ。人には事情があるものだ、どんな心境でその仕事をして居ると思う。ゆきかずは大学の頃、無銭旅行をして「俺は色々な処を見たんだよ。え〜〇ちゃん!!」と得意になって私に話したが、ゆきかずの両目は恐らく腐って居るのだろう。あいつは何も解っては居ない。世の中をちゃんと見たならば人を差別したり、嫌がらせはしないはずだ。ゆきかずよ、お前はもう74歳を超えたんだ。もう死に時だぞ。何時迄、世の中にお前のクソのような存在を見せびらかして居るんだ。とっとと、死にさらせ!!。処で前に何時も来ているヘルパーのオバハンが用事があって休んで居るので、前来て居たヘルパーさんが来たが。皆んな部屋のドアに貼り付けてある表札を褒める。私もこの表札は気に入って居る。埼玉のデザイナーが3千円で作ってくれたお洒落な表札で。このデザイナーには感謝して居る。漢字の表札なんだけどもフォントのセンスがいいのです。今日はヘルパーさんが色々と気を利かせて部屋を片付けて呉れたので。片付いた。ただ靴を収納するラックが壊れて無いので、Amazonで探して安いもので、空いて居る場所に置けそうな物を一緒に探して、買ったので届くだろう。届くのが楽しみだ・・・・・・(๑>◡<๑)。

 

さて、月に14万で暮らして行こうと思って居る。保護費しかお金は無い。働いて居ないのだから当たり前だけども。しかし、Amazonで月16万の仕事をしたとしても生活保護で月14万ぐらい貰っても大して差は無いのだが。私は働けない。大体が生活保護で足りないからと働いたらそれが例え1万円であろうとも許されないのです。収入金額は生保から差し引かれる事に成る。生活保護は国民の権利だとつくづく思う。障害がなければこんな苦労はして居ない。しかし私は生活保護に頼るしかなさそうだ。人は哀しい生き物だ。特に最近の世の中は世知辛い。皆んな頑張って下さい.....。

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〜〜『ガロの歴史』〜〜

知らない皆んなに知って貰いたい、日本の前衛漫画雑誌。『ガロ』。。。

 

 

 

 

皆さんは「ガロ」と言う月刊漫画誌をご存知だろうか?この雑誌が創刊されたのは1964年の事だ。私が丁度5歳の頃だ。私が子供の頃に読んで居たのは主に少年マガジン。少年ジャンプなどだった。しかし当時の大学生たちは、こぞって、この漫画雑誌「ガロ」を読んで居たものだ。この漫画雑誌には白土三平の「カムイ伝」と言う漫画が連載されて居て、当時の進歩的なそしてミザントロープな学生たちは皆んなして読んで居たのですよ。唯物史観のその漫画「カムイ伝」は1960年代の終わり頃に成って全共闘のバイブルと成って行った。私の家は下宿屋をして居た。そのお蔭で子供の頃から、大学生のお兄ちゃん達の部屋に入り浸って居たが、どの学生も「ガロ」の漫画雑誌は部屋に無造作に置かれて居た。だから私も、彼らの部屋でこの漫画雑誌をよく読んで居た。子供には判り難い作品が多かったとは思う。しかし私は身分制度と言う。差別と戦う白土三平。シュールで芸術的なつげ義春。都会派の永嶋慎二などやら水木しげるなどが好きだった。1970年に学園紛争が急速に収束に向かい石を投げても世界を壊せない事が自明となった......。そして「カムイ伝」が終了すると「ガロ」は急速に読者離れが起き出して、それまでの路線から、紙面が「面白主義」「ヘタウマ」と言う路線に変わって行ったが。そのアヴァンギャルドの漫画群はオルタナティブな「ガロ」に相応しく。時代は「モーレツ」から「ビューティフル」に変わり。アンニュイな世の中に成っても「ガロ」は「ガロ」だった。高校生から大学生に成って居た私は「ガロ」と「平凡パンチ」と「ぴあ」を片手にバンド演奏をしながら、「映画小屋」に通う日々を過ごして居た。いつの間にか他の漫画雑誌は読まなく成って行ったが。「ガロ」だけは、廃刊されるまで読んで居たのです。そんな「ガロ」の歴史です。少し長い記事ですが、読んで見て下さいね。宜しく、、、♪( ´▽`)

 

 

マンガ好きにガチでおすすめの雑誌ガロ入門

ガロの時代

 

 

 

 


 

概要


「ガロ」は1964年に長井勝一によって編集された日本の月刊漫画雑誌。青林堂発行。オルタナティブとアヴァンギャルドな作風が特徴である。

 初期の「ガロ」は、白土の忍者漫画『カムイ伝』を中心に構成され、おもに大学生に支持された。また辰巳ヨシヒロやつげ義春と言った劇画漫画家たちに影響を与え、多くの新人漫画家を発掘した。ピークは1971年(「カムイ伝」終了時)で発行部数は8万。以後は部数が減少し続け、80年代なかばには2万部発行、実売3000部台にまで落ち込んだ。1991年に「ガロ」はゲームソフト会社に買収され、1992年には長井が編集長を辞し、山中潤が編集長に就任。しかし長井は死去する1996年まで「ガロ」の後見人であり続けた。1960年代に商業性・大衆性・娯楽性をかならずしも目指さない芸術が出現しはじめた。いわゆる“前衛”や”実験”が次々に試みられた時代だった。マンガにおける前衛や実験は、小説における純文学を連想させ、かつての文学青年と同じ意味でのマンガ青年を生んだ。その牽引車になったのが「ガロ」「COM」の2つの月刊誌である。この時期、次のような作家が活躍した。

 ●水木しげる

怪奇、戦記、諷刺の諸短編、また鬼太郎ものの連載、エッセーなども連載した。

 ●楠勝平

江戸の職人の姿を甘さをおさえた情緒で描くのを得意とした。病弱だったため作品数は少なく、また締め切りの厳しい一般のマンガ誌に執筆することも少なかったが、生命を刻みこむ様にして描いた作品には熱烈な読者がついて居る。

 ●つげ義春

思い切った実験作を発表。66年の「沼」、68年の「ねじ式」など、従来のマンガの概念を超えた幻想的な作品は、詩人や演劇人など広い範囲のひとびとに衝撃をあたえ、難解マンガの祖となった。

 ●つげ忠夫

つげ義春の弟。うらぶれた中年男、スラムの住人など、人生の陰を感じさせる人たちの凄みのある線で描く。

 ●滝田ゆう

遊郭ものが独特のもちあじ。

 ●林静一

土着的なテーマとリリシズムが融合した作品が多い。上村一夫に影響をあたえて居る。

 ●佐々木マキ

ストーリー性を排除したイラスト的な作品注目された。

 ●勝又進

農村を舞台とした現代の民話に秀作が多い。

 ●鈴木翁二、安部慎一、古川益三、ますむらひろしは私小説風の作品やメルヘンで人気をはくした。大阪在住の川崎ゆきおの様に、野暮ったさとキッチュ感を逆手にとって、ロマン的心情を描く特異な作家も出て来る。

 ●花輪和一、ひさうちみお、蛭子能収、渡辺和博、みうらじゅん、根本敬らは、近代的ヒューマニズムにたいする挑発的姿勢が強い。

 ●女流作家も多い。やまだ紫、杉浦日向子、近藤ようこ、肥後十三子、森下裕美、内田春菊といったマンガ家も登場してきた。(現代マンガの全体像 呉智英)

 

 歴史


白土三平とつげ義春の時代


「月刊漫画ガロ」が創刊されたのは、1964年7月24日。創刊号(9月号)は130ページ・130円だった。青林堂と言う法人自体は、62年に創立されて居たが、当時末期にあった貸本店向け漫画単行本を出す出版社であり、知名度もそれほど大きいものではなかった。「ガロ」創刊は、96年に死去した初代編集長・長井勝一が、白土三平により「忍者武芸帳」に次ぐ新しい長編の構想を開き、それを掲載する為の雑誌を創ろうと話し合ったと言うのが、直接のきっかけだった。この事は、漫画出版の流れと言う大枠で見れば、貸本漫画から雑誌への転換期の象徴と見る事が出来る。

 白土の長編漫画「カムイ伝」が登場するのは4号目にあたる12月号からで、それ以降白土は、60年代を通じて、ほぼ毎回、数百ページと言う分量でこの大作を描き、当時の知識人や大学生、漫画を読まなかったと言われる層、にも衝撃を持って迎えられた。また、水木しげるも一連の短編作品、エッセイ「ロータリー」、「イソップ式漫画講座」などを創刊号から精力的に執筆して高い評価を受ける様になっていく。この時期の代表的な作家に、諏訪栄(小島剛夕)、楠勝平らがおり、また、65年には有名な「つげ義春さん、連絡ください」と言う文句が「ガロ」の欄外に載った。それを見たつげが、水木しげるのアシスタントをやりながら作品を発表し始める。また当時、池上遼一も、水木しげるのアシスタントをやりながら「ガロ」に作品を発表していった。

 「ガロ」は、この様に貸本漫画以来のベテラン作家が、自由に自分の描きたい作品を発表する場であると同時に、無名の新人たちが自分を伸ばしていく場でもあった。藤沢光男やおがわあきらが、その最初期の新人である。そして、65年6月号で白土三平が「マンガを描こう」と呼びかけると、それに応じて125篇の作品が集まり、そのなかから星川てっぷ、つりたくにこ、渡二十四などがデビューした。

 白土が、この呼びかけで強調したのは「実験精神」と言う事だったが、実際これ以後、66、7年にかけて続々と登場する新人たちは多種多彩で、それぞれが個的に自分のマンガ表現の形を探る力作を発表していった。また、創刊号に内山賢治や李春子の童話が載って居た様に、マンガ以外の読み物ページがあると言うのも「ガロ」の伝統で、その初期を代表するものとして「カムイ伝」が始まった翌月からスタートした佐々木守の「日本忍法伝」と「目安箱」がある。「ガロ」が売れ出したのは66年の秋からだったと言われて居る。当時の執筆者には勝又進、田代為寛、佐々木マキ、林静一、さらに日野日出志、仲佳子、矢口高雄、淀川さんぽと言った新人たちが続々と登場した。彼らはそれぞれのスタイルで、それまでの漫画表現の枠を広げ様と競い合った。また、つげ義春は「李さん一家」、「紅い花」と言った傑作を毎月の様に発表していった。さまざまな才能が漫画と言う場において、それぞれの力を最大限に発揮しつつ、互いの差異を肯定しあう時代であり、「ガロ」はまさにその先頭を走って居たのである。

 

 

ガロとCOM


「ガロ」の新人育成と実験漫画に刺激され、手塚治虫は67年に「COM」を創刊し、「火の鳥」の連載を開始する。それから数年の間、「ガロ」と「COM」が双璧と呼ばれ競合する時代が続いた。

 当時の漫画における大手出版社の動きとしては、68年の「月刊ビッグコミック」の創刊がある。すでに大手の出版する漫画雑誌としては「少年マガジン」や「少年サンデー」があり、特に「少年マガジン」はこの前年に百万部を越える勢いを示していたが、「ビッグコミック」の創刊はそれとは違い、一方で貸本出身の劇画界の巨匠たちを取り込むと同時に、読者層を青年から大人へと広げ様として行われたものだった。

 60年代末の「ガロ」に話を戻せば、ベテランの永島慎二と滝田ゆう、それにつげ忠夫の登場がある。永島慎二は「COM」の創刊と同時に「フーテン」の連載を始めたように「COM」の都会的な雰囲気によく合った作家だったが、「ガロ」に描く様になって「ガロ」の土着的な誌面が永島の都会的な色彩によって幅を広げた。滝田ゆうは試行錯誤の末「寺島町奇譚」に至ると、がぜん独自の飄逸な味を発揮する様になった。

 そして上野昴志いわく「つげ忠夫は鋭い直線で描く作風風景は凄く、この数年間のつげはただ一人で、崩壊しつつあった劇画の魂を担って奮闘したと言ってもいい」。この様な、まさに「ガロ」の第一期黄金時代は「カムイ伝」の終了、71年の7月号まで続いた。呉智英氏も「「ガロ」三十余年の歴史の中でははっきりと時代区分できるのは1971年以前と以後である。」と述べているように、これ以降白土が「ガロ」誌上に新作を発表する事はなかったのである。

 すでに作家レベルでは交流が活発になっては居たが、71年の「COM」終刊、奇しくも「カムイ伝」終了と同じ年の後、「COM」の作家たちが続々と「ガロ」に登場して来る。宮谷一彦、古川益三、やまだ紫、真崎守はその代表格だ。また、それまで「ガロ」に関係のなかったベテラン作家たちが、70年代の「ガロ」には執筆する様になったのも大きな特徴である。秋竜山、岩本久則、高信太郎らはそれまでの「ガロ」にはない、新風を吹き込んだと言えるだろう。

 また一方で「ガロ」の発掘した新人作家もまた、69年の高橋(矢口)高雄、川崎ゆきお、菅野修と言った異才が続々とデビューした。中でも安部慎一、鈴木翁二は先の古川益三と合わせて「一、二、三トリオ」と呼ばれ、一種独特の雰囲気、私小説的と言う共通項もあり、人気を博した。

 また、この時期の漫画状況も変わり始める。79年には「ヤングジャンプ」が創刊、小学館・講談社がこれに続き少年誌からの読者をそのまま青年誌に取り込む戦略を明確に打ち出したのである。そのため、必然的に「ガロ」は、そうした大資本の漫画雑誌と否応なしに作家の面でも競合する時期を迎え、60年代から続く「新人漫画の発掘」「新しい創作のための実験場」と言う性格をより強める事になった。

 そして、この時代の新人発掘と言う事で欠かせない事に、自身も後には漫画を描く様になる南伸坊や渡辺和博が「ガロ」編集部に入った事が挙げられる。この事によって視野の広がった「ガロ」は広告やイラストの世界からも積極的に才能を取り入れて行く様になった。安西水丸、湯村輝彦、糸井重里、鴨沢祐仁、たむらしげる、ますむらひろしらは、現在広告、イラスト、絵本など漫画以降のジャンルで著名な作家だが、70年台には「ガロ」の一翼を担う主要な新人作家でもあった。

 花輪和一、蛭子能収、ひさうちみちお、吉田光彦など、きわめて特異な作風で知られる作家も、この時期に「ガロ」で出発して居る。後にはAV作家となる平口広美も「ガロ」執筆者だった。また女流では、近藤ようこと肥後十三子が79年に登場した。

 

 

 ニューウェーブ

70年代に外部の才能を積極的に取り入れた中でも特筆すべきは、写真家の荒木経惟による「浪漫写真」である。これは84年まで続いたのだが、村上知彦氏は、この「浪漫写真」を「この時代の「ガロ」にとっての「カムイ伝」だったのではないかという思いが、いま改めてする」と述べて居る。

 80年代に入ると、漫画にも「ニューウェーブ」と呼ばれる新しい感覚の作家が登場し始めた。これは「ガロ」に限った事ではなく、70年代に全盛を極めたエロ劇画-三流エロ劇画誌御三家と呼ばれた「漫画エロジェニカ」「漫画大快楽」「劇画アリス」や、チャンネルゼロの「漫金超」を始め、「コミックアゲイン」「SFマンガ大全集」「マンガ奇想天外」「JUNE」などの雑誌でさまざまな才能が活躍して居た。

 前述したように、「ヤングマガジン」や「ビッグコミック・スピリッツ」などの青年誌が創刊され、メジャーとマイナーの区分があいまいになり始めていた時代だったから、「ガロ」のポジションは微妙なものになって居た。

 村上氏はこの時代の状況について「80年代に「ガロ」はあらゆるメディアを席巻し、その分だけ本体である「ガロ」自身の印象を希薄にしていった。だが現実には、存在が意識されないほどに、それはすでになくてはならないものになって居たのだ。」と述べて居る。

つまり、作品よりも作家の印象が強くなったこの時代では、「ガロ」でデビューした作家も境界線があいまいになって居たメジャー誌と自由に往来し、雑誌メディアには漫画であるなしさえ関わらず、「ガロ」の作家があちこちで活躍したのである。その事が、「ガロ」が「ガロ」である事そのものを希薄にした、と言う事なのだ。

 この時期にデビューした作家には、みうらじゅん、杉浦日向子、泉昌之、加藤賢崇、ユズキカズ、根本敬、東元、森本暢之、森下裕美、松本充世、井口真吾、山野一、イタガキノブオ、土橋とし子、みぎわパン、津野裕子、鳩山郁子、ヤマダリツコ、石川次郎、大越孝太郎、トオジョオミホ、山田花子、安彦麻理絵、望月勝広(逆注いみり)らがおり、その顔ぶれからもわかるように、彼らの多くが「ガロ」デビューとほぼ同時に他誌でも積極的に活躍して居る。

 また80年代にも、それ以前からの流れをくみ、外部から永田トマト、マディ上原、杉作J太郎、内田春菊、しりあがり寿、桜沢エリカ、とり・みき、唐沢商会といった面々が誌面に登場した。また、以前からマイナー劇画誌に掲載して居た作品を青林堂から刊行し、経済的に青林堂をずいぶんと救って居た丸尾末広が、「ガロ」に作品を掲載する様にもなった。

 

 サブカルチャー情報誌


80年代の「ガロ」を総括する文章の最後に、村上知彦氏はその後の-90年代の「ガロ」に非常に示唆的な一文を書かれて居る。

 「90年代の「ガロ」はどうなってゆくのだろう。91年以降、「ガロ」のアイデンティティの再確認とでも言うべき作業が始まって居る。その上で、「ガロ」はもうそろそろまんが誌である事を辞めてもよい時期にさしかかって居るのではないかと言う気がする。

 60年代から今日まで「ガロ」の果たして来た仕事は「ガロ」文化とでも言うべき文化圏を確実に形づくって来た。それは最早、まんが雑誌と言う枠には収まり切れない広がりをもって存在して居る様に見える。それらをもう一度統合し、交流させ、再発信する場として機能するような、そんなある種の文化総合誌としての「ガロ」がありえないものかと、いま夢想して居る。」

 90年代に入る頃、青林堂は長井勝一の高齢による体力的な不安と、先の「ガロ」の存在感の希薄化による部数減少=経済的不安に陥って居た。現実に「ガロ」の搬入部数は数千部にまで落ち込み、いつ取次からも搬入を断られてもおかしくない状況だった。

 そんな時期に、当時コンピュータソフト会社・ツァイトの社長だった山中潤が青林堂救済に名乗りを上げた。すでにゲームソフト「ねじ式」を発売するなど、「ガロ」の熱狂的なファンであった山中の熱意に押され、青林堂の経営権を譲渡した。そして自身は勇退を希望したのだが、これまでの「ガロ」の歴史的状況を鑑み、会長職として残るよう要請され、山中体制に完全に移行するまで、非常勤ながら発行人と編集人も長井名義で刊行された。

 山中は周囲も驚くような熱意を持って、「ガロ」を蘇生させるべく、連日編集会議を重ね、瀕死の状態であった「ガロ」の部数は三倍まで伸びたのである。この事により、当面の廃刊の危機は免れた。これは間違いなく山中の功績であると言ってよいだろう。

 しかし、90年代半ばになると、こうした功績を元に強引な経営・制作を進める山中と現場サイドとの軋轢が徐々に表面化して来た。そして96年1月5日、長井が亡くなると、その亀裂は修復できないほど深くなっていき、翌年97年、「ガロ編集部総辞職事件」が起こり、30余年続いた「ガロ」はついに休刊に追い込まれたのである。

 徹底的にダメージを与えられたツァイトは倒産し、失踪した山中に変わって青林堂だけは残そうと奔走した福井源も、その年の暮れに一度は「ガロ」を復刊させたものの、新たな方向を打ち出せないまま、98年には再び休刊となり、「ガロ」の灯は永遠に消えたかの様に思われた。

 迷走した90年代にも、休刊前には、ねこぢるを始め、三本善治、Jerry、秋山亜由子、魚喃キリコ、古屋兎丸、キクチヒロノリといった才能がしっかりデビューして居る。また沼田元氣、吉田戦車、岡崎京子、パルコ木下、花くまゆうさく、東陽片岡と言った作家も外部から登場するなど、誌面は漫画の割合が相対的に減ったとは言え、活気にあふれて居た。

 

また長戸雅之を編集長に招聘しての復刊号では、80年代の「ガロ」的雰囲気に加えて、意外とも言える町野変丸、あびゅうきょ、永野まゆみといった作家を登場させ、情報誌的側面を切り捨てた結果、漫画ファンからは一定の評価を受けた。しかし部数は伸びず。ついには完全なる廃刊となった。。。

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ブルースハープ(10ホールズ・ハーモニカ)の持ち方を紹介して行きます。

 

といっても、正しい持ち方という概念は曖昧でして、基本はリラックスして構えられるようであればOKです。プロの人でも個性的な持ち方、構え方をしてる人は少なくないので、これが吹きやすいなと思える持ち方を追求していくのも一つのやり方です。

基本は自由。

そうは言っても、適当持ちでイイよ!ではおそらく混乱してしまうと思うので、一番オーソドックスとも言える持ち方を説明しておきます。

ハープの音色は空気の流れで大きく変わります。フォームはそれをコントロールする重要なファクターなのです!

正しいフォーム(図を使って説明しましょう。)

左手

ハープの左端を人指し指の付け根にくっつけて、親指と人指し指ではさみます。

この時親指と人指し指の位置は必ずそろえましょう。

右手

写真のように親指の関節あたりではさみます。

親指と人差し指以外は自由に動かせるようにしておくのがポイント。

両手を合わせると

左手に右手をかぶせる形で合わせます。この時両手の親指の付け根(Cの部分)をピタッと合わせて隙間が出来ないように気を付けましょう。

両手を合わせたら、肩の力を抜いて脇を閉め、口許に持っていきます。赤くマークしたABCが顔に当たる部分です(意外と広範囲でしょ)。 余計な空気漏れが無いことが良いフォームの条件です。

右手を閉じた時はこもった音、開いた時は抜けるような音、とはっきり音色が変わらなければいけません。

正しい持ち方になっていると吹いた時「2番」の音が鳴るはずです。

 初心者のためのハーモニカ講座 #03 ハーモニカの持ち方とその4つの理由(ブルースハープ) 
 
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Doxy (by Chikara Tsuzuki) 

八木のぶおソロ 雅歌小屋 2018年8月19日 

chop onz 八木のぶお&あけみどん 09/07/19 

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まずは ブルースハープとは10個の穴のハーモニカの事です。
ブルースと言う音楽ジャンルで使用されたり、 ストリートミュージシャンがギターと一緒に演奏して居るあれですね。

有名どころのミュージシャンで言えば
「山崎まさよし」や「ゆず」、「いきものがかり」などがギターと一緒に吹いてるあのハーモニカの事です。

このブルースハープと言う楽器に興味が出て来て、ちょっと始めて見ようかなと思っている方は、この機会に是非ともチャレンジしてみてはいかがでしょう?

この楽器は別名 “10ホールズ” とか“ブルースハーモニカ” とも呼れております。『ブルースハープ』という名称は実際は元々HOHNER社の商品名だったそうですが、いつしかこの楽器が「ブルースハープ」という呼び名が定着してしまったらしいです。このハーモニカには 穴が10個しかありませんが、10個の穴でも 充分 幅の広い表現力を持って居て、尚且つ楽器としては約3,000~4,000円程度とお手頃な価格。おまけにポケットに入るほど小さいんです。

この楽器の構造は単純だけれど、奥の深い楽器なんです。
演奏する人の特長がハッキリと音に出てくる“生”のアナログ楽器なのです。

人が発する言葉の発音がそれぞれのクセのあるように、この楽器もそれぞれ人によって音色が違ったり、クセが違ったり、その人のそ人それぞれの色があります。

ハーモニカを演奏するにあたって大事ことは “イメージをえがく” です。

口にくわえて、息を吹いたり吸ったりして音を出す楽器、つまり、演奏中は穴が見えないわけです。ピアノやギターなどは自分がどこを指で押さえているかなど目で確認する事が出来ます。 しかし、ハーモニカはそれが出来ません。 イメージと言うものは自分の頭の中だけにあるもので、人それぞれ違って居ると言う事。そのイメージがダイレクトに演奏につながる楽器だからです。

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今回は懐かしの「グラム・ロック」から、デビット・ボウイとマーク・ボランです。。。

David Bowie - Ziggy Stardust - live 1972 (rare footage / 2016 edit)

DAVID BOWIE - SPACE ODDITY - LIVE SANTIAGO 1990

David Bowie - Starman (Top Of The Pops, 1972)

T.Rex 20th Century Boy

 T. Rex - Jeepster (1971)

T-REX (MARK BOLAN) - DANDY IN THE UNDERWORLD 

 

 
今回は、またまた愚痴に成って仕舞いました。皆さん最後までお読み下さって有難う御座いました。また更新出来たら。お逢いしましょう・・・。それでは、また。m(_ _)m
 

コメント一覧

kiyasume
ひろしさん、お早う御座います、、
今日は東京は天気が良いです。

そちらはどうでしょうか????

1日ごとに夏に近付いて行きますね、、
この間、正月だと思って居たら・・・・・。
もう、4月です、、今月は私の誕生日です、、

今月で私は64歳に成ります・・・・・・・・・・。
今年から、年金が貰えます、、、。
今度来週あたり年金事務所に行く事に
成って居ますよ・・・・・・・・・。


また、後でそちらに伺いますね、、
それでは、また・・・・・・・・。╰(*´︶`*)╯♡
hiroshijiji1840
◆👴◆Kiyasumeさん・お早う御座いま~す!
💻先日はコメントや応援👍ポッチを有難う御座いました・✌で~す!
@☺@今日の素敵な「色んな人の愚痴~・ブログ」を紹介して貰い有難う御座いました!👍&👏で~す!
☆彡今日の「🎥・Youtube」に>👍&😍&👏で~す。
*👴:今朝のMyBlogはアップしてますので遊びにお越し下さいネ<welcome!>
🎥・見て頂いた感想コメントも楽しみにお待ちしていますネ。
🔶お互いに今日も元気で頑張りましょ~!それではまた👋・👋!
kiyasume
nekono-hironyaさん、コメントどうも有難う御座います、、
そうですか、、nekono-hironyaさんも前の職場で、、
体調を崩されてしまいましたか・・・・・・・・・・。

今の職場では、余りその事が理解されませんでしょうか、
辛いですよね、、でも決して無理はしないで下さいね。


お互い頑張りましょうね、、、、、。
でわでわ、、、、。。♪( ´θ`)
nekono-hironya
おはようございます。
自分も体調を前の職場で壊してから、フル回転出来なくなりました。
 細々とやって行きたいのですけど、まわりからは、理解されません。
 しょうが無いのかもしれませんけどね。
kiyasume
suisenさん、コメント書き込み有難う御座います、、
姉さんはきつい女ですが、、義理の兄貴は、どうしようも
無いと思います。今回の話は、私に援助をしてくれた
話ですが、、礼を1時間に4、5回言えと言われましたから、、

普通は、お礼は1度もしくは2度言えばいいのでは無いでしょうか、、
そんなに援助が嫌ならば、何故援助をしてくれたのか・・・・・・・。
お金をくれる前に、履歴書書いて見てと言われて、書いて居るの
ですよね・・・・・。どうやら兄貴の医院の方からお金を出して居た様で、、

そんなに大変ならば、何で援助などをしたのだろうかと思います。
私の事を思って、やってくれたのでは無かったのかなと・・・・・。
だから私は、余りに姉さんたちが、無理難題を言うので怒ったんですよ、、

suisenさんも、体が丈夫では無い見たいなので、大変だと思います。
確かに、私はまだ難聴では無いので、音楽が癒しに成って居ます、、
ですが、おしゃるように、薬は外せません。水仙さんは音楽が聴け
ないので辛いと思いますよね.....。しかし、薬は最近。要約、主治医

が減らし始めました、、ですが減らしたら減らしたで、、
副作用止めを減らしたので、病状がモロに出て来てしまい、、
難儀して居ます。私の場合確かに薬は効いて居るのですよね、、
だから致し方無いです。それでは また来て下さいね、、
書き込み有難う御座いました。それでは・・・・・。(╹◡╹)♡
1948219suisen
kiyasumeさん、何が辛いと言っても家族の理解のなさが一番つらいですよね。kiyasumeさんは病気なのだから仕方がないのに、それを家族が責めてどうするのって思いますね。しかし、お姉さんも板挟みで苦しいから、そんなことをいうのかもしれません。

働けないことは私も同様ですよ。私は重度の難聴の上に身体も丈夫でないからお掃除の仕事もできません。夫と一緒に歩いても歩く速度が遅い上にすぐバテてしまいますから夫が怒り出す時もあります。食事でさえ、急いで食べると息が苦しくなるからゆっくり食べます。ですから全て半人前です。kiyasumeさんは、まだ聴力が正常だから羨ましいです。聞こえたら、いやなことが起こっても音楽で癒すことができるからです。そうは言っても、kiyasumeさんは、あのしんどい精神薬を飲まないといけないことが気の毒でなりません。私は医師が勝手に薬の処方を変えたことによって離脱症状が出て地獄を見たことは何度も話しましたが、それだけに、その精神薬を飲むことをやめることのできないkiyasumeさんが気の毒でなりません。なんとかしてあげたいですが、こればっかりはどうしようもありませんね。でも、生き抜いてくださいね。kiyasumeさんはやさしい賢い人ですから次の世では、きっと幸せになれますよ。そのためにも辛い此の世を頑張っで生き抜いてください。
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