始發で關西空港へ向かい、六時半の飛行機で羽田空港へ飛び立つ。M子師匠とは一時、お別れをし、私は左衞門と落ち合い、埼玉の大宮にある武藏國一之宮といわれる氷川社へと行った。現在はさいたま市大宮区であるが、以前は大宮市と呼ばれていたところである。近くの浦和に氷川女體社があったことを知らずに行きそびれたため、また行かねばいけない。
とりあえず、JR大宮駅に着き、まずはミスタードーナツに行って食事。4つほどいただく。そして、參道を目指す。
大祓いの日なので人もそこそこ來ておられ、出店もあった。參道をしばらく歩いていくと、右手に團子屋。スルーして先に進むと左手に池が現れ、橋の上では茅ノ輪作り・・・ていうか、作るの遲すぎ。しかもおっさんになんか言われたんで、ムカついて、メンチ切っておいた。境内ではM子師匠に土産のお守りを購入。さらに、この後、參道の脇にあった名物團子屋さんへ直行、五本と十本入りを買い、參道にあった岩の上に二人で坐り、いただいた。十本入りは、M子師匠にあげるために買ったのだが、なぜか、左衞門が間違って持って帰り食べたらしい。
1.社號標
2.一之鳥居
3.樓門
4.能舞臺
5.繪馬殿
6.舞殿
7.拜殿、本殿
8.末社
9.それがし
★武藏國一之宮氷川社★
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一丁目407
・延喜式内社、武蔵國足立郡、氷川社、名大、月次新嘗。
・舊社格は官幣大社。
・祭は須佐之男命、稻田姫命、大己貴命。倉稻魂命を配祀。『風土記稿』は本宮祭に關して、杵築大社(出雲大社)を遷した社であるから、大己貴命ではないかとしている。三については、どれが主であるかの論爭が元祿期にあり、男體社主岩井駿河家、女體社主角井駿河家、簸王子社主角井監物家の中で決着がつかず、寺社奉行により三社同格とされているが、鈴鹿千代乃氏は男體社は大祝といわれた岩井氏が奉祀し、例大祭は祇園御靈会の性格を持ち、縁起も祇園会の由來を述べていることから、主祭は男體社素盞嗚命であろうとしている。
・足立郡を中心に武蔵國各地にある氷川社の總本社。
・近世、武蔵國一之宮を稱すが、大國魂社(六所宮)の祭や南北朝時代の『道集』によると、多摩市の小野社を一之宮、あきる野市の二宮社(舊稱小河大明)を二之宮、氷川社を三之宮としており、中世まで氷川社を一之宮とする資料は見つかっていないとされる。社側は聖武天皇の御代に武蔵國一之宮とされたとしているが、根拠は存在せず、本來は三之宮である。
・靈峰富士山と筑波山を結んだ線と、淺山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点にあり、大宮の氷川社、中川の中氷川社(中山社)、三室の氷川女體社が、淺山と冬至の日の出の線上に一直線に並び、この三社が男體社、女體社、簸王子社として一體の氷川社を形成していたという説がある。
・『式内社調査報告 第十一巻』において、鈴鹿千代乃氏は、古代武藏國造家が沼地に面した臺にを祀り、居所を構えたといい、それが氷川社であり、また國造の居所であったと思われる足立社(水判土)であり、大宮の氷川社と中川の中氷川社(中山社)と三室の女體社(氷川女體社)は、それぞれ見沼に面して臺に同隔をおいて鎭座していることから、『大宮市史』ではこの三社はかつて一社であったことを想像していることを指摘している。さらに、所沢市(入間郡)山口の式内社中氷川社、西多摩郡氷川町の奧氷川社は各各、崇朝、景行朝に創建とされるが、大宮の氷川社と中社、奧社の形でほぼ同一線上に同隔に鎭座し、その勢力範圍の伸長の蹟を示唆している。
・江戸期には三の鳥居を入った正面に簸王子社(大己貴命、一説に軻遇突智命)、池を渡った西に男體社(本宮。素盞嗚命。日本武尊、大己貴命を配祀)、東に女體社(稻田姫命。天照大、伊弉册尊、三穗津媛命、橘媛命)が配置され、三が別別に祀られていた。
・孝昭天皇三年(紀元前473)の創祀というが、歷史的背景から信憑性は低く、景行天皇の御代、出雲氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと傳える。
・社名の「氷川」は出雲の「簸川」に由來するという説がある。
・大宮の地名は氷川社を「大いなる宮居」すなわち「大宮」と称えたことに由來するという。
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(足跡)
武藏國一之宮氷川社 ⇒ 金王八幡宮 ⇒ 國社