岩手県平泉・中尊寺
天台宗東北大本山 関山中尊寺
本尊・阿弥陀如来
創建は嘉祥3年(850)、慈覚大師円仁によって開山されたと伝わる。
その後、奥州藤原氏初代の清衡が長治2年(1105)から中尊寺の再建に着手し、
天治元年(1124)に金色堂が竣工、基本的な伽藍が完成したのは21年後の大治元年(1126)の時。
吾妻鏡によると中尊寺の規模は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」とされ、平泉では毛越寺に次ぐ大きさだったそうです。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏は鎌倉幕府により滅亡するが、中尊寺は源頼朝の庇護を得て存続した。
しかし、建武4年(1337年)に大きな火災があり、金色堂と経蔵の一部を残すのみほぼ全焼。
その後衰退していく。
奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたと言われている。
「五月雨の 降残してや 光堂」
江戸時代、伊達家累代の保護などにより復興を果たし、現在に至っている。
2001年に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載された。
しかし、2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定。
平泉駅
巨大な杉に囲まれた参道
最上川を望む
弁慶堂(中には弁慶の最期の立ち往生と義経の像が祀られている)
薬師堂(藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった)
地蔵堂
観音堂
本堂(明治42年の再建。堂内には、総本山の比叡山延暦寺より分火された、「不滅の法燈」がおよそ1200年燈り続ける)
入り口の本坊表門は江戸時代初期の建築で県指定有形文化財
大日堂
鐘楼
当初は二階造りの鐘楼であったが、火災で焼失。梵鐘は康永二年(1343)の鋳造。
銘に中尊寺の創建や建武の火災の事などを伝える。撞座の摩耗ははなはだしく、今ではこの鐘を撞く事はほとんどない。
彌陁堂(阿弥陀堂)
天満宮(中尊寺境内の最奥地の高台に鎮座)
国宝・金色堂(※光堂(金色堂)はこの写真の覆堂の中にあります。そして、さらにガラスの中に覆われてます。)
中は撮影禁止
中の様子を知りたい方はhttp://homepage2.nifty.com/araemishi/images/tyuusonji.jpg
旧覆堂
旧覆堂は、現在の覆堂になるまで、金色堂を覆雨風から金色堂を守っていたもの。
現在の覆堂が建設された為に、移築された。
室町時代中頃建設され、約500年間金色堂を守っていたそうです。
つまり、松尾芭蕉が平泉を訪れた時には、この旧覆堂の中にある金色堂を見たのでしょう。
経蔵(武4年(1337年)の火災で2階部分が焼け、1階部分を修復して現在に至る。国重要文化財)
白山神社(神楽殿)
伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納されたもの、国の重要文化財指定
写真にはないですが、他にも八幡堂、峰薬師堂、弁財天堂、不動堂、讃衡蔵(宝物館)
など、様々な建物があります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
仙台から鈍行列車に揺られ、JR平泉駅に到着。
駅前でレンタサイクルをし、無量光院跡、柳之御所遺跡、源義経終焉の地・高館を周り、念願の中尊寺にやってきた。
さすがの夏休みの昼時、ものすごい数の観光バスと、人。
拝観料を払いFMガイドラジオを借り境内へ。
樹齢300年の老杉に覆われている参道・月見坂を登る。
正直、ここまで広い境内だとは知らなかった。
中尊寺本坊のほか、17か院の子院があり、目標の金色堂まで約800mの緩い坂道が続いている。
上記の写真に出て来た数々の建物と仏様を御参りしていたら、金色堂までなんと一時間半もかかってしまった。
現在の覆堂はコンクリート作りだが、やはり、この場所だけは独特の空気が漂っていた。
平泉を繁栄させた藤原三代の遺体が眠っているからだろうか?
はたまた、源義経を殺害し、藤原氏を滅亡させてしまった四代泰衡公だけは遺体はなく、首級だけが納められているからか。
金色堂を初めて見た感想は、正直あまり覚えていない。
コンクリートの建物の中にあったからか、夏でエアコンが効いていたからか、金色堂までさらに一枚ガラスがあったからなのか。それとも、人が多すぎたからか。
近くにあった旧覆堂の中にあった頃の金色堂をこの目で見たかったと、切に感じた。
しかし、最近起こった東北大地震のことを考えれば、今後世界遺産にもなるであろう貴重な日本の文化財、なんとしても後世に伝えてほしいものだ。
時間はすでに夕方
この後、当時、中尊寺より大きかった毛越寺にも行きたかったので、二時間半ほどで中尊寺を後にした。
かっこよく去りたいが、僕は真っ黄色のレンタサイクル...............
2007.8.26
天台宗東北大本山 関山中尊寺
本尊・阿弥陀如来
創建は嘉祥3年(850)、慈覚大師円仁によって開山されたと伝わる。
その後、奥州藤原氏初代の清衡が長治2年(1105)から中尊寺の再建に着手し、
天治元年(1124)に金色堂が竣工、基本的な伽藍が完成したのは21年後の大治元年(1126)の時。
吾妻鏡によると中尊寺の規模は「寺塔四十余宇、禅坊三百余宇」とされ、平泉では毛越寺に次ぐ大きさだったそうです。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏は鎌倉幕府により滅亡するが、中尊寺は源頼朝の庇護を得て存続した。
しかし、建武4年(1337年)に大きな火災があり、金色堂と経蔵の一部を残すのみほぼ全焼。
その後衰退していく。
奥州藤原氏が滅亡して500年目にあたる元禄2年(1689)、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたと言われている。
「五月雨の 降残してや 光堂」
江戸時代、伊達家累代の保護などにより復興を果たし、現在に至っている。
2001年に世界遺産登録の前提となる暫定リストに「平泉-浄土思想を基調とする文化的景観」の一部として記載された。
しかし、2008年の第32回世界遺産委員会の審議では、登録延期が決定。
平泉駅
巨大な杉に囲まれた参道
最上川を望む
弁慶堂(中には弁慶の最期の立ち往生と義経の像が祀られている)
薬師堂(藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった)
地蔵堂
観音堂
本堂(明治42年の再建。堂内には、総本山の比叡山延暦寺より分火された、「不滅の法燈」がおよそ1200年燈り続ける)
入り口の本坊表門は江戸時代初期の建築で県指定有形文化財
大日堂
鐘楼
当初は二階造りの鐘楼であったが、火災で焼失。梵鐘は康永二年(1343)の鋳造。
銘に中尊寺の創建や建武の火災の事などを伝える。撞座の摩耗ははなはだしく、今ではこの鐘を撞く事はほとんどない。
彌陁堂(阿弥陀堂)
天満宮(中尊寺境内の最奥地の高台に鎮座)
国宝・金色堂(※光堂(金色堂)はこの写真の覆堂の中にあります。そして、さらにガラスの中に覆われてます。)
中は撮影禁止
中の様子を知りたい方はhttp://homepage2.nifty.com/araemishi/images/tyuusonji.jpg
旧覆堂
旧覆堂は、現在の覆堂になるまで、金色堂を覆雨風から金色堂を守っていたもの。
現在の覆堂が建設された為に、移築された。
室町時代中頃建設され、約500年間金色堂を守っていたそうです。
つまり、松尾芭蕉が平泉を訪れた時には、この旧覆堂の中にある金色堂を見たのでしょう。
経蔵(武4年(1337年)の火災で2階部分が焼け、1階部分を修復して現在に至る。国重要文化財)
白山神社(神楽殿)
伊達藩主伊達慶邦朝臣から再建奉納されたもの、国の重要文化財指定
写真にはないですが、他にも八幡堂、峰薬師堂、弁財天堂、不動堂、讃衡蔵(宝物館)
など、様々な建物があります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
仙台から鈍行列車に揺られ、JR平泉駅に到着。
駅前でレンタサイクルをし、無量光院跡、柳之御所遺跡、源義経終焉の地・高館を周り、念願の中尊寺にやってきた。
さすがの夏休みの昼時、ものすごい数の観光バスと、人。
拝観料を払いFMガイドラジオを借り境内へ。
樹齢300年の老杉に覆われている参道・月見坂を登る。
正直、ここまで広い境内だとは知らなかった。
中尊寺本坊のほか、17か院の子院があり、目標の金色堂まで約800mの緩い坂道が続いている。
上記の写真に出て来た数々の建物と仏様を御参りしていたら、金色堂までなんと一時間半もかかってしまった。
現在の覆堂はコンクリート作りだが、やはり、この場所だけは独特の空気が漂っていた。
平泉を繁栄させた藤原三代の遺体が眠っているからだろうか?
はたまた、源義経を殺害し、藤原氏を滅亡させてしまった四代泰衡公だけは遺体はなく、首級だけが納められているからか。
金色堂を初めて見た感想は、正直あまり覚えていない。
コンクリートの建物の中にあったからか、夏でエアコンが効いていたからか、金色堂までさらに一枚ガラスがあったからなのか。それとも、人が多すぎたからか。
近くにあった旧覆堂の中にあった頃の金色堂をこの目で見たかったと、切に感じた。
しかし、最近起こった東北大地震のことを考えれば、今後世界遺産にもなるであろう貴重な日本の文化財、なんとしても後世に伝えてほしいものだ。
時間はすでに夕方
この後、当時、中尊寺より大きかった毛越寺にも行きたかったので、二時間半ほどで中尊寺を後にした。
かっこよく去りたいが、僕は真っ黄色のレンタサイクル...............
2007.8.26
東北のお寺のどこかで、同じ「不滅の法燈」を見た覚えが。。。
どこだったかしら?
このお寺の数々の造りを見ていて(特に弁慶堂)、ふと松島の五大堂を思い出しました。
金色堂のお写真、パンフレットと同じですね!!
綺麗ですね~!!
人が写っていないのですが、ここって、あの建物の近くまで行くことってできるのですか?
金色堂まで1時間半かかるとは?!
広いのですね~☆
比叡山ー山寺ー比叡山(信長に焼かれた後)ー中尊寺のながれで、きたんだと思います。
あおの建物の中は入れますよ♪
あの建物が現在の覆堂(おおいどう)です。そして、あの中に金色堂があるのです。雨風から、金色堂を守っているのです。
。
僕はうろうろしすぎたので、一時間半かかりましたが、もっと早く辿り着けますよ
やはり〝山寺〟でしたか!!
比叡山には、まだ行ったことがないのですが、
この〝不滅の法燈〟が夏のJR東海でも紹介されていたので見に行きたいなぁって思っているんです♪
中尊寺は中学校の修学旅行のときに行ったことがあるのですが、行ったという事実の記憶のみで印象に残っていないんです。その頃にも〝不滅の法燈〟が灯っていたんですよねなんだかとっても不思議な気がいたします^-^
天台宗総本山、絶対この目で見てみたいですね♪
今ふと思ったのですが火というのは、常に形や大きさが違うもの
だから、いくら「不滅の法灯」でも、たとえ1300年灯し続けていても、みんな違うものを見ているのでしょうか?
何もしなくとも時代は変わっている、時は流れているんだと言っているかのように。
1300年灯し続けている。。。オリンピックの聖火のように、次から次へと聖火がバトンタッチされていくように この法灯も時代から時代へとお寺の精神が伝えられていく、そんな気が致しました。
そしてふと、kogakenさんの「想い」の日記が思い浮かびました☆。・*。・*