水戸・弘道館
幕末の話の舞台の場所が続いたので、もう一箇所。
徳川家最後の将軍、徳川慶喜が育った場所、水戸です。
弘道館は水戸藩の藩校として第9代藩主 徳川斉昭により天保12年(1841年)8月に水戸城三の丸内に作られました。
藩士に文武両道の修練をつませようと武芸のほかにも、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた、今で言う総合大学のような場所です。
安政4年(1857年)には鹿島神社と孔子廟(こうしびょう)を祀って弘道館の本開館式を行いました。当時の藩校としては国内最大規模のものだったそうです。
学問は一生行うものであるという考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれています。
第15代の将軍となった徳川慶喜公も、父斉昭公の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受けました。
慶喜はその後、御三卿の一橋家へ養子に行き、徳川15代将軍になりました。
しかし皮肉にも、慶応3年(1867年)の大政奉還の後、謹慎した至善堂(しぜんどう)が今も残っています。
弘道館は国の特別史跡になっており正庁・至善堂・正門の3ケ所は重要文化財に指定され、
敷地には、梅が60種800本が植えられており、水戸偕楽園とともに、梅の名所となっています。
2009.8.4
幕末の話の舞台の場所が続いたので、もう一箇所。
徳川家最後の将軍、徳川慶喜が育った場所、水戸です。
弘道館は水戸藩の藩校として第9代藩主 徳川斉昭により天保12年(1841年)8月に水戸城三の丸内に作られました。
藩士に文武両道の修練をつませようと武芸のほかにも、医学・薬学・天文学・蘭学など幅広い学問をとり入れた、今で言う総合大学のような場所です。
安政4年(1857年)には鹿島神社と孔子廟(こうしびょう)を祀って弘道館の本開館式を行いました。当時の藩校としては国内最大規模のものだったそうです。
学問は一生行うものであるという考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれています。
第15代の将軍となった徳川慶喜公も、父斉昭公の厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を受けました。
慶喜はその後、御三卿の一橋家へ養子に行き、徳川15代将軍になりました。
しかし皮肉にも、慶応3年(1867年)の大政奉還の後、謹慎した至善堂(しぜんどう)が今も残っています。
弘道館は国の特別史跡になっており正庁・至善堂・正門の3ケ所は重要文化財に指定され、
敷地には、梅が60種800本が植えられており、水戸偕楽園とともに、梅の名所となっています。
2009.8.4
今回のお写真は、セピア色ですね。
>学問は一生行うものであるという考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれています
この考え方に惹かれました。
特に、卒業という概念を設けないことと、若者と老人が同じ場で学んだということに。