インド赴任早いもので二年目を終えようとしている。これまでインド人に騙されたりぼられたりということもなく、むしろインド生活を満喫している。ガイドブック等を読むと、大抵この様な記事を目にするが、やはり私の兄弟や友人も日本や米国、豪とこの二年間で訪印しているが、同様な事に遭遇したらしい。これもインド文化の一つなのであろうか。
私の場合、インド人の方に「日々感謝」である。多少のカルチャーショックはあったものの、今の生活が出来るのもインド人なくして有り得ない。生活全般、住宅の世話、車の運転等、数えればきりがない。
昨夏、一時帰国した際に日本からインドに関する本をかなり購入してきた。寸読している中で五木寛之著書『海外編 百寺巡礼 インド』に目が留まった。五木氏はこう記している。『二十一世紀の仏教のゆくえを求めて、アジアからアメリカ、ヨーロッパまでの旅をするなかで、ふしぎさが日増しに膨れあがっていく。インドから帰国してその印象は薄らぐどころか、益々強まっている』と。私も同様な思いでいる。
二〇一二年、年始に私はベンガル州ダージリンに住む知人を米国の友人と訪ねた。その地は、八十歳のブッタが、何を求めて最後の旅を試みたのか、そしてインドの人々はブッタの残した教えをどのように受け継いだのか、を少しでも知り得たかったからである。その地はヒマラヤ山脈底部のシワリク丘陵に位置し、平均標高二千百㍍余の段々傾上で暮らす人々は雲を眼前に見下ろしながら、電気や水道もなく決して暮らし向きは楽ではないと思える。北方には絶景高峰カンチェンジュンガも遠望出来る。
私がインド生活二年目で出会ったのは、善と悪も見え隠れするが、人々の親切と陽気さ、あくまでも過酷な自然と、どこまでも宗教を信じ続けるふしぎな人々の姿である。今年国印八十周年を迎え、多くの外交行事も行われるが、私はインドの人々と肌の色が違ってもフランクな付き合いで今日も過ごしていく。ブッタの教えに学び、何より一個の人間として。