參道を少し進むと赤い鳥居が見える。これが、下總國一之宮である香取宮の鳥居。しばらく參道を行く。すこし行くと左手には池が見え、前方に隨門が見えてくる。向かって右手には莊嚴な門が見える。隨門をくぐると手水舎がある。小さな息子さんを連れた父親がお參りに來ていた。意外と社にこういう風景は多いものだ。ちなみに、本殿へは向かって右側に行くのだが、反對側には末社があるので、まずは行ってみた。その後、本殿に向かうが、途中、由緒書きがあったのであるが、日本一古いといわれている大社より古いとでもいいたいのかね。そういう由緒書きを出してる社が多いものだが、信憑性がないところも多いからね。どうでもいいが。
拜殿前にこじんまりとしていい感じの楼門がある。常陸の鹿島宮よりもはるかに好きである。そして、拜殿。檜皮葺で美しい建物である。
M子師匠が勝手に先に行ったので、私は香取宮の奧宮を目指し一人で横道に入っていった。重要な要石、奧宮まで散策できたのでなかなかよかったと思われる。
1.一之鳥居
2.參道
3.莊嚴な門
4.隨門
5.手水舎
6.樓門
7.拜殿
8.M子師匠
9.本殿
10.(向かって左)末社市社天孫社合殿、末社馬場殿社
・祭は市社に事代主、天降社に伊伎志通保、馬場殿社に建速須佐之男命。
11.饌殿
12.攝社匝瑳社
・祭は磐筒男、磐筒女。香取大の親。
・古くは社殿の立替は匝瑳郡の使役であった。
13.木
14.攝社鹿島新宮
15.參拜の美女
16.境内社護國社
17.要石
・社頭説明板によると、「古くより、この地方は大変地震が多く、人々はとても恐がっていました─これは、地中に大きなナマズが住み着いて荒れ騒いでいるのだと。香取・鹿島両神宮の大神様等は、地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたといいます。当神宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部を現し、深さ幾十尺と伝えられています。貞享元年(一六八四)水戸光圀公が当神宮参拝の折、これを掘らせましたが根元を見ることが出来なかったといわれています。」とのことである。
18.劔聖飯篠長威齋墓所
千葉縣指定文化財
・室町時代にできた日本最古の流派である天眞正傳道流の祖という。
19.攝社香取宮奧宮
・祭は經津主大神荒御魂。
・舊參道に鎭座。
・社殿は昭和四十八年(1973)の伊勢神宮遷宮の折の古材を用いられている。
★下總國一之宮香取宮★
千葉県香取市香取1697
・延喜式内社、下總國香取郡、香取宮、名大、月次新嘗。
・舊社格は官幣大社。
・祭は經津主大。武甕槌命、比賣命、天兒屋根命を配祀。主祭經津主大に關して、正史においては伊波比主命と書かれているが、藤原氏がその權力で他氏の祭祀權簒奪の結果であり、物部、齋部(忌部)両氏が一切認めず、經津主とするところに眞實が見える。
・日本全國に約四百社ある香取社の總本社。
・創建は武天皇十八年(紀元前643)と傳えられる。『常陸國風土記』によると、代に肥後國造一族だった多氏が上總國に上陸し、開拓を行いながら常陸國に勢力を伸ばし、この際に出雲國の拓殖氏族によって農耕として祀られたのが、香取宮の起源とされる。但し、創建年が古すぎるとの異論もある。
・霞ヶ浦は古代、奧深い入海であり、鹿島と香取の兩宮はその出口を両側から扼えるように建っていた。
・『延喜式』名帳では伊勢の「大宮」を除き、鹿島、香取の二社が唯一「宮」と記され、特別視されていたことがわかる。
・『續日本後紀』承和二年(835)三月の條に「下總國の人、陸奧鎭守府將軍外從五位下勲六等物部匝瑳連熊猪、連を改めて宿禰を賜う。又本居を改めて左京ニ條に貫付す。昔、物部小事大連、節を天朝に錫し、出でて坂東を征す。凱歌歸報。この勲功に籍りて下總國に始めて匝瑳郡を建て、仍て以て氏となすことを得しむ。是れ即ち熊猪等の祖なり」とあり、香取郡の東南に鄰接していた。『先代舊事本紀』は物部氏の家配であるが、その「天孫本紀」に宇麻志麻治命の十二世の孫の物部木蓮子連の弟、物部小事連について、「志陀連、紫垣連、田井連らの祖」とあり、太田亮刃は。この「志陀連」を「信太連」とみ、『和名抄』にある陸奧國志太郡を『續日本紀』では信太郡、志太郡と書くことからもそのように考えられる。香取郡の西北に、かつての榎浦渡海を隔て常陸國信太郡があるが、『常陸國風土記』によれば、白雉四年(653)、物部河内と物部會津が請願し、筑波國造と茨城國造の土地を裂いて建てたものという。このように物部小事連を祖とする物部匝瑳連の匝瑳郡と物部信太(志太、志陀)連の信太郡に挾まれて香取郡があることからも香取宮と物部氏の關係は否定しがたいと思われる。また、摂社の匝瑳神社の建て直しの役を匝瑳郡が受け持っていたこともその証と思われる。
・大禰宜を世襲した香取連は大宮司の大中臣氏と結びついていたために、平安末期には大中臣氏を稱し、物部氏とは一線を畫し、物部氏祖の饒速日命ではなく物部氏の氏の經津主命の後裔を稱しているが、物部小事連を祭とする匝瑳郡の式内社老尾社の祠官であったこと、および、香取連五百島が匝瑳郡に住したということから、物部香取連と考えるのが妥當とされる。
・職首座は大宮司、大禰宜といい經津主の兄(子とも傳えられる)の天苗加命の子孫を稱する香取連が首座となったが、後世、大中臣氏(藤原氏)が入り相互に重職を世襲した。
・香取宮の丑寅の方位に鹿島宮、津の宮、蹟宮があり、鹿島宮は『當社例傳記』によると、鬼門降伏のために鎭座するという。この鬼門というのは畿内からの位置であるが、香取、鹿島兩宮が四十五度の正確な位置關係で鎭座するのは、意圖的なものであると考えられる。また、内海を前にして西南に鳥居がむいているが、香取から見ると鬼門の方位になっている。こういった位置關係から、鹿島と香取の關係は竝列ではなく、祀られる神と祀る齋主の關係であったとみられる。これは、位階および勲等からも推測にかたくない。
・かつては、二十年ごとに本殿が造營されたという。
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(足跡)
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