「生活保護」どうしたら受給できる?生活を支える専門家が制度と申請方法を解説!
私は生活保護に成って、もう4ヶ月が経った。申請して良かったと思って居ますよ。今月の保護費は158,199円でした・・・・・・・・・。でも、今月の保護決定通知書では、14万4千円だと書いてあったから、、それより、1万4千円多いのは何でと思いますが???。まあ、良くは分かりませんが、矢張り、岸田総理が保護費上げたんじゃ無いかな?と思って居ます。聞く所によると保護費はいきなり上がったり削減されたりするらしいから、しかしこの、生活保護、おいそれとは貰えません。まず貰うのには条件があります。預貯金が全く無い場合。生命保険などを辞めて解約金を使って生活をして来て。もうお金が無い場合。そして障害や病気があって働いて生活費が稼げない場合などが受給する事が出来ます。最も生い立ちを色々と聞かれましたけどね。そして色々と近辺を調べられた様です。警察にも問い合わせをされた様ですね、、、
『資産・預金、高価な物がある場合、それを生活費として利用する必要があります。自動車は、特別の事情がない限り保有できません。働ける状況である場合は、仕事を探さなければなりません。※ただし生活保護を利用しながら仕事を探すことも可能です。他に利用できる制度がある場合は、最大限利用する必要があります。・年金等は収入とみなされ、足りない分を生活保護で補うかたちとなります。・扶養義務者から支援が得られる場合、その支援を受けることを求められます。※扶養義務者には親、子供、兄弟姉妹などが含まれます。』
車・原則:保有は認めらないため、車の処分が必要になります。
例外:以下の場合には保有が認められます。
・他に交通手段がない
・障害などがあり車がないと日常生活を送ることが難しい場合
オートバイ・原則:125ccを超えるオートバイは、自動車同様保有は認められていません(生活に必須と考えられていないため)。
例外:125cc以下のオートバイ(50ccの原動機付自転車など)で、通勤などに必要な場合には、所有が認められます。
持家・住居として利用する場合は、所有を認められます。
売却した時の価格が高いなど、住むより売却した方が適していると判断された場合に、売却を求められる可能性があります。住宅ローンを完済していない場合、ローンを払いながら生活保護を受けることは、原則認められていません。ローンの支払いを延期できる場合、ローンの支払額が少ない場合は例外的に生活保護の支給が認められています。
所持金:銀行預金・財布にあるお金の合計額が、少なくとも生活保護の給付額(1ヶ月分)を下回っている状態であること。具体的には所持金が10万円以下であること
生活必需品:エアコン、パソコンなどは所持が認められています。
貴金属:債権所有を認められていませんので、処分する必要があります。
趣味嗜好品:売った時の金額が少ない物は、所有が認められています。私の場合ステレオやらラジカセなどはダメなのかなと思って居ましたが。数万円以内のものなら所有しても良いそうです。10万円以上する高級オーディオの場合は、却下されそうですけど・・・・・・。
借金:借金があっても、生活保護の受給については支障はありません。
以上をクリアすれば生活保護は認められます。生活保護の利点を詳しく言うと・・・・・・・。
生活保護のメリットは「必要最低限の生活費を受け取れること」
生活保護受給中に支払いが免除されるもの
生活保護受給中は、支払いが免除されるもの、無料になるものも多いです。
- 住民税、所得税、固定資産税などの税金
- 国民年金保険料
- 国民健康保険料、国民健康保険税
- 介護保険料
- 雇用保険料
- 医療費
- 介護サービスの利用料
- NHK受信料
- 水道料金の基本料金(自治体によって異なる)
- 保育料
- 交通費(自治体によって異なる)
そして私の場合は、クレジットカードも所有して良いとの事でした。しかしお金は一切借りられません。Amazonなどで払うときに使うだけです。それから、医療費は全て無料になります。診察料も薬代も、手術用も全て免除になります。
貰える保護費の内訳です。
生活費がほぼ9万4千円+居住費5万3千7百円(東京の場合)=計14万7千7百円です。。。
この金額は月によって変動する場合があります。生活扶助の他にも住宅扶助、教育扶助、医療扶助、介護扶助、出産扶助、生業扶助、葬祭扶助などが受けられます....。
生活保護とは、ケガや病気などの「やむ負えない事情」で就業が困難になったしまった人に向けて、生活するうえで最低限必要な費用を補助してくれる制度のことです。
憲法25条で定められている「健康で文化的な最低限度の生活」を実現するための制度として作られています。ただし利用には要件があり、生活が苦しければ誰でも使える訳ではありません。
厚生労働省では、生活保護の要件として以下のように規定しています。
生活保護は世帯単位で行い、世帯員全員が、その利用し得る資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活の維持のために活用することが前提でありまた、扶養義務者の扶養は、生活保護法による保護に優先します。
引用元:厚生労働省|生活保護制度
使えるお金があれば使い、働けるなら働いてお金を稼ぐ。それでも最低生活費に満たない収入しか得られないほど困窮してしまう場合の、また障害があって働けない場合など。最後のセーフティーネットとして生活保護を受けることができます。
あくまで最後の手段ですから、その前にできることがあれば全てやり尽くすのが原則です。しかし、働ける人は全く保護を受けられないかと言うと、それも違います。一生懸命働いても1ヶ月の最低生活費に満たない場合、その差額を受け取ることも可能です。本当に困っているのなら、福祉事務所に相談する価値はあるでしょう。皆さん、私のblogを読んでいて、もし自分も生活保護を受けたいと思ったら。是非、福祉事務所の生活保護課に申請をして下さいね。国は、障害者や生活困窮者を守ってくれるのです(๑>◡<๑)
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「あ丶ブルース」ダウン・タウン・ブギウギ・バンド from album "あゝブルース Vol.2" 1976年
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『下宿人』
私が大学生になる頃には下宿人と私の年が同じぐらいの年頃に成って居た。ある時に早稲田の大学生と東大の大学生が下宿人となった。その頃はもう、私も自分の部屋を貰い、貰ったと言っても1階のうなぎの寝床のような部屋だったが。バンド活動も真っ盛りで、スタジオで録音して来たテープやら。ライブハウスでの録音のテープを掛けて居ると。昔は自宅兼倉庫だった物だから、従兄弟が必ず、今の曲は解らないだの、下手だの、今回のは増しだだの。部屋の隣の倉庫で聞いて居てイチャモンを付けて来る。従兄弟が良く、「あれだったら俺にも弾けるぜ」と、ギターも弾けないのに言いだす始末だ。
私は完全に無視をして居た。処が何しろ、うなぎの寝床の様な部屋だったので、レコードを片付けるのに、部屋が1階だったもので、2階に行く階段の脇にレコードを一時並べたら、東大の大学生が「ケッ!見せびらかしやがって低脳やろうが!!」と言って上がって行った。その二人の下宿人は門限が11時半なのに時間を過ぎて帰って来て、人が何をして居ようが私の部屋の窓をガラッと開けて、「鍵!開けてくれる?」と毎回言う。
いい加減に頭に来るが、まあ、此方は下宿代を貰って居る身なので我慢して黙って居た。まあ、早稲田の学生はともかく、その東大生は東大に入るには入っても田舎の農家の息子と言う事で、東大では差別されて居た。東大を甘く見ない方がいい。あそこは階級制度が未だに生きて居る。酷い差別がある。学者やら教授の子息などは普通に相手にされるが、ただ頭が良くて入学出来た様な学生は排除される処だ。現に何年か前に東大総長の蓮實重彦が「貴様らのうち東大生と言われるのは100人中たった1人だけだ、良く覚えておけ!!」と言って居た。その東大生は長髪にしたり五分刈りにしたり、アフロにしたりして、仕舞いには道の真ん中も歩けなくなった上、物影をコソコソ歩く様に成った、明らかにノイローゼだった。
そして夜になると早稲田の学生が帰って来るのを見計らって部屋の中に押し入り、朝まで自分が如何に利口かを語って居た。その度に隣のアパートの学生から「貴様ら毎日うるさいぞ!いい加減にしろ!」と怒鳴られる始末だった。結局、早稲田の学生は下宿を辞め。母ももう下宿は辞めて、学生は置くのは辞めようと言い。その東大生にも出て行ってくれと言ったら、自分だけ特別に置いてくれと言う。そう言う訳には行かないと言ったら、此処を出たら千葉からバイク通学で東大まで通うんだと言って居た。
その東大生が出て行く時に郷里から親御さんが来て、「今までお世話に成りました。私どもは息子を育て間違えました。すみませんでした。」と言って居た。丁度、1977年ぐらいの事だ。大学在籍中に私は一度会社でバイトをした事があるが、私は嫌だったが、「ゆきかずらも学生時代バイトに来た、お前が来ない手はねえんだ!!」とバカ親父がうるさいので、こっちはギターやらBluesharp(ハーモニカの一種)。の練習で時間が足りないぐらいなのに無理をしてバイトに行った。
勿論、従兄弟らは私の事は無視をしたが、一人、駄菓子屋から会社に入って来た人間が煩かった。車に乗ってラジオを付け様とすると、「ラジオを聴くより、おらさの話の方が面白いぞ」と言い。くだらないバカ話とエロ話ばかり聞かされた。私が「今日は5時までに帰らないとライブがあるので。」と言うとライブってなんだと言う。「あのですね、ライブハウスと言う音楽を聴かせながら飲み物やら食事をする店があって、そこで今日は夕方から演奏する事になって居るんです!」と言ったら。
「嘘も休み休み言え、そんな店がある訳無いだろう。おらさは聞いた事もないぞ、丸嘘つきやがって!!」と言うので「あんたが知らないだけだろ!!あるんだよ!そういう店が!!」と言ったら「いや、おらさも知って居るぞ?ロカビリー聴いてゴーゴー踊るんだろ」と言うので、もうウンザリだと思い「ブルースとジャズだ!!」と言ったら「おらさが思うに、そう言う店に来るのは芸術家だぞきっと、〇〇ちゃんはそう言う人たちと付き合ってるのか?」と聞いて来たので「ええ!!!!」と言ったら要約、黙った。バイト代は1ヶ月半で10万程に成った。半分貯めて、半分はギターの弦代やらBluesharp代に消えて行った。。。
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『GACKTの話』
今日はGACKTくんの話でいい話を聞いた、彼は19歳まで、まるでダメな人間だったと自分の事を言って居たが、20歳頃にある人から帝王学を学んだそうだ。勿論、彼だけでは無く、その人から話を聞いた人達は沢山居たが。自分以外の人で成功した人は誰も居ないと言って居た。彼は自分が特別では無くて、ただ行動力があったから成功出来たと思って居ると言って居た。世の中には本を沢山読んで居る人や、いわゆる啓発セミナーに通って話を沢山聞いて居る人達が沢山居るけども、殆んどの人たちが自分の血肉にして居ない。ただ知識として聞いて居るだけだと言う。それは単に情報として知って居るに過ぎない。そしてその知った上辺だけの知識だけで物事を論じ合い空論を言う。
この点は私が日頃言って批難して居る事と合致します。今の世の中は情報が溢れて居て、皆んな色々情報を聞くが。例えばネットなどで調べて覚えた事は85%の事を忘れると言う。此処では簡単にGACKTの話をまとめると。帝王学を聞いた後にすぐに彼は自分はどう動かなければ行けないかと、それだけを考えて居てどうやって動こうかと思って居たが。帰りにその話を聞いて居た皆んなが帰りしなに「今日は、いい話が聞けた面白かった」「今日の話は為になった。お疲れさん」と言って居る会話を聞いてびっくりしたそうだ。「ただ話を聞いて面白がって居るだけだ。血肉にはしようとして居ない」と思ったそうだ。
昔ある人から言われたそうだが「天才」と「普通」と「バカ」と「大バカ」が居るとして成功するものは誰だと聞かれたそうだ。彼はその時に「「天才」ですか?」と聞いたら。その人は「大バカ」だと言ったそうだ。何故なら「大バカ」は物事を深くは考えずに取り敢えず行動に移し実行するそうだからだ。次が「天才」だそうだ。この場合は頭がいいからこそ、すぐに動く。一番ダメなのが「普通」と「バカ」だそうだ。やる気が何も無いからだそうだ。この事は下らない事だけども、ナンパと同じだとも言って居た。最近若者にナンパの仕方をよく教えるそうだが。頭で考える男は「相手からこう言われたらどうするのですか?」
「または女性から嫌われたら嫌な思いをする」と言うのだそうです。でも、単純に考える男は取り敢えず街に出て片っ端から女の子に声を掛けて居るのだそうです。そしてダメな場合もあるけども、そのうちに何時かは成功して彼女が出来て連れて来ると言って居て。ナンパとも関係した考え方が出来ると言って居ますよ。この話を聞いて居て私が今まで生きて来て、自分がとことんダメだった点は物事深読みして考えてしまい。行動に移さなかった事です。石畳を叩いて渡らないと言うのでは無くて。石畳を叩いて壊してしまって、渡らないと言う事だったのだと改めて思いました。はは、この事は私が好きな青木志貴ちゃんも、此間、私と同じ様な事を言って居て驚いて仕舞ったけど・・・・・。
『私の両親』
例えば、私は楽器演奏をするが、キーボードと言うかオルガンとかも少しだけなら弾けるし、昔は、ギターとベースも弾きました。しかし、もうほぼ40数年弾いて居ないので、もうギター関係は弾け無いですね。私は周りの意見を聞きすぎたのですよ。先程のGACKT君の話では無いけど。親やら他人からどう思われようとギターは弾き続けるべきだった。だって、ギターを弾いて居た時から40数年経って居るのですよ、その間弾けて居たら、どれだけ上手く成って居ただろうかと思いますよ。私が障害を持つ様になってバンドを辞めて自宅に居ると。私の母は、ハーモニカもそんなものはもう吹くのは辞めなさいと言いました。あの人は何でもマイナス思考で、考え方が本当に封建的すぎて私は言われた当時はもう辞めようかと思いましたが。
それから20年近く経って1990年代に楽器屋に行ってブルースハープを12本また購入しました。だからほぼ20年近くのブランクがあるんですよね。私の母は私が大切に持って居た、大学の教授が執筆したインドネシア語の辞典と教科書だった本とノートを、実家が建て替えの時に、捨てなさいと言って全て捨てさせました。おかげで私が、今幾ら昔、インドネシア語を勉強して居た時期があると言っても誰も信じないでしょうね。もう大学時代から40数年勉強して居ないし、忘れて居て殆んどもうインドネシア語は解らない。私の母は私が幼い頃から集めて居た大切な映画のパンフレッドとポスターを全て捨ててくれた。こんなものがあると勉強をしないと言う事からだ。その趣味と勉強と何の関係があったのだろうか?
母は成蹊女学校を卒業して居る。戦後すぐの学歴としては十分だろうとは思う。しかし大学には行けなかった。それは東大出身の医師だった父親の事を思えば、戦後財産の全てを失ってしまった母に取っては屈辱的な事だっただろう。恐らくは大学まで行きたかっただろうとは思う。だからなんだ、どうして私が学業の道で生きなければ成らない事があるのか?医者には弟が成った。私は親父の会社の後を取れと言われたが、会社は親父と親父の兄貴の共同経営で、社長であった親父の兄の息子が会社には入って居たのだろう?母はそれが不服だと長い事言って居たが、私はそれでいいと思って居たし、従兄弟のゆきかずが社長で良いのではないかと思って居た。
まあ、当のゆきかずは私が社長の座を狙って居ると思い込んで、嫌がらせ三昧をしたが。私はそれでもゆきかずが社長でいいだろうと思って居た。母は親父が立ち上げた会社に。結核で一家心中するしかないと手紙を九州から寄越した親父の兄の一家を親父が背負ってやって来たと言う自負があったのだ。しかし私に言わせれば、封建的だった親父の兄貴と、仕事は得意先を見つけては来たが。それしか能がなかった親父とで要約1人前だと思って居た。何遍も言う事だが、私は会社の後を継ぐ気は更々無かった。ただ大学2年の時に宗教団体の、大バカ野郎の学生にやられたストーカー行為で統合失調症を発病し、私は障害者年金まあ、金額にして7万ぐらいだがそれとアルバイトをして暮らそうと思って居たのだ。
歳が来れば7万ぐらい年金が貰える。障害者年金7万に年金7万。アルバイト10万ぐらい貰えれば、何とか全部で24万ぐらいには成ったはずだった。それを私の病気を認めずに障害者年金も手続きしてくれず。会社で働けと調子が悪い私を馬車馬の如く働かせた。親父などは多少は気にしたのだろうか???、「今日は〇〇が凄く仕事をしたから食事を多く取らせろ」とか言って居たが、私ははっきり言って親の奴隷だった。夏の2ヶ月間に、一斗缶30kgを毎日400缶以上トラックに両手で持って積み上げて居たら体重が2ヶ月で32kgも減った。その時は体重が80kg以上は薬の投薬のせいであったので。体重が60kgを切ったのですよ。
慌てた母は、私がその後体調を壊して寝て居たら、毎日大量のご飯を、食べ物を部屋まで運んで来た。私はその時に言った。「母さん、せっかく痩せたんだから食べ物は普通の量にしてよ!!」そう言うとこう言うのだ「何言ってるの沢山食べなさい!!。体力つけないと働けないわよ!!」まるで物事を解って居ない。そして私は半年でまた体重が80kg代に戻って行った。親父はこう言うのだ「今日は〇〇は体を沢山使ってな、良い働きをしたんだぞ母さん....。」何遍も言うが親父は体育系の働きを肉体労働を私にさせたかったのだ。そして家に帰って来て、夜の11時半から始まる放送大学の「藝術論講義」をテレビで観て聞いて居ると、
親父はその観て居る私の前にせせり出して、わざと新聞を広げて見させない様に邪魔をした。私が怒るとこう言うのだ。「なんだ、お前は40歳にもなって学生気取りか?勉強なんてなぁ〜〜。学校出たらしないもんだ。普通は遊んで暮らすもんだ!!」私はその都度呆れて、そして怒りながら自分の部屋に帰って行ったものだ。人生は、一生勉強だろう。そんな風だから親父はバカになり切って、パチンコ依存症になり、癌に成って安楽死になったんだ。どう考えても大バカ野郎だろう!!!!、、、私は今回も愚痴しか言って居ないけど、しかし私は幼稚園児の時に私立の小学校に行きたいから。勉強するし行かせてくれと言って居たのですけどね。親は何もしてくれなかった。私は決して勉強を嫌がって居た訳では無かった。言って居る事とやって居る事が逆さまな親だった.....。
Eric Clapton - Double Trouble (Live Bootleg) 1978 AMAZING!!!
私は見た通り、長髪です。しかし、私の髪型は1970年代の髪型だ。長くしてパーマを掛けて居る。それもウエーブを軽く付けて居るのでは無く細かく掛けて居る。だから一般の人たちからすれば、外国の髪型に見えるらしい。今日、紀伊国屋書店に行って雑誌売り場で、服装の雑誌を立ち読みして居たら、本屋の若い書店員が私を見て隣の書店員と話して居る声が聞こえた。「あれ、あの人、外人かと思った。」私を見ながら言って居るのだ。するともう一人の男の若い店員が私を見て「俺もそう思った....。」と言って居る。
私はどう言う事だろうと反対に吃驚した。要するにパーマを掛けた長髪の男は外国人だと言う固定観念が彼らには在るのだ。何故か、私のような髪型は日本人はして居ないらしいのだ。若者たちの長髪とは違うのだ。彼等の長髪は何て言えばいいのだろうか、綺麗にきちんとカットされて居るウルフ・カットなのだろう。私の頭は諸に1970年代の古い型の長髪なのです。私はまず、髪を長く伸ばした、そしてカットしたりはせずに其の儘、パーマを掛けて居る。この髪型は確かに外国人のロック・ミュージシャンが1960年代の後半から1970年代に掛けて良くして居た髪型だ。
特にイギリス人が好んでやって居た。例を挙げると。レッド・ツェペリンのロバート・プラント。ジミー・ペイジやら、T・レックスのマーク・ボラン等だ。私はこの髪型は遥か20年前からして居る。前の美容院の美容師の女の子に長髪にして居るが、カットせずにパーマを掛けてくれと言ったのだ、彼女は美容院に置いて在った、iMac を見習いの美容師に操作させて言った。「芸能人の誰を手本にしますか?」私は咄嗟に言った「ロバート・プラントかな....。」すると彼女は見習いの子に言って、データーベースから多数のロバート・プラントの写真をiMacに映し出して表示させた。そして言った。「彼の様にですね」私は「そうして下さい」と頼んだ。
当時私は47歳ぐらいだった。長髪でパーマを掛けるのには歳が逝って居た。1970年代から1980年代に掛けては日本人のロッカーでもこう言う髪型をして居るミュージシャンは結構居た。私は20歳当時。今よりも痩せて居た。それに歳が、まだ若かった。私はこう言うと、「しょてらあ。」と思うかも知れ無いが、歳より大分若く見える。何時も実年齢よりも10歳は若く見られるのです。今現在、歳はもう、64歳に成るが、私を見て居る人は50代に見えると言う。私は20代の頃、髪は長くして居た時期がある。しかしその時分の写真は無い。写真は撮って居て在ったが、実家を処分した時に全部捨てられて仕舞った。私は、過去の思い出の残って居た物でも、自分がおかしくなった時に全て無くしても居る。だから。昔の写真が無いのです。
今回は以上です。過去記事から再編集しました。それでは更新出来たら、またお逢いしましょうね。。。