熊本・熊本城 ~第二回~
いよいよ、復元された本丸御殿へ
西南戦争直前の明治10年2月に焼失した御殿の一部を、平成20年4月20日築城400年を記念して
総事業費:約54億円をかけ再建
この写真の右手にある銀杏が、次の復元模型の真ん中にある木です。
濃い瓦の部分が、今回復元された部分。
そしてこれが平面図(熊本城ホームページより)
大御台所の巨大な梁(もちろんすべて木造復元、釘も使わず、当時の技術を使用)
大広間
縁側
そしてこれが、加藤清正が大阪から豊臣秀頼を迎える予定で作ったとも言われる昭君之間
昭君之間」は「将軍之間」の隠語とも?
昭君之間の天井は格式の高い折上格天井(おりあげごうてんじょう)
茶室
本丸御殿を出て、天守閣へ
天守閣は明治10年(1877年)、西南戦争の年に焼失。
現在の天守閣は、古い写真や絵地図などを基に、昭和35年(1960年)に再建されたものです。
内部は現在、熊本市立熊本博物館の分館となっており、肥後歴代藩主の武具や調度品のほか、西南戦争の資料などを展示。
天守最上階からの景色
真上から見た本丸御殿
現存の宇土櫓
熊本城は別名銀杏城といいます。
加藤清正が熊本城築城の際に熊本城内に銀杏の木を多数植えたことが由来です。(前回述べた、籠城の食料確保等)
本丸御殿の隣に一際大きな銀杏の木があります。
この銀杏の木を加藤清正が熊本城築城時に植えた際、
「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時、この城で兵乱が起こるだろう。」
と、つぶやいた言い伝えが残り
実際に、西南戦争(明治10年[1878年])で熊本城(銀杏城)が戦場になった時、
この銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたそうです。
いやいや、写真で見る限り小さいではないか!?
と思われるでしょう?
この銀杏、西南戦争の際に、一度燃えてしまったのです。
が、
奇跡的に、
芽吹いた脇芽が成長しで、130年でこれだけの大きさに成長したのです。
今はまだ天守より小さいですが、なんとも堂々とした姿をしています。
この木が二度目に天守の大きさになったとき、地球上から戦争が無くなっていることを切に願います。
続く............
2009.1.5
いよいよ、復元された本丸御殿へ
西南戦争直前の明治10年2月に焼失した御殿の一部を、平成20年4月20日築城400年を記念して
総事業費:約54億円をかけ再建
この写真の右手にある銀杏が、次の復元模型の真ん中にある木です。
濃い瓦の部分が、今回復元された部分。
そしてこれが平面図(熊本城ホームページより)
大御台所の巨大な梁(もちろんすべて木造復元、釘も使わず、当時の技術を使用)
大広間
縁側
そしてこれが、加藤清正が大阪から豊臣秀頼を迎える予定で作ったとも言われる昭君之間
昭君之間」は「将軍之間」の隠語とも?
昭君之間の天井は格式の高い折上格天井(おりあげごうてんじょう)
茶室
本丸御殿を出て、天守閣へ
天守閣は明治10年(1877年)、西南戦争の年に焼失。
現在の天守閣は、古い写真や絵地図などを基に、昭和35年(1960年)に再建されたものです。
内部は現在、熊本市立熊本博物館の分館となっており、肥後歴代藩主の武具や調度品のほか、西南戦争の資料などを展示。
天守最上階からの景色
真上から見た本丸御殿
現存の宇土櫓
熊本城は別名銀杏城といいます。
加藤清正が熊本城築城の際に熊本城内に銀杏の木を多数植えたことが由来です。(前回述べた、籠城の食料確保等)
本丸御殿の隣に一際大きな銀杏の木があります。
この銀杏の木を加藤清正が熊本城築城時に植えた際、
「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時、この城で兵乱が起こるだろう。」
と、つぶやいた言い伝えが残り
実際に、西南戦争(明治10年[1878年])で熊本城(銀杏城)が戦場になった時、
この銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたそうです。
いやいや、写真で見る限り小さいではないか!?
と思われるでしょう?
この銀杏、西南戦争の際に、一度燃えてしまったのです。
が、
奇跡的に、
芽吹いた脇芽が成長しで、130年でこれだけの大きさに成長したのです。
今はまだ天守より小さいですが、なんとも堂々とした姿をしています。
この木が二度目に天守の大きさになったとき、地球上から戦争が無くなっていることを切に願います。
続く............
2009.1.5